<第二十一章>赤き脅威の再来
現在の位置から最下層へ進むには、あと二回階段を下る必要がある。
だが先に降りた生存者たちの所為で引き付けられたのか、無数の鬼がその下層階へ密集してしまっているため、通常の手段で進むことは事実上不可能に等しかった。
「ブラック・ドメインへの門が開いているな。どうやら俺たちが休憩している間に六角は先に進んだようだ」
鬼に見つからないように気をつけながら、唐沢が下の階を覗いた。
截が確認すると、確かに最下層の中央が盛り上がり、この吹き抜け部分だけ一階分階数が減っていた。
「東郷ももうあの中に入ったんですかね」
「さあな。だが奴らが研究所の中へ侵入したのは俺たちよりも先だ。可能性は高いだろう」
「僕たちの休憩中に六角らが進んだのだとしたら、まだそれほど時間は経過していません。今ならまだ追いつけます」
「そうだな。……だが、問題はどうやってあそこまで進むかだ。見渡す限り、下へ降りる道は全て鬼に塞がれている。一体一体倒していったら何日かかるかわからないぞ」
向かい側の一階下をうろついている鬼たちを見て、唐沢は苦笑いを浮かべた。
截は背後の面々を振り返った。
吹き抜けとは反対側の通路の奥を不安そうに伺っている長島。壁に張り付き、一生懸命に鬼の視界に入らないようにしている麻生。状況がよくわかっていないのか、きょとんとしている夏。この面子では囮を使って鬼を誘導することも出来まい。
截は感覚に意識を集中させつつ、手すりの隙間から伺うような調子で下を見渡した。しばらくそうしていると、あるものが目に入った。
「……唐沢さん、あそこを通れば最下層の上にまでは行けそうじゃないですか?」
貴婦人、フォルセティが天井を突き破ってショッピングモールへ上っていた影響で、その瓦礫の一部が最下層の側面に落ち、滑り台のような通り道を作っていた。運がいいことにその端はちょうどこの地下三階で止まっている。
「なるほど。あれなら隙を突けば全員無事におりることが出来るかもしれないな」
「鬼が多いといっても、上に比べたら微々たるものです。鬼が内側通路から消えた瞬間を狙って下りましょう。僕が奴らをひきつけます」
「了解した。すぐに行動に移そう。気をつけろよ」
こちらの肩を軽くたたく唐沢。截はそのまままっすぐに麻生らの横を抜け、外回り廊下へと向かった。
何か大きな物音が響き、内回り廊下にいた鬼たちが一斉に駆け出した。その赤い姿が瞬く間に視界から消える。
「今だ」
唐沢の合図で、その場に居た三人は急いで左方向へ走り出した。鬼の姿にびくびくしつつも無事に瓦礫の前へ到達する。
「截さんは?」
心細そうに夏が振りえる。が、截の姿は見えない。
「あいつなら心配ない。今はとにかくここを降りることを優先しろ」
唐沢はそういうと一気に瓦礫の上へ身を躍らせた。多少の凹凸があったが、無事に最下層のプレートまで滑りきった。
「夏ちゃん、さあ行こう」
長島が背中を押すように促す。夏は仕方がなく瓦礫にお尻をつけた。
全員が瓦礫を下りきると、唐沢はすぐに夏たちを壁際へと移動させた。
「ブラック・ドメインへの入り口へ行くには、普通は外側廊下を経由してこの下にいくんだがな。今は鬼が居るから無理だ。ここから飛び降りるしかない」
「はあ? むちゃ言うなよ! これ何メートルあると思ってんだ?」
最下層プレートの淵から下を覗き、麻生はアメリカ人並みのオーバーリアクションで振り返った。
「手でぶら下がってから降りれば何とかなる。早く行け」
半ば蹴落とすように唐沢が麻生を押した。短い悲鳴と鈍い音が下から聞こえる。
続いて長島が降り終わったとき、横の通路から截が姿を現した。
「大丈夫か」
特に心配してなさそうに聞く唐沢。
「急いでください。すぐに鬼も内側通路へ戻ってくる」
「ああ、わかってる」
唐沢がせかすように視線を向ける。夏はゆっくりと淵に膝を乗せ、そこから降りた。先に下へ着いた二人にキャッチしてもらい、地面に足をつける。顔を上げると、奥のほうに開放たれた扉と、暗い通路が見えた。
「本当に大丈夫なんだろうな」
ごくりと喉を鳴らし、長島がその向こう側を見つめる。
「何か出てきそう……」
まるでホラー映画の一場面のようだ。夏は両手を胸の前へ移動させた。
「さあ、行くぞ」
横に着地した唐沢が手を払い、前へ踏み出す。夏は正直あの中に入りたくなかったが、このままここに残っても危険には変わりないため、仕方がなくそのあとに続いた。
先頭を歩いていた唐沢が扉を潜り抜け、夏や長島がその前に来たとき、何か妙な音が背後から聞こえた。
ブラック・ドメイン内の感染者や原生生物は、通常隔離網から放出されている薬剤を嫌がり、移動可能通路からはかなり離れた場所を徘徊している。その六角の言葉を信じ、一行は一目散に高速エレベータへ向かって駆けていた。
「岩肌に気をつけろ。何が原因で感染するかわからない」
生存者たちに向かって友が声を上げる。
亜紀はそれを聞き、道の中央へと一歩寄った。
走りつつも側面の岩壁へ目を通す。見た目的には普通の石だが、あそこには死を呼ぶ微生物が無数に巣食っているのだ。三年前に自分たちを苦しめた、あの悪魔の権化が。
反射的に喉に手を当て、歯を強く噛み合わせる。
嫌な記憶が引き出されるように脳裏を駆け抜けた。
「大丈夫、きっと助かるわよ」
こちらを心配してか、汗だらけの顔で微笑む千秋。亜紀は頷くことでそれに答えた。
通常の任務よりよりも遥かに危険度の高いこの状況では、戦闘員であるとはいえ彼女の生存力は自分と大差がないだろう。それはきっと彼女自身もよくわかっているはず。にも関わらず、彼女は自分の命を心配してくれている。それは任務だからというよりは、純粋な好意からに思えた。
普段から姉のように感じていた相手だ。絶対に二人揃って脱出しようと、亜紀は走りながら強く誓った。
「右です!」
突然先頭の雫が叫んだ。
通路の先に視線を向けたところ、人型の何かが複数立っていた。
慌てて方向転換し、雫の後に続いて右へ曲がる。
「今のは何だ? 悪魔には見なかったが」
友が怪訝そうに背後を見た。
亜紀も同様の違和感を感じる。
一瞬だけ見えた感染者の姿は、三年前にもこのテロでも見たことがないものだった。ここに生息しているのは純粋なイグマ細胞ではなかったのか。
「感染者の経過観察をしていると言っただろう? 通常の悪魔がそんな長持ちするものか。ここに居る感染者はまったく別の存在だ」
「どういうことです?」
「あれは通称『黒目』。死体の中に入り込み、その体を操作するという生態を持つ生き物だ。まあ、原生生物の一種だな」
六角は辛そうに横腹を押さえた。
「イグマ細胞に感染した者たちは全員細胞侵食によって生命活動を停止したあと、あれに体を乗っ取られたんだよ。厄介だぞ? 本来は死体だからダメージをほとんど受けないし、悪魔の身体機能も持っているからな」
「本体を仕留めないと倒せないってこと?」
千秋が聞いた。
「いや、黒目に本体などはない。あいつはイグマとは別系統の細胞種だ。死体に入ることで細胞増殖し、その体を作り変える。いわば、死体のみに感染する細胞といったところかな。倒すには行動を制御している脳をどうにかするしかない」
それを聞いた友は、複雑そうな顔で六角を見た。
「ということは、このファーストブラックドメインはイグマ細胞とその黒目の細胞が乱繁殖している場所ということですか?」
「そうだ。最初はイグマ細胞だけだったのだがね、時が経つにつれて変化が起き、今ではほぼ半々の比率になっている。その見分けが難しいため、イグマ細胞の輸出は主にセカンド・ブラックドメインが中心に行われていたんだ」
ごく当たり前のことを話すかのように六角はそう言った。
――輸出……? こんな危険な生き物をまるで魚か何かみたいに……
思わず亜紀の頭に血が上る。一体どんな目的でこんな恐ろしい生物を外に出しているのかはわからないが、それによってもたらされる被害や危険などまったく気にしていないような言い方だ。元々好意などもってはいなかったが、六角に対する嫌悪感がよりいっそう強くなった。
「前にもっ……!」
雫が焦ったように叫び、急停止する。それによって全員の足が止まった。
前方からは先ほど僅かに見た『黒目』という生き物が数体迫っていた。まだ遠くて姿はよく見えないが、その触手のようなシルエットの腕には本能的に強い恐怖を感じる。
「こっちだ」
友が側面の壁に向かって飛び乗った。傾斜はあったが、ところどころに突起があり、上れなくもない。亜紀たちは慌ててそれによじ登った。
「怪我している部位を岩に接触させるなよ。一瞬で感染するぞ」
六角が念を込めるようにそう言った。
下のほうに集まった黒目たちはその奇妙な腕を駆使し、おぞましい動きで岩を駆け上ってくる。
「来てる! 急いで!」
悲鳴に近い声を出し、千秋は上る速度を速めた。亜紀も必死に腕に力を込める。
全員が丘を上り終わったと同時に、黒目も上部の地面へ手をつけた。
「代表どっちの方角ですか――?」
「こっちだ! ここをまっすぐに進めば高速エレベータの柱が見えてくる」
友の問いに素早く答えた六角は、右方向へ向かって飛び出した。慌てて一同もそれに続く。
小さなな岩を飛び越えたところで、突然道が狭くなった。崖と崖を細い岩の通路が繋いでいるような場所だ。
もう黒目は目と鼻の先まで迫っている。亜紀は急いでそこを渡ろうとした。
長い間人が通っていなかったためか、それとも元々人が通れるように出来ていなかったのか、重さに耐え切ることが出来ず岩の通路の一部が欠落した。
「ひぃああっ!?」
ちょうどそこへ足を乗せようとしていた榊は、足を滑らせ大きく左へよろけた。重心が通路からはずれ、その体を空中へと誘導する。
――危ない!
亜紀はとっさに手を伸ばし、彼女の腕を掴んだ。だが予想以上に重く、自分のほうが引かれてしまう。何とか彼女の体を通路のほうへ持ち上げたものの、代わりに体を外へと投げ出してしまった。
「亜紀ちゃん!」
千秋が服を掴もうとするが、届かずに亜紀の体は落ちていく。坂のような崖の上を玉のように下へと転がっていった。
「くそっ! ――雫、任せた」
この場で孤立すれば確実に殺される。服に付着するぐらいならば外気の影響で侵食力は大幅に下がるだろう。だが、もし素肌で湿気の強い岩場に触れて怪我でもしていれば、感染は免れない。友は即座に亜紀の後を追った。
後ろに向かって走り、よく見もせずに眼前まで来ていた黒目を突き飛ばす。そしてそのまま崖のし側面にある坂へ飛び込んだ。
「ちょっ、友先輩!?」
泣きそうな声で雫がこちらを見たが、かまわずにそこを滑り降りる。大量の土煙が足によって巻き上がった。
確かに今自分がそばを離れることは、雫や六角にとっては大損害だろう。だが、だからといって彼女を見放すことも出来ない。友は雫の能力を高く評価している。危険だろうが彼女なら何とかすると思った。
「もう、勝手に……!」
雫は眉間に皺をよせたが、怒っている暇などなかった。既に黒目はすぐそこの距離に居る。
「見えた、あれだ」
岩の橋を渡りきったところで六角が一点を見つめた。雫が目を向けると、確かに遠くのほうで円柱状の灰色いものが上へ伸びている。岩の山々越しにそれが見えた。
「来ないでぇ!」
最後尾の千秋へ向かって追いついた黒目が手を伸ばした。雫は急いで小型ナイフを投げ、その細長い指を後方へ吹き飛ばす。
「あそこです。みんな全力で走って下さい!」
この状況では罠を作ることも、一体ずつ始末している暇もないだろう。今はとりあえず無我夢中で逃げ続けるしかない。
雫はたった一人でこの集団を守らなくてはならないという事実に、強い不安感を覚えた。とてもじゃないが全員無事にあそこへたどり着くことなど出来る気がしなかった。
だが、それでもそれを成功させなければならないのだ。イミュニティーの実力者として、六角構成の救援隊として、そして友にこの場を任された者として。
「もう、あとで絶対なんか奢ってもらうんだから」
ふてくされるように、雫は呟いた。
茶色い煙の中、ひとつの感覚だけがはっきりと感じられる。あちこちに打ち付けた痛みに苦しみつつも、亜紀は何とか生きていた。
どうやら自分はうつ伏せの格好で地面に倒れているようだ。土煙の所為で判断しずらいが、あの崖の下にある整備された通路らしい。
立ち上がろうとするも、何かにはさまれているらしく、うまく足が動かなかった。頭だけを後ろへ向けると、ドラム缶のようなものが太ももの上にのっていた。液体が入っているようで、かなりの重さだ。
力を入れてみるも、それはびくりとも動かない。このまま黒目に遭遇すれば、何も出来ずに甚振られてしまうだろう。その惨状を想像し、亜紀はぞっとした。
もがいているうちに先ほどの六角の言葉を思い出した。このブラック・ドメイン内ではイグマ細胞と黒目細胞がそこら中に溢れている。少しでも傷口があれば、細胞たちが居る壁や地面に接触した瞬間、感染してしまうのだ。
慌てて自分の体の感覚に集中する。血が流れているような感じはない。痛みも打撲のよなものだけだ。とりあえず感染はしていないと思い込みたかった。
「――……――っ」
助けを呼ぼうにも、肝心の声は出ない。むなしく激しい息の音だけが喉から漏れる。
先ほどまでの喧騒はどこへやら、静寂だけが辺りを支配していた。
ここで死ぬのだろうか。
生きたまま噛みつかれ、引き裂かれ、内臓を抉られるのだろうか。
それとも黒目にすら気づかれず、飢え死するそのときまでひたすらじっとしているのだろうか。
今更になって、物凄く悔しさがこみ上げてきた。やはり自分は一人では何も出来ない。こんなドラム缶ひとつどかすことも出来やしない。
何故、自分はこれほどまでに弱いのだろう。
三年前も、今も、いつもいつも誰の役にも立てなかった。守られるか、足を引っ張るかだけの存在でしかなかった。悟を見殺しにした、あの何も出来なかった四日間を思い出す度に、何度も何度も感じさせられる無力感。イミュニティーと戦おうとする友たちの手伝いをしたいと思った。例え戦闘は無理でも何か手伝えることがあるかと思った。けど、この声の所為でその機会すら失われてしまった。
自分はずっと役立たずだ。
亜紀は感染する危険があるにもかかわらず、地面に拳を強く叩きつけた。
――誰か、助けて……
無力感と恐怖から無意識にそんな声が漏れてくる。自然と悟の顔が浮かんだ。
彼は、自分にとって『生きる』ことの象徴だった。どんな危険な場所でも、どんな危険な相手でも、決して生を諦めず前に進み、自分を守ってくれた。助けてくれた。あれから何年も経っている今ですら、その存在は深く亜紀の心に残っている。
――助けて、悟くん。
そう願ったとき、後ろの崖から小石の転がるような音が聞こえた。パラパラと大量に落ちてくる。
亜紀がゆっくりと振り返ると、誰かがそこに立っていた。
――悟くん?
一瞬そう感じたものの、すぐにそれが友だとわかった。悟の幻影が消え、友の顔がはっきりと見えてくる。友はそのストレートヘアーにかかった土を払い、心配そうにこちらを見た。
「亜紀ちゃん、大丈夫か?」
亜紀はうん、と頷いた。
「怪我は無さそうだな。よかった。今助ける」
こちらの様子を確認したあと、友はドラム缶に手をつけた。
自分が落ちたから、助けに来てくれたのだろうか。六角の保護という任務すらほっぽり出して。
亜紀は申し訳ないと同時に、友に強い感謝の念を抱いた。先ほどまでの恐怖もなくなり、胸が暖かくなってくる。
ドラム缶を完全に退かしきった友は、亜紀の体を支えるように持ち上げた。
「可愛い顔が台無しだな。立てるか?」
再び頷き、亜紀は足に力を込める。歩こうとしたが、太ももの痛みが邪魔し、一瞬顔を引きつらせた。
「肩を貸そう。腕を上げてくれ」
友は亜紀の手を取り、それを自分の肩へと回した。
三年前、巨狼との戦闘で弱った截を同じように助けたことがある。この状況を懐かしく感じながらも、改めてもう截はいないんだなと、亜紀は実感した。
友の顔を何気なく見る。
彼は何故ここまで自分に良くしてくれるのだろうか。
古い知り合いだから?
女だから?
悟に任されたから?
それとも――
何となく、答えはわかっていた。
伊達にこの三年間の苦楽を共に乗り越えたわけではない。それなりに相手の感情を読めるようにもなった。
もう助けてくれた英雄はいないのだ。
――そろそろ……決着をつけないといけないのかもしれない。
亜紀は友の肩へ乗せた腕に、ゆっくりと力を込めた。
「――圧巻だな」
いくつも連なっている岩丘のひとつに立ち、東郷大儀はそう感想を漏らした。それを聞いたタヌキは、同意するようにあごを下げる。
「これが全てブラック・ドメインだというのですからね。まったくイミュニティーの技術力とスケールにはいつも驚かされるばかりです」
「政府という裏立てがあるのだ。当然の力だろう。六角の手にかかれば奴らを丸め込むのは容易い。……もっとも、本当に政府の望んでいる研究をしているかは別だがな」
「例の計画とやらですか」
タヌキは東郷の横顔を見上げた。
「今回、我らからの攻撃を受けたことで、六角はここを脱出次第すぐにあの計画を実行に移すだろう。恐らく古谷の裏切りによってイミュニティー上部の関与にも気がついているはずだからな」
「あの男はどちらに? いつの間にか姿が消えていましたが」
「自身の仕事へ戻っただけだ。元々俺たちと合流したのも、先ほどの失敗について詳細を報告しに来ただけのようだ」
東郷は長いコートをはためかせ、タヌキのほうへ目を向けた。
「あの男の実力は確かだ。まだ手を組む前に、別の場所で一度手を合わせたことがある。六角についてはとりあえず奴に任せておけばいいだろう。問題は――」
「『異分子』ですね」
遠く、高速エレベータを睨みながら、タヌキは目を細めた。
「そうだ。何者かは知らないが、俺たちよりも、六角よりも前にこのG.Cへ侵入し、ちょうど六角が踏み込んだところでタイミングよく感染者たちを解き放った。並大抵の人間に出来る技ではない」
「目的は何なのでしょうか? 六角の味方には思えませんが……」
「さあな。確かなのは奴が全てを知った、計算した上でその行動を起こしているということだ。今回の俺たちのテロのことも、六角がここへ逃げ込まざる終えなかったことにもな。相当に頭の切れる人間だろう。油断は出来ない」
自分が利用されているかもしれないという事実に苛立ちを覚え、東郷は奥歯を噛み締めた。
「そいつがどんな目的で行動しているかわからない以上、放っておくのは危険だ。六角のことは一旦古谷に一任し、この犯人を探すことにする。何か意見はあるか?」
「鬼たちの解放についてはどうしますか? 外に待機させていた仲間の報告ではまだ『もぐら』は出ていないそうですが」
タヌキは不思議そうに上を見た。あの怪物が止められるなど想像も出来なかったのだろう。
「心配はない。少し前に研究所でいいものを見つけた。あれが上手く成長すれば、もぐらと同様の働きをしてくれる。それに、他に手がないときはこの俺自身が自らの力で壁を粉砕すればいいだけだ。既にG.Cの扉は開かれた。もはやいつでもパンデミックを引き起こすことが出来る」
「ばっ、ははっ! あれですか。あなたも酷い人だ。自分の部下をあのように扱うなんて」
「ディエス・イレの人間に死ぬ覚悟のないものなどいない。彼も本望だろう。自分の力でこのテロを成功へと導けるのだ。何を悔やむ必要がある」
「そうですね。偽者の正義に神の怒りを、それが我らディエス・イレの本懐。彼も本望でしょう。なんせ――あなたと同じ存在になれたのだから」
にやりと、タヌキは笑みをこぼした。
ブラック・ドメインへの扉へ向かって歩いていたとき、突如として截の『感覚』が警報を鳴らした。今まで何の反応がなかったにも関わらず、急に、いきなり、真上から大きな脅威の存在が降ってきたのだ。
「なんっ……!?」
ナイフを抜くよりも早く視界を真っ赤な腕が覆い尽くす。截は半ば無意識の動きで、それを奇跡的に回避した。ごろごろと床の上を転がりながら、前を見る。
「これを避けるとは――……」
驚いたように、そいつが声を出した。
「お前は……!?」
白衣を着ているからここの研究員には違いないようだったが、その右半身は赤鬼のごとく変質し、醜い様相を見せびらかしている。截はディエス・イレの者だと瞬時に理解した。
「截さん!」
こちらの様子に気がついた夏たちが扉の前に出ようとする。截はそれを手で制し、白衣の男に向き直った。
「その体……お前、まさか」
「そうだ、これは我らがボス、東郷さんからもらった力。俺はここにスパイとして潜入し、災害発生時にイミュニティーの連中に倒されたんだが、運よく急所を外れていてね。研究所内に隠れていたところで彼と遭遇し、新たな任務を授かったのさ」
「任務?」
截は身構えた。
「信じられないことだが、お前らはあの貫通用の怪物を食い止めたらしいじゃないか。俺はその代わりってことさ。たった今細胞を摂取したばかりだから今はまだ三分の一程度だが、いずれはこの体も肥大化して東郷さんと同じ状態になる。その力で、あの怪物がやるはずだった仕事を俺が達成するんだよ」
男はにやりと笑い、腕を振り上げた。
感覚を活かし、その攻撃をかわしきると、截は男に向き直った。
紀行園の大西は東郷の細胞を入れられて暴走し、赤鬼とはまったく違った中途半端な化け物と化した。しっかりと調整された東郷とは違い、後天的に細胞を取り入れた人間がそれを制御できるとは考えられない。この男があまり時間をかけずに暴走状態になることは目に見えていた。
――こいつに言ってる説明は建前で、東郷の目的は俺たちの削除だな。モグラが失敗した以上、作戦を成功させるには東郷自身が常世国の壁を粉砕するしかない。今からまた研究所を通って上に戻れば六角に逃げられる。あいつは六角よりも先にエレベータへ到達し、それを破壊か、機能停止するつもりだ。つまりこいつは、俺たちが六角に合流しないようにするための当て馬ってことか。
半赤鬼の男は腕を顔の前に移動させ、膝を屈めた。突撃してくる気のようだ。
截は正直、冗談ではないと思った。ただでさえブラック・ドメインの中は危険だというのに、東郷に高速エレベータを壊されたら、脱出は絶望的になるだろう。時間が経てば経つほど生存者たちの身は危険になっていく。
――亜紀……!
半赤鬼は地面を激しくけり、一気に突っ込んできた。
こんなところで、こんなただの使い走りに構ってる暇はない。
「そこを、退け――……!」
截は自然と声を荒げた。