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ヘイフリック 第4話

修正が足りない……。


 そして、それから八百年あまりの歳月が経過した。

 そう、八百年だ。やれやれ、まったく。

 八百年……。それは想像もしていなかった、気が遠くなるほどの、おそろしい長さの年月だった。

 永遠とも思えるその時間を、言葉で説明するのは容易ではない。


 封建世界は、十世紀以上にもわたって続いた。

 その時代に生まれた人々は、自給自足のもとに成り立つ、閉じた小世界で暮らさなければならなかった。

 そこで暮らす、絶対的大多数が、農民だった。

 その土地で生まれ。土地を耕作して作物を育てて。

 土地からの収穫物を頼りに暮らしていた。

 もちろん、農民たちを保護してやるという名目で。収穫物をごっそりと徴収して、使役させる連中もいた。

 領主や諸侯たち。彼らにつかえる騎士たちだ。

 封建世界で暮らす人々は、けっきょく、その封建世界をきずいた特権階級の連中を支えるために、決められた共同体の枠組みのなかで細々と生きるよりなかった。

 その世界では、なんにも、ちっとも変わらなかった。

 だが、変化が訪れた。土地からの収穫物に頼らずに、生きようとする連中があらわれたのだ。

 商人たちだ。

 商人たちは、価値ある品々の売買を通じて利益を得る、商売という新しいやりかたで、自分たちの財を獲得した。

 さらに商人たちは、商売の手を広げて、なおいっそう大きな富を得ようとした。

 なぜか。

 彼らがひどく欲ばりだったせいもある。でもそれ以上に、階級の差が縮まらず、なにごともまったく変化しない封建世界では。商人たちの立場や権利を保証してくれるものが、ほかになかったからだ。

 土地を持たない商人たちにとっては、富の貯蓄とその運用によってもたらされる力だけが、頼るべき唯一の拠り所だったのだ。 

 私が生まれ育ったような地方の小都市には、商売をやって暮らす人々や、多くの職人たちが集まっていた。

 あちこちから価値ある品物が運ばれてきて。職人たちが腕をふるった道具や用品が提供され。それをやりとりするための大きな市場もひらかれた。

 だが商売や取引をするうえでの、大きな障害がひかえていた。

 領主や諸侯たちだ。

 彼らは、勝手な名目で税金を徴収し。好き勝手に市の開催を中止させて。ことあるごとに商売のジャマをした。

 だから領主や諸侯たちのかわりに、もっとちゃんとした秩序と安全をもたらしてくれる、新しい統治者が必要だった。

 国王が必要とされたのは、そういう事情による。

 国王は、富を得た商人たちに援助されて、きちんと訓練された大きな軍隊を持つと。

 領主や諸侯たちがかかえる小さな軍隊と戦って、打ち破り。領地の統一をおこない。

 ついには国家というものをつくりだした。

 国と国との境ができて線引きがされ、私たちは国民になった。

 さらに大きな変化は、通貨の流通によってもたらされた。

 それまでにも貨幣は使われていた。でもその価値は地方ごとにばらばらで。どちらかといえば、物々交換が主流だった。

 閉じた自給自足の世界では、貨幣はほとんど必要なかったのだ。

 国王は、商人や金貸したちの後押しのもとで。自分の国家を富ますためにも。法律や規則や、貨幣制度といったものを制定し、それをきちんと統一した。

 金貨や銀貨が大量に鋳造されて。その通貨という道具を使い、国中どこでも物を売り買いしたり、商業取引ができるようになった。

 これは画期的なことだった。共通の貨幣というのは、とても便利な道具だった。

 通貨のおかげで、私たちはいろんなことができるようになった。

 商人や金融業者たちは、市場で作物や葡萄酒を売買するだけではなく。より莫大な通貨を動かし、より活発な商業活動をおこなえるようになった。

 これにより、商業は大きく発展した。

 たくさんの貨幣を使えば。工場を建て。大勢の職人たちを雇い入れて、商品を造らせ。それを大市で売ることができた。

 ほかの商人たちとカネを出しあい。株式会社を発足させ。新しい大陸をみつけだし。交易をおこなうために、大がかりな船団を組織し、出発させることもできた。

 地方都市の小さな市場は、大都市の大きなマーケットへと成長した。そして、さらに国と国とが貿易をおこなう、国際的な市場にまで発達を遂げた。

 そう。変化は、最初はゆるやかで、散発的に……。

 でも、途中からは急速に……。

 次々と、まるで連鎖するように起きた。

 閉じた自給自足の世界は、それぞれの門戸をひらくと、活発に交易を始めたのだ。

 共通の貨幣はさらに、それを利用する人々が活動する領域をひろげ。それまで農民として生きるしかなかった、従来の人々の仕事や生活まで変えてしまった。

 貿易と工業の発達によってもたらされた大きな市場は、それまでよりもはるかに大量の人員を必要とする、大量生産のための、新しいかたちの工業や商業、製造業をうみだした。

 そこで私たちは、労働を提供し、賃金をうけとる、労働者になった。

 やがて、私たちの心は教会よりも、自分たちが属している、国家によりどころを求めるようになった。

 私たちは領主や諸侯のかわりに、もっと大きな、自分たちの国家や国王について、その善し悪しを考えるようになった。


 変化は、そうやって起きた。

 大昔から変わることない、辛くてきびしい自給自足生活を強いられるしかなかった、古い封建世界は。

 通貨が大量に流動する新しい仕組みのもとで、ひらかれた新しい世界へと変貌を遂げた。

 誕生したのは、資本主義という、新しい教義に基づいた、新しい世界だ。

 商人や、製造業者や、銀行家たちが。新しい仕組みのもとに獲得した資本という力を武器に、特権階級から力を奪い。封建世界を終焉に導いたのだ。

 だが歓びに湧くのも束の間、その資本主義の世界も、封建世界とはまた異なるきびしい階級社会になっていく。

 領主や諸侯たちのかわりに。けっきょく、新たに勃興してきた資本家たちが、実権を握ったのだ。

 その実態は、二百年、三百年と時代を経るうちにあきらかとなる。

 やれやれ、まったく。


 目を覚ますと、夕方だった。

 不法侵入されないために、強化ガラスをはめ込んであるだけの覗き窓を通して、殺風景な部屋のなかに、真っ赤な夕暮れの残光が射し込んでいる。

 なにか、悲しい思い出をともなう、懐かしい子供の頃の夢を見ていたのを覚えてる。

 よみがえりかけた夢の残りかすを頭からふりはらうと、涙のあとがついた目もとを手の甲でぬぐう。

「出かけるには、ちょうどいい頃合いだ」

 そう自分にいいきかせると、下着姿のままでもぐっていた大きな厚手の寝袋から抜けだして、準備にとりかかる。

 まず熱いシャワーを浴びて、頭をしゃっきりさせよう。

 それから、髪の毛をくしけずり、外出着に着替えて……。

 ところが浴室に入って栓をひねっても、肝心のお湯が出てこない。

 浴室の壁に頭をもたせかけると、言葉にならない悪態をつぶやく。

 賃貸料金を三ヵ月分前払いで家主から借りうけたこの小さな部屋には、シャワーが使えるバスタブと、旧式の空調装置が取付けてある。

 でも、それが前触れもなく停止する。

 故障したわけじゃない。この地区全体で利用者の数が少ないせいで、供給してもかえってコスト高になると判断されると、ガスや水道の会社が、勝手に停止してしまうのだ。

「これが、進歩して便利で快適になった文明生活だってぇの? 電気や水道やガスがあっても、そいつが送られてこなけりゃ、十世紀前とおんなじじゃないか……」

 壁にむかってひとしきり文句を言ってみるが。かといって、どうしようもない。

 ガスと水道の会社に電話をいれて供給を再開させるのも面倒だったので。冷蔵庫をあけて、半分ほど中身が残っているミネラルウォータの大きなボトルをひっぱりだした。

 もったいない、と嘆きながらも、そのぬるい水を洗面器に満たし。顔を洗い。歯を磨き。髪の毛をなでしつける。

 そんな、いつまで続くかもしれない不自由な境遇のなかで、化粧を終えると。鏡をもう一度ながめる。

 おさなくて、あどけない女の子の顔がそこにある。

 だけど、かたくひき結んだ色のない唇と、油断がなさそうな目つきをみれば。そんなのはうわべだけだと、すぐにバレてしまうだろう。

「やれやれ、思えば八百年以上も生きてるんだ。化粧でごまかしたって、正体がそれとなく顔にでちゃうのは、しかたないか……」


 昔の夢なんか見たせいだろう。昔ながらの古めかしいレンガ造りの低いビルから外に出たとたん、私は思わず足をとめた。

 外套のポケットに両手をつっこんだ格好で、眼をしばたかせると。なんだかとんでもない夢の続きを見ているような気持ちで、眼の前にひろがる光景をながめる。

 めまぐるしく変化をとげた、いろいろなものが、そこにある。

 街灯の光が連なる歩行者用の広い鋪装路を、大勢の通行人たちが、いそがしく行き来している。

 若い連中は、人目を惹くハデな格好に着飾って化粧を凝らし、粗野な笑い声をあげながらふざけあっている。

 彼らだけではない。帰途を急ぐスーツ姿の勤め人たちや、これから仕事先にむかうのだろう、汚れた作業服を着た工事人夫たち……。

 とにかくもう、ありとあらゆる種類の、おびただしい数となる、喜び、笑い、怒り、悲しむ、人間たちがそこにいる。

 通りにでて、人波におされるように高架道へ入ると、私は頚を縮めて、頭上を見渡す。

 夜空に届きそうな、光り輝くネオンの巨大な塔の列は、立ちならぶ高層建築物だ。

 見下ろせば、車線の数だけ、自動車のライトの河が連なり、それがとぎれることなく流れていく。信号無視して道路を横断しようとする歩行者を、せっかちな運転手が、けたたましいクラクションで容赦なく追いたてている。

 わかっちゃいるけど、いつものことながら、頭がクラクラする。

 私は、この街に暮らす大勢の住人たちでゴッタがえす、通りの真ん中で足をとめると。いやにせまくなってしまった夜空を見上げて、大きく息を吐きだす。

「あわただしくって。騒々しくって。息急き切って。落ち着かないったらありゃしない。いったいぜんたい、この街だけでも人間の数はどれだけ増えたんだろう……。二万人が、二十万人になった? いいや、二百万人かな?」

 店先の光り輝くショウウインドウのむこうには、陳列棚からあふれんばかりに、大量の食料品や、さまざまな種類の魅力的な嗜好品が山積みに陳列してある。

 きっと高いところから眺めれば、さぞかし美しく楽しそうな、色とりどりのネオンの点滅と。にぎやかな音楽と騒音の洪水なんだろう。

 なんでもあるし、その気になればどんな場所にでも行ける。どんな享楽だって望むままだ。みんなが求めていた地上の天国が実現したんだ、と錯覚しそうになる。

 でもこうして地上に下りて、地べたから見渡せば。眼につくのは、色褪せてぼろぼろに腐食した壁や道であり。そこかしこに捨てられた紙屑や吸い殻のゴミであり。着飾って遊びにふける金持ちたちとは対照的に、明日の生活さえおぼつかない貧しい人々と、住む場所さえなくした乞食の大群だったりする。

 空を見上げるよりも、気持ちを閉ざしてうつむき、自分の足もとを注意を凝らし、転ばないように歩をすすめる、窮屈で窒息しそうな、現実でしかない。

 そして、いくら表向きはあかるく陽気にふるまっていても、拭いきれない不安と恐怖が、行き交うだれもの顔に影のように落ちているのに気づかされる。

 駅前までやってくると、この街の住人たちの不安と恐怖の原因に出くわした。

 だしぬけに、気持ちを奮い立たせるような勇ましい行軍マーチと、高らかな合唱の声が大音量で鳴り響くのをきいて、駅前の雑踏をいきかう人々は、凍りついたような表情で、自分たちの頭上をふりあおいだ。

 大仰な造りをした、見上げるような巨大なビルの壁面に取付けてある、公告用の大型スクリーン。人通りが集中する場所に設置してあり、定期的に映像と音声をながす仕組みになっている、あれだ。

 ふだんは、最新のニュース報道や、議会の議員たちによる政治運動、提携企業からのコマーシャル番組を放映している、その大型スクリーンに、いまは戦時ニュースが映されている。

 大勢の兵士たちが小銃をつかんで叫び駈けだすと、けたたましい機関銃の連射音や、着弾する砲弾の爆発音がとどろき、画面はまっくらになる。だが次の瞬間には、銃傷から血を流す負傷兵たちが、勝利を求めて敵陣へと突撃していく姿が映される。

 そうした色鮮やかな戦場の映像といっしょに、高らかなよびかけの声が、駅前のビルのあいだをこだまする。

「君は正義を信じるか? 君は勇気を忘れていないか? 君は愛のために戦えるか? 敵は国境線にいる。敵の狙いは、国境線を越え、我々が愛するすべてを破壊し、すべてを奪いとることだ。

 この危機にたちむかえるのは、君しかいない。憎むべき悪魔どもを倒すために、いまこそ、君の力が必要とされている。さあ、戦場へ行こう。銃をとって前線へ行こう。仲間は、君の到着を待っている……」

 大画面に映されているのは、汚れてくたびれた軍服を着て、傷だらけのヘルメットをかぶり、小銃を背負った、名も無き一人の兵士の姿だ。

 彼は、どこから銃弾がとんでくるかもしれない危険な戦場にいても、タフで力強く、頼りがいがあり。そのうえ、仲間思いで、感傷的でさえある。

 食糧や生活必需品がたりない最前線の劣悪な境遇にあっても、仏頂面と辛辣なユーモアでそれに耐え。傷ついた仲間たちのために頬を涙で濡らし。敵兵たちの卑劣で残虐なやりくちに怒る。そしてそのときがくれば、小銃をつかんで恐れを知らず、勇敢に戦う。

 これはニュース映像を編集しています、と一応はうたっている。

 でもウソでかためたでっちあげの戦況を報告したり、うとんじられやすい政治的なメッセージを強調するかわりに。一人の架空の兵士の英雄的な活躍を描くことで。戦争ムードを高める宣伝媒体としての効果を充分に発揮していた。

 公共用の大型スクリーンを見上げる人々は、きちんと演出された、役者が演じてつくりあげたとわかってる。その戦場の情景を、どこか自嘲的な顔つきで眺めている。

「おれらのこと、馬鹿にしてんのか?」

「こんなおとぎ話をホントだと信じるようになったら、もうおしまいだよな」

 しかし宣伝媒体の狙いが理解できても、英雄たちの架空の活躍は、そんな慣用句にうんざりしている者を立ちどまらせて、見入らせるだけの力を持っている。

 だれだって、息苦しく窒息しそうな現実よりも、ロマンチックで劇的な冒険世界のほうがいいに決まってるからだ。

 肩を落として疲れた表情でぼんやりとスクリーンをながめていた男が、そっと吐息をもらすと、ひとりごとのように、「仕事があるんなら、いっそのこと」とつぶやくのがきこえた。

 駅前に集まった人々は、なかばあきらめ気味の表情でいる。

 大声で反撥するより、おとなしく従ったほうが賢明だ、と観念してしまっているのだろう。

 それでもときおり、怒りをはらんだ眼つきと、こわばった表情で大型スクリーンをふりかえっては、おしころしたような低い声で、言葉をかわしている。

「ふざけやがって。国境線沿いでくりかえされる銃撃戦で、いままでいったい何人の兵隊が死んだと思ってるんだっ!」

「あの財団の独裁者のせいだ。あいつが戦争になりかねない紛争を長引かせるから、犠牲者があとをたたないんだ」

「だれか、あいつをやっつけてくれねぇかな」

 私は、ああだこうだ、と議論をかわしている種々雑多な街の住人たちを横目で見ながら、外套のポケットに両手をつっこんだ格好で、自分にできることをやるために、夜の街を、待ちあわせの場所へと急いだ。


 その場所は、〈憩いの広場〉という。

 車が走る幹線道路の車線をまたいで、駅周辺の高層建築物をつなぐように空中に建設された二次的な施設である。

 一風変わっているのは、施設全体を覆うように、鉄骨むきだしの巨大な屋根を組んでかぶせてあることだ。

 まだほんの二十年前に、財政的にも余裕があったこの市が、予算を使いきるために、市民のための催事場という名目のもとに建設した。

 ところが、問題が起きることをおそれて市政側が許可をだそうとしなかったので、本来の目的には使われることもなく、いまでは忘れられた場所となっているのだった。

 市の財政が苦しくなったいまでは、昼のあいだに定期的に清掃業者が訪れる程度で、夜のあいだはどんな連中が利用しているのか、詮索されることもなかった。

 今夜、その〈憩いの広場〉に、ひどく場違いな来客がやってきた。

 政府の要人が使う黒塗りの大型車両が路肩へ強引にわりこむように停車すると、車両から、いかつい体つきと、きびしい顔つきをした、背広姿の警官たちが降り立った。

 一見して、要人警護に就いている、きちんと訓練された連中だとわかる。

 警官たちは、武器をおさめた腰のベルトの革ケースをさらし、連絡用の無線機からのびたイヤフォンを耳にさした格好で、油断なく周囲に目を配りながら、警護役を申し付けられた当人が、車の後部座席から降りてくるのを待った。

 緊張の面持ちでいる警官たちのあとからあらわれたその当人は、ところがなんのつもりか、先導しようとする男たちに、ついてこなくていい、と伝えた。

「なにも心配することはない。用事がすめばすぐにもどってくる。おまえたちは、ここで待っていてくれないか?」

 警護役の警官たちは、当然のことだが、顔色を変えた。

「とんでもないっ! あなたは、御自分の立場というものが、いまだにわかっていらっしゃらない」

「おや、そうかい?」

「財団とよばれる一大金融機関の実質的な頭首であり、この国で議会の議長につぐ重要人物であるあなたの身になにかあれば、この国に未曾有の危機が訪れることになるんですよ。自覚がたりないにも、ほどがあります!」

「ふーん。そうは思わないな。でも私を襲撃しようとする馬鹿者があとを断たないのは知ってる。でもね、今夜はなつかしい友人に会うんだよ。よけいなお守りは必要はない……」

 この人物がとる突拍子もない行動に慣れたつもりでいたが、限度というものがある。

 あまりにも不用心な発言に、警護役の男たちは、きびしい態度で反発にかかった。

「失礼とは思いますが、私たちは職務状の義務により、あなたに随伴させていただきます。いいですか、なにがあろうとも……」

 ところが白い歯を見せる笑顔といっしょに、その男がくちもとから鋭い牙をむいてみせると、反発の声は、途中で立ち消えてしまい、あっというまにおさまった。

 その男がなにをしたのか、その現場を見ている者がいても、すぐには理解できなかったろう。

「もう一度命じる。よけいな心配は無用だ。ここで待っていてくれ。わかったな?」

 青ざめて硬直した顔つきでいる護衛役たちがうなずくのをたしかめると、その男は片手をあげてみせ、一人で待ちあわせ場所へとむかった。


 光が消えかかった地下通路を通り抜けると、夜間は停止されている自動階段を駈けあがり、待ちあわせの場所である〈憩いの広場〉へと、足を踏み入れる。

 鋼材とコンクリを使い建造された、吹き抜けの構造となった建築物の内部には、床に固定された金属テーブルやベンチ、乱雑におかれた錆びた鉄製の椅子が、円状にならべてある。

 しかし、その場所にいたのは、待ちあわせた相手ではなかった。

 集まっていたのは、この都市に暮らしている、大勢のあぶれ者たちだ。

 寒さをしのぐために古着やボロを幾重にも着込み、帽子を目深にかぶり、ボロ靴をはいて、指が抜けた手袋をはめた格好をしたやっかい者たち。その日その日の食べ物と寝る場所を求めて路上をさすらう暮らしを続けるしかない。身も心も疲れて荒みきった、浮浪者、浮浪児、乞食、物乞い、よるべのない病人、等々である。

 ベンチや椅子に頭をたれて力なく腰下ろし、うまい食い物や、あたたかい寝る場所の話題にふけっていた彼らは。あらわれたその男を見て、だれなのかに気づくと、小さな悲鳴をあげた。おびえきった様子で、すみのほうへあたふたと逃げていく。

 身につけている、背広やシャツや革靴は、カネと手間をかけて仕立てた上等な一級品。そんな、頭のてっぺんから靴の爪先まで、みがきあげたように身なりがいいその銀髪の男は、待ちあわせの当人はどこだろう、と腕組みをして、浮浪者たちを見回す。

「おひさしぶり、ヘイフリック」

 背後から静かな口調でそうよびかけられて、その男はひょいとふりかえる。

 そして、すみのテーブルについて、体を縮めるように椅子の背に身をあずけている年若い娘、つまり私をみつける。

 ヘイフリックは、こちらを見すえたまま、背広の上着の内ポケットから封筒をひっぱりだすと。それをふってみせながら、私によびかける。

「署名がされた、この街の地図が一枚入った妙な手紙がとどいた、と事務所の人間から知らせをうけたときは、最初はなんのことかわからず、くびをひねったよ。

 思い出すまでに、ちょっとばかり時間がかかった。そのあいだ、おまえは毎晩のようにこの場所に通ってたのか?」

 私はホコリで汚れたテーブルの上を、すばやく視線でさらった。

 三週間前の最初の晩、手紙を投函したあと、あやまって外套の肘をついたその痕がまだ残っている。

 けっきょく、あれから毎日夜になると、〈憩いの広場〉にやってきて、タバコや小銭をねだる浮浪者たちを無視しながら、朝になるまですごしたのだ。

 でもそんなことを、わざわざ話してやるつもりもない。

 私はニコリともせず、仏頂面をよそおったまま、たった一人でやってきたらしいヘイフリックのその顔を眺めた。

 その男、ヘイフリックは、最後にわかれたときと少しも変わらないように見える。

 どれくらい会ってなかったろうか。またこいつと生きて再会することができて、嬉しくて嬉しくて、本当に嬉しくてしょうがなかった。

 でもその気持ちをグッとおさえると、喜びを表情に出さないように注意する。

「……」

「どうした。呼びだした当人を前に、だんまりを決め込むのか?」

 ヘイフリックは、椅子をひいて、座席にあった空のカップや油じみた紙袋などを一挙動で払い落とし、私と対峙するように、反対側の席に腰を下ろした。

 以前のヘイフリックと較べて、決定的になにかが欠けていると感じたけれど、すぐにはそれがわからなかった。私は眉根をひそめると、たずねる。 

「あんた、変わったわね。ヘイフリック」

「そうかね? そうかもしれないな……。いや、だがそれもしかたない。なにしろ、あれからだいぶ経つ。

 最後に顔をあわせたのは、いつだった? おまえとおれとの共同出資で、財団の前身となった商会をたちあげた頃だったかな?」

「違うよ。そのずっとあと。大失敗をやらかしたあとだ。あの失敗があんまりにもこたえたから、顔を合わせるのが辛くて、おたがいに離れ離れになったんじゃないか」

 私が諭すようにいいきかせると、ヘイフリックは、そうか、そうだったな、とつぶやいた。

 ヘイフリックを見すえたまま、私はかたい表情で、言葉を続けた。

「それはそうと。あんた、最近、ずいぶんと馬鹿なことを始めたらしいじゃない。どういう、つもりなの?」

「馬鹿なこととは?」

 先ほど、街の大型スクリーンに放映されていた物騒なコマーシャルについて。私は忌憚なく話してきかせた。

「ああ。あれか」

 ヘイフリックは、悪事を指摘された少年のように、ズボンの脚を組んだそのうえに指をからませた両の掌をおくと、ニヤリと笑んでみせた。

 それから、ものわかりが悪い相手を説得しようとするように、私にこういいきかせる。

「あれは、戦争なんて、だいそれたものじゃない。国境線をはさんで、かれこれ半世紀以上にもわたってくりかえしてきた小競り合いだ。それだけだ」

 なんとも言い知れない不安が、腹の底から込みあげてくる。

 私はそれでも、それを表情にあらわさないように、平静をよそおってよびかける。

「でもさ。戦争なんて正気の沙汰じゃないよ。もう一度考え直したほうがいいよ」

 私の訴えに返す、ヘイフリックの答えは、あくまでもそっけない。

「そう気に病むな。騒動の最中はいろいろと非難されるが、終わってしまえば、歴史の一ページにすぎなくなる。

 おれやおまえにとっては、永遠に続く些末な出来事のひとつでしかない」

 私にとってそれは、変わるはずがないと信じていた確固たるなにかか、大きく揺らいだも同然の衝撃だった。

 自分の表情がこわばるのがわかった。隠しきれない、必死の表情とふるえる声でヘイフリックに語りかける。

「ねぇ。だいぶ前に。あなたが私に語ってきかせたことを覚えてる? 私たちはなにか特別な存在じゃない。まだ究明されていない、未知の難病をわずらい、おそろしく長い寿命を生きなくちゃならないだけだ、っていったことを?

 長生きする運命を定められた私たちは、社会との関わりあいかたによっては、大変な間違いも引き起こしかねない。

 あるいは、歴史を終焉に導きかねない、危険な間違いだってやらかすかもしれないからだ。だから、もしもそうなったら……」

 でもヘイフリックは、私の言葉にも心を動かされない。

「おれは、そんなことは言った憶えはないな」

 ムッとした強気な態度で、そうはっきりと断言する。

 それから、自分たちを遠巻きにするようにして、おびえた表情で見開いた眼でじっとうかがっている大勢の浮浪者たちを見回すと。なにかに気づいたように、私にいいきかせた。

「なるほど、わかったぞ。こんな場所によびつけたのは、よるべのない浮浪者たちの姿を見せて、おれを改心させるのが目的だったな?」

 私が仏頂面でなにもいわず、眼をそらしたままでいると。

 やはりそうか、といわんばかりの得心づくの表情で、テーブルに身をのりだして。こう続ける。

「実例を見せれば、決心が変えられると目論んだわけか。

 でもな。おまえは、ここに集まっている連中がなにを求めているのか、まるでわかってない。

 戦争をやめて、本当にここにいる奴らが救われると思ってるなら、それは大きな考え違いだ。

 戦争よりも確実に。しかも例外なく徹底的に。おれたちの生活を根底から破壊し、おびただしい数の犠牲者をうみだす災厄はいくらでもあるんだからな……」

 ヘイフリックは、遠巻きにして、このやりとりをおびえた表情でうかがっている浮浪者たちのほうをふりかえると。彼らにむかって、力強く、親しげによびかける。

「いいか。おまえたち、よくきけよ。ここに集まっているなかで、仕事を必要としている奴はいるか? だったら、とっておきの勤め口がある。

 おまえたち、おれたちの国の政府が、国境線をはさんで、むこうの国と戦争をやってるのを知ってるはずだ。

 兵隊が必要だ。兵隊になれば、おまえたちに、リッパな制服と、清潔な寝床、三度の食事と、給与をあたえてやる。

 おまえたち、落ちぶれて夜をすごす宿もなく、追いやられるままに暮らすしかない最低の境遇から、なんとかして脱けだしたいはずだ。兵隊になれば、もう浮浪者じゃない。仕事についた一人前の市民として、大手をふってこの都市で暮らせる。

 もちろん、一人前の兵隊になるためには、毎日きびしい訓練をこなさなければならない。前線に出れば、あるいは撃たれて負傷するだろうし、運が悪ければ戦死だってあり得る。

 でもな、こんな陽もあたらない場所に隠れて、あてどない飢えと寒さに苦しみながら、やっかい者として一生を終えるよりも、ずっとリッパな、名誉ある人生を選べるぞ。

 おまえたちが望むなら、おれが必要な窓口の人間に推薦してやる。どうだ? その気があるなら、この国のために、兵士として力をつくしてみないか?」

 浮浪者たちは、そうよびかけられても、おたがいに汚れた顔を見合わせたまま、ぽかんとしていた。心の準備もなく、あまりに突拍子もなくもちかけられた話なので、きちんと理解して、うけいれられないのだとわかった。

 私は、ヘイフリックの得意そうな顔つきと態度に、ついに我慢できなくなった。

 バンバンバンと靴底を踏み鳴らすように床にたたきつけると、立ちあがって身をのりだし、噛みつくような大声で怒鳴りつけた。

「おいっ。なんの罪もない連中をあざむくのもたいがいにしろっ!

 もともと戦争なんかにつぎこむ大金があるんなら。ここにいる、飢えておびえた連中に、暖かい部屋と食事と、心の支えとなる仕事を世話してあげたほうが、よっぽど正しいじゃないか。

 終われば万事がまるくおさまる、あたり前の生活の延長みたいに、戦争にかりだされる経験をいってきかせるんじゃない。兵隊暮しで味わったひどい経験は、たとえ戦争が終わっても一生そいつについて回る。時間をかけてそいつを苦しめたすえに、そいつの人生をめちゃめちゃにしちまうんだ。

 あたしたちがおかれてる境遇と同じだ。あんただって、それくらいわかってるはずだっ!」

 私が不意に怒りをむきだしたのに、ヘイフリックは驚いて、続けようとしたセリフを思わず失ったらしかった。

 私の怒りにこわばった顔を前にすると。退散する頃合いだ、と確信したに違いない。ヘイフリックは席から立つと。そろそろおいとまする、と立ち去ろうとする。

「この街に滞在するつもりなら、一度遊びによってくれ。歓迎するよ」

 私は相手の笑顔から顔をそむけたまま、怒りをこめた低い声で、啖呵を切ってやる。

「もちろん。そうさせてもらう。ただし遊びによるわけじゃないよ。覚悟しておいたほうがいい」

 ヘイフリックは、勝手にするがいい、とそっけなくかえす。

 立ち去る前に、浮浪者たちにむかって、いつでも兵員募集の窓口はあいてる、と一声かけてから。護衛たちが待っている、駐車場へとむかう。


 動揺しているのが、自分でもわかる。

 ヘイフリックが立ち去ったあと、私はテーブルに片肘をついて。それを額とのあいだのつっかえ棒にしたまま。どうすればいいのかさっぱりわからない気持ちを、胸中で何度も反芻していた。

 ヘイフリックは誤解していたが、私がこんな場所に彼をよびだしたのは、浮浪者たちを前に彼がどんな態度をとるか、それが知りたかったからだ。そして、私が声を荒げて怒鳴ったのは。本当はおそろしかったからだ。

 そうだ。こんなにも気持ちがたかぶっているわけは、怒りや憎しみよりも、自分がすっかり脅えているせいだ。

 ヘイフリックの変化の原因はなんだろう、と考えてみる。

 ただ単純に、彼の性格の冷酷であくどい部分が前面にでてしまった、というなら対処しようもある。

 時間はかかるかもしれないが、性格のよい部分をひきだすようにして。善悪のバランスがとれた、もとのような性格に矯正すればいい。

 でも、もしそうでなかったら。

 そのときが問題だ。

 ずっと昔に。ヘイフリックが私にむかって、脅すように宣告した文句を思い返す。

 肉体が十世紀以上もの長い年月に耐えられる強靭さをそなえていても、精神はそうはいかない。

 この病気に犯された者は、やがて社会の変化に対応できなくなる。孤立した立場におかれた苦しみから、破壊的で自滅的な行動をとるようになる。

 聖者のようなすぐれた資質の者でも、進むべきを道から転落し、吸血鬼のような危険な怪物に成り果てる。

 そうなってしまったとき、怪物と化したその者を、だれかがくいとめなければならない。

「まったくもう。あの馬鹿。よけいな心配ばっかりさせて……」

 私は眼の前の汚れたテーブルにむかって低い声で悪態をつくと。いまにも込みあげてきそうな涙を必死にこらえて、なんとか耐えていた。

「なあ。あんたさ、いいかな」

 遠慮がちにそうよびかけられて、顔をあげた私は、まわりをとりかこむように浮浪者たちが集まってきたのに気づいた。

 もとは工場労働者だったらしい、油の染みだらけの作業服のうえに、袖のない襟首の破れた外套を着た男が、ためらいがちに汚れた頭髪をかいている。

 私は胸中に込みあげてきた怒りにまかせて、大声をあげて彼らを追っ払おうとした。

「なんだよ。あっちいけってば! タバコや小銭をせびるつもりなら、持ち合わせなんてないからねっ!」

 痛烈な口調でつっぱねられて、その浮浪者の男はあわてて数歩ひきさがると、そうじゃねえよ、とおずおずとかえす。

「あんなこといってたが、おれたちゃ、あいつの口車にのせられる気はないって。あんたにそいつを言いたくってさ」

「そうともさ。どんな理屈をこねても、戦争にかりだされてひどい目にあわされんのは、けっきょく、おれたち貧乏人なんだからよぅ」

「あんたに、それだけは伝えようと思ってよ」

 それだけ告げると、逃げるようにコソコソと仲間のもとへもどる浮浪者たちを、私はただ驚いた顔で見送るしかなかった。

 突然に、猛烈に気恥ずかしくなった。なにもわかっちゃいないくせに、と彼らを上から見下した態度でいた自分に気づいたからだ。

 私は決心した。こうなったら、ぐだぐだ悩んでもしかたがない、ヘイフリックと争うことになっても、奴がやっている馬鹿げた騒ぎをくいとめねばならない。

 立ちあがって、声をかけてきた浮浪者たちによびかけた。

「ねぇっ。悪かったよ。じつはこの街にもどってきたのもひさしぶりだから、勝手がわからなくてさ。あんたたちに、よかったら、教えてもらいたいことがあるんだ」

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