蛙の子は蛙なら
ニ○一ニ年 三月三日
まだ寒さの残る頃、俺は両親とショッピングモールに出掛けた。と言っても俺と父は何か買うわけではない。買い物好きな母の付き添いみたいなものだ。母は相変わらずの散財っぷりで、まだ来て一時間も経っていないというのに、母の両手には見るからに高級そうな紙袋がいくつもぶら下がっている。父のお陰で我が家は裕福ではあるのだが、そうだとしても少しは自重して欲しいものである。
「明子、荷物持つよ」
そんな中でも父は文句一つ言うことなく、無表情のままで母に言う。対する母は「ありがとう」と万遍の笑みを浮かべながら、父に大量の紙袋を押し付け、足取り軽く次の店に向かって歩き出した。
これが我が家のいつもの光景だ。言っておくと、父は我儘な母に怒っていて無表情になっているのではなく、単純に表情での感情表現がほぼ皆無なだけなのである。少年時代の家庭環境が原因だそうだが、父さんは親と絶縁しているため詳細は聞いていないし、何だか少し怖いので聞く気になれない。そのせいで、正直息子の俺でも父の考えていることがよく分からないので、自由奔放な母に対して、父がどんな感情を抱いているかは定かではない。俺だったら文句の一つや二つ言ってしまう自信があるのだが、父は何とも思っていないのだろうか。
そんなことを考えていると、母は一人でどんどんと離れていく。
「母さん、歩くの早いって」
母は俺の言葉など気にも止めずに、ご機嫌な様子で人の波を掻き分けてずかずかと歩いていく。
一体今日だけでいくら使うつもりなのだろうか。俺はため息をついてから、小走りで母を追った。
二〇一四年 二月五日
母の不倫が発覚したのは、特に冷え込んだ日のことだった。
正月に帰省してからわずか一ヶ月後に、俺は再び実家に呼び戻された。
実家に着くと、リビングには外よりも冷たい空気が充満していた。母は泣き喚き、父はそんな母を無表情のまま見つめていた。
「私か母さんのどちらかの隣に座りなさい」
部屋に入ってきた俺に、父は低い声で呼びかけた。
俺は迷いなく父の隣に座った。それを見た母はさらに大きな声で泣きだした。
母は一年ほど前から、友人の旦那さんと関係を持っていたそうだ。ブランドバッグやらジュエリーやら、大分貢いでもらったらしい。
母は現在四十五歳であるが、俺の目から見ても綺麗で、顔には目立ったシワもなく、三十代前半と言われても通用しそうな程である。誰に対しても明るく、甘え上手で、我儘な性格であるため、俺は母が不倫したと聞かされても特段驚かなかった。
「なんで不倫なんかしたんだよ」
「だって、お父さんはいつも冷淡で、全然私を求めてくれないんだもの。私は寂しかったのよ」
ドラマとかでよくある言い訳だ。実際父さんは寡黙で、自分の思いを言葉で伝えたり、何かお願いをしてくることはほとんど無かった。しかし、常に俺たちを気づかい、行動で俺たちへの愛を伝えてくれていた。だからこそ、俺は母の言葉が許せなかった。
「確かに父さんは感情表現が乏しいよ。でも、いつも何かと気を使ってくれたりとか、父さんからの愛を感じれるとこなんていっぱいあっただろ。そんな父さんを知ってたから、母さんは父さんと結婚したんじゃないのかよ。どんな理由があれど、不倫をした母さんの方が悪いから。言い訳は聞かないよ」
俺は軽蔑の滲み出た声色で淡々と言い放った。
母はさらに嗚咽をもらした。母は喧嘩になるとすぐに泣く癖がある。普段はそんな母を見て、俺も父も怒りを沈める事が多かった。ただ、今回はそうはいかない。
「まあ、俺ももう大学生だし、大人の事情みたいなのもとっくに分かるよ。どうせ、資産家の父さんの金目当てだったんだろ。いつも父さんに甘えて、自分の欲しいものたくさん買ってもらって、それでいて求めてもらえなかったって?ふざけんじゃねえよ!あんただって碌に俺に構ってくれなかったくせに!どうせ、俺のことも父さんのことも、心から愛してなかったんだろうが!」
俺は母の腕を掴み、凄みを効かせながら捲し立て、今まで心に仕舞っていた不満や疑念を全て吐き出した。母のことだから、また同じような言い訳を並べるんだろう。俺はそう思っていた。
しかし母は、俯いたまま何も言わなくなった。
「図星かよ...」
そう言葉を漏らした途端、悲しみが俺の心を埋め、思わず涙が零れた。母が俺を本当の意味で愛してくれていないことは、以前から何となく気づいていた。でも心のどこかでは、それを否定している自分がいた。そう思い込むようにしていた自分を、自らの発言で否定してしまったのだ。
「なんか言えよ、母さん。さっきみたいに言い訳しろよ!」
そう言っても、母は顔を伏せたまますすり泣いている。呆れた俺は母から手を離し、呆然とその場に立ち尽くした。
「明子、金などどうでも良い。荷物をまとめてさっさと出ていきなさい」
父は無表情を貫いたまま突き放すように言った。
「いやよ、お願い、あなた。私を捨てないで!あなたを愛してるの」
母はまた嘘をついた。その言葉で、表情で、今まで何度俺たちを騙していたんだろう。
私はふらっと立ち上がり棚の上に置いてあった写真立てを手に取った。中には家族でキャンプに行った時の写真が入っており、そこには笑顔の俺と母、そしていつも通りの無表情な父が写っている。
この時の笑顔も、全部嘘だったんだろうか。
途端、母への怒りが電流のように俺の脳天から腕に伝わった。
俺は写真立てを持ったまま腕を振りかぶり、母の後頭部に力一杯叩きつけた。
途端に母の泣き声が止み、テーブルに朱殷の液体がどろどろと流れ出した。
あの時も、あの時も、あの時も、あの時も、あの時も、あの時も、あの時も。
思い出した母の笑顔の数だけ、俺は母を殴った。
いつの間にか写真立てのガラスが割れて、中に入っていた家族写真が血で染まり、俺と母の姿が分からなくなってしまった。
その後俺は力を失い、その場に座り込んだ。頭の回路がショートしてしまったようで、叫び声すら出なかった。
「蛙の子は蛙、か」
しばしの沈黙の後、父さんがぽつりと呟いた。白痴状態の俺は、その言葉の意味が理解できなかった。
「ふっ。ははっ」
「父さん?」
「...あっははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは。
あっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっぁ」
突然、父さんは声を出してわらった。あの寡黙な父さんがわらったのだ。慣れていないせいか、父の表情は笑顔とは到底言い難いほど、不気味に歪んでいた。
何かから解放されたような、それでいて寂しそうな、悔しそうな、色々な感情がごちゃ混ぜになった下手くそなえ顔。
これが、俺が見た最初で最後の、父のえ顔である。
二〇ニ四年 四月一日
寒さも落ち着き、暖かくなってきた日、俺は重々しい金属扉の前に立っていた。何度も来ているのだが、どうしてもこの雰囲気にはなれない。俺は一度深呼吸をしてから重たい扉を開けた。
「久しぶりだな、大輝。元気だったか?」
部屋に入ってすぐに、父のくぐもった声が聞こえた。
「久しぶり、父さん。半年ぶりだね。こっちは元気にやってるよ」
「そうか。私も同じだ」
父はそう言ったが、以前会った時より明らかに痩せていた。もう十年だ。流石の父も、こんな環境下に長い時間いれば、否が応でも精神がすり減ってしまうのだろう。
挨拶もそこそこに、俺は本懐を果たすべく話しを始めた。
「実は今日は報告したいことがあって来たんだ。俺、結婚することにしたよ」
「ああ、そうか。おめでとう。相手は香織さんか?」
「うん、そうだよ」
父は少しだけ目を細めて言う。その微細な表情の変化から、父が喜びを感じてくれていることが読み取れた。
俺は香織のことを、交際し始めた当初から父に話していた。香織と出会ったのは八年前で、大学で同じ研究室に入ったことがきっかけだった。香織は俺の家族の事情を知ってもなお、変わらずに俺と一緒に居てくれた数少ない人物だ。お互いが社会人になっても交際は順調に続き、先日俺がプロポーズしたことでついに婚約に至った。
「あの子はとても強い子だ。私の存在を知っても、変わらず大輝を愛してくれている。素敵な人と出逢ったな」
「俺もそう思うよ。だから結婚したいと思ったんだ」
父は小さく頷きながら俺の話を聞いてくれた。
あの日から父は、明らかに表情が豊かになった。もちろん、他の人と比べれればまだ無表情の範疇なのだが、今までは父の表情から感情を読み取ることなど不可能に近かったことを考えれば、劇的な変化と言えるだろう。
「なあ、父さん。なんで父さんは母さんと結婚したの?」
俺は兼ねてから抱いていた質問を父にぶつけた。自分が結婚することになってから、よく考えるようになったのだ。
父は眉間に少し皺を寄せ、遠い記憶に焦点を合わせた。
「彼女は私にない全てを持っていた。愛嬌、そして少しの我儘。当時の私にとって、彼女の存在はとても眩くて魅力的だった」
「愛してた?」
「愛してるさ。でもあの時は、それ以外の感情が愛を上回ってしまっていた」
父は眉尻を下げて、どこか遠くを見つめていた。寂しさ、後悔。そんな感情が読み取れる気がした。
「恨んでる?」
俺は少し声を震わせながら言った。そんな俺を見た父は、少しだけ口角を上げて大きく首を振った。その表情は、何もかもを包み込んでくれるような慈愛に満ちた表情にも、俺を心配させまいと気丈に振舞った結果にも見えた。
父の表情が豊かになったことで、逆に父の感情が読み取りにくくなった部分がある。今まで表情でのコミュニケーションを怠ってきた報いだ。
今まで俺は、父の行動をみて父の感情を読み取っていた。しかし、以前のように俺たちを気遣って動く父を、俺はもう見ることはできない。無機質な箱の中に閉じ込められている父は、何かで縛り付けられているかのように、椅子から立ち上がらない。
「そっか。答えてくれてありがとう。じゃあ、俺もう行くよ」
少しの沈黙の後、俺はゆっくりと席を立って、出口の方に体を向けた。
「なあ大輝、もう私には会いに来ないでくれ」
父は背を向ける俺にそう呼びかけた。何となくだが、父ならいつかそう言う気がしていた。
「いや、でも俺まで絶縁になったら、父さんには...」
反論を言いかけたところで、父は俺を制してから続けた。
「お前には大切な家族ができるんだ。私に会いに来る時間を家族のために使いなさい。そしてたくさん思い出を作り、家族と過ごす時間を楽しみ、その気持ちを包み隠さず伝えなさい。これが父としての、お前への最初で最後の願いだ。もうこれ以上、私と同じような間違いを犯さないでくれ」
父は少し悲しそうな目をしているように見えた。こんな風に父が自分の意思を言葉で明確に伝えてくれたことは初めてであったため、俺の中では父に会えなくなる寂しさよりも、俺に自分の願いを託してくれたということへの嬉しさの方が僅かに上回っていた。
「父さんのお願いなら、無視する訳にはいかないな」
俺は父に微笑みかけた。父も小さく微笑んでくれた。
「じゃあ、元気でね、父さん」
「ああ、幸せになってくれ、大輝」
「うん、必ず。もし子どもが生まれたら、その時はまた手紙書くよ」
そう言い残して、俺は重たい金属の扉を開け、部屋の外に出た。建物の出口まで続く廊下がいつもよりも長く感じた。
俺は既に見知った仲になった警備員に軽く挨拶をしてから、父のいる刑務所を後にした。
最寄り駅へ向かう最中、俺はあの日のことを思い出していた。
俺の家族が壊れた日、初めて父のえ顔を見た日。
俺の家族はいつまで幸せだったのだろうか。そもそも、俺の家族が幸せだった時が少しでもあったのだろうか。考え出すと、それすら疑わしくなってきてしまう。
いや、もう忘れよう。父もきっとそれを望んでいるはずだ。俺の罪を庇ってくれた父のためにも、父が成し遂げられなかった幸せな家庭を作るという目標を、俺が代わりに叶えるのだ。それが俺のするべき贖罪の仕方なのだ。
俺はいつの間にか下がっていた口角を無理やり上げて、自分自身を騙すための、見せかけの笑顔を作った。
ふと横を見ると、コンビニの窓ガラスに映る自分と目が合った。
その時の俺の笑顔は、母の笑顔とよく似ていた。
本作品をお読みいただき、誠にありがとうございます。今回は、しいなここみ様主催の『冬のホラー企画3』に参加させていただくということで、「ヒトコワ」要素を取り入れた作品を創ってみました。
余談ですが、2月5日は「笑顔の日」だそうです。