<第二十三章>弓矢と青い鳥
激しく刃が絡み合う。お互いの意思と力を乗せたそれは、拮抗するように一定の場所で静止した。
角ばった古矢の顔を睨みつけながら、友は既に言葉は不要だと悟った。もう何を言っても、何を伝えても彼の心が変わることは無い。あとはもう、己の持つ武力と知恵に頼るだけだ。
ナイフを弾きあった直後、間をおかずして正拳突きのような鋭い刺突が飛んできた。全体重を先端に込めたかのようなそれはまさに一撃必殺の突き。かろうじてナイフの側面で防いだものの、友の腕は大きく後方へ仰け反らされた。
――何て力だ! まずいっ……!
このまま体勢を元に戻そうとしても間に合わないと判断した友は、逆に押された勢いに任せて体を一回転させ、裏拳を繰り出すような動きで斬撃を放った。しかし古矢はそれを予見していたのか、自身のナイフで攻撃を防ぐと、何も持っていない左拳で友の頬をまっすぐに打ち抜いた。
激しい衝撃により脳が揺れ口から血が飛ぶ。上半身のみを大きく後ろへそらされた友は、再び不利な格好になってしまった。
「お前は優秀な隊員だった。冴え渡る勘。独創的な発想。冷静な判断力――。実に優れたイミュニティーらしい人材だ。だが――それはどこまで言ってもイミュニティーのレベルでしかない。そのレベルでは俺には勝てない。俺は、『黒服』クラスの人間だ」
古矢はナイフを持っているほうの手を突き出した。友は片足を後ろに下げながらそれを防いだが、古矢は構わずに強引に腕を伸ばし、まるで殴るように友の体をさらに後方へ押しのけた。
あと二メートルも下がれば足場は無くなる。そうなれば直接殺されるまでもなく、感染して死ぬだろう。
「くっ、うぉおおおぁあっ!」
自分を鼓舞するように叫びながら力を込めて一歩前に踏み出す。古矢は油断しているのかかなり無防備な構えを取っている。手数で押し切ればあの鋭い突きが来る前に倒せるかもしれないと考えた。
刺し、刺し、斬る、斬る……必死に相手の穴を狙って攻めるも、古矢は簡単にその全てをいなしきった。
「ふん。まるで教科書のような動きだな。実に正確で無駄の無い動きだ。だが、それ故に読み易い」
友のナイフが空を切った瞬間、古矢のナイフが下方向から急浮上し、友の脇を削り取った。友は痛みに目を細めるも、口を真一文字に結んで踏ん張る。
古矢は腕を高く上げると、叩きつけるようにナイフを下ろした。
また強引に押し切られてはたまらない。友は左手をナイフの峰に添えることで、何とかその一撃を防いだが、勢いに負け片膝を着いてしまった。
――ここまで差があるのか……!
三年間必死に訓練し上り詰めた者と、十年近く実戦の中で生きてきた者。その経験の差は歴然だ。いくら友が中衛とはいえ、この力の差は中々にこたえた。
古矢を挟んだ向こうに亜紀の姿が見える。心配そうに胸の前で手を組み、こちらを見ている。自分が弱みを見せれば、きっと彼女は助けようとこの戦いに入ってくるだろう。そしてそれは確実に彼女を殺すことに繋がる。内心ではかなり焦りを募らせていたが、それをおくびにも出さず友は無表情で古矢を睨み続けた。
そんな友の胸に、古矢は容赦なく強烈な蹴りを浴びせた。両手が塞がっていた友は防御などすることも出来ず吹き飛び、とうとう橋の端へと追い込まれてしまった。すべる様に転がり、頭が水面の上に出る。
友は背中を地面に着けたまま、何とかナイフを持ち上げて古矢へ向けた。
「随分と必死だな。流石のお前でも死が怖いのか?」
ゆっくりとこちらへ歩み寄りながら、古矢が聞く。
友は左手に力を込め、上半身を起こした。
死ぬのが怖くないかといえば、そんなのは怖いに決まっている。死にたくないからこうして戦っているのだ。だが、必死になっているのはそんな理由からじゃない。
ここで自分が死ぬことは、当然亜紀の死にも繋がる。それだけは、絶対に避けなければならないことだった。
彼女に好意があるからじゃない。
自分の仕事だからでもない。
誰も犠牲にさせないという、信念によるものでもない。
理由は至極簡単だ。
拳を、強く握り締める。これはただの維持だ。人間としての、一人の男としての純粋な維持。
友は曲直悟という男に負けたくなかった。
自分の選んだ道を、彼とは違う選択を、認めさせたかった。
黒服なんぞに入らずとも、あんな自分を捨てるような生き方をせずとも、誰かを守れる。誰かを救えると、証明したかったのだ。
守るために、二度と誰かを犠牲にしないために、その為の力を得るためにイミュニティーへ入った。ここで負けることは、亜紀が殺されることは、自分の全てを否定することと同義だ。
あの日、庄平を死なせてしまった日から、目の前で誰かを殺させはしないと誓った。心に刻み込んだ。もう二度とあのときの過ちを繰り返さないために、全てを一人で背負い込んでいるような悟の間違いを正すためにも、ここで敗北することは許されない。
痛む頭で必死に古矢を見る。
彼の最大の武器はあの矢のような鋭く強烈な突きだ。一瞬で前の前に飛び出し、かつ無理やりこちらのガードを吹き飛ばす威力。相当な訓練の賜物なのだろう、その引き返しは早く、技の使用直後すら隙はない。
だが逆に言えば、その攻撃さえどうにか出来れば逆転のチャンスはある。
古矢の戦闘スタイルは空手のような武道を基にしている。空手は破壊力の高い武術だが、それゆえに攻撃特化で『避ける』という動作を疎かにしがちだ。もっとも隙が出来るのは攻撃の直後か攻撃しているその瞬間。古矢の場合、攻撃直後の硬直はほとんどないため、友は相手が攻撃した瞬間を狙って反撃することを考えた。
――問題はどうやってあいつの攻撃を無効化するかか。
古矢の突きと同時に手を出すということは、こちらもその突きを受けるというリスクが高い。悟や悠樹のように超感覚を持っているならともかく、身体的に普通の人間である友がそれを実現するには、かなりの集中と技術が必要になる。
いや、と友は思った。
恐らく避けようとすれば古矢はすぐにこちらの動きに対応してくる。並大抵の実力者ではないのだ。カウンターを狙って致命傷を与えることは難しいだろう。
一歩古矢がこちらへ近づいた。止めを刺す気に違いない。当然あの突きを繰り出してくるはずだ。
最大の武器は同時に最大の弱点でもある。
避けることが無理ならば、その攻撃を狙ってダメージを与えればいいのではないか。友は古矢が突きを放った瞬間を狙い、その手自体に攻撃することで古矢の武器を奪うことにした。自分の手にも傷を負う危険はあるものの、直接命を奪うようなカウンターを狙うよりは、成功率は高い。窮鼠猫を噛むという言葉の様に、友は力を温存し、そのときを狙った。
こちらが攻撃する瞬間を狙っているなと、古矢は直ぐに見抜いた。
自分が友の立場だったのなら、勝機はそれしかない。当然の判断結果だろうと思った。
――甘い、甘い、甘い、甘い……! 俺は常に相手の立場に立ち、自分の戦闘能力を考察している。その程度の駄策、どうとでも対処できる。
古矢は心の中で友のことを嘲笑った。全力で突きを撃てばもろにカウンターの餌食になるだろうが、それがくるとわかっているのならば、備えるのは容易だ。
ただ単純に力を抜く。それだけで友の反撃が来るよりも早く手首を返し、ナイフを防げる。あとはそのまま斬り返して刃を差し込むか、左の拳で背後の池に殴り落としてしまえばいい。
――イミュニティーの寵児もこの程度か。
古矢は多少の落胆を覚えた。
たった三年で新人から特務部隊にまで入った友のことは、正直に言えばかなり高く評価していた。自分と同じように外組だったことも親近感を持てたし、何よりその冷静さに徹するやり方には本心から尊敬の念を持てた。
そんな友がこの程度の策で失敗し、死を迎えることは、何となく拍子抜けした気になる。
しかしそれも、仕方の無いことだとすぐに諦めた。
彼もまたその他の有象無象と同様、ただの人間だったのだ。選ばれた才能を持つ自分とは違う。
古矢は幼い頃から何でも出来た。
勉強、運動、芸術。特に時間を費やすまでも無く、全てがいい成績を残した。
そんな古矢にとって、周りの低能な連中はみな同じものにしか見えなかった。モブ、オブジェクト、動物、脇役……そんなあっても無くても変わらない、特に興味も持てないものでしかなかった。
それは持って生まれた才能か、それとも親の育て方が良かったのかは定かではないが、とにかく古矢の優秀さは群を抜いていた。それはいつしか彼を育てた両親自身でさえ嫉妬するようになるほどだった。
中学に入った頃からだろうか。古矢の両親はただ環境のみを与え、優秀な教育を施す代わりに、彼自身には殆ど無関心になった。近所との関係、知人への自慢、建前。そういった目的で古矢照明を『飼い』、本人には密かに妬みと恐怖心を抱いていた。そんな彼らの感情を感じ取った古矢は、酷く落胆すると同時に納得もいった。所詮彼らもモブだったのだ。自分という人間を作るために必要だった材料。そう思うことで精神を安定させ、淡々と役割をこなした。
周りの全てがモブにしか見えなくなった古矢は、次第に物事に対する興味を失っていった。アイドル、スポーツ、音楽、芸能人……どんなものを見ても、どんな体験をしても、ただのイベントにしか感じることが出来なかった。
そして高校を卒業した古矢は、ちょうど国際関係が悪化していたことと、災害が多発してた時期だったため、何となく普通とは違う生活を遅れると判断し、困難の多い、出来ないことのありそうな防衛関係の大学へと入り、そのまま自衛隊へと所属した。
運命が変わったのは、そこからだ。
ある日猛獣による被害が多発していた災害地に派遣された際、古矢はそれまで見たことの無い異形の生物と遭遇した。灰色の肌に染まった怪人。イグマ細胞に囚われた哀れな感染者。
素人にも関わらず、そこで多くの感染者を自ら嬉々として殺戮していった古矢の行動は、当然イミュニティーにも目をつけられた。
彼らからの誘いに対し、古矢は即答でOKをした。ここならば、この環境ならば、普通とは違う人生を送れる。モブたちとは違う楽しいことが出来る。そう考えて。
イグマ細胞とそれによってもたらされる影響は心のそこから面白みを持てた。生物の不思議、命を賭けた戦い。次々に代わる組織間の力の関係。待ち望んでいた世界がそこにあった。
この世界は自分のような人間のためにある。
自分のような選ばれた力と存在位置を持つ人間のために。
「――モブは駆逐されるべきだ」
古矢は友に語りかけた。
「お前はモブか? それとも俺と同じプレイヤーか? どっちだ国鳥友」
「……何を言っている?」
わけが分からなそうに友が答えた。構わずに古矢は続ける。
「俺は常にプレイヤーで居たい。起き得る出来事を観察し、その出来事に影響されること無く進化を見続ける。それが可能なのは、もっとも安定し、安全な影響を与えれれる、国家の組織であるイミュニティーだけだ。刹那的な目的しか持たないテロリストや、六角構成のような独自主義者は邪魔なんだよ」
「勝手な理屈を……」
「勝手ではない。事実だ。テロリストの目的が達成されたところで何になる? これまでイミュニティーが必死に隠してきたイグマ細胞が世界中の目にさらされ、混乱と新たな闘争を招くだけだ。六角構成が独自の計画を成功させて何になる? それは奴個人のエゴでしかなく、大衆が望んでいるものではない。――……だがイミュニティーならばそれは別だ。我らは国の組織。大衆たちの総意によって成り立っている『国』の命で計画し、行動し、その意思を実現させる。例えその活動を大衆自身が認知せずともな」
古矢は見下すように友を見た。まるで動物を見るかのような目だ。
「……随分と今日は饒舌だな。お前のご高説を聞く気はない。ようは自分が最大限楽しめる、イミュニティーという環境を失いたくないだけだろ? それはお仲間同士、イカれた変人どもの集いで好きなだけ語り合ってくれ。俺には俺の役目と目的があるんだ。四の五言ってないでかかってこい」
「……ふん。モブには何を言っても無駄か。まあいいさ。お前も俺の本部内での評価を上げるために必要な材料だったのだろう。ありがたく頂くことにする」
古矢は右足を前に出し、ナイフを持った片手を顔の横に高く掲げた。そっとその刃の裏に左手の掌を添え、一撃必殺の構えを作る。友の作戦は分かっている。絶大な自信とともに指へ力を入れた。
体重を前足に乗せ、僅かに前へ滑らせる。肘を伸ばす段階で友の顔に緊張が走ったのがわかった。
――お望みの一撃だ。しっかり狙えよ。
腰を回転させ、腕を伸ばすように前に振る。先ほどとまったく遜色のない速度で打ち出されたナイフは、正確無比に友の顔へ飛んだ。
「――っぁあっ!」
それを狙い友が自身のナイフを突き出す。だが古矢は意図も簡単にそれを受け止めると、左拳を握り締め、友の胸へ渾身の打突を放った。
既に後が無かった友は足場を失い池の真上へと押し出される。
シュミレーション通りの結果に満足し、古矢はにやりと口元を上げた。
騒ぎを聞きつけた鬼がとうとうこの最下層プレートまで到達した。上部の隙間から赤灰色の腕や顔が無数に覗く。
「くっ、限界だ截!」
「まだです! まだ……!」
あれらが全て下に下りれば五秒と持たず終幕だ。唐沢に言われるまでも無くそんなことは分かっていたが、ここで引くわけにはいかない。まだプレートは半分しか降りてきていなかった。
「作戦は失敗だ。逃げるしかない。下に下りれば隠れられる場所もある!」
普通に考えれば正しいのは唐沢だ。生き残る可能性は明らかにそちらの方が高い。しかし、確実に数人の犠牲が出ることは目に見えていた。何が正しいのかは終わって見なければわからない。このときの截は、全員死ぬか、全員生き残るかの道を選んだ。
「うぉぉぉおおおおおっ!」
上部へ向かって武器庫で入手していた小型の発炎筒を投げた。
白い煙が一気に広がり鬼たちの姿を隠す。数秒だけだろうが、これである程度時間は引き延ばせる。
「ゴァアアッアッ!」
「黙れ――!」
飛び掛って来ようとする半赤鬼の関節へ小型ナイフを連投する。いくら傷が修復されるといえども、刺さったままならその筋肉の動きは妨害出来るはずだ。相手の動きが止まった瞬間、截は全体重を切っ先の一点に集め、半赤鬼の心臓へ叩き付けた。
足の関節を小型ナイフで穿たれていたこともあり、半赤鬼はバランスを乱して倒れる。截は黒柄ナイフを抜くと直ぐに彼から離れた。
「截、残り三分の一だ! もう向こう側へ行くぞ!」
「はい……!」
これ以上プレートが下がってくれば、流石に自分たちも逃げられなくなる。ここが潮時だと判断し、截は唐沢に続いて扉を目指した。
「ザァァァアアアッ!」
獲物の逃亡を感知した鬼たちが一斉にプレートの上から地面へ落ちてくる。数多の人間の命を奪ったその歯が、爪が、柔らかい截たちの肉を求めて一心不乱に伸ばされた。
プレートが大分下がってきたせいで普通に立っていることが出来なくなった。截は腰を屈ませ猿のように走る。
「早く、急げぇ!」
長島が扉の前へ到達した唐沢の腕を掴み引いた。
「截さんも早く!」
まだ遠くに居る截の身を案じてか、左右に纏めた髪を揺らし、夏が必死に手を伸ばした。
豪雨のような鬼たちの声が狭い隙間に鳴り響く。とうとう立っていることすら叶わなくなった截は、しゃがみ込み両手を地面につけて前へ進んだ。
ここを乗り越えれば鬼たちとの戦いも終わりだ。ブラック・ドメイン内には東郷を省きディエス・イレの感染者などいはしない。ここさえ生き延びれればもう鬼の顔を見ることはない。
截は匍匐前進のように腕を動かし、必死に扉を目指した。
「掴んで!」
目の前に差し出された夏の手を強く握り締める。そのままプレートの下から抜け出ようとした途端、がしっと何かが足を掴んだ。
「ゴオォオオゥウウアア……!」
「この、しつこい――……!」
地面からプレートまでの距離はおよそ四十五センチメートル。かなりの狭さだ。ここで数秒でも動きを止められれば逃げ切ることは出来なくなる。截はしゃがむにに暴れた。
「離せぇえっ!」
だが半赤鬼の筋力は並大抵ではなく、その手はいっこうに離れない。それどころか降りてきていた鬼たちも、截めがけて徐々にその距離を詰めていた。
真下に池があるのが分かる。人体を蝕み作り変える悪魔の池が。
作戦が失敗し、空中に放り出された友の頭は、死を目前にしているにも関わらずいやに冷静だった。いや、死を目前にしたからこそ、冷静になったのだろう。
この状況から古矢に打ち勝つ術はない。ゲームオーバーだと悟る。近接戦闘技術でも、読み合いでも上を行かれた。これではどうすることも出来ない。
時間の流れが遅くなったように感じる。スローモーションで上に移動していく古矢の姿を見つめ、友は悔しさを噛み締めた。
先に水面に付いたナイフが沈み刃に滑りとした液体を付着させる。直ぐに自分の体全体もそうなることが予測された。
敗因は簡単だ。純粋なる実力不足。単に古矢の力が自分を上まっていたというだけ。自ら黒服クラスというだけはあり、その腕は本物だった。
死を前にすると記憶が走馬灯のように流れるというが、友の場合はそんなことは無く、ただ異常な速度で脳が回転しているだけだった。
元々備わっている武器が違った。前衛、後衛、中衛を全てこなせる古矢と、中衛でしかない自分。負けるのは当然というものだろう。
――亜紀ちゃん――
古矢の背後に見える小さな姿。結局守りきることが出来なかった相手。きっと彼女は自分が池に落ちた直後に殺される。一瞬で、何の躊躇いも無く、虫を踏み潰すように。
そう思った瞬間、脳裏にある光景が甦った。
「俺の所為で――俺が馬鹿みたいな意地を張ったからこんなことになったんだ、絶対に……絶対に見捨てるもんか!」
「おい、冷静になれ! お前がここにいても何も変わらないぞ、死人が増えるだけだ。俺のことを思うなら逃げてくれ!」
「嫌だ、俺はお前が何と言っても絶対に逃げねーぞ! 絶対に助けてやる!」
「俺が悪かった……――じゃあな、友」
ガッ!
友は反射的に橋の紐を掴んだ。自分が切断し、力の抜けた蛇のようにぶら下がっていたものだ。
足を伸ばし何とか橋の縁に乗せると、後頭部が水面に接触する直前で落下が止まった。
「なに――!?」
驚いたように古矢が目を見開く。
友は腕に力を込め、体を持ち上げた。
――あの日、俺は二度と親しい人間を殺させないと誓ったんだ……
「――そう、誓ったんだ――……」
「悪あがきを……!」
腰を屈め、得意の突きの構えを作る古矢。友は自分でも奇妙なほど冷静さを発揮し、相手を見つめた。
冷たい。
手が冷たい。
足が冷たい。
頭が冷たい。
氷のようにひんやりとした冷気が体中に充満しているかのようだ。
――そうだ。
どんなときも、どんな相手でも。自分の武器はこれしかなかった。これのみで生き延びてきた。
徹底的な『冷静さ』。それが己の持つ唯一無二の武器。
どんなに凶暴な感染者だろうと。
どんなに危険な化け物だろうと。
どんなに強靭な怪物だろうと。
全てこの冷静さと知恵によって乗り越えてきた。
自分より技術があるから何だ?
自分より経験があるから何だ?
どんな人間だろうと死ぬ時は死ぬ。
歴戦の軍人が娼婦に殺されることも、高名な格闘家が不意打ちで強盗に殺されることだってある。
大切なのは力じゃない。生きるためにどうするか、いかに勝機を見つけるかだ。
古矢がナイフを打ち出そうと力を込めたのが分かる。この体勢では避けることも防ぐことも出来ないだろう。だが、今の友にとってそんなことはどうでも良かった。
冷静さにってしたからこそ、自分の状況を正直に見つめたからこそ、分かることもあった。
今の友には、先ほどまでは持っていなかった武器があった。
どんな熟練の戦闘員だろうと一撃で仕留めることの出来る最強の武器が。そしてそのことに、古矢は気づいていない。
「死ねえ!」
古矢が得意な突きを放つ。
友はそれを防ぐことも、避けることもせず、ただその瞬間を狙って右手に持ったナイフを前へ放った。
深く刺すつもりなど微塵もなかったため、その勢いは弱い。古矢は構わずナイフを首筋にかすらせ、腕を伸ばした。
友が足以外水上に出ている所為か、古矢自身が池に落ちることを恐れたからか、僅かに狙いが外れたらしい。古矢の突きは友のわき腹を削ったものの、致命傷を与えることはなかった。
「ち、もう一度……!」
引こうとする古矢の腕を右手で掴み、体をさらに起こす。
煩わしそうにこちらを睨む古矢を視界に捕らえたまま、友は事実だけを述べた。
「お前の負けだ。古矢」
「何を言っている? 一度運よく避けたくらいで調子に乗るな」
「お前の敗因は力の差を確信したことで状況分析を怠ったことだ。傷口を見てみろ」
友はより強く紐を掴んだ。
古矢は己の首元を見た瞬間、血相を変えた。よく見慣れた光景。悪夢の始まり。先ほど友のナイフがかすった場所が、恐ろしい速度で灰色に染まり出していた。
「これは、そんな――まさか――!?」
「あのナイフの刃は池に浸かっていた。イグマ細胞と黒目細胞が蔓延るこの悪魔の池にだ。十秒感染ではなく液体感染。既に細胞因子は全身へ回っている。お前は終わりだ、古矢」
「馬鹿な……こんなことが……! こんな――まさか……!?」
古矢は恐怖と怒りに染まった顔で友を睨みつけた。
もう動くのがやっとの狭さまでプレートが降りている。しかしそれでも、半赤鬼が足を離すことはなかった。
――や、やばい……!
これ以上は無理だ。鼻頭に掠るプレートに寒気を覚える。今この瞬間に半赤鬼の手を外せなければ、自分が死ぬか一旦プレートの降下を解除するしかない。解除は危険が伴い過ぎるが、かといって死ぬわけにもいかない。残り僅かな時間、截は何とかしてこの状況を好転させようと努力した。
ナイフは届かない。使えるのは足だけだ。しかしいくら蹴りを食らわせても半赤鬼の手は離れなかった。小型ナイフを投げようにもこの体勢では狙いがつけられない。ジワリと蛇が這いずるように背中が冷たくなる。
さらにプレートが下がり、半赤鬼の肩と頭部が地面に押し付けられた。頑丈な肉体のおかげで直ぐに潰れるようなことはなかったが、それでも僅かな時間を作る程度でしかないだろう。いよいよ我が身の危険が迫り、截は死を覚悟し始めた。
諦めかけたその時、急にプレートの降下が止まった。
「截、早く出ろ! 今なら奴は動けない」
どうやら半赤鬼の体躯を考慮して、截が動けるぎりぎりの高さを狙って降下を止めたようだ。唐沢の機転に感謝し、截は腰を曲げ半赤鬼へ近づくと、その指を切断した。
這いずるようにプレートの下から抜け出る。
截が門のこちら側へ完全に移動すると同時に、唐沢がプレートの降下を再開させた。
「ゴオオァアアゥアアッ!!」
頭蓋骨を歪ませながら、憎悪をぶつけるように半赤鬼が声を上げる。
「……任務は失敗だな」
截がそうつぶやくと同時に、鈍い音を響かせプレートが降り切った。
「――ゆうぅぅぅぅううううっ――!」
発狂したように叫びながら古矢が腕を振る。本来の古矢の実力であればこの距離から友を仕留めることは簡単だったはずだ。だが冷静さを失っている所為でその攻撃は酷く雑な動きとなり、結果的に致命的な隙を作ることになってしまった。
このチャンスを、友が逃す筈は無い。古矢のナイフを左に避け腕を掴み、張られたロープを支点にしてその体を空中へ放り投げた。
悪夢の細胞が充満する池に頭から落ちる古矢。頭を水面に出した彼は、自分の置かれた状況を認めることが出来ず、必死に暴れてそこから抜け出そうとした。
「ゆ、友ぅぅぅぅうう! 俺は、俺はこんなところで――……俺は……――」
「その傷だらけの体でイグマ細胞の溢れる池に浸かれば、どうなるかくらい分かっているはずだ。古矢、お前はもう……」
その言葉を言い切る前に古矢の頭が水中へ沈む。ぶくぶくと溢れる気泡だけが、その場に残った。
遠ざかっていく光を見上げながら、古矢は徐々に自分の体の感覚が濁っていくのを感じた。呼吸が出来ない苦しさ、身動きのとれない煩わしさよりも、何かが体に侵入し、全身を犯していく感覚に強い恐怖を覚える。
かろうじて視界に映る己の手を見ると、黒く変色した血管のようなものが網目のように浮かんでいた。感染者が最初に変質する光景と同じだ。
――何故、こうなった?
何でも出来た自分が、全てを望むままにこなせていた自分が、何故こんな結末を迎えなければならないのだろうか。
油断は、確かにしていた。実力で自分を下回る相手。感染者という武器を利用した圧倒的に優位だった状況。だがそれらは要因のひとつであって原因ではない。
古矢は本当は分かっていた。
自分のことを。自分の能力を。
確かに幼い頃から何でも出来た。あらゆる分野に高い成果を出せた。だが、それだけだ。それはあくまで『高い成果』でしかなく、最優秀な成果ではない。
何でも出来るものの、何かひとつを極限まで極めたことは無かった。
器用貧乏は、所詮その分野ではその分野の天才には勝てない。
何でも出来ることがもっとも有利。もっとも活かせる場所だからこの世界へ入ったのだったが、やはりここでも結果は同じだったようだ。点のようになった光を見つめながら、古矢は声を漏らした。
――羨ましい――
それは彼が他人からもっとも多く言われた言葉であり、またもっとも彼が他人へ抱いていた感情だった。
視界の中で複数の『何か』が動いている。古矢はもっとよく見ようと目をこらしたが、その正体を確認するようりも早く、僅かに見えていた光も闇の中へ消えてしまった。
池の液体が付いたナイフを橋から蹴落とし、友は古矢のWASP KNIFEを拾った。そのままそれを自分の鞘へ収納する。
胸と脇の傷が痛んだが、それほど深いわけでもない。とりあえず戦闘行動は続行出来ると判断し、前を向いた。
亜紀が走りよってくる。友は彼女に微笑みかけると、その肩に手を乗せた。
「怖い目に遭わせてしまってすまなかった。もう大丈夫だ」
黒目たちも古矢のように池の中へ沈み込んだようだ。取りあえずのところもう追っ手はいない。これでようやく、落ち着いてエレベータを目指すことが出来るだろう。
「……古矢がこうして待ち伏せていたということは、東郷らも侵入しているはずだ。雫たちの身が気になる。歩けるか?」
彼女の足の怪我を心配して聞く。亜紀は軽く笑うと、片足でジャンプして見せた。大分良くなったということなのだろうか。友は亜紀の肩から手をどけ橋とは反対側の道を見た。
「行こう。目的地はもう直ぐそこだ」
同じように振り返り亜紀も頷く。
視線の先、岩場の向こうでは、高速エレベータが不気味な雰囲気をかもし出し(そびえ)え立っていた。