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<第十七章>水土竜(ティュフォン)



 水柱が爆発するように立ち上る。

 波が壁へ突き進む音が地下水路全体にとどろく。

 唐沢を引き上げようとしたまさにその瞬間、土竜もぐらのような姿をしたディエス・イレの怪物が勢いよく発進した。

 張り巡らされた触手の力を使い、その反動で体を前へと押し出す。大砲の弾よろしく飛び出した怪物は瞬く間に截の眼前へと迫った。

 截は壁を蹴った後の触手の動きを見た。役目を果たしたその凶器たちは、次なる足場を求めその先端を延ばしている。夏を寝かせている窪んだ場所付近ならともかく、この狭い通路で自分たちにあれをかわせる場所など皆無。どこへ逃げても直撃する。

「くそっ!」

 視界の中で猛烈にその大きさを広げてくる怪物を意識しつつ、截は唐沢の腕を掴んだまま自分の体を大きく後ろへ傾けた。その間も怪物は迫り続ける。

「このっ――!」

 渾身こんしんの力を込めて腕を引く。噴出すように唐沢の足が通路に乗った直後、怪物の頭が真横に到着した。

「ぐぅぉおおおおおっ!」

 息を整える暇も無い。唐沢が低音の唸りをあげ勢いのまま床を蹴る。足を前に飛ばし截は声を荒げた。

「これじゃあ、倒しようがない、何かいい案はないんですか?」

「無茶を言うな! 逃げるだけで精一杯だ。あいつが止まっているならともかく、こんな至近距離じゃどうしようもないだろ」

 怪物の咆哮が再度地下水路を満たす。二人の背中を狙うようにして、その巨大な両足の爪が水面を割った。

 このままでは怪物の目標地点、常世国西側との隣接壁まで何の手も打つことが出来ない。そしてその行き止まりまで行けば、どっちみち自分たちの負けだ。怪物は壁を粉砕し続け、外とのへだたりを消し去ることだろう。

 ――ナイフじゃいくら頑張ってもあいつには届かない。飛び乗ろうにもそんな暇もないし……

 怪物が水路の中ではなく広間にいれば、動き出す前なら、戦い様もあった。しかしこうなってしまっては完全に打つ手がない。五分以内に倒すなど夢のまた夢だ。截は正直、勝つのは無理だと思い始めていた。



 汗を滴らせ、腕を全力で前後にふりながら、唐沢は何とかしてこの状況から逃れようと頭を回転させた。

 怪物の形状、今自分たちがいる地形。それらの情報を高速で認識し、まとめ、必死に策を練る。

 まず思いついたのは水面に浮かぶ油の利用。ここは長い間利用されていない水路。地上から流れ込んだ排水や不法投棄されたゴミなどが無数に溜まり、浮遊油にも似たものがたくさん浮かんでいる。それに火をつけることが出来れば妨害にはなるはずだ。

 ――いや、駄目だ。

 今思い浮かべた考えをすぐに自分で掻き消した。

 オイルなどがそのまま流れた場合とは違い、このスカム同然の浮遊油では引火能力がほとんど無い。それに火をつけられる手段といえば懐に入っているライターだけだ。とてもじゃないが怪物を止められるほどの炎は起こせないだろう。

 ならばと、前方の水中に目を凝らした。来るときも何度か目にしていたが、この水路には所々に両端の歩道を繋ぐための橋が張り巡らされている。元々壁を破壊するために持ち込まれた怪物にどこまで影響するかはわからないが、あれの上を通過するときはいくらか動きが鈍くなるかもしれない。どうやればいいかは分からないが、その隙に何か手を打つしかない。自分の命を、この街を救うために、唐沢は必死に頭を回転させた。






 研究所の中は各階が円を描くような構造になっており、吹き抜けとなっている中心と最外部には絶えず先が歪曲している廊下がある。普段は多くの研究員がこの二つの廊下を軸に移動しているのだが、災害が発生してしまった現在、それらは人の通ることが叶わない死路となっていた。

 中心部はフォルセティと呼ばれる感染体が脱走した影響でほとんど大破しており、最外部の廊下も鬼が徘徊している。

 脱出を目指す友たちはその二つの廊下の変わりに間に挟まれている研究室や分室を通ることで何とか移動を続けていた。

「この次の部屋だな」

 ビーカーやフラスコが収納されている大きな棚の横。そこにある分厚い隔離扉のノブを握りしめ、友は神妙な顔でつぶやいた。

 ヒヤリとする感触を確かめながら手を横に回転させる。ガチャっという音が鈍く響き、最終実験用材料格納庫への道が開けた。

「薄暗いわね。よく見えない」

 亜紀を背に隠すようにしながら千秋が頭を覗かせる。

 友はその頭を片手でそっと戻した。ここの安全性は古矢班からの連絡からわかっているため別に警戒する必要などない。何の感染者もいないと知っている。にもかかわらず、どうしても足が進まなかった。神経を張り詰めさせて目を凝らす。

 災害の影響で電灯が壊れたらしく明かりは少なかったが、何とか部屋の奥まで見渡せる。もともとそれほど大きな部屋でもないし、容易に全体の把握は出来た。

「……変だ。誰もいない」

 階段を守っているはずの古矢たちの姿がなかった。ただ、しんみりとした冷たいコンクリートの床だけが広がっている。

「まさか、感染者にやられたんじゃないの?」

 がっかりしたように千秋が囁いた。

「――……あまり声を出すな。様子を見てくる。千秋、雫と共に六角代表たちを見ててくれ」

 友は一人扉の反対側へと抜けると、泥棒のような足取りで進みだした。そっと柔らかいタッチでナイフを抜く。

 古矢の実力は噂で何度も耳にしている。手後ずることはあってもただの鬼に負けるとは思えない。もしかすれば髑髏鬼にでも襲撃されたのだろうか。手にじっとりとした汗が浮かんだ。

 靴と床の擦れる音がバックミュージックのごとく耳を浸す。左右に並ぶ牢の中を確認しつつ部屋の中央までたどり着いた。

 強い死臭が吸い込む息の中に紛れ込む。すぐに友は死体が近くにあることを理解した。

 ――研究員のものか? それとも……

 腰をかがめ、さらに息を殺し、五感に意識を集中させる。どうやら臭いは左斜めから発生しているらしい。とりあえずそちらを向き、ナイフを構えた。

 格納庫最北西の牢。視界に捕らえた臭いの発生源へと近づくと、中に鬼の姿を見つけた。

「感染者……」

 幽閉されたまま鬼に接触し、そのまま十秒感染を起こしてしまったのだろう。その男の両腕は酷く傷ついていた。

「ん?」

 腕に注意を向けているとあるものが目に入った。紺色の布。それが鬼の手の中に握られている。

 飛び出す衝撃吸収用繊維を見て、友はそれがイミュニティーの制服の切れ端だと気がついた。

 ――これは、誰かが感染したということか? ここに古矢たちがいないのは鬼から逃げて……?

 先に陣取っていたのは古矢と若い隊員の二人。つまり、片方が感染すればたった一人でそれに対応しなければならない。自分たちに連絡を入れるのは不可能というものだ。

 他に危険そうなものもないため、他のメンバーを中に入れると、友は自分の推測について説明した。

 話を聞き終わった雫がすかさず意見を述べる。

「古矢さんがここから逃げていったのなら、間違いなく先にある階段を目指したはずです。戻れば私たちと鉢合わせしますし、あの古矢さんがそんな六角代表を危険にさらすような真似はしないでしょう」

「そうだな。ただ、そうなるとこの先の階段を通ることは危険だということになる。安全を考えるのなら迂回するしかないが……大幅に時間を食ってしまう」

「――国鳥くん。さっきも言ったが、時間をかけることは僕たちにとって不利にしかならない。彼も我々がその階段を経由することを知っていたはずだ。ちゃんと鬼を引き付けてくれているんじゃないのか。それにもし鬼と遭遇しても、君たちならたかが一体くらい何とかなるだろう? 僕はこのまま先に進んで欲しいのだが」

 命がけでやっと勝てるかどうかすらわからない相手だというのに、六角行成は害虫駆除を頼むような軽い調子で言った。

「しかし代表。古矢班が先に進んでいない今、この先どれほどの感染者がいて、どこが通れる道なのかも何も知らずに進むことになる。それはあまりに危険です」

「危険なのは百も承知さ。どっちみちG.E内に入れば危険度はここの比ではないんだ。僕は君たちの実力を信じるよ」

 作ったような笑顔を振りまき、六角は友の肩を叩いた。

 こうなるといくら説得しても無駄だろう。先ほどのこともある。友はため息を吐くと仕方がなく彼の命令に従うことにした。

「……そこまで言われるのならおっしゃるとおりに致しますが、代表自身もご自分で身を守れるように気をつけておいて下さい。今現在感染者と戦える人間は、私と雫の二人しかおりませんので」

 性格にはもう一人隊員がいるのだが、彼女は戦闘員としては未熟だ。大して役にはたたないと思い、友はあえてその名を省いた。

 省かれたことに不満を持ったのか、千秋がじと目で自分を見つめる。友はそれを無視し、階段のある部屋へと頭の向きを変えた。

 金属製の重厚感ある扉を開け放つと、すぐに下へと繋がっている階段が見えた。T字路のように他の通路とそこで合流している。

 全部で五階分の高さがあるこの研究所だったが、既に二回分降りているため、残りはあと階段三つ。そしてそのうちのひとつがこの階段だ。友は安全確認を取るため腰を屈めながら片目を下へ覗かせた。

「ザァァァアアァアアッ!」

 いきなり真っ赤な手のひらが顔面に迫る。ど肝を抜かした友は息を呑み後ろへ倒れこんだ。

「友!」

 千秋が悲鳴にも似た声をあげ、亜紀が目を見開く。その横を素早く雫が走り抜けた。

 倒れた友に飛び掛る鬼。それから伸びる腕を必死に押さえ込みながら、友は相手の着ている服がイミュニティーのものであること、その顔が先行していた若い隊員であることを知った。

 滑り込むように到達した雫が勢いに乗せた蹴りを鬼の即頭部にフルスイングする。鬼は力に逆らいきることが出来ず二人から見て右方向へと転がった。

「あっ、六角代表!」

 ちょうどそこには六角行成が立っている。千秋の声でようやく身の危険を悟った六角は、慌てて腕を振り逃げようとした。四つんばいになり身を起こした鬼が一番近い六角へ狙いを定める。

 ここで六角を殺されては堪らない。友はすぐに立ち上がり鬼に向かって突進した。

 



 

「あれは……!」

 全速力で地下水路を突き抜けていると、前方に積み上げられたダンボールと立脚式の梯子はしごが現れた。追ってくるモグラのような怪物から逃げ続けるためにはあれを迂回しなければならない。時間のロスとそのリスクを考えせつは苛立ちを覚えた。

「チンタラ退かしてる暇はない。突っ切るぞ」

 そう声を張り上げ、唐沢は疾走していた勢いを利用してダンボールの塊に蹴りを入れた。途端に積み上げられていた上部のものが前方や右側へ崩れ落ち、同時に梯子の側面を押す。

 截は傾いた梯子の一部に手を添えると、ウザったそうにそれを水路の方へ投げた。

 宙に浮かんだ梯子は水面に触れる直前、怪物の頭頂部へ当たり、そのまま滑るように自然と背中の巨大な口の中へと入り込んだ。歯にでも引っかかったのか、中々それを口から吐き出すことが出来ず、土竜もぐらのような怪物はわずらわしそうに体を左右に振った。

「ふん、今なら追いつかれてもあの背面の口に食われることだけは無さそうだな」

「その代わりき殺される可能性は高いですけどね」

 唐沢の軽口に冷静なツッコミをしつつ、截は前方を見据えた。

 まだ遠くの方だが、この水路の行き止まりが見えてきている。もうこの怪物が壁を粉砕し外へと出るのは時間の問題だろう。

 ――はやく何とかしなければ――

 残り時間は少ない。この街、洗泉橋せんよきょうをバイオハザードから救うためには、短時間で怪物を仕留めるしかない。しかしいくら考えても、いくら周囲を観察しても、妙案など浮かばなかった。

「截、もっと早く走れ! 追いつかれるぞ」

 真後ろに迫った怪物の触手を見て唐沢が怒鳴る。截は慌てて前へと足を伸ばしたが、触手の方が一歩早かった。

 自身の体を前に進ませるための足場として、怪物の触手は恐ろしいほど高速で左右の壁を穿ち続けている。そのうちの一本が截のわき腹目掛けて振り下ろされた。

 絶望的な死の感覚と、命を略奪される恐怖感から全身にいかずちのような寒気が走ったその瞬間、怪物は水路の所々に設置されている橋に下半身を接触させ、大きく動きを鈍らせた。触手とスキー板のような足に粉砕されたコンクリートなどの破片が截の頬をかすめる。

 筋力と体力に大きな優位性のある怪物がすぐに截たちに追いつけなかったのには、この水路を真横にぶった切るように設置された金属製の橋が大きな障害となっていたからだった。唐沢の読みどおり、あと一歩で截を殺せる状況だったにも関わらず、怪物はその一瞬の間に再び二人との距離を伸ばしてしまった。

 足元に伝わる振動で体をよろけさせながらも、命が助かったことに安堵する。截は怪物との距離を確認するために背後を振り返った。

 大体四メートルといったところか。これならば次の障害物までは持つ。そこまで考えたとき、截はあることに気がついた。

 怪物の背中の口に引っかかっている梯子はしご。それがかなり天井のぎりぎりの位置でに固定されている。もし怪物が次に橋を通過する際にあれを天井のパイプなどに接触させることが出来れば、怪物は自身の勢いのままひっくり返るのではないだろうか。

 次第に大きくなっていく水路の行き止まりを見据えながら、截はもうこれしかないと覚悟を決めた。

「唐沢さん、次に奴が架け橋に接触した瞬間、手を貸してください。あいつに飛び乗ります」

「飛び乗る? 何を考えているんだ?」

「あいつを横転させるんです」

「横転!?」

 唐沢が驚いたようにこちらを見る。截は近づいてきた次の架け橋を見ると、僅かに体を水路側、右へと寄せた。

「ブゥボォォァアアッ!」

 架け橋を粉砕するために怪物が全身に力を入れる。それに合わせるように截も我が身を屈めた。

「唐沢さん、手を!」

 慌てて振り返り両手を交差させる唐沢。截はそこに足を乗せ勢いよく跳躍した。

 怪物の巨大な二対の足が、コンクリートに支えられた金属の橋を持ち上げ通路から分解させる。同時に僅かに持ち上がったその体は天井スレスレの位置へと背中の梯子を近づけた。截は空中で体を横回転させつつ、振り替え様に左手で怪物の背面口の梯子はしごを掴む。そしてその勢いのままそれを後方へと引き付けた。

 重い衝撃音を響かせ梯子が天井の窪みやらパイプやらに衝突し、てこの原理で同時に怪物自体の体も持ち上がる。

「うぉぉおおおっ、マジか!?」

 飛び出した怪物の全身を認識した唐沢は慌てて前方に飛び退き、その爪や触手の直撃を回避した。截の思惑ではこのまま怪物はひっくり返るはずだったのだが、予想よりもその筋力は強く、最後の最後に天井のコンクリートすらも粉砕して怪物は右側の壁へと突っ込んでいった。

 截をその背にぶら下げたまま唐沢の上空を通過し、巨大な爪を壁面にめり込ませて一瞬で破壊する。爆音と大量の土煙を撒き散らしながら怪物はその向こう側へと全身を投げ入れた。

 衝撃に耐え切れることが出来ず、壁を突き抜けた段階で截は怪物の背中から落ち唐沢の横へ転がる。それが幸を制したのか、向こう側で回転し背を地面に擦り付けている怪物の下敷きにならずに済んだ。



 腕が震え、呼吸も激しい。自分で行った行動の結果とは言え、截はこの結果に自身でも動揺を隠せなかった。命があることに再び感謝する。

 天井から落ちてくる瓦礫やほこりを全身に積もらせつつ、うつ伏せに寝っ転がったまま唐沢が裏声で呟いた。

「こ、これでセキュリティを解除せずとも研究室に入れるな。感染者流出も防げたし、万々歳だ」

 明らかに強がっているのが目に見えていたが、自分も同じような状態のため敢えて何も言わなかった。

 ゆっくりと立ち上がり、顔を上げる。視線の先には小刻みに体を震わせながら起き上がろうとする怪物の姿があった。埃が舞っている所為でよく見えなかったが、どうやら彼を象徴する二本の両足は今の出来事で折れてしまったらしい。ぐにゃりと左右に曲がり、悲惨な光景を醸し出していた。あれならば、もう先ほどまでのように滑るような高速移動も、常世国の壁を粉砕することも出来ないだろう。取り合えず街を救うことが出来たと知り、截は安堵の息を吐いた。

 壁の反対側は研究室の一つらしく、無数の水槽が並んでいる。その大部分は怪物の突進によって損傷し、当たりに得体の知れない液体を撒き散らしていた。

「ブォォオァァア……」

 弱々しい声で唸り声を上げる怪物。折れた二本の足の変わりに腹部に生えた触手でその体を持ち上げようとしているようだ。東郷大儀から与えられた、鬼をこの施設から解き放つという任務を達成するために。

「……まだやる気のようだな」

 唐沢がそう呟き、截がナイフを抜こうとした瞬間、壁から垂れ下がっていた千切れたコードが地面の水溜りに接触した。液体という最高位の導電体を通し、大量の電子の流れが怪物の体に襲い掛かる。

 痛みを感じるのかは分からないが、怪物は悲鳴のような声を部屋に響かせると、全身を痙攣させ火花を周囲に撒き散らした。電気という名の極小の刃に切り裂かれたその体はあっと言う間に黒焦げに染まり、動きを止める。巨体を支えようとしていた触手は完全に伸びきるまえにその力を失い、怪物は電流の池の中へと崩れ落ちた。

 バチバチッ、バチバチッ、っという火花の弾ける音だけが部屋に響く。

 怪物の息が無いことを確認し、截は抜きかけていたナイフの柄から手を離した。

 数分間全力で走り続けていた事実が大きく影響し、二人の息はかなり荒いものとなっていたが、今ここでじっとしているわけにはいかない。唐沢は部屋の間取りをすぐに確認し、現在位置を特定した。

「ここは細胞死したイグマ細胞を解析、研究している部署だな。ここならば水槽が破壊されても何かに感染する危険性はほとんど無い。ツいてるぜ」

「……東郷はこの数分間の間に既に下の階へ降りていってるはず。急ぎましょう。ファーストブラックドメインの化け物たちが解き放たれれば、パンデミックの可能性は激増する。ここは水憐島のように隔離されたブラックドメインではなく、完全に人の移動が可能な作りになっているみたいですし」

 ブラックドメインが解き放たれれば、それだけで甚大な被害を招く。複数の森を、町を、僅かな時間で地獄に変えた三年前の事件を思い起こし、截は歯を噛み締めた。

「ああ、そうだな。生物兵器という存在が持つもっとも恐ろしい能力は知能でも耐久力でも、筋力でもない。『感染する』というそのシステムそのもの。もし地下の手を加えられていないイグマ細胞たちが都市水道にでも混入すれば、手がつけられない大惨事になってしまう」

 感染体や細胞を外へ放出するためのこの怪物は倒したが、到底油断は出来ない。東郷大儀が赤鬼という強大な力を所持している以上、彼がその気になれば外への壁を粉砕することなど容易に違いないのだ。結局この怪物を倒したことは、それを僅かに遅らせただけでしかない。

 截は頷き、この研究所内のどこかに居るであろう東郷の捜索をすぐに開始することにした。地下を目指すために取り合えず一番付近の扉へ向かって歩き出したとき、はっとしたように唐沢が声を上げた。

「あ、そうだ。あのお嬢さんを回収しないと……さっきのセキュリティゲート付近に寝かせといたままだった」

「あっ、そうだった……」

 截は研究所入り口前の窪みに置いてきた夏のことを思い出した。この水路に感染者の姿は今のところ見られないが、こうして研究所との壁が粉砕された今、ここを利用して鬼が出てきてもおかしくは無い。彼女の命を守るためには、置いていくわけにはいかなった。

 全力疾走してきた道のりの長さをかえりみて、自然と深いため息が漏れた。







「ひっいいいっ!?」

 浮き出た頭蓋骨の中心にある血走った真っ赤な目が、六角構成の姿を一心に見つめていた。

 その肥えた体を、柔らかい油の乗った肉を、我が体内に取り入れようと死に物狂いで飛び掛ってくる。悲鳴を上げた六角構成は、恐怖から回れ右をして一心不乱に走り出した。

「このっ!」

 鬼の爪が六角の背に触れるより早く、友の投げたナイフがその足に命中した。膝裏を鋭利な刃で貫かれた鬼は、体重を支えきることが出来ず前乗りに倒れこむ。

 その隙に六角は体型に似合わぬかなりの速度で暗闇の奥へと逃げ込んでいった。

しずく!」

「分かってます!」

 六角構成を一人で行かせるわけにはいかない。友が後を追うように指示を出そうとすると、それを察した雫は既に駆け出していた。あっと言う間にその姿は見えなくなる。

「先にどんな危険があるかもわからない。千秋、さっさとこいつを仕留め、二人を追うぞ」

「わ、わかった!」

 あまり戦闘が得意ではない千秋が、及び腰でナイフを構える。その後ろに亜紀と六角の秘書であるさかきが隠れた。

 古矢、そして雫。強力な戦力を二つも欠いた状態で、黒服ほどの常軌をいっした戦闘力を持たない自分が、罠もなしにこの化け物に勝てるだろうか。

 六角、雫、古矢の身を心配する気持ちも当然あったが、まずはここで生き延びなければならない。 相手の危険度と己の実力、戦闘スタイルを考慮し、友は一筋の冷や汗を頬に流した。








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