運命の足跡
たますが
これは母が歩んできた過酷な人生を描いた真実の物語です
なぜ自分を犠牲にしてまで人のためだけに生きたのか
ある暑い夏の朝に電話の朝のベルが鳴る。
東京に住む姉からだった、母の訃報を伝えてきた。
自分の親の死をまるで他人ごとのように言ってくる。
私の住んでる所から車まで15分位なので
急いで実家に向うと、そこには白い布が掛けられた母が
そっと顔を覗くと死にたい死にたいと言っていた母が
そこには居なかった、穏やかに眠る母を見たとき
やっと苦しみから解放されたんだな
そう思いながら少しホッとした自分がいた。
なぜか涙がこぼれなかった、
北海道はサロマ湖のそばで長女として生まれた
男の子三人だったので、待望の女の子で両親は喜んだ。
そして次も女の子でした、しかしその子は生まれてすぐ
亡くなったのです。悲しんでいると、
また女の子が生まれた、喜ぶ間もなく、その子も
直ぐに息を引き取りました。
納得のいかない母親は
よく当たると言われた預言者に相談した。
すると帰ってきた言葉が、長女の性を変えなければ
また同じ事が起こりますよ、春枝の性に
悩んでいた親は母親の旧性に変えることにしました。
すると亡くなった二人の妹を含めて11人の
子供に恵まれました、長女として生まれた春枝に
大きな責任と、亡くなった妹の命の
重みを背負って行く事に。
まだ幼かった春枝は学校で苛めを受ける
町の人には冷たい目で見られ、あげくに母からは
疎ましく思われ、それでも怯むことなく
素直に成長した。そして大人としてのしるしがやって来て
母に相談すると、思いもよらない言葉が
返ってきた、自分も経験してきたはずなのに
淫らな行為をしたと責めたのです。
心が裂けそうに苦しんでいたときに、見るに見かねた
近所のおじさんから、樺太に一緒に行かないか
樺太で野菜を育てたいんだよ。
この町から出たかった春枝は喜んで返事をした。
すると姉を慕っていた弟が僕も着いていく
春枝は喜んで連れて行く事にしました。
故郷を後にして船に乗り樺太に向かった、春枝が
降りようとしたとき、乗船してきた一人の人が
春枝に向かって、あんたは一生幸せになれないね。
そう言ってすれ違って行った。
気にせずに樺太の地に降りた春枝は野菜作りを
手伝いながら売店で働くことにした。
樺太には各地から大勢の人が出稼ぎに来ている
内地で戦争が起こっているときに、樺太では
平和な暮らしと、綺麗に整備されている
町並みが広がっていました、しばらくして弟に
召集令状が届き、戦地に向かった。
一人になった春枝は無事に帰る事を祈りなから2~3年が
過ぎ、売店で一緒に働いていたお節介おばさんが
お見合いの話しを持ちかけてきた、その相手とゆうのが
炭鉱で働く出稼ぎ労働者でした、あまり、のる気出なかった
春枝も何回か会っているうちに結婚を決めました
やがて女の子が生まれ
幸せなの日々を送ってたが、日本は戦争に負け
終戦を迎えた、やっと平和がが訪れると思っていた矢先
いきなりソ連軍が条約を破り突入してきた
幸せなだった時間がアッとゆう間に崩れていった。
春枝家族は急いで衣服をまとめ。
走り出そうとしていた最後の船にやっと間に合い
乗せてもらうことが出来ました
人を沢山乗せたため重量オーバーとなり、余計な荷物は
海に捨てることになった、荒波に耐えながら
故郷に着くと、いきなり夫が九州の炭鉱に
働きに行くと言い出した、しかし焼け野はらとなった
内地を九州まで、しかもやっと歩き出した
子供を連れて移動するなど、容易なことではなかったはず
幾日もかかりやっと九州にたどり着いた
宿舎に案内されると、夫は直ぐに働きに出た
子守りをしながら夫を待つ春枝に夫の女性問題が浮上
そんな時、会社から夫が事故に巻き込まれたと
連絡があった、どんな状態か心配していると
「旦那さんは落石に巻き込まれて亡くなりました」
そう言われた春枝は、悲しみに耐えきれず
北海道に戻ることにしたのです
幼児を連れて故郷に向かった。
故郷に着くと、戦地に行っていた弟が帰っていました
悲しみと疲れ果てた春枝に一通の電報が届く
それは亡き夫の母親からだった
息子の遺品がなにもないから、孫の顔を見せてほしい
と書いてあった、それを見た春枝は、親の心境を思い
親の反対を押しきり、亡き夫の故郷に向かうことにした
すると心配した父が「私も一緒に着いていく」と
言ってくれた、心ぼそかった春枝はとても嬉しかった
そしてまた厳しい旅をすることに
再び悲劇が訪れることを春枝は知らない。
そこは新潟県の山に囲まれた十五件しかない小さな村でした
列車に乗り、降りてバスに乗り、降りて砂利道を歩き
山を越え、やっとたどり着いた所は
まるですり鉢のようで、半分の家が山の斜面にたってある
廻りには沢山の杉が植えてあり、上を見ると
空がとても小さく寒々と感じた
一軒だけ藁葺き屋根の家、そこにたどり着くと
目の前に大柄な女性が仁王立ちして立っていた。
小柄な春枝は体がすくむような思いがした。
挨拶もなく、いきなり「まごを置いていけ」
そう言って睨み付けてきた、愛情深い父は黙って
春枝に千円を握らせ、いつでも帰ってこいと言って
帰ることに、涙ぐむ父の後ろ姿を見送り、それが一生の
別れになりました。貧しそうに見えた春枝は父のくれた
大切な千円を差し出した、すると義母が
「お前が持っていても使い道がないからな」そう言って
取り上げた。崖を削って作った敷地はとても狭く
家の前も崖になっていて、50メートルほど下にも
家が建っている、義母が初めて嫁いだところが下の家
でした、男の子3人と夫がいて、その子供の1人が
亡くなった春枝の夫でした、上の家には新婚夫婦が
住んで居ましたが、よりによって新婚夫婦の
旦那に思いを寄せ、妻を追い出し、上の家に居座った
屈辱に耐えきれなくなり、夫は井戸に身を投げて
亡くなりました、こんな小さな村でそれも直ぐそばで
義母は二人の子供を、おぃたまま上の家に嫁いだ
そして四人の子供を産み、やがて成長した子供達は
それぞれの道を歩んだ
長男は戦地で命を落とし、次男は東京で自立し
事業を初めていた、三男は体が弱く
力仕事が出来ないため、ほとんど次男の所に働きに出ていた
末娘は、生まれつき目が不自由で、ほとんど
見えません、そんな家族を支えるために
義母は春枝に体の弱い三男と「結婚しなさい」と
無理やり一緒にさせたのです、そして長女、私、長男、次男
が生まれた、義母はお婆さんに春枝は母となりました
お婆さんは息子の分まで母を働かせた
「俺らの頃はな朝飯前に一仕事したもんだ」そう言って
朝早くから夜遅くまで、子供の世話する暇もなく。
働かされた、言葉の鞭を使い、母を奴隷のような
扱いでした、赤ん坊を産んだ翌日からも母を
働かせ、ただ痛みに耐えながら、必死で働いた
何であのとき父と帰らなかったのか
こんな不便などこで、母はぼろぼろになりながら
産後の体は腸が飛び出して、まるで
男のようになっていました。
愚痴ひとつ言わず汗まみれになりながら働いた
ある日隣町で追い出した嫁が高齢出産で男の子を産んだ
母親は間もなく亡くなったそうです。
この子を誰が引き取るか揉めていると廻りの人達が
言いました、お婆さんのせいだから、お婆さんが
引き取るべきだ、仕方なく引き取ることになった。また
その子もまた障害者で耳がきこえず、言葉も
話せないそんな可愛そうな子供だった。
母は気の毒に思い自分の子供として育てることにした。
樺太生まれの姉とは2つ上だったので兄と呼んだ。
遠くから嫁いだ母は、村人にとってただのよそ者でしか
なかったのです、孤独な母にとってわが子だけが
生き甲斐でした、やがてハィハィ出来るようになった
私を目の不自由なおばさんが子守りをしてくれた。
火が点っている囲炉裏の側に私を置いたまま
玄関に向かった、誰かが来たようだ
その時私は、囲炉裏に落ちて、左側面に火傷をおった。
おばさんが戸惑っていると、来ていたお客が
急いで母を呼びに行ってくれました
遠くにある病院に母は連れて行き
ずっと泣き止まない私を優しく抱き締めていた。
ある日兄が「小さい時からお前達のオムツを村の真ん中を
流れる川で洗ったんだよ」と誇らしげに
話してくれた、田畑がある場所はとても辺鄙な場所に
ある、獣道を上り下ると1畳ほどの田んぼから
だんだん広くなっている、兄が12才の時にお婆さんが
牛の手綱を握らせ、仕事をしてこいと言ってきた。
小さな体で大きな牛を扱うなんて、大人でも
大変なのに兄は必死で誘導するが思うようにいかない
兄は殴ったり蹴ったりした。牛も腹を立て
角で突いてきたり、蹴ったりしてきた。
それでも必死で目的を果たした、兄は頑張った
母も角で突かれ怪我を負いました
兄のお弁当は梅干しの入った大きなおにぎりで
新聞紙に包んである、新聞を剥がすと
文字がおにぎりに写っていた、それでも
お腹が空いていた兄は美味しく食べていた、お婆さんに
とって兄もだだの奴隷にすぎなかったのです
家の横に小さな小屋がある、そこには
ニワトリと豚を飼っている、家に列なって牛小屋があった。
卵は売り物で口には入りませんでした
牛には家の中から餌をあげる事が出来ましたが
いつの間にか家畜は居なくなっていた。
兄はとても器用でほとんどの物は直していた。
母は言いました、兄がまともなら、こんな不便な
所には居なかったろうね。神様は残酷です。
村には学校に通う道と、あと二本の道があった
一本は平らな道で沢山の村を通って行くが、とても
遠回りです。もう一本はなだらかな坂道で山の斜面に沿って
道が付いている、そこもまた遠回りになります。
学校の上り口に石油が湧いていて、いつもガタンガタンと
音を立てていた、それで村が潤っていたそうです
入ってくるお金を村人が賭け事をしていた
弱い我が家は、負けてばかりで、貧しくなったと
聞きました、私が10才頃には、掘削の音が消えた。
村の真ん中を流れる小川が合流する川に
よく魚釣りに行っていた、川の淵に田んぼがあり
畦道を歩いていると田んぼに七色に輝く油が
浮いていた、まるで虹のようでした。
学校に行く途中にトンネルが掘ってあり
そのトンネルは途中で終わっていた。
近道にするために掘ったが諦めたそうです、そこには
村人達が野菜の保存用に使っていました。
暑い時は子供達がもたらした。学校帰りに凉んていた
冬は山に囲ままれた豪雪地帯のため山から雪が
吹き下ろしてくる、そのため3メートル以上の雪が
積もる、冬には炭焼きをしている、山の中腹にあるため
兄と母は炭俵を背負って、降りてくる、懐中電灯を
照らし迎えに行くと、目の前に滑り落ちてきた。
私が12の時、久々に帰ってきた父が近所の
おじさん達と囲炉裏を囲んで、たいして飲めない
お酒がこの日は進んだ、酔っ払った父はトイレに向かった
トイレは玄関の横にあり、とても寒い場所にある
なかなか戻って来ない、母は次男に「見てきて」。
すると「お父さんが倒れているよ」
ビックリした母はみんなで床に運びました
しかし3日間、目を開けたまま話すことなく、亡くなった
享年三六歳でした。都会に住んでいた父は
テレビやレコードを買ってきた、山に囲まれ
なかなか写りが悪く兄はアンテナを高く伸ばし
室内アンテナも取り付け、やっとなんとか映りました
母をかばってくれた父はもういません
これからますますお婆さんが辛く当たってくる。
冬は学校に通う山道を村の人達がかんじきを履き
交代交代で子供より一時間位前に出て
道をつけてくれました、雪が降っている時は
直ぐに道が見えなくなります
家には部屋が四つある、六畳の部屋は二つあって
母と私と次男が、お婆さんと姉と長男が寝ていた
板の間の台所とコンクリートのお勝手
そして十二条の和式が二つ、囲炉裏が
三つある、台所の囲炉裏は釜戸と
連なっていてその脇に薪を入れる木箱が置いてある
お勝手はコンクリートの上にスノコが敷いてあり
そこには井戸と、木のお風呂が有りました、
お勝手の壁に壊れたドアがたててあり、冬は
雪や風が吹いてとても寒かった、
はだか電球がぶら下がっているだけ
冷たい井戸水で母がお米を研いでい
た、真っ赤な手をしていた、お婆さんと寝ていた兄妹は
とても待遇が良く、内緒でおやつを貰っていました。
ちょっと羨ましかった、お婆さんは母を慕っている
孫が、大嫌いだった、母の部屋には手の届かない場所に
五十センチ程の窓があり、障子紙が貼ってある
その障子紙が破けていて冬は雪が入り風が吹く
母の部屋の外が崖になっているから、日が当たらない
いつも暗くて敷き布団には、藁くずが入っている
それが湿っていてとても寝苦しかった
本家のおじさんは隣町の役場に勤めていて
お婆さんに「兄をろう学校に入れたらどうだ」言うと
「そんな所にやらんでいいや」と言って断ってきた
母は兄と話が通じなくて悩んでいた。
離れて仕事をしていると、話が伝わりません。
イライラしながら帰ってくる。私達も
もどかしく感じていました、それでも兄だから
母は樺太生まれの姉に、義理の父で有ることで
甘えることを許さなかった、あんなに会いたがっていた
孫をお婆さんは愛してはくれなかった。
姉もまた、ただの労働者に過ぎなかったのです。
姉が学校に通う時には、背中に長い麻を背負わせ
姉は、獣道をカニのようにして歩いたそうです。
そして近所の人に頼まれて、重い荷物を運ぶときは
負けず嫌いの姉は、他の男の子より沢山運んだ
と言っていた、姉はとても勉強が大好きで
でもお婆さんは「学校に行く暇があったら仕事しろ」
そう言って、ほとんど学校に行けなかった。
年に半分は家の仕事でした。
それでも成績はクラスで真ん中で
姉を教えた先生が私に、とても頭が良かったよ。
そう言って褒めていました、姉は、はだか電球に
布を被せて明かりが漏れないように勉強を
したと聞きました。そして学校を卒業して東京に
出稼ぎに出て、結婚をした。
残った子供は、田植えや稲刈りの手伝いをする
秋の稲刈りは山に行って手伝いをした。
その頃は耕運機に変わっていた、いちばん下の
田んぼから刈った稲を背中に背負い、上の道まで
運ぶのですが畦道が濡れていてツルツル滑って
しまう、雑草に捕まりながら上り、木と木を
つないで作ったはさに掛けるのですが14段あり
母と兄は梯子に登り、子供達が下から投げる。
しかしときどき稲が届かず落ちて来ます、それでも
頑張って投げる、外はすっかり暗くなった。
残った稲は耕運機と背負って持ち帰ります、途中
崖を削って作った腰掛けがある、疲れた時は
そこに腰掛けて休み帰ります。
そんな辺鄙な村を離れて行きました。
残された家はあと六軒です、我が家も含めて。
そんな時役場に勤めていたおじさんから
情報があり、隣町に五件が住める宅地が売り出されて
いるとのことでした。村の人達が
相談をして、仲間に入れてもらうことになりましたが。
人区画300坪で50万とのことでした。
そんな大金家には有りません
母は東京にいる姉に相談をした、すると姉から
「こんないい話は二度とないよ、これを逃したら
村を出れないから」そう言って
旦那の理解を得て、借りる事が出来ました。
姉がいなければ、もしかして、ずっと村から
出る事が出来なかったかも知れません。
しかし、これからが大変です、
母は最初に農協にお願いした、ローンを組
たいしてお金にならない山奥の材木を売り、山の
田畑を売って資金を作り、大工さんは
親戚にお願いして、なんとか工事が始まった。
やがて家が完成した、そして意地悪だったお婆さんも
喜んでいた、やがて床に伏すようになり
母は一生懸命に介護をしていたが一年程で
亡くなりました、息を引き取る前にお婆さんから
「お前に辛く当たって悪かった」 それを聞いた
母が「傷ついていていた心がサッと消えていった」
姉と私は「あんなに辛い思いをしてきたのに
そんな簡単に許せるわけないよね」
お婆さんが措かしてきた罪は身内が受ける事にる
長男は戦地で命を落とし、次男はアルコール依存症
になり、お風呂を沸かすため火を点けようとしたが
不完全燃焼で死んでしまった、三男は
生まれつき体が弱く36歳で亡くなった。
一人娘は目が不自由で生まれ、障害者となった
娘だけが母親を見送り亡くなった
そして孫の私を選び、罰を与えてきた。
間もなく長男が結婚をした、家に入ったが
一年程で家を出て行きました、その後弟も結婚をし。
家を継ぐ事に、やがて孫二人も授かり、
これからは少しは平和が訪れることを信じていたが、
神様は意地悪をする、幸せになると信じていた母に、
またも襲ってくる悪夢、やっとお婆さんの苛めから
解放されたと思っていたが、またも辛い日々が
迫ろうとしている、嫁は家から車で10分程の
所に勤めている、仕事を休む事が嫌いな嫁は、
母に全て任せていた、学校の行事や参観日
そして病気の時も、母に押し付け、感謝する事もなく
気に入らなければ、顔に出し、脅してくる。
ある日、知り合いの方から、仕事の依頼があった。
兄は喜んで返事をした、土木の会社からでした
屈託のない兄はみんなに愛されていた。
働き者の兄は重宝されていた、いつも楽しそうに
出掛けていった、働き者の兄は重宝されていた。
初めて貰った給料をニコニコしながら母に差し出した。
すると母が兄に向かって「嫁にやれいや」と
兄に向かって怒鳴った、喜んでくれると思ったのに
兄から笑顔が消えた、本当は褒めてあげたかったが
脅されていた母もまた怯えていたのです。
ある日嫁から電話がかかってきた、母が怪我をして
動けないから手伝ってと言ってきたので
直ぐに実家へ向かった、転んで両腕を痛め
動けなかった、私はおんぶして車まで運んだ
ただおんぶすればいいだけなのに、嫁は母に触れる
事を嫌がっていた。嫁が運転をして病院に向かったが
運転がとても荒く、腕が窓に
ふつかって、とても痛そうでした、
やがて病院に着いた、すると嫁が「姉さん帰っていいよ」
心配でしたが帰ることにした。
翌日、母に会いに行きました
一人に出来なかった私は、泊まる事にしました
夕食を買って行き、それでも嫁は嫌な顔をして
いた、でも顔色など気にしていられません
食卓に着いた、母が座ると、突然姉が
「そこは娘の席らて」と怒鳴った、もう出て行った
娘を引き合いに出して来て、脅してくる
いつも嫁に会うと思う、楽しい日ってあるのかな
笑っている時はあるんだろうか、短い人生だから
もっと楽く過ごしたらいいのに、
嫁は私が泊まるを気に入らないのです
私達兄妹も泊まる事を嫌がる、だから姉達は
里帰りする時はいつも食事を買って行きました。
嫌な顔が見たくないから、でも何でそこまでして
嫁の機嫌を取らなければならないのか。
私達兄妹は誰も言い返す者が居ない。
それは母を見て育ったからだと思う。
そして姉が言います、嫁に逆らえば
後で母に辛く当たるからだと、
でも一度だけ姉に話した事があった、その時は
さすがに電話で嫁に話したそうです、
すると嫁が泣きながら、弟に話すと、逆切れした弟
から怒鳴られた、そして「一生懸命面倒を
見てるんだ」と話してきたそうです。
それを信じた姉は、私の話を聞いてくれなくなった。
ある日母を訪ねて、玄関を開けると、嫁が母の
部屋のドアを開け、やっと立っている母に
向かって「そうらねえて、もっと足を上げれぱ
いいがて」と言って怒鳴った、それは母が紙おむつを
履こうと頑張っていたとき、さすがに母
「分かっているて」と小声で言った。
少しだけ手を貸してあげたら、済むことなのに。
それを姉に伝えると、「あんたがそばに居たからでしょ」と
言って聞いてくれなかったそれからは
姉に話す事を止めた、
また嫁から電話がかかってきた、「母が怪我をしたから
手伝って、」夫と直ぐに実家へ向かった、
すると弟が母に向かって「動くなと言ったねかや」
ただ家の周りに植えていた野菜を見に行っただけなのに。
夫と弟で車に乗せた、北海道に住む、母の妹から電話があり
「母が怪我をしたんだってね、弟夫婦が連れて行って
くれたんだって、」なぜそんなくだらない
嘘をつくのかな、笑えた。
直ぐに入院した、病院でとても人気の患者さんだった
看護婦さんに負担を掛けたくないと、痛みを
堪えていた
我慢強い母は看護婦さんに
やがて退院してから床に伏すようになり
弟夫婦は共稼ぎで留守にしている
たった一人で寝たきり、食事もおにぎりと酒の
つまみのような物がタンスの上に置いてあった
弱っている母には、食べる元気がない。
それでもお腹が空いていたので、台所に行き
冷蔵庫から食べやすい物を見つけて
口にした、するとそれを知った嫁が
「ちゃんと計算して作っているんだ、」攻めた。
そして兄に「婆は頭がおかしくなったんだよ」
すると兄が私に「婆はパァになった」と
伝えてきた、何も知らない兄に
それからは冷蔵庫に鍵か掛けられた。
母はいつも言っていた、残してもいいから
腹一杯食べて欲しい、お腹を満たせなければ
笑顔も力も出ないからと言って
弁当に山盛り積めてくれた。
そんな母を見てきた私には、嫁の言葉が
信じられませんでした、
お婆さんに文句も言わず、したがってきた母と
同じく私も逆らえなかった、だから嫁は
私を見下し、バカにして来ました、
そんな自分が大嫌いでした。時々母を見舞いに。
柔らかく、食べやすい物を持って行きました、
でも沢山食べれないのでベットの下に置いてくる。
母は食べていないので、嫁に見つかり、
余計な物、持ってくるなと叱って来ました。
時々娘を連れて行くと、母が娘にいつもお小遣いを
くれました、しかしその日は「ごめんねお金が無いから
小遣いあげられないよ、ごめんね」と言った
どうしたのと聞くと、嫁が脅してきて、
みんな取られたんだ、「あんた達に金が掛かるんだよ」
そう言って来たので、怯えた、母は
一枚通帳をわたした、
すると、急に優しくなり、親切になった。
それは、ほんの一時で2~3日しか続きませません。
何度か続き全て取られてしまったのです
嫁には母の年金と兄の障害年金が入っているはず。
それでも足りないのか、その中には、兄のために
障害年金から、母が居なくなっても
生きて行けるようにと毎月2万円を貯めていて
くれた通帳も嫁の手元に行ってしまった。
弟夫婦は玄関から続いて階段があるその2階に住んでいる
階段を降りれば直ぐ母の部屋なのに、
弱っている母を見舞ってもくれない夫婦だ
愚痴も言わずじっと一人で我慢をしていた。
遠くから知らない町にやって来て、貧しい家に
嫁いできた母が、若い時に夫を亡くし、
障害を抱えた身内を育て
奴隷のように扱われ、必死で耐え、家まで建てた
そんな母が自分の部屋で誰にも看取られず
たった一人で死んでしまった、足元に頭を向けて。
苦しかったのかな、
弟が朝、母の部屋を覗くと死んでいた。では
冠婚葬祭手掛ける会場で葬式を行った。
弟夫婦が仕切ってた会場では
すると本家の叔父さんから思いもよらない話が
舞い込んできた、隣町に五件が住める宅地が
売りに出されたとのこと、土地は百坪で五十万だとのこと
しかしそんな大金家にあるはずがない、そこで
母は東京に住む姉に相談した、すると姉から
こんないい話は2度とないよと言って旦那の了解をもらい
姉が出してくれた、でもこれから1から
出発ですまず農協に借金をし、たいしたお金にならない
山奥の材木を売り、山の田畑も売り
親戚の大工さんにお願いし、家が建って行く
そして家が完成した、引っ越しをしていたそう言って
あの意地悪のお婆さんも喜んでいた、だんだん
弱くなったお婆さんも床に伏すようになり
母は一生懸命介護した、一年ほどでお婆さんは
亡くなりました、死ぬ前に母に言ったそうです
「苛めて悪かった許してくれ」そう言って
息を引き取ったそうです、するとそれを聞いた母は
傷ついていた心がサッと消えて行ったと言った
姉と私はしんじられなかった、あれだけ
苛められてきたのに、そんな簡単に許せるはずがないよね
お婆さんが犯した罪を身内が背負うことになる。
長男は戦地で命落とし、次男はアルコール中毒になり
お風呂のガスを点けようとしたが、不完全燃焼で
命を落とした、三男は体が弱く生まれ36歳でたかい
嫁を追い出し一緒になった夫も若くして死んだ
そして孫の私を選び不幸をもたらした
長男が結婚して家に入ったが一年通う足らずで家を
出て行きました、次男が家を、続いて次男か結婚した、次男が家を継ぎ家に入った、やがて孫が生まれた
母もこれからは少しは楽になるかもしれない。
そう思っていた、神は意地悪をする、
幸せを願っていた母にまたも襲ってくる悪夢
お婆さんから解放されたばかりなのに。
嫁が勤めている会社は車で10分程の所、仕事を休む事が
嫌いな嫁は子供の世話を、全て母に任せていた
学校の行事や参観日と病気の時もいつも母が
感謝することもなく、気に入らなければに出して
脅してくる、最初はおとなしそうに見えたが
本性を出してきた、ある日知り合いの方から兄に
仕事の話が有りました、兄は喜んで受けた。
屈託のない兄はみんなに好かれていた。
いつも嬉しそうに出掛けて行った、ある日茶色い
袋に入った給料をニコニコしながら母に差し出した
すると母が兄に向かって「嫁にわたせいや」と言って
怒鳴った、喜んでくれると思ったのに、兄から笑顔が消えた
母も苦しかったのです、自分も嫁に脅かされている
からでした、
ほとんど床に伏すようになった母を娘と見舞いに行くと
いつも孫に小遣いをくれていた、しかしこの日は母から
「ごめんねお金がないからあげられないよ」
どうしたのと聞くと嫁に取られた、どうして
すると嫁が「あんたと兄に金が掛かるんだよ」
そう言って脅してきた、仕方なく通帳を一枚渡した
急に優しくなった、それも2~3日だけで
また元にもどりまた辛く当たっくる、恐ろしくなって、
また渡し、全て取られてしまった、
年金と兄の生涯年金は嫁に渡してあるのに
母が居なくなってもと兄が困らないようにと
障害年金から毎月二万円をわ
貯めてあげてた、その通帳も嫁に取られてしまった。
そして母は同じ屋根の下でいながら、
たった1人で死んで行った、頭が足元にあったと
言っていた、苦しまなかったのかな。
冠婚葬祭の会場で葬儀が行われた、弟夫婦が仕切っていた
会場は住職さんが中心で席が決めてあり
住職さんの隣に姉が座っていた、姉は50年も故郷を
離れていたので、話が合わないからと
夫に席を変わってと言ってきたので
席を変わった、夫はしょっちゅう兄の所に行っていたので
よく知っていた、話が弾み笑いが響いた、私も嫁の
顔色など気にせず、話をした、母を送る席だからです。
兄の方から嫁の声がした。
嫁が兄を叱っている「あまり酒を飲むないや
金がねがすけ」兄は申し訳無さそうに、うつ向いていた
側から弟の方から声がした、
「いいねかや飲ましてやれいや」
それを聞いた時まだ弟に思いやりがあったんだなぁ。
嫁が兄にそんな事、言える立場ではないはずなのに
やがて大勢の人が焼香に訪れた、知らない女性の方
ばかりで、母は大勢の方々に愛情を注いでいたんだね
誰も知らない町に嫁いできた母が誇りに思えた。
出席者は送迎バスで私達は近かったのでタクシーで
帰ることにした、みんなを送り手をふると、嫁が
車の窓から睨み付けて行った。
兄妹で決めた事が有りました、
それは財産放棄して弟夫婦に渡す事でした。
書類を送れば済む事でしたが、どうしても残酷な嫁に渡したくなかった。渡す事など、簡単でしたが
苦しんで死んでいった母を思えば耐えられなかった
それでも長男から渡してやってくれと言われ
仕方なく役所から書類を買って送りました。
それからは間もなく兄は歩く事が困難になり、
夫と一緒に病院へ連れて行き、見てもらうと
もう歩くことは無理だね、
足の骨がぼろぼろだからと先生から
「よほど無理したんだね」そう言われ直ぐ
施設に入院する事になりました、嫁の側で辛い思いを
するより、優しい人達に囲まれていた方が
兄も安心して過ごせる、小さい時から
大人と一緒に将棋をしていた兄は病院で
流行っていた将棋を楽しそうにしていた。
看護婦さんはびっくりしていた。
障害のある兄が、難しい将棋ができるなんて
思わなかったのでしょう。優しい兄だったので
誰からも愛されて、最後を終えた。
兄や母のような人ばかりだったら
世界は平和だったかもしれません。
お婆さんが置いてきたおじさんは母親の事を
あいつはあばずれそう言っていた。本家のおじさん達
だけが長生きした、お婆さんの罪を子供と孫のわたしを
選んだのかもしれません。
そんな厳しい村に耐えられず、
二人の方が自ら命を落として亡くなりました。
私が小学生の頃の話でした。