つまり、俺と付き合ってくれるってことですか?
高校に入学して少し経った頃、俺――蓮見蓮は、放課後の校内をぶらぶらと歩いていた。共に帰る友人の部活動見学が終わるまで、仕方なく一人で暇を潰している。新入生勧誘で賑わう先輩たちの目を避けつつ、ひっそりと人影の少ない場所を転々と移動しては、窓から顔を出して春風に当たる。
部活に入る気なんてさらさらない。昔から俺は、係だの委員だの部活だのを教師からの印象稼ぎでしかないと言って避けてきた。テストでそこそこの点を取っておけば十分。それが俺のスタンスだった。しかし、今となっては少し、いや、かなり後悔している。だが、今更どうしようもない。俺みたいなやつと仲良くしてくれる物好きな友人が一人いるだけで、人付き合いは苦手だ。今さら部活に入るとしても、人付き合いが億劫になって部室から足が遠のく未来しか見えない。
そんなことをぼんやりと考えていると、ため息が出た。次にどこで暇を潰そうか。そう思った瞬間、誰もいないと思っていた後ろの教室の扉がガラッと音を立てて開く。
現れたのは、一人の女子生徒だった。
前髪は眉のラインで綺麗に揃えられ、背中の中ほどまで伸びたまっすぐな黒髪。絵画から抜け出してきたかのような整った顔立ちに、思わず目を奪われた。
一目惚れだった。
無気力に生きてきた俺が、初めて恋に落ちた瞬間だった。机に突っ伏して聞こえてくるクラスメイトの恋バナを鼻で笑っていた俺が、今やその恋に捕まってしまったのだ。中学時代の俺がこの姿を見たら、さぞ冷笑を浮かべていただろうが、そんなことはもうどうでもいい。
彼女が歩き去るその姿を、俺は心臓が高鳴るのを感じながら、ただ黙って見送ることしかできなかった。少し遅れて、彼女が出てきた教室の扉に目をやる。
文芸部。
その瞬間、俺の入部先が決まった。
それから時は過ぎ、夏休みが終わって二学期が始まった。相変わらず俺たちを苦しめ続ける暑さに文句を垂れながら、俺は異様なほど速い脈拍を感じながら文芸部の部室で椅子に座り、読書をしている。いや、読書をするフリをしている。心ここにあらずの状態では、文字がまったく頭に入ってこない。
それもそのはず。なぜなら、俺はついに今朝、大それたことをやらかしてしまったのだ。俺が想いを寄せる相手――雨宮翠先輩の靴箱に、ラブレターを入れたのだから。告白を手紙で済ませるやつの気が知れない。以前の俺はそう思っていた。告白なんて、目を見て堂々とするもんだ、と。いつか自分が恋をした時は、男らしく直接ぶつかるべきだと信じて疑わなかった。ラブレターも、DMも、遠回しな告白も、すべてダサい。真正面から勝負に出るのが男だと。
できなかった。そんな度胸は俺にはなかった。周りの視線に怯えながら、想いを綴った手紙を靴箱にそっと忍ばせるのが精一杯だった。
どれだけ時間が経っただろう。緊張のあまり、時間の流れが異様に遅く感じられる。体を動かして後ろの時計を確認する気力もなく、俺はひたすら本の同じ一文をなぞるばかりだ。
ガラッ。扉が開く音。俺は、持っていた本を危うく落としそうになる。先輩は無言で俺の正面の椅子を引き、美しい所作で腰を下ろすと、最近気に入っているらしい小説を鞄から取り出した。その一連の動きを、俺はつい目で追ってしまう。
昨日と変わらない様子の先輩を前に、俺の不安は徐々に募っていく。もしかして、手紙が読まれていないのだろうか。
室内にページをめくる音と衣擦れの音だけが響く。時間が経てど、先輩からは何の反応もない。そういえば、俺は返事がほしいと書いただろうか? 文章が好きな先輩の気を引こうと、やたらとこねくり回した詩的な文章をしたためた記憶はある。しかし、そこには先輩への想いを書き連ねただけで、返事がほしいだとか、付き合ってほしいだとか、そういった類のことを書かなかったような気がする。
先輩の靴箱に入れたのは間違いなかっただろうか? 何かの拍子に靴箱から落ちてはいないだろうか? ラブレターを読んでくれたのか、そうでないのかもわからず、不安な気持ちがどんどん膨らんでいく。
冷や汗をかきながら固まっていると、先輩がふいに息を吐き出し、口を開いた。
「蓮見君。恋人って、両想いだと思う?」
その言葉は、俺の意識の隙間にスッと滑り込んできた。俺は一瞬、呆けてしまったが、すぐに手元から顔を上げて先輩を見る。今日初めて、俺は先輩の目を見た。よく見れば、いつもと同じだと思っていた先輩の様子に、わずかな違和感がある。毎日のように先輩のことを目で追って、放課後の時間を共にしているからこそ気が付けた違和感。いつもはまっすぐ俺を見つめるその視線が、窓の方や、俺の後ろにある時計の方に、時折さりげなく向けられている。
読んだんだな、と俺は悟る。手紙が紛失していないことにひとまず安堵したが、まずは先輩からの問いに答えないといけない。恋人は両想いか。言外の意図を考えるも、分からない。どういうことだ。恋人は両想いに決まっている。脅されたとか、権力に逆らえなかったとか、そういうイレギュラーな場合ではなく、おそらく一般的な恋人の話をしているであろうことはさすがの俺でもわかる。
「えっと、両想い……なんじゃないですかね」
俺が答えると、先輩は机に置いてあったしおりを手に取り、本に挟みながら続ける。
「例えば、AさんはB君が好きです」
唐突なたとえ話に少し戸惑うが、俺は先の言葉を待つ。
「B君もAさんが好きです」
それはおめでとう、と心の中で祝福しながら、先輩の話を聞き続ける。
「でも、そんな都合のいいことって、あるかしら?」
いや、あるだろう。学内にもそこら中にカップルがいて、端から見ていてもお互いに好きなんだな、ということは伝わってくる。それとも何か、あいつらが作り出すあの甘い空気は演技だとでも言いたいのだろうか。
俺がそんな疑念を抱いていると、先輩は「言い方が悪かったわね」と言い、説明を補足するように続けた。
「互いに相手が一番であるというのは、少し無理があると思うのよ」
先輩が言うには、こういうことだった。Aさんに告白されたB君は、仮にAさん以外に告白されていたら断るのだろうか。本当はAさんよりもCさんの方が好みで、でもAさんからの好意を受け入れられるくらいにはB君はAさんに好感を持っていたから付き合った、という場合もある。その場合、Aさんの一番はB君かもしれないが、B君の一番はAさんではない、ということになるだろう。
つまり、B君はAさんで妥協したのではないか、と。
そう言われると、世の中のカップルを見る目が変わってきてしまうので、できれば純粋な俺にそんな変な考えを吹き込まないでほしかったが、もう遅かった。最近付き合い始めたと噂の三原さんと佐伯君も、どちらかが妥協したのだろうか、そんな不躾な考えが頭をよぎる。
「勘違いしないでほしいのは、私はそれを変なことだとか、悪いことだと言っているわけではないの。実際、恋愛なんてそういうものでしょう」
「まあ、そうかもしれませんけど……つまり、何が言いたいんですか?」
俺はますます混乱していた。どうしてこのタイミングで先輩がこんな話を持ち出してくるのか、その理由がさっぱりわからない。
「ではその交際するしないはどうやって判断しているのかしら?」
そうだな、俺なら先輩に告白されたら即答で「はい!」だ。被せ気味で返事をするだろう。俺の中の好感度ランキング一位は、目の前の雨宮翠先輩なのだから当然だ。では、他の女性に告白されたらどうだろうか。
例えば同じクラスの清水さん。天真爛漫で、誰にでも明るく接する人気者。教室の隅でクールぶってる痛い俺にも笑顔で挨拶してくれる、優しい子。しかも、可愛い。タイプは異なるが、先輩にも負けず劣らずの美人だ。そんな彼女に告白されたら……正直、付き合ってしまうかもしれない。
「将来的にその人を好きになる可能性があるかどうか、それが大事だと思うわ」
なるほど、面白い意見だ。今好きではなくても、一緒に時間を過ごして、思い出を積み上げていった先、その相手が自分の中で一番になり得る。そう判断したとき、交際に踏み切れる、と。
「私はね、蓮見君。人を好きになったことがないの」
先輩の言葉に、一瞬の静寂が訪れる。
「もし私に恋人ができたら、こんな風に甘えるのかな、とか。こんな風に喧嘩するのかな、とか。こんな風に仲直りするのかな、とか。そんなことを考えたこともあるわ。でも、どうしても想像できなかった。恋人のいる生活を送る私を想像できなかった」
一瞬、期待してしまった。でも、そうか……想像できなかった、か。ならば、しょうがない。先輩に一目惚れしてから、もう四ヶ月が経つ。その間、この学校にいるどの男よりも先輩と共に過ごしてきたと思っていた。放課後は毎日、言葉は少ないながらも同じ空間を共有し、しれっと一緒に帰っていた。何度も休日に二人きりで出かけた。俺という存在が近くにいることを許してもらえているんだと、そう思っていた。でも、それだけだった。目障りな存在ではないだけだった。
ふぅ、と息を吐き、気持ちが沈んだことを悟られないように先輩の言葉を待つ。
「この前、一緒に備品を買いに行ったでしょう」
「はい」
部室の本棚が老朽化していたので、新しいものを買いに行った。休日の朝から二人で出かけて、俺にとってはれっきとしたデートだったけれど、先輩からすると俺がいるかどうかの違いしかない、ただの休日だったのだろう。
「放課後に駅前の本屋に寄ったこともあったわね」
「そう、ですね」
先輩に頼んで一緒に新刊の小説を見て回った。その時、店員に恋人と間違われて、嬉しかったことを思い出す。
「初めて二人で休日に会ったのは、映画を観に行ったときだったわ」
「面白かったですね、あの映画」
先輩の好きな小説が映画化した。それを聞いた俺は、先輩を誘ったのだ。初めて見た先輩の私服に目を奪われてむせたことをまだ覚えている。
「蓮見君からこれを貰うまでは、別に何も思わなかったのよ」
先輩はそう言って、鞄から見覚えのある封筒を取り出す。
「読んだわ。ありがとう。随分と熱く愛を語ってくれていたわね」
「恥ずかしいので内容に関しては触れないでください……」
顔が熱くなる。深夜テンションで書いたラブレターには俺の気持ちが溢れていた。恥ずかしいので早く鞄にしまっていほしい。
俺の願いが通じたのか、先輩は封筒をしまい、口を開いた。
「まず、蓮見君の気持ちに、今の私から返せる気持ちはない」
それを聞いて、俺は無言でうなずく。あれだけ緊張していたのに、不思議と今は落ち着いていた。
「でも、蓮見君と過ごした時間は嫌いじゃなかったわ。むしろ、思い返してみれば結構楽しかった」
少しホッとする。少なくとも、これまでの関係が無くなるわけじゃないみたいだ。
「四ヶ月という短い時間で、蓮見君との楽しい思い出がたくさんできた。その上で言わせてもらうわね。私は蓮見君のことをこの先好きになれるかどうかは、正直なところ、わからない。でも――」
――この短い期間で私の中に楽しい思い出をたくさん作ってくれた。だから、今後は一体どんな楽しい思い出ができるのか、とても期待しているわ。
先輩はそう言って、机の上の小説をカバンにしまい、立ち上がった。そして、扉の前で一度振り返る。
「今日は用事があるから、少し早いけど帰るわね。また明日」
扉の向こうに消えた先輩を見つめながら、俺は呆然としていた。数秒後、先輩の後を追うように扉を開けて、廊下の先に見える背中に問いかける。
「つまり、俺と付き合ってくれるってことですか?」
階段に足を踏み入れかけていた先輩は、顔だけをこちらに向けて、短く言った。
「これから、よろしくね」