表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
運命の足跡  作者:
4/4

運命の足跡



         

これは母が歩んでかた過酷な人生の真実を描いた物語です

なぜ自分を犠牲にしてまで人のためだけに生きたのか

ある暑い夏の朝に電話のベルがなる。東京に住む

姉からだった、母の訃報を伝えてきた、

自分の親の死をまるで他人事のように言ってくる。

私の住んでいる所から車で15分位なので急いで実家に

向かうとそこには白い布が掛けられた母が

そっと覗くと、死にたい死にたいと言っていた

母がそこには居なかった、穏やかに眠る母を見たとき

やっと苦しみから解放されたんだな

そぅ思いながら少しホッとした自分がいた

なぜか涙がこぼれない

北海道はサロマ湖の側で長女として生まれた

男の子が3人だった両親は望んでいた待望の女の子で

とても喜んだ、春に生まれたので名前を

春枝となずけた、間もなくして

また女の子が生まれた、親は喜んでいたが

産声をあげぬまま死んでしまった

悲しんでいた両親に、また女の子をさずかったのですが

喜びもアッとゆうまに悲しみに変わってしまった

その子もまた生まれて直ぐに息を引き取りました

納得のいかない母はよく当たると言う

預言者に相談した、するとかえって来た言葉が

長女の性を変えなければまた

同じ事が続きますよ、それを聞いた親は

春枝の性に悩んでいたが母親の旧姓に

変えることにしたのです

すると亡くなった妹2人を含めて11人の子どもに恵まれた

兄妹で春枝だけ性が違うことに、なぜ

長女として生まれた春枝に大きな責任と

亡くなった妹の命の重みを背負って行く事に、

まだ幼かった春枝は学校で苛めを受ける。

町の人からは冷たい目でみられ、おまけに母からは

疎ましく思われ、それでも怯むことなく素直に成長した

ある日、大人としての印がやって来た

母に相談すると、思いもよらない言葉がかえって来た

自分も経験してきたはずなのに

淫らな行為をしたと攻めたのです

心が裂けそうに苦しんでいた頃


見るに見かねた近所のおじさんから南樺太に

行かないか、樺太で野菜を育てたいんだけど。

この町から離れたかった春枝は喜んで返事をした

すると姉を慕っていた弟が僕もついて行くと

言って来た、姉は喜んで連れて行く事にした

一緒に故郷を後にして船に乗り樺太に向かった

樺太に着いた春枝が降りようとしたとき

乗車してきたうちの1人が春枝に

あんた一生幸せになれないね

そう言ってすれ違って行きました

気にもせずに樺太の地に降りた春枝は野菜作りを

手伝いながら、売店で働くことにした。

樺太には各地から大勢の人が出稼ぎに来ている

内地で戦争が起こっているとき、樺太では

平和な暮らしと、綺麗に整備されている町並みが

広がっていました

しばらくして弟に召集令状が届き

戦地に向かうことになった、一人になってしまった

春枝は無事に帰ることを祈りながら

2~3年が過ぎ、売店で一緒に働いていた

お節介おばさんがお見合いの話を持ちかけてきた

その相手とゆうのが炭鉱で働く

出稼ぎ労働者でした、のる気でなかった春枝は

しぶしぶお見合いをすることにした。

何回か会ううちに、意気投合し一緒になる事になった

やがて女の子が生まれて

幸せな日々を、送っていましたが

日本は戦争に負け終戦を迎えた、これでやっと

日本に平和が訪れると思った矢先

いきなりソ連軍が条約を破り突入して来た

幸せだったはずの時間がアッとゆう間に崩れてゆく

春枝家族は急いで衣服をまとめ

走り出そうとしていた船に、やっと間に合い

乗せてもらう事が出来ました。人を沢山乗せるには重い荷物が邪魔でした、余計な荷物は海に捨てる

事になりました、荒波に耐えながらやっと

故郷にたどり着くと、いきなり夫が九州の炭鉱で

働くと言い出した、しかし焼け野原となった内地を

やっと歩く子供を連れて移動するなど

容易な事ではなかったはず、何日もかかりやっと


九州にたどり着くと夫は 直ぐに働きに出ることに

なりました、春枝は子守りをしながら

夫の帰りを待ち、何ヵ月かたつと、女性問題が

浮上した。そんな時会社から、夫が事故に

巻き込まれたと連絡があった、どんな状態か心配

していると、『旦那さんは落石きに巻き込まれ

亡くなられました、そう言われた春枝は

とりあえず北海道に戻る事にしたのです。またも

厳しい旅が待っていました。

故郷にたどり着くと戦地に行っていた弟が帰って

いました、しかし悲しみと疲れで喜べなかった

そんな時、一通の電報が届く

それは亡き夫の母親からでした、その内容が、息子の

遺品が何もないから孫の顔を見せて欲しいと

書いてありました、それを見た春枝は親の

心境を思い、両親の反対を押し切り、夫の故郷へ

向かうことにしました、すると心配した父が

「私も着いて行く」と言ってくれた心ぼそかった

春枝はとても嬉しかった、そしてまた三人の

厳しい旅をすることに

それでも父が居てくれるだけで心強かった。

再び悲劇が起こるを春枝は知るよしもなく

そこは新潟県の山に囲まれた15件しかない小さな

村でした、電車の長い旅とバスを降りて砂利道を歩き

山を越え、やっとたどり着いた村は

まるですり鉢のようで家半分が斜面に建ててあり

山の回りには沢山の杉が植えてあり、上を見ると空が

とても小さくて寒々と感じた。

一軒だけ茅葺き屋根の家があり、たどり着くと

大柄な女性が仁王立ちして目の前にいた

小柄な春枝は体がすくむような思いが、すると挨拶する

事なく、いきなり義母からとんでもない言葉が

「孫をおいていけ」「それが嫌ならお前も残れ」

そう言って脅してきた、とても優しい父は黙って

千円を握らせ、いつでも帰ってこいと言って

一人で帰る事に


涙ぐむ父の後ろ姿を見送り、それが一生の別れと

なりました。貧しい生活をしているように見えた

春枝は父のくれた千円を差し出すと

「お前が持っていても使い道がないからな」そう言って

義母が取り上げた。崖を削って作った敷地は

とても狭く、家の前も崖になっている

50メートルほど下にも家が建っている、義母が

最初に嫁いだ所が下の家でした、男の子3人と

夫がいて、その男の子の1人が亡くなった春枝の夫でした

上の家には新婚夫婦が住んでいましたが

よりによって新婚夫婦の旦那に思いを寄せ

妻を追い出し上の家に居座ったのです

屈辱に耐えきれなくなった夫は自ら井戸に身を投げて

亡くなりました

こんな狭い村の中で、それも直ぐ下の家から

義母は下の家に二人の子供を残したまま、

上の家に嫁いだ、そして四人の子供を産んだ

やがて子供達は成長し、それぞれの道を歩んで  

行きました、長男は戦地で命を落とし

次男は東京で自立し事業を初めていた

三男は体が弱く力仕事が無理だったので、ほとんど

東京の次男のところで働きに行っていた

末っ子の女の子は目がほとんど見えません

そんな家族を支えるために、春枝を、体の弱い「三男と一緒になれ」と言って無理やり結婚させたのです。

直ぐに長女、私、長男、次男を授かりました、義母は

お婆さんに春枝は母に、体の弱い夫の分まで

働かせ「俺らの頃はな朝飯の前に一仕事したもんだ」

そう言って右も左も分からない母を山へ連れて行き

言葉のムチを使って労働をさせ、馬車馬のように

扱っていた、そしてお産した翌日から働かせ

ボロボロになり内臓が飛び出し

まるで男のようになっていた、それでも愚痴一つ言わず

汗まみれになりながら働いた。


ある日追い出した嫁が隣の町で年配の男性と暮らしていた

高齢出産で男の子を生みました、しかし

母親は直ぐに死んでしまったのです

その子を誰が引き取るか、揉めていると回りの人達が

お婆さんのせいだから、お婆さんが引き取るべきだ

すると、仕方なく引き取る事になった。

その男の子もまた耳が不自由で話すことも出来ない

可哀想な子供だった、樺太生まれの姉とは二才年上で

私たちは兄と呼ぶことにしました

そしてまたその子も春枝の重荷になっていくのです。

遠くから来た春枝は、村の人にとって

ただのよそ者にすぎません、孤独な春枝にとって

我が子だけが生き甲斐でした。

目の不自由な叔母さんが私の子守りをしていて

囲炉裏の側においたまま玄関に向かった

誰か来たようだ、そんなときハイハイして

まだ火が点っていた囲炉裏に落ち、左側面に火傷を

負った母は仕事で留守でした、

叔母さんが戸惑っていると、来ていたお客が急いで

母を呼びに行ってくれました。

帰って来た母は急いで遠く離れた病院に連れて行き

泣き止まない私をしっかり抱き締めていた。

やがて兄が私達にお前達のオムツを小川で洗った

んだよと誇らしげに話していた

田畑がある場所は、とても辺鄙な場所にある

獣道を上りそして下ると一畳ほどの田んぼから

下にに向かって広くなっている。

十二才になった兄にお婆さんが牛の手綱を持たせ

野良仕事に行ってこいと牛を引かせた。

小さな体で大きな牛を扱うのは、大人でも大変なのに

兄は必死で誘導するが


思うようにいかない牛を殴ったり蹴ったりした

牛も腹を立て、角で突いたり、蹴ったりしてくる

母までが犠牲になり、角でつかれて怪我をしました。

それでも兄は必死で仕事を果たした

兄の昼飯は梅干しの入った大きなおにぎりで新聞紙に

包んである、新聞を剥がすと印刷した文字がおにぎりに

写っている、お腹が空いてる兄は美味しく

食べていた、そんな兄もお婆さんの奴隷なのです

家の横には、二階建ての小さな小屋がある

そこに、ニワトリと豚を飼っていた、

家に連なって牛小屋があり、家の中から餌をあげられた

卵は売り物としていたので食べる事が

出来なかった、しかしいつの間にか牛もニワトリも

豚まで居なくなっていた、

兄はとても器用で何でも直していた、母は言います。

兄がまともなら、こんな辺鄙な場所には

居なかっただろうね

村には、学校に行く山道とあと二本の道がある

一本は平らな道で沢山の村を通り、もう一本はなだらかな

山道で斜面にそってついてある、やはり遠周り

学校に通う登り口には石油が出ていて

いつもガタンガタンと音をたてていた。

それで村は潤っていたそうです、それで村人が博打を

やり、博打に弱い我が家が貧しくなったと

聞きました、私が小学校四年頃には掘削も終わり

音も聞こえなくなりました。

村の真ん中に流れる小川が合流する川に、よく魚を

釣りに行きました、川の淵に田んぼが何枚かあり

畦道を歩くと七色に光る油が浮いていた


ここを掘ったら石油が出るかもなんて子供心に

思った、学校に行く途中にトンネルが掘ってある

そのトンネルは途中で終わっている。

村の人達が近道をするために掘ったそうですが

途中で諦めたんだそうです、暑い時は学校帰りによく

涼んでいた。冬は豪雪地帯で山から吹き下ろす風で

三メートル以上の雪が積もる、

あまり日が当たらない村は、春になっても雪が消えません

冬は山の中腹で炭焼きをしている、兄と母は

炭俵を背負い積もった雪の上を、

懐中電灯を持って迎えに行った私の目の前に

滑り落ちて来ました

私が十二才の時、久々に帰って来た父が

近所のおじさん達と囲炉裏を囲んでお酒を交わしていた

たいして飲めないお酒が、この日は進んだ。

酔っぱらった父がトイレに向かった、トイレは

玄関の脇にあり、とても寒い場所にあった。

なかなか戻って来ない父を母が次男に「見てきて」と

言うと「お父さんが倒れているよ」びっくりした母は

皆で床に運びました、しかし目を開けたまま

3日目に亡くなりました、享年三十六歳でした

都会に働いていた

父は何処より、流行を取り入れテレビやレコードを

買って来ました、山に囲まれた村では電波が届きずらく

兄が一生懸命アンテナを伸ばして室内アンテナも

取り付けて、やっとなんとか写りました

母には優しかったと母が言っていました。

でも、その父はもういません、

これから、ますますお婆さんの風当たりが強くなると

思いました、

雪が積もると、親たちが交代交代に学校に通う道を

かんじきを履いて子供達より一時間位早く道をつけて

くれます、しかし雪が沢山降っているとまた

道が見えなくなります。


家には四つの部屋と、板の間の台所とコンクリートの

お勝手がある、お勝手にはスノコが敷いてあり

井戸とお風呂がある、傾いている窓が外とのすき間を

ふさいでありました、冬は雪が入って来て

とても寒かった、

そこで食事の支度を、手を真っ赤にしてお米を

研いでいいた、可哀想に、六畳の部屋があり

一つはお婆さんと長男、姉、兄が寝ていた

もう1つは母と私と次男の部屋でした

お婆さんと寝ていた兄弟はとても待遇がよく内緒で

おやつを貰っていた、母を嫌っていたお婆さんは

母を慕っていた孫を嫌っていた、だから

貰えなかった、ちょっと羨ましかったけどその

私の寝ている部屋は、手の届かない高い所に50センチ

ま四角の窓があり、障子がはってあり破けていて

冬には雪や雨が入り、とても寒かった。

敷き布団には藁が入っていて、湿っていて寝苦しかった

部屋の裏が崖になっていて、日があたらず

寒々していました

本家のおじさんは隣町の役場に努めて、

お婆さんに「兄をろう学校に入れたらどうだ」と

言うと「そんな所にやらんでいいや」そう言って」

断って来た、母は兄に話が通じないことに悩んでいた

離れていると兄に話が届かないことに

イライラしながら仕事をして帰って来た、私達も

もどかしく感じていました、それでも兄だから

樺太で生まれた姉に母は義理の父であることで

甘えることを許さなかった

お婆さんが会いたがっていた孫もまた奴隷のような

扱いでした、姉が小学校の頃に学校に行く時

長い麻を背負わせ獣道を運んだ、まるでカニのように

して歩いたそうです、そして近所の人に頼まれ

重い荷物を運ばされ、負けず嫌いな姉ねは

他の男の子より沢山運んだと言っていました。

勉強が好きだった姉はクラスで真ん中の真ん中の

成績でした、姉を教えた先生が私に教えてくれました


お婆さんが「学校なんかいかんでいいから家の手伝いを

しろ」そう言って年に半分位しか通えなかった

それを知っていたから先生が褒めたのだと。

やがて姉は東京に出稼ぎに行きました、そして結婚をし

東京で暮らしている

母はいつも疲労と寝不足でしょっちゅう怪我を

していました。

そんな不便な村を若い人たちが次々と都会に出て行った

村の人達も町へ出て行きました

残った家は六軒になりました、この中に我が家も

含まれていた、そんな時、思いもよらない話が舞い込んで

来ました、本家の叔父さんからだった

役場に勤めているため、直ぐに情報が入る

隣町に五軒が住める宅地が売り出されたとの事だった

村の人達が話し合いをして、仲間に入れてもらった

のは良かったが、1区画300坪で50万との事でした、

しかし家には、そんな大金が有るわけがない

母は東京に住んでいた姉に相談した

すると姉から「こんないい話は二度とないよ今逃したら

二度と無いから」とそう言って旦那の了解を得て

50万を出してくれた、しかしこれからが大変です

それでも母は諦めなかった。

最初に、農協にお願いし、お金を借り、たいして

お金にならない山奥の材木を売り田畑を売って資金を作り

後は農協でローンを組んで、親戚の大工さんにお願いし

やがて工事が始まいよいよ工事が始まりました

お婆さんも年を取り家にいるようになった。

兄も大きくなり、母の元で普通の生活を取り戻せた、

ようやく家が完成し、町に引っ越す日が出来ました

意地の悪かったお婆さんも喜んでいた

しかしだんだん床に伏すようになり、母は一生懸命介護を

していました、そして一年ほどで亡くなったのです

息を引き取る前に母に言ったそうです

「お前に辛く当たって悪かった許してくれ」

それを聞いた母は傷ついていた心がサッと消えていったと

すぐ上の姉と私は信じられなかった、だってあれだけ

ひどい目に合わせて来た罪を、子供や身内が

背負って行った、妻を追い出した夫は若くして亡くし


長男は戦地で命を落とし、次男はアルコール依存性で

お風呂を沸かそうとしてたが、ガス漏れを起こして

命を落としたまだ40半ばでした、三男は体が弱く

36歳で亡くなった、末っ子は生まれながらにして

ほとんど目が見えません、そんな娘だけは

親をみ見とり亡くなりました、こんな不幸が

有るのですね。そして孫の私を選び、不幸を

もたらしました。

長男が結婚して家に入ったが一年ほどで出て行きました

続いて弟も結婚をいて家に入りました

そして孫二人を授かり

母もこれからは楽になるかもしれないと思っていたが

神様は意地悪をする、幸せを願っていた母に

またも襲ってくる悪夢、お婆さんからの苛めから

解放されたばかりなのに、またも辛い日々が

迫ろうとしている、嫁は車で15分ほどの会社に勤めていた

仕事を休む事が嫌いな嫁は全てを母に任せていた

学校の行事や参観日そして病気になっても

母に任せっきりでした、感謝の言葉もなく

気にいらなけば顔にだし、暴言を吐き脅してくる

そして兄もまた邪魔な存在だったのかもしれません

ある日知り合いの方から、兄に仕事の依頼が来た

兄は喜んで返事をした、屈託のない兄はみんなに好かれて

いました、それは土木の仕事で、いつも嬉しそうに

出掛けて行った、初めて貰った茶色い袋に入った給料

袋をニコニコしながら母に差し出した

すると母から兄に向かって「嫁にやれいや」と怒鳴った

喜んでくれると思った兄から笑顔がきえた

本当は褒めてあげたかったか、母も苦しかったのです

そんな余裕など母にはなかったのです

自分もまた嫁に怯えていたからです

ある日嫁から電話が掛かってきた

お母さんが怪我をして、運べないから手伝ってと

言って来たので直ぐに実家に向かった

転んで両腕を痛め動かすことができなかった

母を運ぶ事など簡単なことなのに

ただおんぶすればいいだけです

まるで汚い物を見るように。

母はとても綺麗好きでした、どんなに忙しくても

私が背中に背負い車まで運んだ

嫁が運転をして、病院に向かった

その運転がとにかく荒く、痛んでいた腕がドアにぶつかり、とても痛そうでした


やがて病院に着くと嫁から「姉さん帰っていい

よ私が連れて帰るから」と言われ

帰ることにしたが

どんな扱いを受けるのか心配だったが

帰るしかなかった。翌日心配だった私は

様子を見に行きましたが、おいて帰るわけには

行かず、夕食を用意して

泊まることにしたが、嫁は気に入らなかった

みたいで私を睨み付けた、そし動くなと言ったねかや」て食卓に

座ろうとした母に「そこは娘の場所らて」

そう言って怒鳴った。もう家を出て居ない

娘なのに、嫁を見るたびに思う

楽しい時ってあるんだろうか、笑っている日って

有るのかな、どうでもいいけど、そう思う。

人生は長いようで短いよ

私達兄妹が泊まる事も気に入らない

だから里帰りする時は、必ず食料を用意して

帰る、なぜそこまでして嫁の機嫌を

取らなければならないのか

テレビで時々嫁姑の仲が良い様子を見ると

あんなお嫁さんなら母も幸せだったろうにと

私達兄妹は誰も逆らうことをしないし

誰も言い返す者も居ない。

それは母を見て育ったからだと思う

姉は言います、逆らえば後で母が苛めに

合うから、でも一度だけ母の心境を伝えた

事があった、さすがの姉も電話で嫁に

伝えたそうです、すると泣きながら弟に話した

すると弟が逆切れし怒鳴ってきた。

一生懸命介護してるんだ、それを聞いた姉は

弟夫婦を信じるようになった、それから

嫁と弟夫婦の距離が縮まり、何でも

相談したり、贈り物をしている。それから

姉が私の言う事を聞いてくれなくなった

ある日母を訪ねて玄関を開けると

母の部屋のドアを開けたまま、やっと立っていた母に「そうらねえて、もっと足を上げれば

いいがや」と怒っていた、

それは母が紙おむつを履くときの事

さすがに母も小さな声で「分かってるて」

ちょっと手を貸してあけるだけでいいのに」

それを姉に話すと「あんたが側にいたからでしょ」と言って聞いてくれなかった

それから話すことをやめました。

樺太生まれの姉より話しやすくて

落ち着くと言っていたのに、母が可哀想です

ある日また嫁から電話が掛かってきた

「母が怪我わして動けないから、手伝って」と

夫と急いで実家に向かった、すると

弟が母に向かって声をあらげ「動くなと言ったねかや」と言っていた、家の廻りに植えてある

野菜を見に行っただけなのに













評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ