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<第二章>再会



 男が注射器を打ち込むなりに、千秋は亜紀の手を引き、駆け出した。

 いきなり引っ張られたにも関わらず亜紀は素直に彼女に従って走る。

 本能的に理解したからだ。

 危険だと。

 あの男に近付くべきではないと。

 富山樹海で受けた精神的な傷の影響か、亜紀の感覚は事件前よりも遥かに優れたものとなっている。あの男の気配が三年前に見た「悪魔」のものに近いことを、何となく察知していた。

「そんな、前にも……!」

 出口を一目散に目指していた千秋は、一階へと続くエスカレーターの前に先ほどと同じような空気を纏った人間を発見し、顔を曇らせた。

 しかもその男は体を変形させ始め、化物へとかなり近い姿になっていた。

 ――何、あの赤い奴……見たことない!?

 悪魔、怪女、大口人間、魚人、狂人……千秋は大量感染の危険がある生物の情報は全て事前に学習していたが、目の前の生物の外見はそのどれとも違っていたため、警戒心を強めた。

「亜紀ちゃん、こっち!」

 慌てて体を反転させ、別のエスカレーターを探す。

 今の自分は何の武器も持ってはいない。しかも亜紀という保護対象を抱えているのだ。到底あの鬼には勝てないと判断し、千秋は逃げることを選んだ。

 こちら側の二階は鬼に挟まれたような形になってしまったため、向かい側の二階へとH字型通路の上を急ぐ。背後から他の人間に押されようとも、突かれようとも、千秋は決して亜紀の手を離さなかった。

 感染者は亜紀のトラウマそのものだ。彼女が自分を見失うことは死刑宣告にも等しい。そう理解していたから。

 だが、亜紀は他の一般客と比べるとかなりの冷静さを保っていた。

 彼女が声を失った原因には悪魔に対する恐怖も勿論あったが、一番の理由は目の前で自分の仲間を殺されたからだ。いうなれば、截、安形、友が抱えている心の闇と全く同じものを彼女も抱えていた。

 戦う能力のある彼らとは違い、亜紀はただ逃げる事しか出来ない。無様に叫ぶことしか出来ない。その悔しさが、無力感が、三年前に悟という仲間を見殺しにした責もあり、彼女に無意識のうちに己の声を封じさせたのだ。

 ――あっ……!

 反対側に橋を渡りきった所で、亜紀は今にも鬼に襲われそうな少年を見つけた。

 危険だと分かっていないのか、それとも恐怖で足がすくんだのか、口を開いたまま感染者と化した男の顔を見上げている。

「亜紀ちゃん――!」

 いきなり亜紀が腕を振り切り、出入口とは全く別の方向へと走り出したため、思わず千秋は大声を出した。

 亜紀は一応、友の伝手つてを使って護身術や感染者に関する十分な知識を持っている。しかし、立場が保護対象ということが災いし、まともな戦闘訓練は一切受けていない。あの鬼のような感染者と対峙すれば亜紀がすぐに殺されることは目に見えていた。

 既に大分感染が進行したらしき鬼は、目の前にちょこんと立っている小学生低学年くらいの少年を視界に納めると、己の本能のままに腕を伸ばした。

 ようやく少年も回避行動に移ったが、鬼の速度の方が圧倒的に速い。すぐに首を掴まれ一メートル近く持ち上げられた。

「あっ……ぁぁああ……!」

 痛みと、恐怖からか、少年はパニックに陥り、涙を流した。どれだけ頑張って鬼の手を解こうとしても、力の差は歴然でその指はピクリとも動かない。

 血管が縦横無尽に走っている鬼の顔が近付き、鼻に鉄のような、腐ったみかんのような臭いが届く。

 少年の意識が飛びかけたとき、鬼の腰に強烈な力で何かが当たった。

 鬼と、少年と、その腰に当たった何かは、同時に床の上に倒れ込む。少年が顔を上げると、目のくらむくらい綺麗な女性がそこに倒れていた。そう、亜紀だ。

 鬼にドロップキックをかました亜紀は、自分を見つめる少年に早く逃げるようにと手振りで示す。その動きに気づいたのか、少年は服の袖で涙を拭き、慌てたように出口を目指して駆けて行った。

 ほっと一安心したのもつかの間、亜紀は前の方に倒れている鬼が動いたのを感じ、素早く立ち上がり、逃げようとした。

 しかし、それよりも早く鬼は跳躍し、亜紀を叩きつけるように押し倒す。

 声が出ない亜紀は顔だけを歪め、痛みに耐える。

「ザァァァアアアア――!」

 鬼は獲物を拘束したことで嬉しそうに大きな声で鳴いた。

 ――「十秒感染」。

 その言葉が、亜紀の頭に過ぎる。

 一刻も早くこの化物の下から離れなければ、自分は人間ではなくなってしまう。かつて見たことのあるその感染状況を思い出し、ぞっと身震いする。

「亜紀ちゃん!」

 やっと千秋が追いついた。鬼は額に汗を浮かべ自分を睨んでいる千秋を見ると、興味がなさそうに亜紀に目を移し、その口を亜紀の喉へと近づけていく。

 もがく亜紀を強引に押さえつけ、その柔らかい白い肌に赤い筋を刻み、鬼は己の欲を満たそうとした。

 もう一刻の猶予も無い。千秋は目に付いた飲食店の看板を両手で持ち上げると、それを全力で鬼の頭へと叩き落とす。

 看板は風を切り鬼の後頭部へと接近した瞬間、赤灰色の腕によって防がれた。

「え、ガードした!?」

 知能の低い感染者は、攻撃を避けることはあってっもガードなどは絶対にすることがない。

 自分の知識に反する目の前の異常な生き物に、ただ千秋は呆然とした目を向けることしか出来なかった。

 ――や、ヤバい……!

 もう時間が無い。鬼を自分の力で退かすことが出来ないと判断した亜紀は、千秋だけでも逃げるようにと手を前に振った。このまま自分が感染したら、いくら千秋でも逃げ切れない。そう思ったから。

「亜紀ちゃん――……!」

 千秋も亜紀の意図を悟る。自分の実力ではこの鬼に勝てないことは分かっているし、亜紀の拘束も解けない以上、一番ベストな選択は逃走だ。鬼は別の獲物である自分が目の前に居るにも関わらず、決して亜紀の上から退こうとはしない。そのことからも千秋はこの感染体が非常にずる賢いことを理解した。

「ごめん……亜紀ちゃん」

 悔しそうに、千秋は拳を握りしめる。

 自分が気分転換にとこんな場所に連れてこなければ、亜紀がこんな目に合うことは無かった。

 「頼んだ」と友に言われたはずなのに、守ると誓ったのに、感染者をその場から動かすことすら出来ない。

 あまりの無力さに涙が浮かぶ。

 だが、それでも千秋は逃げようとはしなかった。もう間に合うわけがないと、再び防がれると分かっているのに、それでも看板を持ち上げる。

 それは維持か、プライドか。

 自分の身が危険になることにも構わず、千秋は看板を振り下ろした。

 ――早く逃げて……!

 吹き飛ぶ看板を見ながら、亜紀は千秋の身を案じ、心の中で叫んだ。








 亜紀が鬼に押し倒されてから六秒が経過した頃。

 その黒いレインコートを纏った男は、ようやくエスカレーターを上がりきり、二階へと到達した。

 数メートル先で争う二人の女性と、一体の赤灰色の怪物を目視し、両手を腰に当て、己の唯一の武器を引き抜く。

 禍々しいデザインの刃を持った、黒い柄のナイフ。

 シンプルで美しい刃を持った、白い柄のナイフ。

 その二本を音も無く構える。

 鳥の羽ばたきのように、猫の跳躍のように、自然で無駄の無い動きで。

 鬼がその男の姿を見つけたときは、丁度千秋が一度目に看板を振り下ろした直後だった。

 男の姿に気を取られた鬼は、看板をもぎ取ることも、弾くことも忘れ、得体の知れない危機を感じ、その男だけに注意を注いだ。

 再び千秋が看板を振る。

 ――邪魔だ。

 鬼はそう思った。

 お前などに構っている暇はないと、迷惑な障害物だとでもいうように。

 男に視線を合わせたまま、千秋の看板を腕の力で弾き飛ばす。

 そして自分の下にいる亜紀と千秋の顔に絶望の色が浮かんだ瞬間、鬼は素早く後方へ飛んだ。

 直後に鬼の頭があった位置の空間が鋭く裂かれ、一陣の風が吹く。

 それは今鬼が跳躍ちょうやくしなければ、首を一薙ぎに斬られていたことを意味した。

 





 ――何だこいつは――!?

 「感覚」で自分の攻撃が当たらないことは分かっていたが、これほど巧みに、素早くかわされるとは思ってもいなかった。

 レインコートのフードから鋭い目の光だけを覗かせ、截は背中に冷たいものを感じる。

 この赤灰色の鬼は本能のままに獲物にかぶりつくこともせず、自分を警戒し、その危険度に気がついた。明らかに普通の感染者とは一線を駕している。

 まともに戦えばかなりの苦労を伴うだろうと、截は直感で理解した。

 鬼に注意を向けたまま左腕に黒柄ナイフを移し、下に倒れていた女性の腕を取る。そしてその顔をはっきりと見た。

 かつて共に樹海内で行動した仲間――吉田亜紀の顔を。

 ――……見間違いでいて欲しかった――

 亜紀の姿を確認し、截は暗い、それでいて嬉しく、悲しい、複雑な感情を抱いた。

 亜紀の位置からはフードの影が邪魔をし、截の顔がよく見えない。

 自分を助けてくれた人間が截、曲直悟まなせさとりだということにも気づいてはいない。

 ただ、どことなく懐かしいような、暖かいような、そんな気持ちを亜紀は感じた。

「早く行くんだ」

 なるべく低い声を出しながら、截は亜紀を千秋の方へと押した。

 イミュニティーにいることも、友の人質となっていることも知っていた。

 だが、まさかこんな場所で、こんな事件の最中に再会するとは夢にも思わなかった。

 死んでいるはずの自分が目の前に現われれば、彼女に大きなショックを与える。

 そう考えた截はえて正体を隠し、すぐに亜紀を遠ざけようとした。

 亜紀は一瞬口を開いて「ありがとう」と言いかけたが、そこから音が出ないことに気がつき、ぺこりと小さくお辞儀をすると、黙って千秋の横に付いた。

 ――元気そうで良かった。

 亜紀の挙動を怪訝に思いながらも、その変わらない姿に安堵する。

 截の中でのイミュニティーの印象はかなり悪く、すさんでいる。だからこうして彼女の元気な、健康そうな姿を見ることができてほっとした。

 ――あのナイフ……黒服――!?

 イミュニティーの正規隊員である千秋は、截が握りしめているナイフを見てすぐに彼が黒服の会員であることを見抜いた。

 ――何故ここに黒服が? 

 截の存在に、疑問の目を向ける。

 彼がディエス・イレ側か、イミュニティー側で自分たちとの関係は大きく変わる。今助けられたことを考えるとディエス・イレ側は薄いと思ったが、確証は出来ない。

 千秋は截の立ち位置がはっきりするまで、自分がイミュニティーの隊員であることは伏せておくことにした。

 今自分たちにとって一番大事なことは安全な場所への避難だ。截の指示通り、出入口に向って走り出そうとする。だが、そこで起きている現状を見て落胆の表情を浮かべた。

「ここからじゃ、逃げられないわ……!」

 思わずそう呟く。

 截がくいっと首をかしげ背後に視線を走らせると、逃げていった大多数の人々が饅頭のようにくっ付き、出入口の前に固まっていた。あれでは出入口まで無事に辿り着けても、外に出る前に鬼に殺されてしまう。

 イミュニティーは水憐島事件の反省からか、テロが起きたときはまず最初に職員の安全確保、感染拡大の阻止を行うようにと方針が変わった。截たちがそこを見ていると丁度タイミングを合わせるかのように警報が鳴り響き、入口のガラスに分厚い、どう見ても鋼鉄製のシャッターが降りた。

「な、そんな! ふざけんじゃねぇよ、出せよ、出せぇええ!」

「開けて、開けてぇ、開けてぇー」

 集まっていた人々は必死に叫んでシャッターを叩くが、全く効果は無い。その苦労は、ただ自分たちの手を傷つけるだけで終わる。

 ――閉鎖が早すぎる……!

 まだ逃げられる猶予があると思っていた千秋は、さすがに顔を青くした。これでは、鬼が大量に暴れ回る檻の中に放り込まれたエサも同然だ。

「ザァアアアア……」

 状況を理解でもしたのか、三人の前に立っていた鬼が嬉しそうに声をあげる。

「くそっ、こっちだ……!」

 出入口付近の人波に引き付けられ、目の前に居た鬼の後ろに、さらに三体の鬼が現われる。

 このままここに居たらやられる。そう思った截は、二人の手を引くと、エスカレーターの方へと走り出した。

 ――イミュニティーの施設にある店は災害時に備えて全て強化ガラスで出来ている。いくらか立て篭もれるはずだ……!

 だが当然、鬼たちもそれを許そうとはしない。三人が逃げ出したのを見ると、四足になり、物凄い速度でそのあとを追い始めた。









 地下研究所。ここは今、ディエス・イレの潜入者の手によって上と劣らぬ大パニックになっていた。

 ホールでパニックが起きると同時に職員に扮していた彼らは、自分たちの身を省みることもなく制御盤に駆け寄ると、全調整槽のロックを解除した。

 円柱状に並ん調整槽は一階、二階、三階と三段にわたって縦に設置され、下方に行くほど重要な生物が収容されている。

 制御盤は二階の吹き抜けとなった台座の上にあり、ディエス・イレの者たちは操作を終わらせると同時に背後から職員に攻撃され、死亡した。

「おい、不味いぞ! すぐにロックをはめ直せ」

 潜入者の亡骸からナイフを引き抜き、そのイミュニティーの職員は慌ててこのエリアの中央へと視線を走らせる。三段に並んだ水槽はそれぞれ白い蒸気を吐き出し、今にも蓋がスライドしそうだった。

「急げ、急げ、急げぇ……!」

 その男の横に立ち必死に制御盤を操作しながら、白衣を着た職員がぶつぶつと呟く。この研究所の副主任であり、唐沢の右腕、小野寺辰見おのでらたつみだ。

「くそ! 何か細工をされている。一段一段ロックをしなおすしかない」

 頬から大量の汗を流し、両手の指を蜘蛛の足のように素早く動かす。

「三段目再ロック完了……二段目再ロック完了……」

「早くしろ、あいつが目を覚ましたぞ!」

 イミュニティーの職員が最下層、一段目にある唯一の、大きな水槽を指差して叫ぶ。それは一段目の中央に置かれ、まるでロケットの発射台のように複雑な台で囲まれていた。

「三段目際ロック完りょ……」

 白衣の男が最後の入力を押しかけたとき、その水槽の蓋が吹き飛んだ。

 ぶわっとエリア中に水槽から放出された白い煙が広がる。

「おいおい……マジかよ……!」

 イミュニティーの職員は震える腕で口を押さえた。

 前面が無くなった水槽から、ゆっくりと『それ』の腕が伸びる。

 ゴム手袋のような質感のその大きな二本の腕は、水槽の淵を掴むとそこを支点にし、本体である体を持ち上げた。

 白い煙の中央から優雅に、悠然とした動きでそれは姿をさらけ出す。

 顎の下でクロスするように生えた薄茶色の長い髪。豊満な胸の横にある肩と、腰から伸びた二本の下腕部に支えられた、左右それぞれ一本の上腕部。大きなスカートを穿いたような下半身は、その裾に地面と水平に円を描くような歯が並び、ぐにぐにとうごめいている。

 そしてそれらを含めた全身は全て、垂直に列をなした、糸のような触手がついた針で覆われていた。



挿絵(By みてみん)




「『あれ』が出てきちまったぞっ、すぐにこのエリアを封鎖しろ。六角代表には俺が連絡する」

 イミュニティーの職員は小野寺にそう指示を出すと、一目散に後ろに走り出し、台座から降りると二階の扉を開けてその場から姿を消した。

 小野寺は言われた通りにしばし制御盤を弄ったが、先ほど水槽の再ロックをしたときと同様、何故かシステムが不調をきたし、思うように操作することが出来ない。

「くそっ、ウイルスを入れられたのか! これじゃあ、俺には対処の仕様が無い……!」

  小野寺の専門は生物学だ。生物の調整を行うために一応のPC知識を持ってはいるが、それはあくまで一般教養程度。コンピュターウイルスとなると完全に専門外となってしまう。

 そうこうしている間にも、水槽から出てきた二メートル近い怪物は二階の手すりに腕を伸ばし、上方へと向かい始めた。

「あぁあ……やばいぞ――……!」

 小野寺はただ呆然とその一部始終を眺めることしか出来なかった。









 駆け込んでいく人々の姿が見える。

 一階ホール中央付近の左の壁際。目の前の洋服店を視界に納め、截は必死に二人の背を押した。

「あそこに駆け込むんだ、早く!」

 背後からは三体の鬼が自分たちの数メートル後ろに迫り、今にもその黄色く濁った歯を赤い肉に食い込ませようと声をあげている。

 截は「感覚」からあの鬼たちの危険度は、純粋イグマ細胞の感染者である悪魔の第二形態と同等レベルだと感じていた。自分一人でも一対一の戦いは手に余るし、こうして亜紀と千秋を庇いながら、しかも三体も相手にするのは分が悪すぎる。

 だから極力戦闘は避け、逃げに徹することにしていた。

 先に入り込んでいた人々が扉を閉めようとする。それを見た千秋は、必死に声を絞り出した。

「待って、まだ居るの――!」

 だが、恐怖に支配されている彼らは当然その言葉を聞こうとはしない。何せ截たちを追っている三体の鬼に加え、さらに左側からはこちらに向って逃げてくる別の集団と、それを追う二体の鬼がいるのだ。「まともな」人間ならば彼らがここに辿り着く前に扉を閉めることは、至極当然の反応だった。

 ――間に合わない……!

 このままでは自分たちが辿り着くまえに扉を閉められる。そう思った截は、洋服店の扉を閉めようとしている店員らしき若い男の腕目掛け、近くに落ちていた缶ジュースを全力で投げつけた。

「いでぇっ!?」

 まだ蓋の開けられていない缶ジュースの強度はかなり硬い。店員の男は声を漏らすと咄嗟に腕を扉から放した。

 その隙に截たち三人は店内へと侵入し、左方向から走ってきていた集団も雪崩れ込むようにその後に続く。

「何してんだ、閉めろ!」

 店員が扉から手を離したことに気づいた男性の一人が、截や他の者たちが走り込むと同時に怒鳴った。

 それを聞いた店員は慌てて扉のノブを掴み、内側へと引きつける。鬼たちが飛び込もうとしていたまさにその瞬間、洋服店の扉は閉まった。

 そう、一時的には――

「こ、こいつ……ノブを開けようとしてやがる!」

 扉をしめると同時に鬼がノブを掴み、引きあけようとしたため、店員は顔面を蒼白にして必死に扉を引っ張った。だが力の差からか、当然鬼に一人の一般男性が叶うわけはなく、その隙間はどんどん開いていく。

「みんな引けー!」

 先ほど店員を怒鳴ったガテン系の男が、慌てて扉に走りよりそのノブを握る。その声に最初にここに逃げ込んでいた人々は急かされ、みな一気に扉まで走りより、店員や男の体、ノブを掴んだ。

 この人数にはさすがに勝てなかったのか、扉の前にいた鬼は力負けし腕を滑らせノブを放してしまった。店員は目を血走らせ荒い息を吐きながら急いで扉の鍵を閉める。

 鬼は再び扉を開けようとしたが、流石に鍵を破壊するまでの力は無かったらしく、いくら引いてもその扉が開くことは無かった。

「た、助かった……!」

 ぜぇ、ぜぇ、と満身創痍の兵士のように、店員や集まっていた人々が安堵の溜息を吐く。

 総勢五体の鬼はしばらく強化ガラスの向こうからこちらを睨みつけていたものの、他の生存者に気を取られたのか、興味が無くなったのか、数分後には目の前から離れていった。

 これで取りあえずは身を守ることが出来た。

 若い店員の男は、黒いカーテンを引くと、ホールから店の中が見えないように隠した。

 何が起きたのかは分からないが、ここに立て篭もっていれば大丈夫。

 安全だと自分に言い聞かせる。

 扉の周りにいた人々も胸を撫で下ろし、そこから離れようとした。

「きゃぁあぁあぁあ!」

「うぉおお、何なんだよこれぇえ!?」

 いきなり今度は店の中からそんな声が響く。

 床に座り込んでいた亜紀が目を向けると、指先からその付け根にかけて手を赤灰色に染めている男がいた。清掃員だったのか、水色のジャージのような服を着ている。

 男の横に立っていたOLらしき女性はその手を見た瞬間、喚き声を上げ、一気に男から離れた。

「た、頼む、誰か助けてくれ――こいつを取ってくれぇよぉ!」

 清掃員の男は感染した右腕を左腕で持ち上げ、まるで自分の手を見せびらかすかのように、周囲の人間に目を向ける。だが、誰一人男に近寄ろうとはせず、次第に侵食範囲の多くなっていくその腕を恐々とした表情で見つめた。

「あ、開けろ! あいつ多分外の奴らと同じ化物になるぞ!」

「殺してっ、殺してよ!」

「た、助けてくれ……!」

 それぞれが顔を引きつらせて出口や部屋の端へと恐ろしい速度で離れる。絶望した清掃員の男はその腕を抱えたまま、土下座するように座り込んだ。

 ジャリッ――

 耳に靴の音が届く。

 今の自分に一体どこの誰か近付いたというのだろうか。

 清掃員の男は潤んだ目を上に向ける。

 その瞬間、黒い刃が眼前を素早く走った。

「え?」

 血が弾き飛ぶ。

 右に、左に、上に、下に、床と服を濡らし、男の周りを赤く染める。

 清掃員は自分の前に立っている黒いレインコートを着た截と、彼が持っている黒柄ナイフに視線を合わせた。

 そして、その流れのままに今度は自分の腕へとその向きを変える。

 ついさっきまで後生大事そうに握っていた右手首の上半分が、綺麗さっぱり目の前から消えていた。

 数十センチ先の血溜まりの中に無造作に転がっている。

「うっ――うぉぉぉぉああぁぁああぁああ!」

「動くな。今止血する」

 壮絶な苦しみの声をあげる清掃員とは打って変り、寒気がするほどの冷静な声で截はそう言った。

 清掃員を遠巻きに見ていた人々は、突然男の手首を切り飛ばしたこの怪しいレインコートの人間を恐怖と、不安と、混乱を持った目で見つめる。

 そんな彼らの視線には目もくれず、截は男の上腕部を携帯していた包帯のヒモで縛った。

「誰か、手伝って下さい」

 清掃員の腕を高く持ち上げたまま後ろを向くが、誰も動こうとはしない。

 截はそんな彼らの反応にも特に表情を変えず、作業の続きを始めた。

 ――動脈には当たらないように斬ったが、やっぱり血が止まらないな。感染を食い止めるためとはいえ、このままじゃこの人は持たない。なるべくすぐに安全な場所に移動させないと。

 清掃員の男の切断面にハンカチを押し当て、包帯の残りで圧迫する。

 しかしそれでも血が止まらなかったため、顔を曇らせた。

「ちょっとどいて」

 いつの間に隣に来ていたのだろうか。

 千秋は鞄の中から糸と針を取り出すと、そういって截を横に退かした。

 亜紀の保護という任務についている千秋は、元々は隊員の応急治癒が役目だった。その所為か、いつもこうして鞄の中に医療道具をしのばせ、例え仕事に関係しない場所でさえも持ち歩くことが癖になっていた。

 手際よく男の止血を終わらせ、傷口をライターにかけた針で縫うと、千秋は足を伸ばし、自分のストッキングを脱いだ。そして右足の部分を太股の所で切ると、足先とは反対の方向に切り込みを入れる。

 スカートがめくれることも関わらず、そういった動作を手際よく終えると、千秋はその切り取ったストッキングの男の僅かに手首の残った腕へと回し、両端を引っ張って手首が頭の方に向くようにしっかりと肩に結んだ。

「これで、しばらくは大丈夫なはずです」

 大量の汗を流している男に安心させるように微笑み、そっとその背に手を置いた。

「あ、ありがとう……」

 処置に安心したのか、清掃員の男は青白い顔で千秋に礼を言うと、そのまま気絶した。

 截は応急手当が終わったことを見届けると、千秋の顔を不思議そうに見た。

「私……看護学校の学生なの。驚いた?」

 フードの置くから覗く怪しむような視線に気づき、そう教える。

 それで満足したのか、截は何も言わず手に握っていた黒柄ナイフを腰に仕舞った。

 ようやく冷静さを取り戻したのだろうか。一部始終を見ていた生存者たちは、截が仕舞った真っ黒なナイフを見て次々にひそひそ話を始める。

 ――参ったな……。

 截は注目を集めてしまったことを悔いながら、そっと清掃員の男から離れた。

「何だあいつ、フードなんか被りやがって……」

「もしかして、外にいたあの鬼になった奴らの仲間なんじゃない?」

「怖いわ……!」

 洋服店の中を歩く間に、そんな声が聞こえてくる。

それは壁際まで移動し、座り込んだ後でも変わらなかった。









 バイオハザード発生。

 そのニュースが六角行成に届いたのは事件発生から五分後のことだった。

 自分のオフィスにいた六角は内通電話からそのことを知らされた。

「――分かった。すぐに僕は避難する。ここの指揮は君が取りたまえ。本部への救援要請も頼んだぞ。それと、僕が乗るはずだった機体はまだヘリポートにあるのか? ……そうか、よし、それじゃあこれから上に向う。……ああ、頼んだよ。あとは任せた」

 警備主任の部下に事件発生中の全権限を任せ、自分は脱出することを伝える。そして電話を切ると同時に秘書に向き直った。

「恐らくディエス・イレの襲撃だろう。僕を狙ったのか地下の施設を狙ったのかは定かではないが、既にホールでかなりの犠牲者が出ているらしい。君は今すぐに重要な資料をまとめて僕についてきなさい。三分後にここを離れる」

「は、はい、直ちに……!」

 秘書が小走りで部屋の中を走り回っていると、オフィスの扉が開き、警備の男が二人中に踏み込んできた。

「六角代表。急いで下さい。時間がありません」

「時間が無い? 敵はホールに居るんだろ。ここからヘリポートまでの道は安全なはずだ」

「それが……実は少々不味いことになりまして……」

 警備の男は困ったように眉を寄せる。

「ホールの連中とは別に内部に潜入していた者たちが二、三人居たようで、そいつらが研究所に攻撃をかけたんです。こちらはホールのバイオハザードに気を取られていたので、完全に不意をつかれ……」

「まさか、地下施設が落ちたのか!?」

「いえ、その者たちの鎮圧は済んだのですが、その騒ぎの影響で地下の実験層にいた例のあれが……」

 その先は聞かなくても分かった。

「そうか、どうやら敵はかなり念入りに計画をしていたようだな。確かに時間はなさそうだ。いつここにも攻撃が来るか分からない」

 地下研究所への潜入が行われていたということは、自分のオフィスの場所も、移動範囲も全てスパイから敵に伝わっているということだ。六角は頭を抱え秘書を呼んだ。

「資料は全て集めたか、行くぞ」

 秘書は機密に関わる重要なファイルを自分の鞄の中にわんさかと詰め、なんとか頷く。それを見た六角は警備員と共に歩き出した。

 出来るだけ早く上へ行くために。

 地獄と化したこの場所から離れるために。

 だが、先頭を歩いていた警備員が廊下を曲がった途端、突然赤灰色の化物に圧し掛かられ、床の上に倒れた。

「ザアァァアアァア!」

うあぁあぁああっ、な、何だこいつは!?」

 警備員の男は喚きながら腕を振るが、鬼の力は彼の筋力よりも遥かに強く、簡単に組み伏せられてしまった。

「ここはもう駄目だっ――六角代表、こちらへ!」

 ヘリポートへの階段がすでに感染者の手に落ちたことを知ったもう一人の警備員は、自分の同僚の首がえぐられ、血柱を立ち上らせているというにも関わらず、六角の身だけを案じて来た道を戻る。それは別に非常でも、感情が無いからでもなく、それが彼の任務であり、役目だったからだ。

「何て早い感染速度だ。この管理区域まで既に入り込んでいるとは……!」

 背後で響く断末魔を聞きながら、六角は冷や汗を流した。

「先ほど研究所で起きた騒動と同様、ホールの騒ぎの隙にあちらこちらでイグマ細胞が撒かれているようですね。恐らく、ヘリポートまでの道は全て連中に狙われているはずです」

「――仕方が無い。ならば隊員の詰め所だ。あそこならばイミュニティーの仲間も多くいるし、装備や食料もある。しばらく救助がくるまであそこに立て篭るしかないな」

 普段は物静かなこの管理区画のあちらこちらから悲鳴がとどろく。六角はそんな声を聞きながら、どうやって敵がここまでの侵入を可能にしたのか理解に苦しんだ。

 ――ディエス・イレの壊滅から僅か二日。奴らの強襲計画の内容は全て手に入れたし、こんなテロの情報は無かった。まさか……あの情報が囮だったとでも言うのか?

 いくら考えても答えは出ない。今はとにかく生き残る。無事にこの常世国から脱出することの方が重要だ。六角行成はそう考え直し、頭に浮かんだ疑問を掻き消した。










 ホールから裏町街を目指し、憩いの広場へと足を踏み入れた直後。

 唐沢は押し寄せるように後方から現われた人の波に呑まれた。

「うがぁっ――な、何だ!?」

 血相を変えてここから遥か数エリア先、北東の第二出口を目指す彼らを見つめ、ただなすがままに流される。

「唐沢さん!」

 一緒に行動していた住岡はこの騒ぎで大きく離れ、いつの間にか遥か前方に姿が見えた。

 ――何か起きたのか!?

 嫌な予感がした唐沢は何とか左へ、左へと進み、広場の端に移動する。

 そしてやっとのことで人波から抜け出ると、事態を把握するために携帯電話を取り出し、信頼する部下である小野寺へと通信を繋いだ。

「あ、小野寺か! 上は凄い騒ぎになっているんだが、これはどういうことだ?」

 ぎゃーぎゃーと周囲がうるさいため、怒鳴り散らすようにそう言う。

 小野寺の声も良くは聞こえなかったが、ディエス・イレという単語だけは聞き取れた。

「テロか――ってことは今頃ホールは血の海だな。分かったすぐに地下に戻る。下は大丈夫なのか?」

 今頃研究所ではイミュニティーの隊員たちが対策本部を作り、早急な事態の解決法を練っているはずだと、そう考える。

 だが、唐沢の耳に飛び込んできた言葉はそんな明るいものではなかった。

「なっ、フォルセティが脱走した!?」

 自分の研究の集大成。

 地下研究所の要。

 数時間前に研究資金の続投を認められたばかりの研究成果の脱走にわが耳を疑う。

「そうか、あいつはこっちに向っているんだな!? あそこから一階に出るにはパーティー会場の非常階段を通るしかない。――分かった。俺はこれから近くの警備員をまとめ上げ奴の進行を食い止める。あいつは『怪我人』さえいなければ人に害を与えることは無い。奴がホールに辿り着く前に何とかして捕獲する。そっちはお前に任せた」

 長年の研究を、自分の集大成を、こんな場所で、こんなテロで無駄にして堪るか。唐沢はそう決意した。

「住岡、ここらの警備員をできるだけ集めろ! パーティー会場に向う」

 ようやく数メートル先まで戻ってきた住岡に、そう叫ぶ。

「はぁ?  さっきの場所に? 何でだよ」

 まだ何が起こっているのかさっぱり理解していない住岡は混乱しきった表情で唐沢に叫び返す。

 だが、既に唐沢は走り出しており、そこにはもう姿が見えなかった。







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