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<第十四章>地下へ



 ――感染――!

 シンプルかつ大きな身の危険が全身の神経に飛来した。

 赤く、黒く、染まっていく左腕の皮膚を捕らえ息を呑む。瞬時に対処をしようとしたが、肩の傷が唸り意識を中断させられた。その焦りの間を縫うように髑髏鬼が距離を詰める。

 イグマ細胞に感染したただの悪魔は、安定した細胞を求めて目の前の命を摘むだけの言わば単細胞生物のようなもの。鬼はそれをディエス・イレが兵器として強化、改変した化物だ。

 簡単な状況判断を行える知能。凶悪な感染効果。そして他に類を見ない異常なまでの殺人性能。普通の人間ならばどうあがいても、どれほど頑張っても、絶対に殺す事の出来ない存在。その最終形態が、髑髏鬼だった。

 一歩反応が遅れた截は相手の攻撃を完全に避けることが出来ず、右の腰を爪によって切り裂かれた。灰色のシャツがうっすらと赤く染まる。衝撃によって截の体の崩れがさらに大きくなった。ガクッと膝が曲がり寄りかかるように髑髏鬼へと近付く。

「ザァアアァァァァア――」

 眼前の獣が口をこれでもかと開き喉を震わせる。

 次の瞬間、殺し合いは終幕へと加速した。






「同胞から連絡がありました。無事、内部に侵入出来たそうです」

 緩やかに流れる地下水道の横。タヌキは満面の笑顔を背後へと向けた。

 コンクリートの壁に手をつきながら、東郷はそうかと小さく頷く。

「なんだがあまり嬉しそうには見えませんね」

 その表情が妙に真剣だったため、気になることでもあるかとタヌキも表情を改めた。

「配置した駒が予定通りに動いただけだ。嬉しいも何もない。むしろ、あれほどの感染兵器をばら撒いているのにそうならないほうがおかしい」

「兵器……鬼のことですか。確かに、あれの最終形態には私でも勝てるかどうか自身がありませんからね。黒服の人間ならまだしも、ここの堕落しきった隊員には手も足も出ないでしょう」

 常世国へ投入する前、タヌキは一度だけ性能調査として鬼の戦闘実験を目にしていた。捕虜として捕らえていたイミュニティーのメンバー五人を、あの怪物は僅か十秒で全滅させて見せたのだ。あれはまさに兵器としての技術に特化したディエス・イレの、最高傑作とも呼べる殺人人形だった。

「悪魔の最終段階が持っていた一時間の命という欠点も、アポトーシス(自己細胞死)と細胞増殖を繰り返すことで克服している。ただその影響で定期的に栄養を得らなければ欠乏症になってしまうのだがな」

「それは仕方のないことでしょう。鬼は『赤鬼』の技術を元としている。その開発者である高橋志郎が行方をくらましてしまったにしては、十分すぎるほどの成果ではありませんか?」

 まるで自分が開発したかのように実に自信満々に自慢気にタヌキは声を張った。それを冷めた目で捕らえ、東郷は何かを思い出すように上を見た。

 少しだけ伸びた顎鬚に片手の指を乗せる。

「またその表情ですか。さっきから何なんです? 何か気になることでも?」

 自分にはこの作戦が失敗する要素など何一つ見当たらない。心の底から不思議そうにタヌキは尋ねた。

「……紀行園のことを思い出してな」

 不意に東郷が口を開く。そこから漏れた言葉は妙に静かだった。

「あのとき俺は意識を失い、体を満たすイグマ細胞の本能のままに暴れ回った。誰もが予想もしてなかった暴走だ。まあ、実際はとある老婆が起こしたのだがな」

 ライオンの鬣のような髪型をした厳つい女性の顔を思い出し、タヌキは苦笑いした。

「俺があのまま暴走を続けていれば、お前が行った救出作戦は無駄になっていただろう。あのとき自分の意思を取り戻せたのは本当についていた」

「確か、高橋志郎の雇った黒服の連中によって止められたのでしたよね。人名の特定は出来ていませんが、まだ新人の者たちだとか」

「そうだ。奴らの攻撃を受けていくうちに俺は意識を取り戻した。一度前頭葉を穿たれた影響かもしれん。本来ならばそれ以上戦う必要は無かったのだがな。つい楽しくなって相手をしてやったよ。その結果まんまと出し抜かれて麻酔を打ち込まれたのだが。油断していたとはいえ、あれは俺の敗北といって間違いはないだろう」

 タヌキは東郷が何を言いたいのか分からなくなった。気になることとは鬼の暴走なのだろうか。

 こちらの考えを読んでか、東郷は答えを述べた。

「今夜の初期、いやもう昨日か? とにかく数時間前……まだ感染が広がる前に、俺はあのとき紀行園で遭遇した黒服の男の姿を見た。向こうは俺が赤鬼だとは知る筈も無いから、驚いていたようだったがな」

「黒服の男……? ここは常世国ですから六角が依頼したメンバーが居ても何の不思議もないですが……まさか、気になることとはその男のことですか?」

「――あの戦い方には覚えがある。キツネの手の者かもしれない。奴の身の上はお前も知っているだろう。この時期にここにその関係者がいるということは、間違ってもディエス・イレ側ではない」

 確信を持っているというように東郷は目を細めた。

 キツネの関係者と聞き、確かにそれならば警戒するのも当然だとタヌキは納得する。何故ならばキツネは――……

「まあ、いくら黒服だろうがこの状況ではなにも出来ないだろうよ。ただ、万が一のこともある。一応意識の中にその存在を置いておけということだ」

「分かりました。計画の障害になりそうならば、すぐに抹殺しましょう。今を逃せば我々がイミュニティーを倒す機会など二度とありえないのですから。鬼が徘徊している今、そんなことはいくら頑張っても不可能でしょうけどね」

「そうだな。生身の人間が銃も無しにあの鬼を倒す事は不可能だ。もし殺せるのならば――」

 東郷は無表情のまま前を向いた。

「そいつは人間じゃない」







 膝の力が抜けかけ、髑髏鬼の顔をキスするほどの近さで見上げたとき、截はふいに強い衝動に駆られた。

 嫌だと。

 死にたくないと。

 生きたいと。

 そう、根源的な感情が湧き上がったのだ。

 恐怖から生まれる感情の激流が頭の中を支配する。

 正常な判断を狂わせる。

 この地球上に生息する殆どの生物は、自分の死を来るべき死として自覚出来た。

 己の命を奪おうとする相手との力の差を受け入れ、諦めることが出来た。

 勝てないとわかれば、自分が死ぬとわかれば、そこで抵抗を止め大人しく殺される。

 それが自然の摂理だから。

 弱肉強食としてこの世界に定められたルールなのだから。

 だが、人間は違う。

 例え死のその刹那であっても、助からないとわかっていても。

 醜く。

 哀れに。

 無駄に。

 無意味に。

 必死に足掻くのだ。

 それが、動物と人との違い。

 人は欲望によって己の目的を決める。欲望によって、己の人生に意味を成し、それに向って走る。化学反応の結果でしかない自分の存在を無意識に誇る。

 人間にとって、生きるとは欲望を作り成し遂げることだ。

 欲望の大きな者、それを得ろうと最大限の努力をするものが、新たなる発展につながりまた成長することが可能となる。どんな業界でも、どんな環境でも、どんな世界でも、目的を目指す決意とそれを成就せんとする意思の力が強い者のみが、本当にその目的に歩み寄る事が出来る。それが人間としての純粋な『強さ』。死を前にしても生にしがみ付こうとする人間だけが持つ強靭な力。

 ありとあらゆる意味での本当の「生存力」なのだ。

 そう、本来は――



 落ちようとする瞼をカッと開く。

 誰もが、人間ならば、必ず生への執着に支配されるこの状況で、截は寒気がするほど『冷静』に行動した。それはもはや人間が持つ生存力とはまったくベクトルを異にした、得体の知れない心の在り様が成せるワザだった。

 頭を砕こうと髑髏鬼の拳が真上から叩き落される。常人なら一撃で脳天を破壊されるそれを皮一枚でかわし、よろけていた後ろ足に力を込めた。

 続けざまに暴風雨のごとくスウィングされる髑髏鬼の逆手の爪。頭を咄嗟に後方へ引く事でぎりぎりで避けた。喉仏の前に薄っすらと赤い線が光る。

 ――っ――――!

 連撃が終わった隙をつき、腕に広がろうとしていた黒い領域を、黒柄ナイフによって皮ごと薄く吹き飛ばす。大量の血が飛び、赤い肉が体内から露出する。

 髑髏鬼の膝が持ち上がりこちらの顎へと接近した。合わせるように自分の足をその上に置く。

 跳躍。

 空気を体で裂きながら一瞬だけ重力から開放される。赤い顔がこちらを向いた。迎撃しようと腕を構える。空中では回避が出来ない。髑髏鬼は感情を爆発させるがごとく拳を打ち出す。

 截は相手の髪を掴んだ。鼻頭にぶつかる岩のような固い感触。腕を引きそこを支えに体を回転させる事で、ヤスリのように頬を削りながらその拳が真横を通り過ぎる。髪を掴んだ腕を振りぬき一気に髑髏鬼の背後へ抜けた。視界一杯に広い森の世界が映る。

 迫る地面。

 遠ざかる赤い魔物。

 着地と同時に背後の動きが止まった。腕を伸ばしきった格好で固まる。

 一瞬の間。

 腰を落としたまま、截は黒柄ナイフについた血を振り払った。同時に、髑髏鬼の首から何かが噴出し、滝のように周囲に降り注ぐ。

 髑髏鬼はぐるぐると何が起こったのかわからないように目を回し、背後の黒い獲物を振り返る。

 その瞬間、全ての神経接続を失い、ゆっくりと地に伏した。







「馬鹿な……」

 唐沢は声を失った。

 今、目の前で起きたことが信じられない。

 あの男は、截は、全ての攻撃が即死級の髑髏鬼の攻撃を紙一重でかわし続けたあげく、その隙間を縫って相手の命すらも刈り取ってしまった。

 自分が隙を作れば何とかしてくれるかもしれないと思ってはいたが、それはあくまで何とかする程度の期待だ。まさか、真正面から一対一であの化物に打ち勝つなどとは夢にも思わなかった。

 一歩間違えば、一瞬でも判断を狂わせれば、恐怖という感情に支配されれば、きっと截は死んでいただろう。

 まるで何メートルも離れている針に糸を通すがごとく、実に正確に的確に彼は淡々とことを成した。

 先ほど貴婦人を殺したときのことも踏まえ確信する。

 肉体的にではない。

 技術的にでもない。

 心のあり方として、奴は到底人間ではないと。

 それを凌駕した、淘汰した「化物」だと。

 ――これが……黒服か……!

 イミュニティーやディエス・イレが、情報漏えいの危険を冒してまで使用したい勢力。多額の資金を失ってまで依頼したい存在。

 その本当の実力を、価値を、唐沢は初めて理解出来た気がした。

「ぐっ――……」

 膝をついた格好で截が唸り声をあげる。

 そこでやっと彼も多くの損傷を受けていたのだと思い出した。

「大丈夫か」

 小走りで駆け寄ると、截の体はあちらこちらに血のにじみが見えた。肩と右の腰。そして自ら肉を切り離した左腕の表面。肩以外はそれほど深い傷ではないが、早く対処しなければ多大なハンデを負う事になる。

 科学者としての活動が多かったが、根本的には唐沢は医療のスペシャリストだ。慌てることなく冷静に截に近付き、その怪我の具合を確認した。

「……出血を止める必要があるな。腕と腰はともかく、その肩の傷は不味い。何か持っていないか?」

「生憎――……そういう物は丁度切らしてましてね。どこかの店から……探すしかない」

 痛むのか、截は辛そうに声を出した。

 ここから医療道具がある場所まで戻るのは時間的にも実力的にも厳しい。どうせ地下に降りればいくらでも手に入れる事が出来る。今この場にあるのもので応急処置ができないかと周りを見渡すと、唐沢はピッタリな道具を見つけた。

「お前のその顔の包帯、ちょっと借りるぞ。別に大した怪我をしているってわけじゃないんだろ?」

「え? いや、これは――」

 何だか截は抵抗しようとしたが、唐沢は強引にその包帯を巻き取った。すると、何の損傷もない奇麗な整った顔が現れる。

「何だ? 怪我なんてしてないじゃないか。何で包帯を巻いていたんだ? 顔も見知りでもイミュニティーの中に居たのか?」

 黒服として行動していれば、ディエス・イレ側についた時にイミュニティーと交戦することはいくらでもありえる。そのときの相手がこの常世国にいるのかと唐沢は勝手に判断した。

「……――よし、これでとりあえず血は止めた。量的な関係から肩の傷しか塞げなかったから、腕と腰はシャツを千切って塞ぐしかないな」

 何だか気まずそうに自分の顔を弄っている截を片目に、唐沢は彼にその灰色のシャツを脱ぐように促した。血を垂れ流しでは截としても困るのだろう。彼は素直にそれを脱ぐと、上半身を白いTシャツ一枚にして唐沢の成すがままになった。

「夏さんは大丈夫なんですか?」

 遠くの方で伸びている少女を眺め心配そうに截が聞く。唐沢は確認もせずに答えた。

「あの娘なら心配ない。ぶつかったのは肩だし、ただショックで意識を失っているだけだな。……どうする? ここに置いていくか」

「どういう意味ですか?」

「先ほどの様子、あの娘はもう狂気に飲まれている。連れて行けば何をするかわからないぞ。邪魔なだけだ。鬼が入れないような安全な場所に閉じ込めておけば、数日後くらいには髑髏鬼の殲滅隊なんかが発見してくれる。別に無理に連れて行く必要はないんじゃないか?」

 唐沢は極悪人ではないが、冷酷だった。正直に言えば彼女を殺すべきだとも思っていたが、これまでの截の行動からそれを言っても意味がないと判断し、こういう結論を抱いた。

 天井にある送風機から生暖かい風が降り注ぐ。

 処置を終えられた截は力ない動きで立ち上がると、迷わず今の唐沢の言葉を拒絶した。

「僕は彼女を守ると誓いました。彼女を守る事は僕のプライドにかかわることだ。あなたの言っていることはわかりますが、絶対にそれは出来ません」

「後悔することになるぞ」

 夏は明らかに正常ではない。まともな精神状態を失っている。いつまた先ほどのように足を引っ張るのかわからないのだ。唐沢は最後の確認のつもりで、強い口調で聞いた。

 だが截は躊躇わずに答えた。

「しませんよ」

 二本のナイフを腰に仕舞い、自分に背を向ける。

「さあ、地下下水道へ向いましょう。入口はすぐそこだ。……彼女が意識を取り戻すまで、その体を運んでもらえますか? 僕はちょっと今の状態では厳しいので」

 野園フロアの置くに光っている非常出入口の看板を見つめながら、どこか憂いを帯びた声で截はそう言った。

「おいおい、お前が守ると言ったんだから、運ぶのもお前がやるべきじゃないのか?」

 冗談交じりに唐沢は不満を言ったが、答えは返ってこなかった。

 ただ異様な雰囲気の漂う背中だけが、目の前にある。

 その空気はまるで彼自身も狂気の中に足を踏み入れているかのような、そんな姿を連想させた。







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