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<第一章>生物災害

この小説は作中用語を理解するため、尋獄(BLUCK DOMAIN) 尋獄2(SURGE GARDEN) 尋獄E1(DEGAUSS JAIL) 尋獄E2(BLOODY STORAGE) を御覧になってからお読みになることをお勧め致します。

 



 あちらこちらから黒い煙が立ち昇っている。

 夜の空を赤く染め、白い壁を茶に焦がす。

 大地の上には無数の死骸が転がり、その命の水を、肉を、所々へと飛び散らせている。

 風に乗って死の臭いがしつこく広がり、今この場所が本当に地上なのかと、錯覚させられる。

 それが、テログループ――ディエス・イレの隠れ家、この廃工場の現状だった。

「どっちへ行った?」

 工場内、地下駐車場。真っ黒な服を纏った若い男が、周囲を見渡しながらそう聞いた。

「この先で間違いないはずだ。ここ以外は既に俺たちの仲間が制圧している」

 男と行動を共にしている同じ服装の人間が答える。

「おい、あれ……扉が開いているぞ!」

 若い男は駐車場の隅にある、小さな開いたままの扉を指差した。そこには看板が掛かっており、「地下水道連結路」と書かれている。

「水路? 不味い、逃げられるぞ」

 男の同僚は慌てて走り出した。

「お、おい! 俺たちだけで行くのか? 援軍を呼んだ方が……」

「そんなことしてたら逃げられちまう。なに、たかがテロリストだ。俺らの敵じゃねえだろ」

 男の同僚はよほどの自信があるらしく、かなり余裕そうな表情を浮かべた。

 それを見た若い男も、それもそうかと納得し、あとに続く。

 二人が扉を潜り抜けると、そこは先ほどまでの駐車場とは打って変わり、電灯が全て切られ一面黒一色だった。

「ち、ブレーカーを落としやがったな」

 同僚は舌打ちし自分のポケットから懐中電灯を取り出すと、その光で通路を照らした。

「見ろ、血だ」

 若い男が床に赤い水溜りを発見し神妙な顔を作る。同僚の男は屈んでそれに触れると、安堵したように呟いた。

「まだ暖かい。近くに居るぞ」

 若い男は頷くと手の中にある漆黒のナイフを握り直し、同僚の照らす光を頼りに静かに前に進んだ。

 階段を降り、電算室の前を通り抜け、とうとう二人は水路へと到着した。

 目の前に腹を押さえた背の低い小太りの男が、驚いたようにこちらを向き立っている。

「ち、東郷じゃないな」

 同僚は獲物がただの一テロメンバーだと分かり、がっかりした。

「もう逃げられないぞ。武器を捨てこっちに来い。抵抗さえしなければ害は与えない」

 そんなつもりは一切ないにも関わらず、若い男は優しい言葉をかけた。

「ほ、本当ですか? な、何もしませんか?」

 若干芝居がかったような声で、小太りの男は聞き返す。

「ああ、本当だ。いいからさっさとこっちに来い」

 若い男が促すと、小太りの男は二人の前まで歩き、光の下へと顔を出した。

 真丸の大きな目に童顔な顔。達磨のような体型の男だ。

「さあ、後ろを向いて壁に手を付け」

 若い男がそう言うと何故かその達磨男はいびつな笑みを浮かべた。

「その前にあなた方が後ろを見た方がいいんじゃないでしょうか?」

「はぁあ、なに言ってやがる? ――ん、お前その腹の血……傷が無いぞ。自分の血じゃないのか」

「ああ、これですか。これはあなた方の仲間の血ですよ。ばっははは、胸をぶすっと、一突きしましてね。その返り血が突いたんです」

「ふん、ホラをこくな。お前ごときが俺らの仲間を殺した? 一体どうやってだよ」

「こうやってですよ」

 いきなり若い男の同僚、彼の胸から真っ赤な手か飛び出た。胸を突き破り、こちら側へその鋭い爪を覗かせている。

「なっ――!?」

 崩れ落ちる同僚を男が驚愕の目で見ていると、暗闇の中から一人の人間が現われた。

 長い、強めの癖毛に、鷲のように鋭い双眼。熟練の兵士を思わせる四十代ほどの男だた。

「と、東郷……!」

 若い男は恐怖に引きつった顔でその男、東郷大儀とうごうたいぎを見つめると、一歩後ろに退いだ。

「安らかに眠れ」

 東郷は胸の前で十字を切ると、静かに、それでいて一切の無駄もなく、己のその赤い腕を突き出し、若い男の胸を穿うがった。

「あ、あがぁああっ――……!」

 悲鳴を上げることすら出来ない。黒い服を着ていた若い男は、そのまま静かに血を撒き散らし、

横に流れる水の中へと落ちていった。

「あ~あ、だから後ろを向けと言ったのに」

 達磨男は笑顔でその水路を見下す。

「タヌキ……アジトは壊滅した。ここはもう駄目だ」

 東郷は残念そうに下を向きながら達磨男に呼びかけた。

 タヌキと呼ばれた達磨男は、その言葉を聞いたことで先ほどまでの笑顔を消し去った。

「東郷さん。何故……ここが、俺たちの計画がバレたんでしょうか」

「さあな。裏切り者がいたか、スパイがいたか、事実は分からんが……だが、今考えるべきことはそんなことじゃない」

「というと?」

「こいつらだ」

 東郷は先ほど自分で殺した黒服の男を、足で蹴った。

「何故黒服が――ナグルファルがディエス・イレを襲撃する? こいつらの立場やシステムからすれば、絶対に俺たちにこんな真似は出来ないはずだ」

「確かに。一人や二人ならイミュニティーに雇われたとも考えられますが、明らかに二十人以上は来ていましたからね。しかも、草壁国広くさかべくにひろが指揮をしていたようですし」

「どうやら黒服はとうとう『裏』を表し出したようだ。まあ、奴らの設立状況を考えれば、この結果も当然考えることが出来た。だが、まさかイミュニティーへの総攻撃を実行する直前で仕掛けられるとは……」

「仕方がありません。――本部は壊滅してしまいましたが、まだ同士たちは各地に散らばっています。紀行園で完成させた例の生物兵器もありますし、イミュニティーにはきっちりとこのツケを払って貰いましょう」

「……そうだな。六角の居場所は掴んでいる。俺たちの怒りを買ったことを、死ぬまで後悔させてやる」

 東郷は紅の拳を握り締めそう呟くと、腕を人間の形状へと戻し、下に置いていたスーツケースを持ち上げた。

「この、子鬼たちを使って――」









 夜明けの始まり。

 暗い水色の空に浮かぶ白い月の下。

 見慣れた場所の、見慣れた屋上。

 そこにとある光景が見えた。

 巨大な魔王のような真っ赤な怪物と、漆黒の衣を纏った精悍な青年。

 青年は赤い怪物の攻撃を巧みにかわし、惚れ惚れするような美しい動きでその怪物を殺そうと動いた。

 だが次の瞬間。

 怪物の手が青年の胸を貫き、屋上中に無数の血の雨を降らせる。

 青年は地の上に倒れ込むと、目から涙を流し、空高く輝いている朝月を、白い星を見つめた。

 その緩やかな癖毛の下にある、黒真珠のような真っ黒な瞳で。




「はっ!」

 デスクの上で目が覚めた。

 どうやら自分はまた寝てしまっていたらしい。

 しかも、随分と目覚めの悪い夢を見てしまったものだ。

 男はそう思いながらも、スーツを正し椅子から立ち上がった。

 その動きに合わせるかのように「トントン」と扉が叩かれる。

 男は広い自分のオフィスを突き進むと、禿げに禿げた頭を掻き、若干盛り上がった腹を撫で、用心深そうに小さく扉を開けた。

「あ、あの……会議のお時間ですが」

 すると扉の向こう側に立っていた秘書の女性が、恐々とした様子で声をかけてきた。

「あ、ああ。悪いね。ちょっと寝てしまって……今行くよ」

 男は微笑み秘書に謝ると、急いで先ほどまで頭を伏せていたデスクへと戻り書類を掴み取った。

 そしてそのままおたおたとした足取りで扉まで移動する。

 男が扉から出るのを確認すると、秘書は誇りを持った声で呼びかけた。

「それでは、参りましょう。六角行成ろっかくこうせい様」

「ああ、行こうか」

 六角は笑顔で応じた。

 廊下を歩く間の会話繋ぎの意味か、しばらく進んだ後に女性は質問をした。

「最近よくお休みになられることが多いようですが……どのような夢をいらっしゃるのですか?」

「ん? ああ、いつも同じさ。僕の望みと、希望、そして――」

 六角はニヤリと口元を歪めながら秘書を振り返る。

「『感覚』による正夢まさゆめさ」









尋獄3(GENESIS CRADLE)










 ディエス・イレ壊滅から二日後。

 日本最大級の屋内都市「常世国とこよこく」。

 現在ここは曇り空の下、土砂降りのような雨に襲われていた。

 駐車場には無数の水溜りが形成され、停車してある車はそのどれもがずぶ濡れとなっている。

 バイクを止め、その池溜まりの中に足を下ろしながら、巳名截しいなせつは強い意志の篭った目を正面に建つ建物に向けた。

 常世国。

 屋内都市と言えば聞こえはいいが、その実態は巨大な繁華街。いや、ホテルを含んだショッピングモールと言った方が正しい。

 外から見ればただの長方形の建物だが、中に入れば縦横に広がる無数の店や施設を目にする事が出来る。

 長野県北部にあるこの巨大な人工街は、少し前まで静岡の水憐島、紀行園と並び、一大観光名所となっていた。

 だが、今は日本一の娯楽施設と言っても過言ではなくなっている。

 それは六ヶ月前に水憐島、紀行園の両施設で大規模な災害が発生したからだ。

 紀行園はテロによる細菌兵器の影響で完全封鎖され、水憐島はといえば、中に爆発物が仕掛けられていたのか跡形もなく吹き飛んでしまった。

 元々第三の都心とも名高いこの街、「浄泉橋せんよきょう」に建てられたということもあり、娯楽を求める多くの人間はここを訪れるようになっていた。

 截は黒いレインコートのフードを被り直すと、雨を避けるように真っ直ぐに常世国の正面入口へと進んだ。

 中へ入ろうとする人々の列に紛れ、一般客を装う。

 入口の左右に立っている二人の警備員を眺めながら、截は二日前、初めてディエス・イレの壊滅を知ったときのことを思い出した。






「ディエス・イレが壊滅した!?」

 黒服第五支部船内の休憩室。そこに設置された椅子に座りながら、截は思わず聞き返した。

「ああ、本当だよ。さっき私も陽介さんから聞いた。つい、数時間前の出来事らしい」

 長い黒髪を肩に垂らし、整った綺麗な顔をこちらに向け、透き通るような声でその女性は答える。黒服内での截の相棒、各務翆かがみすいだ。

「イミュニティーか? どうやってディエス・イレの本部を見つけたんだ。黒服うちでも調べることが出来なかった場所なのに……」

 黒服はディエス・イレから直接の依頼を請け負う事が度々ある。そのことから政府の極秘機関であるイミュニティーよりは、遥かにディエス・イレの情報を得やすいはずだ。截は何故ディエス・イレの本部が襲撃されたのか、いぶかしんだ。

「さあな、私も知らないよ。そんなに詳しく聞いたわけじゃないから」

「――陽介さんに聞いてくる」

 截は目の前のテーブルに手を付き、椅子から立ち上がると、そのまま歩き出そうとした。

「あ、截! 陽介さんならもう居ないぞ。さっきキツネに連れられて外に出た」

「はぁ? 何で陽介さんがキツネと……」

「知らないよ。何か最近しょっちゅう二人でつるんでいるみたいだぞ。かなり意外な組み合わせだけどな」

 翆はおどけるように手を左右に開いた。

「あ、それと……もうひとつ聞いたんだけど……」

 そのまま、躊躇いがちに話を続ける。

「何だよ?」

「まあ、そういう目撃情報があるってだけなんだけどな……」

「翆、早く言えって」

 何だか言葉を渋る翆を、截は急かした。

「――……ディエス・イレの生き残りが、襲撃者は黒服だと証言しているらしいんだ」

「黒服が!?」

 続けざまに知らされる衝撃的な言葉に、截は耳を疑った。

「そんなまさか……! ディエス・イレを壊滅させるほどの戦力となるとかなりの人数がいるはずだ。そんな知らせ、何も受けてないぞ」

「だから未確認情報だって言ってるだろ。陽介さんも詳しくは知らなかったようだし」

「もし黒服が本当に襲撃の犯人なら、白居はイミュニティーと手を組んだってことになる。事実なら、日本国内の組織勢力図が大きく変わるぞ」

「ああ、間違いなく、大変革が起きるだろうな」

 翆は眉を潜めた。

「……高橋博士から貰った超感覚者のデータや情報だと、イミュニティーの代表、六角行成は常世国にいる。こんな大事件が起きたんだ。キツネも居ないし、今なら会員個人個人の動きなんかにいちいち構ってる暇はないな……」

 六ヶ月前の紀行園テロ事件から現在まで、截はずっと高橋博士から手に入れた情報の裏づけと、調査を行っていた。それらの仕事がようやく終わり、そろそろ行動に移ろうかというところで、まさかタイミングよくこんな事件が起きるとは夢にも思ってはいなかった。それぞれの組織があたふたしている今なら、上手く立ち回れば自分の目的である黒服、イミュニティーの解体に繋がる有力な情報を集めることが出来るはずだと、考えがぎる。

「まさか、常世国に行く気か?」

「黒服がイミュニティーと手を組んだのなら、常世国にいる六角行成にも当然何らかの形で接触をしているはずだ。それを確かめる意味でも、行く価値はある」

「だけどさ、ディエス・イレの残党だって六角の命を狙ってそこに行く危険があるんだ。黒服会員であるお前の侵入を向こうが黙ってるわけ無いだろ? 絶対にディエス・イレに雇われたと思うって。 私たち一般会員にはディエス・イレの襲撃が伏せられているんだから」

「ああ、そうだな。……だから、俺は黒服としててはなく、巳名截として行く。俺の顔を六角が知っているはずもないし、一般客に紛れれば上手くいくはずだ」

「でもな……」

 截の言い分は理解できる。しかし、一歩間違えば黒服、イミュニティー、ディエス・イレそれぞれから命を狙われかねない危険な状況に身を置く事になる。それを理解しているからか、翆は彼に賛同することが出来なかった。普段冷静極まりない截が妙に興奮していることも、理由に含まれているにはいたが……。

「翆、今回はお前は外から協力してくれ。黒服内部での動きも気になるし、二人同時に潜入してもあまり意味はないからな。出来るだけ多くの情報を得れる状態の方がいい」

「それはいいけど……安形はどうする? お前の姿がないことなんて、すぐに分かるぞ」

 截は自分の行動の危険さからか、高橋志郎から得た情報の調査も、黒服やイミュニティーに対する詮索活動も、まったく安形には知らせていなかった。万が一自分が失敗すれば芋ずる式に安形まで被害をこうむると思っていたからだ。

「安形さんには俺が死ぬか、黒服やイミュニティーに対する反撃を実行する時まで情報を伏せておくんだ。今回のことも俺が休暇を取ったことにしてくれ」

「あんまり長く誤魔化せるとは思えないぞ?」

「大丈夫だって。そんなに時間はかけないよ。三日以内にはここに戻るさ」

 あまりに翆が心配そうに言うので、截は軽く微笑んで彼女を見た。

「必ず……帰って来いよ」

「――ああ、勿論だ」

 安心させるように、截は翆の細い肩へと手を置く。

「行ってくる」

 それが、最後の会話だった。







 

 列を進み、截は入口の前へと辿り着いた。

 通常のショッピングモールとは違い、ここでは全ての警備をイミュニティーの者が行っている。

 そのため裏の世界に順ずる者が現われたのならば彼らはすぐに見抜き、対処することが出来る。

 当然截を目にした警備員も彼の持つ黒服の空気を感じ取った。まじまじと、その姿を分析する。

 緩いカーブを描いた漆黒のショートヘアー。

 ちょっとだけ太めの凛々しい眉。

 まつげの長い、黒真珠のような大きな目。

 端正な顔立ちの、一見すると何処にでもいる普通の青年だ。

 警備員は截が纏っている真っ黒なレインコートに視線を移した。

「ちょっと、コートの前を開けてもらってもいいですか?」

 笑顔を作りながら片手をこっそりと腰の警棒に当て、そう聞く。

 截はレインコートのフードを被ったまま、ゆっくりと前を開いた。

 そこにあるものは、ただの灰色のワイシャツと、黒いズボンだけだった。武器や怪しいものは一切見られない。

「もういいですか?」

 中々警備員の疑いの目が離れないので截はうざったそうにそう尋ねた。

 通常、ここまでの確認は行わない。空港や国会でもないため、それ以上截を引き止めることは不可能だと思い、警備員は道を開けた。

「どうぞ、お楽しみ下さい」

「ありがとう」

 截は無表情でそういうと静かに常世国の扉を通り抜けた。

 その姿を眺めながら、截を調べた方とは別の警備員が向かいに立っている男に顔を寄せる。

「今の男がどうかしたのか?」

「いや、一瞬佇たたずまいがただの人間には見えなかったから……でも、気のせいだったな」

 そう言うと警備員の男は客の列へと視線を移した。新たな怪しい人間を探して。

 扉を通り抜けた截はきょろきょろと周囲を見ると、手提げ鞄を持った一人の女性を見つけ、自然に見えるように背後からぶつかった。

「失礼」

 申し訳なさそうに謝りつつ、こっそりと彼女の鞄から列にいるときに隠していた己の二本のナイフを抜き取る。そして怪訝そうな表情をしている彼女を残し、さっさと奥へと進んでいった。

 







 入口を入ってすぐの場所はUの字の形をした大ホールとなっており、一階とそれを見渡せる吹き抜けになった二階とに分かれていた。東京お台場にあるビックサイトの構造とよく似た形だ。

 二階の壁際に並ぶ無数の服屋や宝石店、御土産屋の前には多くの客が歩き回り、幸せそうにショッピングを楽しんでいる。

 そんな状況の中、いやに物静かな二人組みの女性が、丁度入口と平行して作られた橋を渡りUの字の吹き抜けを横切るように、端から端へと移動した。

「ふう、やっぱり混んでるね~……どう、何か買いたいものあった?」

 ポニーテイルにした薄い茶色の髪を手でいじりながら、活発そうな女性が隣を歩く人物に声をかける。声をかけられた黒髪の女性は頷くと、携帯を開き、何やらそこに数行の文字を打ち込んだ。数秒後、活発そうな茶髪の女性の懐から着信音がなる。

 茶髪の女性は携帯を開くと、それが当然であるかのように黒髪の女性が送ったメールを読んだ。

「なになに……薄いピンクのキャミソールが可愛かった? ああ、あれね! 確かにあれはレアなデザインだったよね、後で買いに行く?」

 再び女性の携帯が鳴る。

「え? 別にいいよ。それに、千秋さんだなんて、よそよそしい呼び方はしないで。私と亜紀ちゃんの仲じゃない」

 茶髪の女性、千秋ちあきは微笑を浮かべると、隣にいる黒髪の女性の頭を撫でた。

 亜紀と呼ばれた黒髪の女性は人前でそんなことをされたことが恥ずかしかったのか、頬を赤く染めながら、じとーっと千秋を睨む。

「ごめんごめん、そんなに睨まないでよ。ちょっとふざけただけでしょ」

 千秋は亜紀の頭から手を下に移動させると、恋人同士のように彼女と腕を組んだ。

「しかし、流石に広いわね……まだ中に入ってすぐの場所なのに、二時間近くうろうろしてても全部回りきれてないわ。本気で全ての店を見ようと思ったら間違いなく二、三日はかかるわね」

 その言葉に、亜紀もこくりと頷く。

 口を全く開かず、このようにジャスチャーかメールでの会話しかしない彼女に、千秋は優しい目を向けた。

「ごめんね、亜紀ちゃん。私、まだ手話を完全に覚え切れてないから……亜紀ちゃんにこんな面倒な会話法をとらせちゃって。ちょっと疲れちゃったでしょ」

 亜紀は首を左右に振る。

「無理しなくてもいいのよ。休みたくなったらちゃんと言ってね。私はあなたを守るために居るんだから。遠慮はしないで」

 亜紀の首振りが子供っぽくて可愛かったのか、千秋は少し笑いながらそう言った。







「ねえ、夏。あの子……超可愛くない?」

 肩まで伸びた黒髪。薄い化粧にも関わらず、整った顔。くりりとした大きな目。

 そんな亜紀の外見を指差し、一人の女子高生が目を見開いた。

 学校の帰りにこの常世国に来たのか、服装は制服のままだ。呼びかけられた夏という女性も、それは同様だった。

「え~まあ、確かにいけてる方だけどね。私には勝てないな」

 夏はふざけてるのか、本気なのか、自信たっぷりに答えた。

「でた、夏の自信過剰。確かに夏も美人だけどさ、あの子は異常だって。何か、はかない花みたいなオーラが出てるもん。夏はどっちかと言えば、一年中咲いてるドライアイスみたいだからね」

「はぁ~? どういう意味よ!」

 自分の外見がけなされるのが嫌なのか、夏はその女性を睨み付けた。

「ぷっ、冗談だって。はぁ、ホント夏はからかいがいがあるあるわ」

「もう出口よ。あんた……これから彼氏とデートだって言ってたじゃん。さっさと行けば?」

「あれ、夏はまだここに残るの? もう十九時だよ」

 立ち止まった夏を女性は不思議そうに振り返る。

「私はあんたと違って大人の時間を楽しみたいの。ここは二十四時間開いているから、これからが本番なのよ」

「制服で? 目立つよ」

「いいから早く行け」

 夏は女性の背中に手を当てると、一階へと続いているエスカレータの前に押し出した。

「もう、夏は怒りっぽいんだから……はいはい、じゃあ、また明後日学校でね!」

 邪険に扱われたにも関わらず、女性は明るい表情で手を振る。夏もぶすっとした顔でそれに答えると、すぐに背を向け、歩き出した。








 常世国一階、管理区域。会議室。

 六角行成は悠々と茶を飲みながら、部下たちの報告を聞いていた。

 「――とうわけで、フォルセティは確かに対象の傷を治癒することが出来るものの、同時にイグマ細胞を注入するという欠陥が生じてしまいました」

 分厚いファイルを読み終わり、三十代ほどの若い男が六角を見上げた。 

「そうか。ご苦労、唐沢からさわくん。引き続き研究を続けてくれ。君の研究はイミュニティーの宝だからね。今の報告内容なら、まだ資金提供を続ける価値はある」

「あ、ありがとうございます」

 六角に褒められた唐沢は、深々と頭を下げながら礼を言った。

「さて、これで会議は終わりにしよう。他に何かあるかな?」

「あ、六角代表……」

 円卓の丁度斜め右に座っていた女性が手をあげた。六角は「どうぞ」とばかりに右手を裏返す。

「これは……今回の会議内容とは関係ないのですが、先ほど地下水路から妙な『振動』を感知したとの報告があったので、一応お知らせしておきます」

「妙な振動? どのようなものかね」

「警備班が感知システムで調べて見たところ、何やら巨大な物体が今は使用されていない、古い水路の中にあることが分かりました。現在、調査隊を送っています」

「それは、最近までは無かったものなのか?」

「はい。あの水路は衛生面の関係上、定期的に見回ることとなっており、つい先日にも警備の者が確認をしました。そのときはそんな巨大なものなど見えなかったとのことです」

「……ふむ。二日前にディエス・イレが壊滅したばかりだしな。用心することに越した事は無い。分かった、引き続き調査を続けたまえ。何か分かったら教えてくれ」

 神妙な顔で頷くと、六角は立ち上がった。

「さて、諸君。会議はこれで終わりにする。僕はこれから少し用事があるので常世国を離れるが、あとは任せた」

「どちらに行かれるのですか?」

 隣に座っていた老年の男性が怪訝そうに聞く。

「何故ディエス・イレが壊滅したのか全く情報が入ってこないからね。白居にその調査を直接依頼しようと思ったんだ」

「黒服に? 大丈夫なんですか」

「心配しなくてもいいよ。優秀な部下を連れて行くから。それに、僕と白居が会うのはこれが初めてじゃないだろ。向こうも大切な顧客に害を与えるわけが無いさ。大丈夫だよ」

 六角は自然そうな笑顔でそう言うと、男に背を向け歩き出した。すぐに秘書がその横に付く。

「ヘリの準備はどうかな?」

「はい、既に離陸可能です。今すぐに向いますか?」

「いや、また資料を部屋に忘れてしまってね。ちょっと取ってくるよ。パイロットには悪いが、少しだけ待たせてくれ」

「かしこまりました」

 淡々とした様子で秘書の女性はお辞儀した。








 常世国に入ってから一時間。截はホールの一階。U字形通路の底の部分を歩いていた。

 レインコートのフードは後ろに下ろし、その黒髪を電灯の下へと晒している。

 元々はセミシュートに伸ばしていた髪も、今は僅かでも自分の外見を変えるためにショートヘアーに切っていた。

 ――イミュニティーの人間に怪しまれた場合に備えて、黒服も、対衝撃チョッキも着てこれなかった。もしここで戦闘になれば不利だな。なるべく目立たないように行動しないと。

 唯一の装備である黒柄ナイフと白柄ナイフを服の上から撫で、截は慎重に周囲を見渡した。

 非常階段。

 警備員。

 客。

 それぞれの動きをこっそりと探る。

 先ほど確認したところ、ホテル区域からの侵入は難しいと分かった。宿泊関係の職員は客の顔を覚えることに慣れているし、見ていないようで意外と客の行動を観察している。截はバレずに内部に侵入するのならこのホールからしかないと思っていた。

「問題は……監視カメラか」

 流石に六角行成が潜んでいる場所なだけはある。ホールのあちらこちらに無数のカメラが設置され、死角となりそうなものは見られなかった。

 ここにきてやっと、截は自分が焦っていたことを理解した。

 常世国の内部状態の確認も、人員配置も、内部の協力者もなしにいきなり侵入し、データーを盗めるわけなど無い。

 自分らしくない、あまりに無謀な行動に、思わず苦笑いした。

「ちょっと、はやりすぎたな」

 キツネならばこんな真似は絶対にしない。潜入するならもっと用意を踏んで、慎重に、巧みに行うはずだ。

 ディエス・イレの壊滅。

 黒服とイミュニティーの協力の疑い。

 そのショックが、事実が、自分を暴走させていたことを知る。

 截は感情的になりすぎていたことを理解し、一度翆の下へ戻ろうかと考えた。

 ――この一時間で色々見たけど、怪しいものは何も無いし……黒服らしき人間が出入りするかどうかの調査、今回はそんなもんでいいか。

 頭を掻きながら、入口の方へと向き直ろうとする。

 だが、何かの気配を感じ、踏みとどまった。

 ――何だ……今一瞬、どこかで……?

 ごく最近感じたことのあるような、恐ろしい脅威の感覚が頭の中に走る。

 振り返ると、一階の奥――丁度今いる位置から真っ直ぐに進んだ場所。そこに、こちらを見る一人の男が居た。

 長い強めの癖毛に、鷲のような鋭い目つき。全身を隠すような、大きな茶色いコート。

 截は黒服内で見た資料の写真を思い出し、無意識のうちに呟いた。

「東郷……大儀……?」








「お、唐沢。会議は終わったのか?」

 更衣室から外に出ようとしたところで、唐沢は白衣の男に呼び止められた。

「何だ住岡か。どうしたんだ?」

「お前、今日はもうあがりだろ? 一緒に上で飲まないか」

「別にいいが……お前は夜勤だろ。大丈夫なのか?」

  唐沢は怪しむような目で、声をかけてきた住岡を見た。

「いや、例のあれが不調をきたして昼に呼ばれてたんだ。ぶっつけで十二時間近く働いてな。今日はもう帰っていいんだと」

「それは……災難だったな。原因は何だったんだ?」

「詳しくは検査の結果がでるまで分からないが、どうやらただ興奮状態になっていただけらしい。何かに反応して、警戒してるんだと」

「警戒? 一体何に――」

「副主任は下の『ブラック・ドメイン』にいる『あいつ』のことを感じ取ったんだろうとか言ってたが、お前はどう思う? 主任としての意見はどうだ?」

 住岡が意見を求めてきたため、唐沢は考え込んだ。右手の親指を自分の顎に当てる。

「――……あ、悪い。お前もこれから帰るところだったんだろ? 仕事の話は止めよう」

 今始めて唐沢の私服姿に気づいたのか、申し訳なさそうに住岡は謝った。

「そうだな。今日は……ちょっと疲れた」

「一日中会議してたようなもんだからな。俺よりお前の方が災難だったんじゃないか? まさか、主任になってばっかりでそんな会議に引っ張り出されるとは思ってもいなかっただろ」

「仕様がないさ。俺ほどあれのことをよく知っている人間はいない。六角代表の気持ちも分かる」

 盛大な溜息を吐く唐沢。

「上に新しくいい店が出来たんだ。今から連れて行ってやるよ。可愛い子がいっぱい居るぜ」

 今日はもう帰りたいという唐沢を強引に引きとめ、住岡は自分の着替えを素早く終えると、その腕を引き、スキップをしそうな足取りで歩き出した。階段を昇り、一階へと進む。

「おいおい、そんなに楽しみなのか?」

 あまりに住岡のテンションが高いので、若干引き気味に唐沢は尋ねる。

「当たり前だろ。実はな……その新しく出来たとこって、サービスが凄いんだ」

「サービス?」

「つまり……」

 にやけながら住岡は説明する。今向っている場所がどういったものなのか理解した唐沢は、思わず呆れたように頭を抱えた。

「勘弁してくれ。俺がそういう場所苦手だって知っているだろ」

「たまにはいいじゃねえか。独身なんだし、照れんなよ」

 いつのまにか結構な距離を進んでいたらしい。住岡が階段の上にある非常階段の扉を開けると、一般客が多数いる場所に出た。

「あれ、今日はパーティーか、いつもはここ使ってないのに……」

 大食堂、会食場ともいえるこの場所は普段は滅多に利用されない。多くの客はホールの飲食店で満足するし、職員たちが催し物を行う際も、ここではなくホールから真っ直ぐに進んだ場所にある「いこいの広場」を 使用する。住岡は何故この場所が利用されているのか不思議がった。

 唐沢は眉が薄く、髪もボサボサ頭と非常に特徴的な外見をしている。そのため人の印象に残り易く、会場にいた警備員もすぐに彼に気がついた。

「唐沢さん、お帰りですか?」

 二人に駆け寄り、そう聞く。

「いや、その前にちょっと飲みに行こうと思ってね。ここは今何に使っているんだ?」

「――ああ、食べ放題です。営業部が一気に儲けを稼ごうと企画しましてね。ちょうどいい場所がここしかなかったんですよ」

「食べ放題か。最近はどの店も繁盛しているのに、営業部もがめついな」

 立食式に飲食を楽しんでいる人々を見渡し、住岡が呟く。

「行こう」

 自分たちのくたびれたスーツ姿はこの場には不釣合いだ。唐沢は警備員に挨拶をすると、すぐにその場を離れることにした。








 にやりと、東郷大儀は笑った。

 截から視線を逸らすと、何かを確認するように周りを見渡す。

 二階の客。

 店の職員。

 警備員。

 東郷の視線を追う間に、截はそれらの人々の中に彼だけを見つめる男たちの姿を見つけた。

 明らかに一般人とは違う雰囲気を放っている。

 直感的に、悟る。

 危険だと。

 不味い事になると。

 自分のよく知っている何か。

 死と、生と、混乱の入り混じった世界。

 地獄が、尋ねてくる。

 彼らと頷き合い意思疎通を終えると、東郷は右腕を高く上げた。

 その意図を、截は理解する。

「東郷ー!」

 ――やめろ!

 截がそう言おうとした瞬間。東郷は勢い良く腕を振り下ろした。









 亜紀は一階を見つめる奇妙な男を見つけた。

 二階の通路の端、手すりの前で、何かを探すように忙しなく首を動かしている。

 男の体躯はかなり良く、何かの訓練を受けているであろうことが見て取れた。

 現在亜紀は二階の出店式カフェテリアで休んでいたのだが、その男を見たことで急に不安な気持ちが溢れ出し、とてもじゃないがリラックスすることは出来なかった。

「どうしたの?」

 手に持ったコーヒーを丸いテーブルの上に置くと、千秋は亜紀の視線の先に目を合わせた。

 日野宮千秋ひのみやちあき。二十六歳のイミュニティーメンバー。

 三年前の富山事件のショックで声を失った亜紀は、他の人間よりも意思疎通に時間がかかるという理由で、戦闘員にも、事務員にも採用されなかった。

 そうなると彼女の行く末は実験材料か、削除対象になるしかない。それを理解した友は、彼女を自分の恋人だと偽ることで「人質」としての保護を行っていた。

 イミュニティーは友を配下に留めるために亜紀を生かしておく必要があり、彼女の身を守る羽目になったのだ。

 千秋はその護衛だった。

 実戦経験の無い若手の隊員や、上手く仕事をこなせなかった者にはこうして保護任務が当てがわれることが多々ある。六ヶ月前の水憐島事件で大した結果も出せず、魚人に深い怪我を負わされた千秋は、退院後、リハビリの意味も込めてこうして亜紀の護衛に付かされていた。

 もっとも本人は特にそれを嫌だとも思わずに、亜紀を妹のように思い、楽しんでいたが。

 だから当然ディエス・イレについての知識もあり、彼女はすぐに亜紀の見ている男が「危険」だと分かった。

「……亜紀ちゃん。もう結構休んだし、そろそろ行こっか。実は、私行きたいところがあるんだ」

 この席から男の居る手すりまでは通路を挟んで五メートル以上は距離がある。

 男がディエス・イレの人間だという確証は無かったものの、なるべく離れた方がいいと判断し、千秋はそう言った。

 亜紀はちょっとだけ躊躇うような素振りをみせたが、特に反対するような真似もせず、それに従った。

 二人して店の外に並んでいる席から立ち、通路へと出る。

 そしてそのままそこから遠ざかろうとした直後、それは起きた。

「――ディエス・イレに、幸あれ……!」

 手すりの前に居た男が突然注射器のようなものを取り出し、自分の腕に刺したのだ。








 一階の東郷を囲むようにして立っていた二階の男たちが、次々に己の体へ注射器を打ち込んでいく。

 その光景を見た截は、紀行園の事件を思い出した。

 イミュニティーと面々と協力し、赤鬼と戦闘中に遭遇した男。赤鬼から逃げる截たちを食い止めるように、己の腹に注射を打ち、化物となった彼。

 腹から突き出た三本の触手。

 胸まで開いた大きな口。

 あの、おぞましい姿。

 ――まさか、ここで大口人間を!?

「くそっ――!」

 截は東郷を目指して一気に走り出した。

 ここで紀行園の再現をさせるわけにはいかない。

 また自分の目の前で多くの犠牲者を出させてたまるか。

 そう、強く思って。

 だが、客の流れが抵抗となり、截は中々東郷に近付くことが出来なかった。数メートル進むにも十秒近くかかってしまう。

 東郷は何故か截を知っているように再びこちらを見ると、そのまま背を向け、人ごみの中に姿を消した。

 ――待て……!

 截が彼の居た場所に手を伸ばした瞬間、二階中から絶叫が沸き起こった。

 恐怖。

 違和感。

 混乱。

 狂気。

 截にとっては聞きなれた、周囲の人々にとっては初めて聞く、地獄のお尋ねを意味するベルだった。

「きゃぁぁぁぁああっ!?」

 素早く、腰のナイフに手を当て上を見る。

 大口人間ならばイミュニティーの隊員でも倒せるはずだ。二階にいたディエス・イレの男は約八人。ここがイミュニティーの拠点ということもあり、すぐに警備員の増援も期待できる。截は最小限の被害易で感染を食い止められると考えた。

 そして、それは正しかった。

 相手が、大口人間だったのならば――

「な、何だ!?」

 本屋の前に立っていたサラリーマンは、手すり付近にいた男の不審な動作を目撃し、驚いた。

 その男はいきなり自分の胸に注射器を打ち込んだと思ったら、頭を押さえ、激しく体を痙攣させたのだ。

 その挙動の怪しさに男の付近に居た人々は皆足を止め、彼を見た。

「――ぅうーう~っ……!」

 男は苦しみながら狂ったような笑みを浮かべ、自分を遠巻きに取り巻いている人々を睨みつける。そして己のシャツを引きちぎると、徐々に、徐々に、その姿を変え始めた。

 体は赤灰色に染まり、その髪の毛は静電気が流れたかのように逆立つ。

「は、はぁあ!?」

 突然の男の変異が理解出来ず、サラリーマンは鞄を落とし、一歩退いだ。

 変異を続ける男の姿はますます人間からかけ離れていく。

 体中からは網目のように緑色の血管を浮かべ、歯茎は剥き出しになり、目の周囲は陥没したように黒くへこむ。まるで頭蓋骨とその外側が逆転したかのような顔だ。

 ぐちゅぐちゅ、ぼきぼきと、奇妙な音を鳴り響かせながら、それは頭だけではなく体にも続いた。

 背骨、肋骨が浮き上がり、鎧のように肉の上に浮かび、膝は逆関節に折れ曲がり、手と足からは鋭い爪を伸ばした。

 まるで、日本古来から伝わる妖怪、「鬼」のような外見だった。

「ザァアアアア……!」

 波の音のような鳴き声をあげ、その鬼は呆然とこちらを見ているサラリーマンを視界に捉えると、一気に飛びかかった。

「ひ、ひいぃぃいいい!?」

 サラリーマンは両腕を前に突き出し、無意識のうちに鬼を遠ざけようとしたが、そんなものには毛ほどの意味も無い。あっと言う間に押し倒されたと思ったら、一気に右腕を折られた。

 鈍い音が響く。

「うわぁぁああっ!? うぁああああああ!」

 もはや何も考えることは出来ない。サラリーマンは思考を捨て去り、ただ赤子のように泣き叫んだ。

 鬼はぶらんと折れたその腕を持ち上げると、ゆっくりと楽しむように自分の口へと運んでいった。

 取り巻きの中数人の子供や、気の弱い大人がそれを見て気絶する。意識を保っている者も、時間を止められたかのように呆然と立ち尽くし、ただその光景を見た。

 まだ生きているというにも関わらず自分の腕が食われている。男は白目をむいて絶叫を上げ続けた。

 そして――……十秒ほど時間が経った頃だろうか。

 突然、その鬼は男の体を弄るのを止めた。

 まったく興味なさそうに、床の上に放り投げる。

 鬼の視線が奥の方へと向く。呆然とした表情でこの惨状を見ていた人々の方を。

 その動きで取り巻きの人々はようやく我を取り戻し、一目散に逃げ出した。

 押し合い、し合い、引っかき、殴る。

 大人、子供、男、女、誰もが関係なく、ただ恐怖から、目の前の存在から逃げたく喚く。

 鬼は彼らを見ると、血の滴る顔を歪め、再び鳴いた。

「ザアアアアァァァァアア!」

 声と同時に、先ほどのサラリーマンが起き上がる。その顔は、外見は、もはや若い男などではなく、隣で雄叫びを上げている鬼と全く同じものになっていた。

「何だあの赤い奴は……!」

 阿鼻叫喚となった二階を眺めながら、截はすぐにここから離れようと思った。

 大口人間が相手ならイミュニティーに捕まる前に殺す自信があったが、出現したのは「悪魔」を強化したような化物だ。感覚から理解するにあれを倒すには一筋縄ではいかない。

 自分の目的は黒服とイミュニティーの繋がりに関する調査。こんな東郷のテロなど、予定外因子も甚だしい。ここにはイミュニティーの隊員も多くいるはず。態々(わざわざ)正体をさらしてまで介入する必要はない。そう、考えた。

「亜紀ちゃん――!」

 真上から響いた、その名を聞くまでは――







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