ヘイフリック 第2話
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降った雨でぬかるんだ泥道を転ばないように注意しながら、馬車の車輪のわだちが二筋きざまれたデコボコ道を、村はずれまで歩く。
そうやって。ようやく、〈幽霊館〉とよばれる建物にまでやってくる。
この石造りの大きな建物が、そんな不吉な名前でよばれている理由も。こうして、実物を目のあたりにすれば合点がいく。
もとはこのあたりを支配するイナカ領主が根城にしていた、砦がわりの邸宅だったのだろう。
だが手入れする者もなく、雨風にさらされるままに長い年月放置されていたせいで。館は、いまや見るも無残なありさまになっている。
館は、いまや館そのものの自重で、崩れかかっている。
外壁ははがれ、石くれの山となって。館のまわりに落ちて、散らばっている。
外観は、かろうじて館の外形はとどめているが。そこに追いうちをかけるように、野草が青々と茂り。根や茎や葉を縦横無尽にのばし。建物ぜんたいを覆いにかかっている。
あと二、三百年もすれば、ただの石の山になってしまい。生い茂る野草に呑まれて。せいぜい、その名残が見分けられるだけになるだろう。
村の人間が近づきたがらないのも、至極もっともだ。
こんなおどろおどろしい廃墟に暮らしている者がいるとすれば。それは幽霊や亡霊か。なにか得体が知れない化け物のたぐいか。その親戚に違いない。
「吸血鬼っていうのも、やっぱりその範疇に入るよねぇ?」
つまらない軽口で自分を元気づけてみたが、効果はなかった。
(ひどい建物だ、とはいったが。それこそ 来る途中で見かけた、農民たちが暮らしている、泥土でこしらえた粗末なワラぶきの小屋と較べれば、それこそ雲泥の差がある。
幽霊館の主人が、農民たちを力づくで使役させて。この建物を建造させたのだ。きっとね)
まちがいない。ここが、あの黒衣の男の棲み家だ。
できることなら、吸血鬼と対決しにやってきた勇敢な主人公よろしく。カッコよく、マントのすそをひるがえし。颯爽と館に踏み込みたかった。
でも、それはできない。本来、出入りするためにもうけられた正面玄関や通用口といった門や戸口は、どこもくずれ落ちた瓦礫で埋まってふさがれていた。つまり、どこから入ればいいのやら、見当もつかなかったのだ。
私は館の周囲をぐるぐると歩いて、出入口になりそうな壁の穴がないか、とさがしまわった。
壁の穴はなかったけど。四周半して、べつの出入口をみつけた。
二階の窓だ。
しかも都合がいいことに、かんぬきをはずし、大きく開け放ってある。
あそこからなら、なかに入れるはずだ。
ただ、ちょっと高さが問題だ。梯子でも使わないと、二階の窓までは登れない。
あるいは、もしかしたら……と、膝をついて。地面の上に残された靴跡を調べてみる。
あった。
いままで何度となく、強い力が加えられたのだろう。判で押したように、くっきりと地面に残された靴跡をみつけた。
私は納得すると、立ちあがる。
この館の住人は、とうてい信じられないことだが。ここからとびあがって。
あの窓まで鳥のように空中を移動することで。この館に出入りをしているらしい。
まぁ空中を飛ぶというのはいいすぎかもしれない。実際には、ひとなみはずれた、優れた跳躍力で。とうていできそうにもない、はなれわざをやってのけているのだ。
あの黒衣の男が、そうやって出入りをしてるのなら。私がやることも、決まっている。
心を決めると、うつむいた格好のまま、みつけた靴跡から。これくらいでいいだろう、と思える場所までうしろにさがって。そこで、ふりかえる。
靴先をとんとんとやると、呪文でも唱えるように自分にいいきかせた。
「助走距離は……。だいたい、これだけとればいいかな。スパッとカッコよくとびあがったら、ひらりっと羽のように窓へとびうつる。私だってできる。きっとできる。できないはずがない。……よぉしっ!」
大きく息を吸い込んで、顔をあげてキッと表情をひきしめると。ヤッとばかりに、かけだした。
あっというまに、踏み切り位置まできた。
助走の勢いにのると、全身の筋肉のバネを使い。バンッと地面を蹴って、思いっきりジャンプする。
ビュンと夜風をひきさき、身体が空を跳ぶ。
物凄い速度で、世界が後にとびさがる。
「スパッといったら、次はひらりっと……。うぎゃぁぁぁあああっ!」
石壁に衝突して、そのまま下に落ちる前に。呪文のおかげか、のばした腕の指が窓の枠をつかんだ。
腕の力を使って窓のほうぐいと軌道修正すると。そのまま、窓のむこうへ……。
ホコリだらけの絨毯の上に、頭を抱えた格好でつっこむ。
そのまま、床をぶち抜きそうな物凄い音をたてて、部屋の反対側まで転がる。
そこでとまった。
床の上に寝転がった格好で、しばらくのあいだ、身動きもせずにじっとしていた。
大丈夫だ、どこもケガしてない。腕や脚もちゃんと動く。
問題があるとすれば、ただちょっと、ぶつかった背中と頚のうしろあたりがズキズキと痛むせいで、涙がでそうなだけだ。
「やっぱり、穴をみつけて、そこから入ったほうがよかったかな……?」
乱れた気持ちがおさまるまで待ってから、身を起こし。うつむいたまま、髪の毛や体についたホコリをたたいて払う。
落ち込んでいる自分に、「さあっ、とりかからなくちゃ!」とうながす。
むきあうことになったのは。ホコリっぽくて、息苦しくなる。そんな暗やみだった。
眼が馴れるまで待ってから、あらためて室内を見回す。
館の外観も壮観だったが、どうして、その内側も大変なことになっていた。
想像していたような、ふかふかの大きな寝台。ピカピカの化粧台。うっとりするような見事で高価な家具や調度品の数々は、どこにも見当らない。
この館を襲ったのと同じ、時間という怪物が、すべてを様変わりさせてしまっていた。
眼にしたのは残骸だ。倒れて折れ、破れて砕け、ボロボロのバラバラとなり、ガラクタと化した、成れの果て。そんな残骸が、壁ぎわによせてつみあげてある。
「ひどいな。まるで廃墟だ。とても人が住めるような状態じゃない。本当にあいつ、こんなところにいるのかしら?」
村の酒場できいた吸血鬼の話も根拠ないウワサでしかなくて。私はありえない幻想を追っかけて、こんな場所まで入り込んだんじゃないか、と錯覚しそうになる。
いいや、そうじゃない。よく見れば、家具の残骸はすべて壁ぎわへのけられている。階段までの通り道をつくるためだろう。
きっとあいつは、一階で暮らしてるんだ。
ありがたいことに、側壁をそのまま、きざんで造ったような、石造りのむきだしの階段が残っていた。
足音を忍ばせて……。というよりも、踏みはずして落ちないように注意しながら。一階にまで下りる。
見回して、私はあぜんとなる。
なぜなら、そこは、書庫だったからだ。
きちんとならべてしまっておくための、造り付けの書架もある。
でも利用者がたわむれに集めた蔵書の量は、とっくに収まる量を超えてしまっている。
本、本、本、本、本……。薄手の冊子。分厚い巻紙の辞典。絵入りの古文書。
とにかく、種類も形状も千差万別な山積みにされたホコリだらけの書物が。広い床を占領するように、あちらこちらに無造作につみかさねられている。
もともとそこにあった、四方を厚い石壁で守られた地下室のような生活空間は。いまや利用者が自分の世界に没頭するための閉じた隠所と化していた。
いったい何百冊。いいや、全部で何千冊あるんだろうか。
私はきょろきょろとあたりを見回していたが。意を決するとホコリだらけの書物の山に手をのばし。適当に一冊とって、表紙をながめる。
私には読むこともできない、むずかしい外国語で書かれた写本だ。
教会の僧侶たちが読み書きのときに使っている、古めかしい学術用の公用語らしい。
一冊の書物として綴じてから、もう長い年月を経ているとわかった。
ひらこうとすると、私の手のなかで写本はほどけてバラバラになってしまい。色が変わったページが次々と床へ落ちた。
ページは風に吹かれた木の葉のように、散り散りに、床の上で舞う。
私は身をかがめて拾おうとしたが。そのとき、暗やみのむこうから、低く重苦しい声でよびかけられて。驚きのあまり、とびあがりそうになった。
「そのままにしておけ。どうせ価値など、失われるものだ。
それはイタリアの教会で僧侶たちにつづられた、魂の不滅性をうたったすばらしい内容の神学書だが……。
しかし、あと二、三百年もすれば、読む者はいなくなる。
いまのこの時代……。教会が人の世を動かす主軸となり、宗教と信仰によって築かれた時代が終われば。ここにあるいっさいがっさいは、すべて無用のものと化すのだからな……」
私は身をひるがえすと、声がきこえた方に、向き直る。
書物を読むためだろう。火がついてない燭台をわきの卓においた、大きな肘掛け椅子が一脚、用意してある。
私の記憶が正しければ、さっきまで、そこには暗やみしかなかった。
ところがいまは、椅子に一人の人物が腰下ろしている。
顎の下に曲げた右手の甲をあてると、感情を読めない無愛想な顔で、こちらを眺めている。
私は思わず驚きの声をあげていた。
「いっ、いっ、いつのまに。いったい、どうやって……?」
「ことわっておくが、おれは最初からここにいた。息を殺し、気配を消し、身じろぎもせずにな。おまえが気づかないから、しかたなく、こちらから声をかけたんだぞ?」
私は眼の前に出現した相手から一瞬たりとも視線をそらさず、後退りながら。自身にいいきかせるように、とっさにその名を口走っていた。
「ヘイフリック?」
「そうだ。その名前で呼んでもらいたい。あさましい化け物。神から見捨てられた怪物。あるいはもっとハッキリ、吸血鬼なんてよばれるより、ずっとマシだ」
きちんとなでしつけられた銀髪をした、表情から血の気が失われたその男は。物でも観るように、光のない眼で私を凝視している。
五十年前のあの晩にあらわれたときと同じだ。その容姿や態度に変化はない。
ただし、身につけている黒色をしたシャツやズボン、靴や手袋は、以前よりも飾り気なく。もっとシンプルで、細目のデザインのものに変わっている。
その黒衣の男、ヘイフリックと名乗ったそいつは、じりじりと壁ぎわまでさがって。自分のことをキッとにらんでいる私に、よびかける。
「ふん。おれが言付けた手紙はちゃんと届いたわけだな。あと十年待ってもここへやってこなかったら、また出向かなきゃならないと危ぶんでたが、どうやらその必要はなくなった。
それで、遠路はるばるこんな片田舎までやってきて、おまえはどうするつもりだね? さあ、いってみろよ」
「う。あたしは、その……」
こんなこといったら笑われるかもしれないが、私はすっかり気持ちが動転していた。
びくびくしながら踏み入ったその場所に、私を苦しめてきた当人が本当にいて。ぬけぬけと、さあどうするんだ、とうながすんだから、これが戸惑わないわけがない。
私は壁ぎわまで下がって、その憎むべき男をにらみつけていたが。意を決すると、教えでも説くように、ふるえる声でこうきりだした。
「いいこと、もし自分がおこなった悪業を悔いる気持ちがあるなら、神様はあなたをきっと許してくださる。だからその、つまり……」
「つまり、なんだね?」
ヘイフリックはあきれたような、うんざりしたくちぶりで、そうきいてくる。
即席の説教は、まるで効果がなかった。
私は決まり悪くなって、怒ったように大声で訴えた。
「なんだよ、しらばっくれて……。この姿格好を見てわかんないの?
半世紀前にあんたがかけた呪いのせいで、ずっとこのままなんだよ! だから、あたしにかけられた呪いを解きなさいよ。いますぐ、もとにもどして! さもないと……!」
私がここになにをしにやってきたのかを理解すると、ヘイフリックは椅子の背に身を持たせかけて、さもあらん、といった態度でかえした。
「なるほど、そういう結論に達したわけか……。それで、どうするんだね? まさか、こちらがおとなしく、その要求に従う、とは考えてないはずだ」
「ど、どぅいうことよ?」
「おれを倒す覚悟で、従わせるつもりで、のりこんできたのなら。なにか持ってきたのか?
聖職者の手で清められた聖なる剣とか。魔物を討ち滅ぼす槍とか。そういった武器だよ。
ことわっておくが、十字架や聖水は効果ない。あんなのは教会がデッチあげた、ただの迷信だ。
それに、飾りものじゃない剣や槍といった武器のたぐいなら、おれを倒せるかもしれないぜ。
おれだってべつに不死身じゃない。斬られれば血が出るし、苦痛にのたうつ。やってみるかね?」
ヘイフリックにそうきりかえされて、私は言葉の続きがでてこなくなった。
「ううぅっ、そういったものスゴイ得物は持ってきてないよ。だってさ、ここにたどりつけるかどうか。たどりついてもあなたがいるかどうか、それすら確信がなかったから……」
どうやら、計り知れないくらいこうした面倒ごとに遭遇し。イヤというほどウンザリした経験をかさねたらしいその男は。なにもいわずに私の顔をながめていた。
「あきれたね。この五十年のあいだ、おまえはなにをやっていたんだ? せっかく生きのびる幸運とともに、貴重な時間をあたえられた、ってのに」
「なにをしてきたってきかれても、私はその……」
「常識にとらわれたせまい見識を広げるために世界を旅したり。自分の不幸な運命と戦うために聖者や医者を目指したり。そういうことはしなかったのか?」
「だ、だって私には両親がいたし。二人に心配をかけられなかったし。それに……」
「だから? 一人の国教徒として、慎ましくも誠実に、今日までひっそりと故郷の町で暮らしてきたのか?
どうやらチャンスをあたえる相手を間違えたらしい。まったく、どうしようもない凡人だな」
「あぜん……」
きわめて冷静に、とんでもない憎まれ口をたたかれて、私は言葉を失った。
よりにもよって、私に呪いをかけた吸血鬼という化け物から。おまえは呪いをかけるにも値しない奴だった、といわれてしまったのだ。
ヘイフリックは、ポカンと驚いた私の顔を、だが自分は無表情のままでジロリと眺めると、こうききかえす。
「なによりもだ。おまえ、本当にこれが呪いや魔法だと、そう信じているのか?」
「そうよ。そうに決まってるじゃない。お医者さまも、神父さまも、そういったものっ!」
「たいした殊勝な心がけだ。だがな。その医者も神父も考え違いをしている。
たとえ、おれを滅ぼしても、おまえの身に起きている、その問題を解決することはできない。
なぜならこれは、おまえが信じているような、魔法や呪いといったもんじゃないからだ」
とっさに私は大きく前へ踏みだすと、握り拳をかためてふりあげて、ヘイフリックにむかってヒステリックな大声で怒鳴っていた。
「嘘をつくなら、もっとマシな嘘をついたらどうなのさっ! うまいことをいって私をダマすつもりだろうけど、そうはいかないからねっ!」
だがヘイフリックは動じた様子もない。
まったく変化がない無表情で、私の怒りの表情を見返すと。まるで地の底から響いてくるようにな低くおしころした声で、こうききかえす。
「なんのために、そんな嘘をつく? おまえをからかったところで、得るものはない。
いいか、よくきけ。推測でしかないが、これはまだ知られてない、なにか新しい病気だ。
ただし病気の症状は、いままできいたこともない、奇妙きわまりないものだがな。
おまえも味わったとおり、この病気にかかった病人は。その時点で肉体的な成長が停止して、年齢に見合った外観上の変化がなくなる。
それだけじゃない。なにか得体の知れない先祖帰りでも起こすのか。肉食動物じみた鋭い牙が生えて。
夜の暗やみを好んで活動し。獲物をつかまえて牙を突きたてて、その生き血を渇望するようになる。
簡単にいえば、吸血鬼になったような症状に苦しめられる……」
「だぁかぁらぁっ。けっきょく、吸血鬼なんでしょ!」
そうした私の訴えにも、しかし、ヘイフリックは頑固にクビを横に振ってかえす。
「いいや、違う。病気の症状でそうなっているんだ。
それだけじゃない、あろうことかこの病気は、かかった人間を衰弱させ殺すかわりに、死ににくくするんだ。さらには、ほかの病気も治癒してしまう。おまえが黒死病から回復したのも、この症状のせいだ。
おれはこの病気の治療方法を求めて、危険な旅を続けてきた。
地図にも載ってない小さな村や町をめぐり、その地で暮らしている人々のあいだを渡り歩いた。
教会や修道院におもむき、ありったけの研究書や論文を調べた。同じ症状に苦しんでいる者がいないか。それを脱した記録がみつからないか、と手に入る書物を読みふけった。
だがみつけたのは、正確な事実とは程遠い、口先ばかりのペテン師たちがならべる嘘八百だった。
いくら必死に努力しても、探し求める治療方法はみつからなかった。
最後には悟ったよ。けっきょく、おれ自身が病気の症状を抑える方法を会得し、治療する手段をみつけるしかないってね。
おれが知り得たすべてを、おまえに語ってやってもいい。もっとも、心の準備ができていない、いまのおまえでは、理解することも、その事実をうけいれることもできないだろうけどな……」
ヘイフリックがさりげなく持ちかけた誘いの文句も、私の耳には入らなかった。
ただもう、言われた事実をうけとめるだけで、精一杯だったのだ。
うつむいて自分の足もとを見つめたまま、念を押すように、そっとたずねる。
「じゃあ、残りの一生、私はずうっっと、このままでいることになるの?」
「おまえが考えてる残りの一生が、いったいどの程度の期間をさすのかわからないから断言はできないが。はからずも、そういうことになるな」
ヘイフリックは、苦しんでいる人たちを慰める教会の神父さまの優しい態度とは程遠い。なんの慰めもまじえない、冷徹な態度で、うつむいている私にそうかえした。
あんまりじゃないか。ひどすぎる。お願いだから、なんとかしてよ。こうなる騒動の原因をつくったあなたなら、なんとかできるはずでしょ……。
救いを求める悲鳴混じりのいろんな言葉が、ぐるぐると頭の中でめぐったが、どれも私の口からは出てこなかった。
かわりに咽喉の奥からとびだしたのは、獣じみた唸り声だ。
自分でもなにをしたのか気づかないうちに、ほとんど衝動的に、椅子に腰かけたヘイフリックめがけて嵐のように襲いかかっていた。
曲げたこの二本の腕でヘイフリックの頭の両側をつかんで、その喉もとに食らいつき、喉笛を噛み切ってやる……。はずが、そうはいかなかった。
からっぽの肘かけ椅子に抱きつくような格好で、顔面から衝突すると、私はそのまま勢いあまって椅子ごと後側へひっくりかえってしまい。さらにそのうしろにあった、つみあげた書物の山へとつっこむ。
大声をあげて、じたばたともがく。
「やれやれ。怒りにまかせておれを襲ってもどうにもならないと、さっきいいきかせたばかりじゃないか。
たとえおれを倒したところで、おまえは自分を導くしるべを失ってしまい。いまよりも大きな失意と絶望を味わうだけだ。もっと自分の運命というものを考えてから、行動したらどうだ?」
「そんなの、知るもんかっ!」
背後から低く重苦しいくちぶりでそう忠告されて、私は大急ぎで立ちあがると、ふりかえった。
しかし、すでに遅かった。
のびてきた二本の腕が私の両肩をつかむと、そのまま、ぐいと宙に吊りあげる。
人の力とは到底思えない、おそろしい怪力だ。ふりほどけやしない。
強力な指と掌が左右から万力のように肩をつかんで、ぐいぐいと締めあげるせいで、私の腕は途中までしか持ちあがらない。
しかも、宙吊りにされているせいで、私の足はむなしく空を蹴るばかりで、相手につかみかかるどころか、反撃のしようもない。
私は手も足もでない宙吊り状態にされた恐怖に歯噛みしながらも、すぐそこにあるくせに噛みつくこともできない死人のような顔をにらみつけて、国教徒にあるまじき、激しく荒々しい悪態をならべたてた。
「ううぅっ。この吸血鬼め。おまえの狙いはわかってる。
おまえはその邪悪な力を使い、この世界を未曾有の混乱におとしいれるつもりなんだっ!
私たちが信じているいっさいがっさいを、ひっくりかえすつもりなんだっ!
おまえは罪もない人たちを襲い、自分のしもべに変えることができる。
変わり果てたそのしもべたちは、おまえと同様、神の摂理からはずれた化け物たち、反逆者、異教徒じゃないか。
そんな存在がいるとわかれば、教会側は黙ってない。いやでも両者のあいだで、対立が始まる。やがては、世間をひっくり返すような、戦いになるはずだ。
おまえはその戦いに乗じて、自分の王国を築くつもりなんだろ? しもべたちは、みんな、けっきょく、おまえの野望の犠牲にされちゃうんだ。いいか、よくきけ。私はそのおそろしい企てに命がけで抵抗してやる。絶対にだっ!」
そうだろう、そうなんでしょう? と問いつめる私の顔を、ヘイフリックは黙ってながめていた。もしかすると、困惑していたのかもしれない。
おまえ、さっきのおれの話をきいていなかったのか。そんな真似をするはずがないだろう。
おまえだって、わかっているはずだ。この病気の患者を増やすなんて真似は、そいつが正気なら避ける。
ヒトはそんなに長く生きるようにはつくられてないんだ。どんなに絆が深い家族も、愛し合う恋人も、長過ぎる寿命の前にはその関係が続かなくなる。
やがてはそんなことをした相手を憎むようになる。つまりは軍団なんてつくったら、吸血鬼同士で殺し合いになるんだよ。
「それにだ。おれたちは吸血衝動を抑えることができる。食べ物と飲み物が充分なら、わざわざ血を飲む必要もない。人間が自分の欲求に支配されないのと同じだ。
だいたい、そんなまわりくどい企てとやらを実行するまでもない……」
信じるもんか、ダマされるもんか、という顔つきでいる私にむかって、ヘイフリックはおもむろに、次のようにいいきかせる。
「こんなことを話してきかせても、おまえは信じないだろうが。教会は力を失い、そう遠くないうちに……。
あと数百年たらずだろうが、もっと魅力ある新しい教義にとってかわられる。
神ですら、世界を動かす力ではなくなるだろう。人々はがんじがらめにされた宗教的な規律から解放されて、神とは違う存在を信じるようになる。
そんなわけあるはずない、といいたいのはわかる。だが教会は、変わりつつある世の中の風潮に眼を背けて、人々の欲求に応えるのが自分たちの務めなのを忘れている。
人々は変わりつつある。たとえば、おまえの父親のような、農民でも騎士でも貴族でもない、新しい階層の人々があらわれたのがその証拠だ。
おまえもきっと、その世界をまのあたりにするだろう。
さてそのとき、おまえはどんな顔をして、その世界を眺めるんだろうな? きっと、寄る辺をなくした子供のような、情けない顔をしているに違いない」
私は宙吊りにされたまま、馬鹿にしたようにフンと鼻を鳴らすと。
なにもかも心得たようなヘイフリックの死人じみた無表情にむかって、いいかえしてやった。
「知ったようなことを言ってるけど、そんなことが起きるわけないじゃないか。あなたみたいな、冷血で、鼻持ちならない、底意地の悪い人なんかのいうとおりになったら、それこそ世界の終わりだわ。
じゃあ、神様を信じなくなるんなら、いったいぜんたい、私たちはなにを信じるようになるのさ? 神様の代わりになる、そんな存在が、ほかにあるっていうの?」
できるかぎり痛烈なくちぶりでそう反論してやったが、ヘイフリックは動じる様子もなかった。
なにも理解しようとしない頑固な愚か者を見るような眼つきで、私をながめると。低い重苦しい口調で、あざけるようにかえす。
「そのときになってみればわかる。そうする自由があるなら、人はわざわざ自分の主人をつくったりしない。そうしないですむ教義を選ぶようになるのさ」
よけいなおしゃべりは、これくらいでいい。それよりも、いいかげん本題にもどろう。この質問の答えを得るために、おれはここでおまえがやってくるのを待ったんだからな。
ヘイフリックは宙吊りにした私にむかって。五十年前に生死を決めた選択を迫ったときのような悪魔じみた優しさを発揮すると、こう語りかける。
「半世紀前、おまえと最初に出会った夜に、おれは次のようにことわっておいたはずだ。再会したら、どうすべきかきく、とな。覚えているか?
説明したとおりだ。この病気に犯された肉体は成長もしないし、年老いることもない。
この外観のままで、おそろしく長い年月を生きる運命にある。手短にいうと、十世紀から十五世紀という、ふつうの人間には不死にも近い永遠の時間を、さまざまな経験をしながら、すごさねばならないんだ。
しかし、そうなると、べつの問題も生じる。
肉体が老いることを知らなくても、おれたちの精神はそんなに長い寿命に耐えられるほど強靭にはできていない。
おまえもその身で味わって、ちゃんと理解できているはずだ。家族や友人、知人を亡くし、孤立して一人で生きるうちに。そいつは生きることが負担となって、しだいに自滅的な行動をとるようになる。
社会の変化についてゆけなくなり。恐怖の裏返しである怒りの衝動のまま、自暴自棄となって。ついには無差別な破壊や殺人を始めるようになるんだ。
世間が吸血鬼とよぶ怪物たちは、たいがい、この病気の末期的な状態にある奴らだ。そうでない連中は、もっと上手に身を隠しているからな。
おれは、おれ自身がこの病気に感染させた相手に、ある程度の期間をおいて質問をすることにしている。まだ生き続けたいか、それとももう充分か、とな。
もしも、あたえられた新しい人生がおまえにとって重荷なら、おれがこの手で息の根をとめてやる。
そうでなくても、おまえがたった一人で生きることに疲れて、自暴自棄となり、おれたちが暮らすこの社会に弊害しかもたらさなくなれば。おれはおまえを容赦なく始末するつもりだ。わかったか?」
私は、大きくまなこを見開き、身をこわばらせたまま。眼の前にいる、死人のような顔をしたヘイフリックを凝視するしかなかった。
きいたばかりのその話を徹頭徹尾、信じたくなかった。理解したくなかった。
「まさか……。あなたが生命をあたえた相手を、あなたの判断でまた奪ってきたっていうの? そんなひどい話があっていいはずない。あんまりだよ。勝手すぎるじゃないか。ねえ、そんなの本当じゃないでしょう?」
「いいや、そのとおりだ。しかもそれは、道理にあった必要なことなんだよ。
ふつうの人間だったら、冷酷残忍な独裁者や、人の皮をかぶった連続殺人鬼でも、寿命がつきて倒れれば、そこで悲劇は終わる。ところがこの病気にかかった者は、常人の何百倍、何千倍もの寿命を生きる。もしもそいつが危険な性癖を抱えた人物だったら、社会を破滅させ、歴史を終焉に導きかねない。
おまえが生きたいと切望したから、その気持ちに免じて、おれはこの運命をおまえにもたらした。おれには、そうしてしまった責任がある。
おまえは、まだ大丈夫だろう。だがもし、おまえが、おまえがいうところの吸血鬼という怪物になりさがったら、責任をもっておれが必ず始末してやる。脅しじゃない。そのうちおまえにもわかるが、これはしかたがないことなんだ……」
私は最後まで、この人でなしの吸血鬼野郎の勝手なごたくをきいてなかった。
肩をつかんでいるビクともしない強力な腕から抜けだすために、つきだされた死人のような面の下顎めがけて、やぶれかぶれで、膝蹴りを思いきり見舞ってやった。
……ぐしゃっ。がっ、ぐぁおおおぉぉっ。
ヘイフリックは死にものぐるいで放たれた膝蹴りをまともにくらって、大きく頭をのけぞらせると、私を放りだしてあおむけにひっくりかえった。
私は尻もちをついたけど、すばやく立ちあがって。うわああああっ!と大声をあげながら、その場から一目散に逃げだした。
階段を段をとばして駈けあがり。二階を走り抜けると。来た道を逆にたどって。どう着地するかろくすっぽ考えもせずに、二階の窓から外へとびだした。
勢いがつきすぎてしまい、空中で半回転すると、あっと思ったときには背中から地面に衝突していた。
「……ぎゃんっ!」
背中からしたたかに叩きつけられてしまい、ものすごい衝撃と苦痛のせいで肺に空気を入れることができない。ヒュウヒュウと咽喉を鳴らしながら、なんとかやっと身を起こすと、泣き声で愚痴をいう。
「あんまりだ。ひどいじゃないか。どうしてこんなことになっちゃったんだ」
だが嘆いているひまはない。頭上から、あの低く重苦しい声が響いたのをきいて、私は悲鳴をあげそうになった。
「おい、よくきけよ。身の程もわきまえない、こわっぱめが!」
見上げると、ヘイフリックが二階の窓の枠を片腕でつかみ、めいっぱい大きく身を乗りだした格好で、私を見下ろしている。
「おれがいったことをよく考えておけ。おまえは自分がたちむかう運命を理解してない。自分が何者かも知らない。そんな状態のおまえがもし自分を見失えば、おれはあらわれて、有無をいわさずに決着をつけるからな。わかったな?」
「恥知らずの、いやしい、うすぎたない、吸血鬼め」
私は四つんばいになったまま、泣きだしそうなのをこらえて、きれぎれの悪態をつくと。よろよろと立ちあがり、村にむかって歩きだした。
ヘイフリック。まさかあいつは、自分がかかった病気を治すすべを得るために、私に生きるチャンスと時間をあたえたんじゃないだろうか。
そんな考えが脳裏に浮かんだが。自分がおかれた境遇のことで頭がいっぱいで、それ以上は頭がまわらない。
笑い声がきこえる。
きっと吹き抜ける夜風の音をきき違えたのだろう。あいつが声を上げて高笑いなどするわけがないからだ。
それでも幽霊屋敷の二階の窓から身をのりだした怪物があげる高らかな笑い声が、夜の闇にのって追いかけてくるようで、私は背後をふりかえることができなかった。