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<第二十章>ブラック・ドメイン

 赤黒い背中が徐々に大きくなる。截は全速力で走りつつも、なるべく音を立てないように努力した。

 麻生に追いついた鬼がその背に飛び掛った。巻き込まれるように長島も前のりに倒れこむ。

 二人にとっては命にかかわるピンチだったが、このおかげで截は鬼に追いつくことが出来た。

 鬼は真下に居る麻生を押さえつけなぶるように口を近づけていたが、こちらの気配に気がつきたのか顔を僅かに後ろへ向けた。

 その時点で截は既に攻撃のモーションに入っており、鬼が何かの動作をするより早く、その顔の中心に黒柄ナイフを突き刺した。

 倒れていく鬼を通り越し、勢いのついた体を止める。ナイフを抜いたことで、背後では大量の黒い血が噴射された。

「――お、おまえは……――!?」

 鬼の血にまみれた麻生が青白い顔で呟いた。

 こちらの顔を見て誰かわかったのか、長島がほっとしたように微笑んだ。

「おおっ、あんたか! 助かった」

 截はナイフの血を振るうと、彼に向き直った。

「無事で良かったです。怪我はないですか?」

「一応はな」

 長島は自分の膝を撫でた。

「今の騒ぎで鬼が集まってきます。取り合えずどこかへ隠れましょう」

「あ、ああ。わかった」

 今の鬼は不意打ちだったからこそ楽に始末出来たものの、真正面から相対すれば、一体倒すだけでも相当の苦労を有する。感覚で周囲を調べると徐々に複数の鬼が近づいていることが分かった。唐沢が追いついたのを確認し、截はすぐさま付近の部屋へと入った。

 最初は暗くてよく見えなかったが、この部屋はこれまでの研究室とはどこか違った雰囲気を持っていた。無数の棚に鉄臭い臭い。まるで町工場の中のようだ。

 中を見渡し、唐沢が口笛を吹いた。

「ツイてるな。ここは隊員用の装備品開発研究室だ。何か使えるものがあるかもしれない」

「見てみましょう。しばらくは鬼もこの付近から離れないはずですし」

 自分も唐沢も、恐らく麻生と長島も、休み無く逃げ続けてきたことで、体に相当の負担をかけている。タイミング的には調度よかった。

 唐沢は夏を背から下ろし、壁に寄りかからせた。麻生と長島もそれぞれ適当な場所へ腰を落ち着けた。

 感覚によると鬼たちはこの部屋には気がついていない。先ほどの廊下の周囲をうろついているようだ。しばらくは動けないが危険になることは無いだろう。

 扉から離れると、長島が疲れきったような表情で座り込んでいた。

「大丈夫ですか?」

「ああ、なんとかな。ただ、ちょっと腹が減って仕方が無い」

 お腹をさすりつつ長島は微笑んだ。

「何があったんですか? 友は……イミュニティーの隊員はどうしたんです?」

 亜紀の身が気になり、截は長島の顔を見つめた。

「それが、俺たちにもよく分からないんだよ。詰め所にはかなりの隊員がいたんだが、大勢での行動は小回りが利かないし、リスク分散って考えもあって少人数ごとに行動することになったんだ。それで地下の何とかって場所を目指していたんだが、俺たちの班の隊員の一人が突然悲鳴を上げてな。奴らの仲間になってしまったんだ」

「奴ら……鬼のことですか?」

「ああ。それでまずいと思って取り合えず逃げ出したんだが、そのときあちらこちらから同じような悲鳴が聞こえてきた。まるで他の班でも俺たちと同じようなことが起きてるみたいだった」

 ――隊員が突然一斉に鬼に?

 截はその話に強い恐怖を覚えた。

 話の中で鬼と接触したという説明は無い。一体どこで感染したというのだろうか。考えられるとすればそれは――

「裏切り者が居たようだな」

 断言するように、唐沢が言った。唇には再びタバコが咥えられている。

「裏切り者って、どういうことなんだ?」

 状況が理解出来ていないのか、長島が聞き返した。

「そんなタイミングで同時にイミュニティーの隊員が鬼化することなんてありえない。詰め所に待機していた人間の中にもディエス・イレの仲間が居たんだろうな。目的は……六角の脱出を遅らせるためってところか」

「それが本当なら、友や他の生存者たちの身も危険だ。急がないと――」

「落ち着け截。六角の行動を遅らせることが東郷の目的ならば、鬼化させる対象は主に一般戦闘員になるはずだ。民間人を鬼にするよりは戦力を低下させることが出来るし、逆に救援部隊を鬼化させたら六角が死亡する危険があるからな。奴の狙いは地下通路で聞いただろ?」

「……確かに、そうですね」

 唐沢の冷静な分析を聞き、截は頷いた。だが亜紀の身が危険になっているということには代わりが無いため、焦りだけはつのる。

 ――友が亜紀を自分の付近から離すはずが無い。きっと亜紀は六角の居る班で行動しているはずだ。確かに今のイミュニティーの班の中では一番安全度は高いが、鬼が蔓延はびこるこの研究所の中でそんなものに大した意味なんて無い。危険な状況にはかわりないんだ。

 東郷に六角を殺す気は無い。だがそれは言い換えれば、六角以外の誰が犠牲になっても構わないということだった。亜紀と分かれたのには常世国の秘密を知りたかったという理由も当然あったが、友や多数の隊員が安全を確保してくれると考えたからだ。それが、その盾が瓦解してしまった今、彼女らの命が無事だという保障は無かった。

「付近の鬼の気配が遠退いたらなるべく急いで下へ降りよう。あの土竜もぐらの怪物を殺してしまったんだ。東郷がその事実に気がつけば、すぐにでも鬼を解放するための新しい策に出るはず。六角をさっさと脱出させて、鬼と東郷を始末してもらわないとな」

「そうですね」

 截はその意見に賛成した。

 六角さえこの施設の外に出れば、国やイミュニティーはどんな手段でも使うことが出来る。爆撃だろうと、毒ガスだろうと、細菌兵器だろうと、何でもだ。彼らはイミュニティーイグマ部門の代表さえ無事ならばそれでいいのだから。

「『六角の個人的な実験』や黒服との妙な行動については俺から上に報告しておく。俺は元々本部からよこされた人間だったし、今でも知人は何人か居る。あんな悪逆非道な研究を許すわけにはいかないからな。もし成功すれば、六角のイミュニティーでの地位は終わるはずだ」

 煙を吐きながら唐沢が言った。

 六角の脱出を援護することには、間違いなく賛成だ。それは亜紀の無事にも、東郷の計画阻止にも繋がる。だが――

 截は気味の悪い何かを感じていた。

 本当に六角構成を脱出させていいのだろうかという疑問が頭の隅にある。

 あれほどの権力と人員を持つ六角が、こんなにも無防備な状態で晒されている状況など普段では考えられないことだ。彼が黒服と本当に繋がり何かを企んでいるのならば、今ここで息の根を止めてしまうほうが正しいのではないかという考えさえ浮かぶ。生かしておくリスクとメリットを天秤にかければ、明らかにリスクのほうが高いからだ。もしキツネが自分の立場だったのなら、迷わず六角をここで仕留めているだろう。

「……東郷も随分と冷静だな。いくらイミュニティーをおとしめるためとはいえ、あれほど恨んだ六角を殺そうとしないなんて……」

 考え込んでいた所為か、自然と声が漏れた。

「殺そうとしないんじゃなくて、殺せないんだよ」

 今の独り言を聞いていたらしい。唐沢が含みのある表情でこちらを見た。

「計画があるからじゃない。物理的に、六角構成という男を殺すことは不可能なんだ」

「どういうことです?」

「あの男は『予知』の超感覚者だ。自分の命が危険になる状況を、全て正夢として知ることが出来る。殺意を持って近づいたり、殺そうとすれば、全て事前に悟られて計画は破綻する。このテロを成功させるには六角が内部にいることが最優先事項だった。だからどれだけ憎い相手でも、どれだけ殺したかった人間でも、東郷は殺意を持って行動するわけには行かなかったのさ」

「そんな……それじゃ六角構成は無敵ってことじゃないですか」

 改めて知った事実に截は愕然とした。

「まあな。だから東郷も六角への復讐を果たすためには、奴をあくまで社会的に追い詰めるという策をとらざる終えなかったんだろう。俺が奴の立場ならとんでもない苦しみだろうよ」

 上を向き、白い息を吐きながら、感慨気に唐沢はそう述べた。

 東郷がどうしてイミュニティーや六角に恨みを持っているのかは知らないが、ディエス・イレなんて組織を率いて数々のテロを起こしているほどだ。相当な恨み辛みがあるに違いない。それでもなお憎むべき相手に手が出せないなんて、酷い境遇だなと截は思った。




 

 見つけた医療箱の道具で簡単な傷の処置をし、顔に再び包帯を巻いたあと、截は部屋の奥へ進み、置いてあった備品へざっと目を通した。

 入り口付近からは見えなかったが、この部屋の壁にはナイフやら発炎筒やら様々な道具が掛けられている。中には明らかに実戦闘には使えなさそうな形のものもあった。

 ロッカーの中には無数の戦闘服が入っており、截はそこから灰色の上着とズボンを取った。形状的にはイミュニティーの制服に近かったが、試作段階のものなのかお決まりの紺色には染められておらず、ロゴも何一つ付けられていなかった。

 さっさとぼろぼろの服を脱ぎ、それを着る。これまでずっとただのシャツとボトムで闘っていたのだ。まともな防御機能を持つ服を得ることができ、截は少しだけ安心感を抱いた。

 それから小型ナイフをいくつか回収した截は、唐沢たちのほうへと戻った。

「何だ? 試作服を着たのか?」

「イミュニティーの正規服は着る気になれなかったので。唐沢さん。あなたも着替えたほうがいいですよ。シャツ一枚で闘うのは危険過ぎます」

「それもそうだな……わかった。着替えてくるよ」

 よっこらせと腰を上げると、唐沢は奥のほうへと歩いていった。

 感覚に意識を集中させると、鬼がこの付近から離れていったことがわかった。

 この研究所に居る生きた人間は自分たちだけではない。六角やディエス・イレの者たちもいる。彼らが注意を引けばそちらへ向かうのは当然のことだ。今なら下へ進むことが出来る。活動を再開するべきだろう。

「――ん……」

 可愛らしい声が聞こえ、何かが横で動いた。どうやら夏が目を覚ましたようだ。

「……ここは? 私……」

「君は鬼に襲われて気を失っていたんだ。大丈夫か?」

 そっと屈みながら彼女の顔を確認する。視点は定まっているため、取りあえずは何の障害もないようだ。

「そっか……思い出してきた。ここはどこなの?」

「常世国の下にある国の研究所だ。特殊な細胞を研究していて、それが理由でテロに狙われたんだよ。立てるか?」

「うん、ありがとう」

 截が手を伸ばした手をとり、彼女は立ち上がった。

 野園フロアのときのような狂気は感じられない。僅かだが睡眠を取ったことで落ち着けたのだろうか。截はちょっとだけ安心した。

「截、そろそろ鬼も居なくなったんじゃないか?」

 截とは違い完全なイミュニティーの制服に身を包んだ唐沢が、歩み寄りながら言った。頷くことでそれに答える。

「土竜の怪物との戦闘から三十分以上は経過した。東郷も鬼が開放されていないことに気がつく頃合だ。急ごう」

「はい、あいつが六角を殺せないのと同様、俺たちにもあいつを殺せる手段がないですからね。面倒なことになる前にさっさと逃げ切りましょう」

 紀行園で見た異常な怪力と常軌を逸した回復力。それを思い出し、神妙な顔で截は頷いた。






 先ほどから上階が騒がしい。頻繁に鬼の声が聞こえてくる。

「まだ生きてる人が居るのかしら?」

 パラパラと落ちてきた白い粉のようなものを見て、千秋が眉を潜めた。

「状況から考えて古谷が鬼化させたのは各班に一人ぐらいだろう。何とか逃げ切れた人間か居てもおかしくは無い」

 内回り廊下の手すりに腕を乗せ、友は上を見上げた。

 この常世国の隊員たちは、正直にいって未熟もいいところだ。一度仲間内に感染者が現れれば、確実に全滅するだろうと言える。この状況で生きて行動できる人間と言えば、自分たち以外に考えられるのはディエス・イレの人間か、黒服の『あの男』だけ。

 ――さとり……か?

 何となく、友はそう感じていた。

「国鳥くん。あと一階分降りれば研究所の最下層だ。しっかり頼むよ」

「ええ、分かっています。代表の身は必ず我々がお守り致します」

 機械的に友は答えた。

「上階の騒ぎのおかげで鬼の注意がここから離れている。今ならそれほど迂回しないで移動することが出来るはずです。一気に進みましょう」

 全員に声をかけるように言うと、それぞれが強いまなざしで見返した。六角だけはのほほんとした調子だったが。

 自分の言葉通り、奇跡的にほとんど鬼の姿も気配も無い。何の抵抗もなく階段までたどり着くことができ、とうとう一行は最下層へと足をつけた。

 きょろきょろと亜紀が周囲を見渡す。きっとブラックドメインへの入り口を探しているに違いない。友も鬼に気をつけながら辺りを観察した。

 最下層の中心には割れた大きな容器があり、そこから何かが上へ上っていったようだった。移動跡から考えると、既に研究所の内部には居ないだろう。天井のほうに大きな穴が開いている。

「フォルセティという実験体が居たんだが、テロに巻き込まれて暴走してしまってね。今頃上で生きた人間を探して徘徊していることだろう」

 どこか楽しそうに六角が言った。

「代表、ブラック・ドメインへの入り口は何処なんですか? なんか、見た限りそれっぽいのはないんですけど?」

 ずれた白いピンセットの位置を直しながら、雫が首を傾げる。優しそうな笑顔で六角はそれに答えた。

「ここの職員でも一部の人間しか立ち入りが許されていない場所だからね。普段は封鎖されているし、頻繁に開ける予定もないから隠し出入り口にしているんだよ。どれ、ちょっと付いてきたまえ」

 前方の皆を押しのけると、六角は反対側の壁際へと進んだ。そこには小さな制御盤のようなものがひっそりと置かれていた。最下層の設備を管理しているものというよりは、ブラック・ドメインへの扉を開けるための操作機なのだろう。六角が複雑なパスを打ち、静脈認証を終わらせると、アナウンスが周囲に響き渡った。

  『個人IDを確認致しました。ブラック・ドメインへの通行を許可します。壁際までお下がりになってお待ちください』

「下がるってどういうこと?」

 千秋が不思議そうに中心部を見つめた。

「さあ早く、みなこっちへ寄るんだ」

 六角が招くように全員を自分のほうへ誘導する。

 地響きのような音が聞こえ始め、地面が大きく揺れた。

 フォルセティの容器ごと最下層の中心部が持ち上がり、一階分の距離をゆっくりと上昇する。それに合わせて円を描くような複数の柱が現れ、何もない大きな窪んだ空間が目の前に広がった。深さ的には三から四メートルといったところか。上階へあがった最下層のプレートの分もあり、上下はかなりの高さがある。よく見渡すまでもなく、真向かいの位置に大きな金属製の扉が見えた。

「あれが、ファーストブラックドメインへの入り口……?」

 ごくりと唾を飲むように千秋が呟いた。

「一応様々な対策や隔離網はほどこされているが、ファーストブラックドメインは他のブラックドメインとは違って地下の原生生物がサファリパークのように放し飼いになっている場所だ。注意を怠らないようにしたまえ」

 一歩前に踏み出しながら、神妙な顔で六角がそう言った。

「このバイオハザードの影響で内部の生物が開放されている可能性は本当にないのですか?」

 敵はイミュニティーの本部ではなく、わざわざこの常世国を狙ってテロを起こした。当然、ファーストブラックドメイン、G.Cについても知っているはず。まず懸念しなければならない最優先事項として、友はその質問をした。

「テロリストがブラックドメインの中に僕より早く進入することは不可能だ。ここのシステムは電力供給も含めて上階とは完全に隔離されている。入れる人間も相当高位の者たちだけだし、その心配をする必要はない。この僕がテロリストを招きでもしない限り、中へ入ることなどありえないのさ」 

 ――なるほど、完全に上部の人間のみしか立ち入れない場所ということか。

 いくらディエス・イレといえども、セキュリティ観念の強いイミュニティーの幹部にまでは紛れ込むことは出来ないはず。友は六角の言葉にとりあえず納得した。

「さあ、中へ行こうか。君たちはツいている。ここから先は超VIP領域だ」

  六角はにやりと笑みを浮かべ、大げさに手を伸ばした。






 左右へスライドする分厚い扉の間を潜り抜け、地獄の領域へと踏み込む。

 そこは洞窟内にあるトンネルのような場所で、斜め下へ向かって坂が続いていた。

 六角の指示のもと、一行は備え付けられていたワイヤー式のリフトに乗り、ファーストブラックドメインの本地へと進んだ。

 最初は暗かったが降りるごとに光が強くなり、一番下へ到達したころにはショッピングモールと変わらないまでの明るさになっていた。

 普段人が寄り付かない場所なのに明かりを灯しているのか? と友は不思議に思ったが、それを察したのか六角が口を開いた。

「研究所最下層のパネルで通行認証を行うことで、自動的に電源が入り施設内のすべての設備が稼動するようになっている。普段は隔離網の電流を流しているだけだがね」

 ――省電力使用というわけか。随分とハイテクなものだ。まあ、リフトはちゃっちいが。

 友は関心する素振りを見せた。

 リフトから降りるとすぐにガラス張りの扉が見えた。左右の壁には無数の穴が開いている。恐らく殺菌ルームだろうと予想した。

 数人ずつそこを通過し、ファーストブラックドメインの本地へと入る。

 顔を上げると先ほどまでの細い道とは違い、一気に景色が広がった。  

「――すごい……!」

 千秋と雫がそろったように声を漏らした。

 大空洞。

 巨大な洞窟。

 一言で説明すれば、それに尽きる。

 全体的に見れば大きな広い空間なのだが、山岳地帯のように無数の岩場や突起物がそこかしこに立ち並び、まるでアメリカのグランドキャニオンにでも居るかのように錯覚させられる。これほどの規模の空間が全てブラックド・メインだとは、到底信じられなかった。

「水憐島のセカンドブラックドメインも、富山樹海のサードブラックドメインも、精々数立方メートルの大きさしかありませんからね。驚かれるのも無理はありません。イグマ細胞の濃度的にはその両方に劣りますが、研究場所としては最適な環境なんです」

 自慢げに秘書のさかきが解説した。

「発見初期とは違い、現在の通路部分のイグマ細胞は全て除染されているが、隔離網の向こう側は未だに当初の状態のまま保たれている。空気感染する危険はないとはいえ、液体中や岩の内部には多数の細胞がうごめいている。水を体内に取り入れたり、岩で傷を作れば、直ぐにでも感染者化してしまうだろう。一応研究やメンテナンス用の道はあるが、死にたくなければ絶対に網の向こう側へは出ず、そこから伸びているものにの触れるなよ」

 補足するように六角も言葉を続けた。

 普段の活動で感染の危険といえば、感染者からの接触経路だけ。しかし、ブラック・ドメインそのものの内部であるここは、存在する全てのオブジェクトにその危険がある。とんでもない場所へきてしまったものだと、友は背筋に冷たいものを走らせた。

「ここに存在するのは純粋なイグマ細胞のみなんですか? 感染者などは居ないんですよね?」

 心配するように雫が聞いた。だが、六角はその問いを直ぐに否定する。

「いや、実は十数人あまりの感染者が居る。発見時に犠牲になったものや、ここで研究を重ねていく上で不注意にも感染してしまった者などがな。経過観察や習性、行動を調査するために隔離網の向こうに解き放っている。それに加え、感染媒体を必要とせず単体で活動する生き物も何体か居る。富山樹海で確認された三本腕のような生き物がな」


「そ、その隔離網というのは信頼出来るんですよね?」

 今の話を聞き、いくら熟練の雫といえども危機感を抱かざる負えなかったのだろう。若干その顔色が青くなる。

「大丈夫だ。強固な材質の網柵だし、常に高圧電流と感染者が嫌いな薬剤を散布している。人為的な操作でそれが解除でもされない限り、隔離網の向こう側の生き物がこちらへやってくることはない」

「……そうですか。それを聞いてちょっと安心しました。この戦力でしかもこの地形で多数の感染者と戦うのは難易度が高すぎますからね」

 イミュニティーは周囲のものを武器として戦うことが多いが、この場には岩しかない。奥へ進めばきっと実験機器や観測機器もあるのだろうが、研究所内部のように簡単に武器として利用できる代物などほとんどないだろう。友は自分も同様の焦りを感じていたため、彼女の意見に共感した。

「それじゃあ、さっさと高速エレベータを目指しましょう。こんな場所一秒でも長く居たくないです」

 意気込むように雫が先頭に出る。それと同時に、『ガチャッ』という金属音がどこかで鳴った。

「え?」

 かなりの大きさだったため、千秋も怪訝そうに声を漏らす。

 続いてモーターが回るような流動音が響き、甲高い停止音が聞こえたあとに、周囲は一気に無音へ戻った。

「今のは……一体?」

 千秋の顔が一瞬にして緊張に包まれる。

 友も嫌な予感しか感じなかった。

「……まさか……そんなバカな……!」

 心底驚いたように、六角が目を見開いた。その手は僅かに震えている。

 それは演技でもなく、本当に動揺しているように見えた。

「六角代表? どうしたんですか?」

 聞かずとも何となく予想はついているが、反射的に呼びかける。案の定、帰ってきた答えはみなを絶望させるには充分なものだった。

「今のは、今のは……隔離網の電源が、切られた音……だ」

 遠くのほうで何かの雄叫びが複数響く。

 どうやら、想像できる上で最悪な状況になってしまったようだと、友は悟った。







 高速エレベータ前。柵に囲まれたその台座の上に腰を下ろしながら、全身を真っ黒な服に包んだ男が遠く、ブラックド・メインの入り口付近を見つめた。

 まるで少女のような笑い方で静かに笑みを漏らす。

 クスクス、クスクスと。実に楽しそうに――。







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