ヘイフリック 第1話
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旅先で。だれでもいっぺんは耳にするウワサ話のたぐいだ、と最初は思った。
〈幽霊館〉……
それは、小麦や大麦の耕作地が広がるこの村のはずれにぽつんと建つ、いまにも崩れ落ちそうな、古めかしい石造りの建物をいう。
幽霊館に近づいたり、(もしもそんなことができるなら)勝手に建物に踏み入ったりすることは、村のタブーとして、きびしく禁じられている。
なぜなら、あの館には……
「やっぱり。あの幽霊館には、言い伝えどおりに、吸血鬼が棲みついてるんだ。ウチの使用人が使いの帰りに、黒づくめの大きな人影が、館に入ってくのを見た、っていってた」
「ぶるる。やっぱりそうか。ウチの親父もな。若い頃に、あの館を取り壊そうと仲間たちといっしょに踏み込んだそうだ。
すると、黒づくめの男がどこからともなくあらわれて。館もふるえそうな声で、親父たちを脅したんだ。“命が惜しいなら立ち去れ”って」
幽霊館にまつわるいっさいは、みだりに口にだしてはならないといわれているのだろう。
このへんぴな村に一軒しかない、料理屋兼、宿屋兼、酒場で。すっかり夜もふけた時間に。
酒を酌み交わしながら勝手な自慢話をしていた、どうやら大勢の小作人たちを抱える大百姓のドラ息子とわかる連中も。さすがにこの話題に関してだけは、バツが悪そうに、ひそひそと小声で話しあっていた。
だがなかには、コワイもの知らずの無鉄砲もいる。
「だれがなんていおうと、吸血鬼なんていない。そんなのは、古くさい迷信だ」
ワインやビールの力で気持ちが大きくなった、田舎の遊び人だろう、その若い男は、声をあげてそう断言すると。かためた拳でテーブルをどんとたたいた。
テーブルをかこんだほかの悪友たちは、困ったように、おたがいの顔を見合わせる。
遊び人の男は調子づいて、仲間たちの顔を見渡してから、さらにいいきかせる。
「だいたい、理屈にあわないじゃないか。
吸血鬼は血を飲むが、噛まれて血を吸われた犠牲者も同じように、べつの吸血鬼になるんだろう?
つまり吸血鬼がだれかを襲えば、その犠牲者はまただれかを襲い。吸血鬼の数は二人が四人。四人が八人と。どんどん増えていくはずだ。
吸血鬼が実在するのなら、この村中、どこもかしこも吸血鬼だらけのはずだ。いいや、このあたりの村ぜんぶが、吸血鬼でいっぱいになっていてもおかしくない。
狼にさらわれたり、はやり病で亡くなった者はいる。でも吸血鬼に襲われた奴なんていない。
吸血鬼は、もしかしたらべつの場所まで行って犠牲者を襲ってるのかもしれないが。近隣の村で、得体の知れない血を吸う化け物が増えて。おれたち信心ぶかい国教徒が危機に瀕しているなんて話は、きいたこともないぜ。
あの幽霊館にいるってのは、世間を嫌って一人で暮らしてる、偏屈でつきあいにくい老人か。夜露をしのぐために廃屋を寝床に使ってる流れ者のたぐいだろうよ。そうに決まっている」
自信たっぷりに語ってみせる仲間の説明をきいて、ほかの遊び人たちも、そうだな、たしかにそのとおりだ、と納得する。
とはいっても一抹の不安は拭いきれないのだろう。心配そうな顔で、小さくお祈りの文句を唱えたり、十字を切ったりする。
私はそのとき、少しはなれたすみの席にすわり。陶器のカップを両の掌でおおうように持って。
いい気分で酔っぱらってる彼らのやりとりを、黙ってきいていた。
彼らは、私がそこにいるのに気づかなかったはずだ。
古びた大きな建物のあちこちをボゥッと照らした、ろうそく立てのゆらめく炎のあかりでは。すみのテーブルにいる人物は、暗がりに呑まれてろくに見通せない。
私は暗がりに身をひそめたままで。ゆっくりと時間をかけて、切り分けた黒パンのかたまりに塗った牛肉のパテに、じゃがいもの濃厚なスープという食事をすませた。
いっしょに注文した、大きなカップに満たした、さめたミルクをすする。
ほんとなら冷えた体をあたためるワインをたっぷり、欲しかった。
でも(おカネを持っていても)こんな子供の姿では、店の親父が売ってくれなかったのだ。
話をきいても、不思議と気持ちは落ち着いていた。
そうか。あいつはやっぱり、ここにいるんだ。
じゃあ、ぜひとも会いにでかけて。懐かしいあの顔と、ご対面といかないとね。こんな場所までやってきたのは、そのためなんだから。
釣りがないとしぶる店の親父に、食事の代金は、借りたナタで銀貨を三つに砕いてその一片を渡して済ませてあった。
私はだれにことわるでもなく席から立つと、出入り口へとむかう。
気にとめる者などいないと思ってたのに、吸血鬼などいない、と大見得を切ったあの遊び人の男が、通りかかった私をよびとめた。
大きめの厚手の外套をまとって外観を隠すように注意していたが。かぶったフードからこぼれる、長くのばしたつややかな髪の毛と小さな後姿から、こちらが若い娘だと気づいたらしい。
さすがに手慣れたもので。こちらがこの村の人間ではないし。こんな時間に、こんな場所で見かけるはずのない相手だ、と見取ったのもわかった。
「おいおい。こんな夜更けに、どこに出かけるつもりだね? どぉだぃ、これからおれたちと遊ばないか?」
できれば、館までのくわしい道筋を知っておきたかった。
こちらが後姿のままで立ちどまると。ほかの男たちも調子にのって、大声で笑いながら、あざけるように口々にはやしたてる。
「いいじゃねぇか、そうしろよ。それとも、今夜会わなきゃならねぇ愛しい恋人でも、待たせてるのかよ。ええっ、お嬢さん?」
その一言に、私は思わず咽喉をそらして声をたてて笑いたくなった。
でもそんなことをしたら、ぞっと身の毛がよだつような、かわいた笑い声が、殺風景な店中に響きわたっていたろう。
かわりに、ふりかえって男たちに、こういいかえしてやる。
「ええ、そうなの。村はずれの古くて大きな館で、あの人が待っているのよ。居場所をつきとめることができたから、いまから会いにいくところなんだ」
ふりむいた私が、伏せ眼がちの、凄みたっぷりのカッコよくて美しい悪女だったら、男たちはがむしゃらになって本腰をいれて誘いをかけてきたろう。
あいにく、そうじゃない。
眉や眼、唇に化粧を凝らしても、子供らしい顔つきはごまかしきれない。しっかりと骨格が成長してない、肉がうすい体つきは、どうひいき目に見ても、まだ十五歳ぐらいの小娘にしか見えない。
男たちはがっかりした表情で席にすわると、ジョッキやグラスに向き直ってしまう。
「なんでぇ、ガキじゃないか。飲み直しだ、飲み直し」
「どうしてこんな場所をほっつき歩いてんだかしらねえが。おれたちみたいな悪い人間にとっつかまる前に、さっさと親のもとに帰んな。さもないと、とりかえしのつかない大ケガをすることになるからよ」
「へええ。そうなの」
そりゃまぁ私だって、自分が人目をひきつける魅力的な美少女のたぐいじゃないとわかってる。でもあからさまに落胆した態度をとられると、さすがにムカッ腹もたつ。
男たちの顔をひとわたりを見渡しながら、私は彼らに親しげに笑いかけてあげた。
ぼんやりとした燭台のあかりでも、きっと彼らは見たろう。
唇のはしからのぞいた、尖った牙のような犬歯を。
獲物の喉もとに食いついて突きたて、引き裂くために発達した、強力な肉食動物がそなえた、人ではない特徴を。
その瞬間、私の姿はきっと、暗やみのむこうから自分たちに襲いかかろうと身がまえる、おそろしい野獣のように感じられたに違いない。
「……うわわわっ。そんな、まさか……」
言葉にならない驚きの声をあげて、男たちは椅子から立つと、とっさに逃げ場を求めるようにあとずさった。
だがそんな錯覚も、ほんのわずかなあいだだけ。
すぐに彼らは、きょとんと不思議そうに自分を見つめる年端もいかない娘と。無軌道な騒ぎっぷりに我慢できなくなって、追いだすためにやってきた怒りの表情で立っている店主とを、交互に眺めることになった。
「な、なんだよ。いったい、なにが起きたんだ?」
「さっぱり、わけがわかんねえ」
いくらお得意様でも、騒ぎを起こすような厄介者はお断わりだ、すぐに出ていけ、と大声で命令する怒った店主と、事情が飲み込めずにいる男たちは言い争いを始める。
私は彼らがこってりとしぼられているあいだに店から出ると。外套のポケットに両手を入れて、ぬかるんだ寂しい泥道を、うつむいたたまま歩きだした。
知りたければ教えてあげようか、とも思ったけど。どうやらよけいな親切だったらしい。教えそこなった答えを、私は胸中でなぞる。
なぜ吸血鬼が増えないのか。その理由は簡単で、なおかつ残酷なものだ。
吸血鬼は、同じ種族である仲間たちが大嫌いだからだ。
それどころか。呪われた運命から解放されるために、自分に呪いをかけた最初の吸血鬼を滅ぼそうとする。吸血鬼同士で殺しあうのだから、増えるわけがない。
どうして、そんなことわかるのかといえば……。お察しのとおり、私もその吸血鬼の一匹だからだ。
そしてこれから、私という化け物をうみだすきっかけとなった、べつの吸血鬼を殺しにいくのだ。
私が吸血鬼になったのは、いまから半世紀ほど前のこと。十五歳のときだ。
あの当時は、自分がどれほどやっかいな運命におちいったのか、きちんと把握していなかった。
まさかそんな妙な存在が実在するとは思ってなかったのだから、しかたがないといえば、しかたがないのだけれど。
吸血鬼になる。そのことを考えるたびに、皮肉っぽい笑いが浮かんでくる。
吸血鬼を倒す方法なら……。じつはほとんど、どれも眉唾物だけど。古くからの口伝えや、教会の文献なりを通じて、たいがいの人たちは教わっている。
みんな、くちをそろえていうはずだ。聖水を、十字架を、白木の杭を、太陽の光を、ニンニクを、……等々。
だけど、(ムカムカと怒りがこみあげてくるが)倒すんじゃなくて吸血鬼を救う方法をたずねると。みんな、アタマをひねるばかりで、好ましい返事はかえってこない。
もしも、あなたや、あなたの家族の身にそんな災難がふりかかったら、どうするか? 化け物に身を落とした、家族や恋人や友人を前に、彼らが抱えた苦しみをやわらげて、その身にふりかかったおそろしい運命から、どうすれば解き放ってやれるのか?
「災いをもたらした吸血鬼を滅ぼせばいいんじゃないかな? それで犠牲者にかけられた呪いは解けて。悪夢から覚めるように、人間にもどるはずだ」
そう教えてくれた人もいた。だけど、でもその当の加害者が、犠牲者を手にかけたあと、姿をくらましてしまったら?
私の場合は、けっきょく、生まれ育った町の教区にある一軒家で。半世紀にもわたって、吸血鬼という化け物である我が身を隠して暮らすしかなかった。
幸運なことに、化け物め、と胸に杭を打ち込まれたり。広場にひきだされてはりつけにされ、火あぶりにされたりすることはなかった。
なぜかといえば、吸血鬼らしいふるまいをしなかったからだ。
夜な夜な、灯もない街の通りをさまよい。襲った犠牲者の喉笛を噛み切って血をすすったりせずに。
日曜日には欠かさず教会にお祈りに行き、孝行娘はムリでも。両親のもとで、ふつうの人間をよそおって生きるようにした。
人々に災いをもたらす怪物ではなく、不運な境遇に耐える人間として。生まれ育った家で、両親と家族として暮らしたのだ。その運命が大きく変わることになる日まで。
両親には、本当に感謝の言葉もない。
その当時、私たちが暮らす都市や、まわりの村落をふくめた、近隣の地方一帯では、黒死病とよばれるおそろしい伝染病が猛威をふるっていた。
だれもが、この病気があとに残す、犠牲者の数におそれをなした。
黒死病をわずらうと、その人は、高熱と悪寒に苦しめられ。数日後には、昏睡状態におちいる。手厚い看護のかいもなく、一週間とたたずに息をひきとっていく。
それだけではない。愛する者を救おうと、手当てや世話をした人々まで、病気にかかって。やがて熱病に倒れ、同じ運命をたどることになる。
人々を救う立場にあった人々……。医師や僧侶がどれほど手をつくし、高価で貴重な薬品や医術を使い。全身全霊を捧げた祈祷をおこなっても。この病気が人々の命を奪うのをくいとめることはできなかった。
黒死病の死の手から逃れる術はなかったのだ。
教会で、神父さまは、沈痛な面持ちで私たちに語った。
「……この病気が、死者と病人、悲しみにうちひしがれる、残された多くの人々をうみだしたのは、今日だけのことではないのです……」
黒死病は、数十年にわたって、これまでも幾度となく。おそろしい呪いが広がるように、人々のあいだに恐怖と絶望と死をもたらしてきた、と神父さまに教えられた。
ようやく災いはこれで終わった、と安堵しても。どこからともなく再び姿をあらわし。その死の息吹で、次々と尊い大切な生命の炎を吹き消していく。
貧しき者も、富める者も、盗っ人も、聖者も、身分のへだたりなく。だれもかれも、自分たちの無力さと生のはかなさを思い知らされ。眼に見えない病魔の手につかまりませんように、と祈りつつ、毎日を暮らすしかなかった。
私が子供時代の記憶として、なによりもあざやかに回想するのは、毎日のようにおこなわれていた、葬式の行列だ。葬式の長い列は、思えば一年中を通して見かけた。
しかし、死と悲しみにくれる大人たちとそれほど間近に接していても、まだ子供だった私は、そうしたいっさいを怖れなかった。
自分にその順番がまわってくるまでは、どうせ他人ごとだ、と思っていたからだ。
私が黒死病にかかったのは、ふりかえってみれば、不幸な偶然からだった。
町の人たちは皆、この病気の犠牲者が自分たちのまわりで目立つようになると。熱心に教会を訪れては、いままでよりも長い時間をさいて、祈りを捧げるようになった。
教会は、神様に守られた特別な安全地帯だ、と信じられていたからでもある。
私も正装して、両親と連れ立って教会へ出かけては、この司教区をおさめている、聖者と名高い司教様に、お祈りをささげた。
たとえ死ととなりあわせた境遇から逃れられないにしろ、全知全能の神様に祈りを捧げて、その愛に救いを求めることができれば幸福なのだ、と教えられた。
でも私は、頭をたれて手を握りあわせ、それとはまたべつに、こっそりとわがままなお願いをした。
どうか、おそろしい疫病から、この身をお守りください。私は天国なんかより、いまいる世の中のほうがいいです。だってまだやりたいことが、いっぱいあるんですから。
祈りを捧げる小さな女の子の、ひたむきな姿にうたれたのか、司教様はわざわざ私のもとまでやってくると、頭にその手をおいてこうおっしゃられた。
「大丈夫。神様は、いつもあなたとともにおられますよ」
司教様に声をかけていただいた幸運から、驚きといっしょに感激のあまりに涙がでそうになった私は、衝動的にその手をとって接吻した。
しかし、その司教様が黒死病で倒れると、まもなく私も発症した。
発病してから三日後には、私は家屋の隔離された自室で、ベッドに横たわったまま、自分の体のなかを荒れくるう熱病と戦っていた。
それは、私が生まれて初めて体験する、想像さえしていなかった苦しみだった。
毛布を体にかけてベッドに横になっているのに、悪寒がひっきりなしに襲ってきて背骨をふるわせる。それは、だんだんとひどくなる。
眼をつぶり、歯を食いしばり、体を縮めてやりすごそうとしてがムダだった。
痙攣が強烈な波のようにガクガクと全身をはしりぬけるたびに、言葉にできないような苦痛が襲ってきて、私をあえがせた。
昨日までは、手伝ってもらえば自力で用足しができたのに、それももうできなかった。なによりも、両腕をついてベッドから上体を起こせない。
(倒れた人たちがどういう症状をたどるのか幾度もきかされたせいで、いまの状態をはかることができた。高熱と衰弱で意識を失うようになれば、最期は近いことになる)
くやしくて、くやしくて、しかたがなかった。
気持ちはまだくじけてないのに、ただ肉体ばかりが病魔に犯されて、死をうけいれつつある。
このままおとなしく、最期を迎えるなんて、あまりにも理不尽だった。
でも、だからといって、どうすることもできなかったのだ。あの男が、ことわりもなしに部屋にあらわれるまでは。
いったいどれくらい、時間が経過したろうか。
夕暮れの血のような残光が古びた鎧戸のすきまから忍び込み、私の部屋のなかを不規則に染めたのを憶えている。
すこし眠ったらしい。次に気づいたときは、すっかり夜になっていたからだ。
母親が置いていったに違いない。ベッドのわきには、火をともした燭台があった。
ひどい熱に浮かされ、衰弱していたせいだろう。私は自分の眼で見ている出来事さえ、あるいは病気のせいで見ている幻覚なんじゃないか、と考え始めていた。
だから、その黒装束の男がノックもなく部屋を訪れたときも。てっきり天上世界からやってきた使者か。冥府から死神が、自分をむかえにきたんだ、と錯覚してしまった。
ベッドからわずかに頭を持ちあげると、高熱に浮かされたはっきりしない意識のまま、私は黒装束の男にたずねた。
「ねぇ。いったい、どこからやってきたの。天国、それとも地獄?」
「……」
しばらくは、気味が悪い沈黙だけだった。
やがて、部屋の暗がりそれ自体が応じたような、低く重苦しい声がかえってくる。
「いいや、どちらでもない。しいていえば、馬車に乗って、となりの町からだな」
その黒装束の男は、床を踏む靴音もたてず、大きな黒い影のように、私の寝ているベッドのそばへやってきた。
見下ろす黒い大きな影を、私はなんとか見定めようとした。
ろうそくの火に浮かびあがる相手の姿格好を見て、びっくりして、わが眼を疑った。
時代がかった肖像画からぬけだしてきたのだろうか。黒いシャツに、黒いズボン、そして黒い革靴さえも、すべて古めかしい年代モノだ。
なによりも私をひるませたのは、その男の、異様な雰囲気だった。
骨太の大きな身体は、人並み以上だろう。
だけど、なでしつけられた銀髪にはつやがない。土気色をした張りがない皮膚や唇。落ちくぼんだ眼窟からこちらを凝視する輝きのない眼を見ていると、この男はなにか長いわずらいでもしているんじゃないか、と不安になってくる。
そのとき思い浮かんだのは、この男は私と同じように、ひどい病気にかかっていて、その末期症状にあるんじゃないか、という考えだった。
(ずっとあとになって、私は自分の直感が正しかったのを知った)
不安と恐怖にかられるままに、私はベッドのそばに立った男にいいきかせた。
「わかってるわよ。あなた、やっぱりあの世から私を連れにきた使者なんでしょう? 魂とひきかえに、たとえどんな魅力的な条件を出されようと、あなたの誘いに乗ったりしないからね」
怒りも憎しみも、なんの感情をくみとることができない、低く重苦しい声が応じる。
「うんざりだな。かんべんしてくれ。そんなわけがないだろう。違う。自分に都合のいいおとぎ話と、現実をごっちゃにするな。
この町に訪れたおりに、よりにもよって教会で黒死病にかかった馬鹿娘がいるってきいてな。せっかくだから、そのあわれな娘の顔をおがませてもらって、ついでにどんな恨みごとをならべるのか、そいつを拝聴しにきたんだ。
なにか恨みゴトがあるなら、いまのうちにいっておけよ。そうしないと、もうすぐいえなくなっちまうからな。教会の馬鹿なボウズどもが憎いか? 救ってくれない神様に腹が立つか? さあ、ぶちまけてみな」
沈黙したのは、今度は私のほうだった。
呼吸がとまりそうな驚きに、私は大きく眼を見開くと、とっさに自分の病気のことを忘れて、まじまじとそいつを眺めた。
いま、いわれたセリフの意味が理解できなかったわけじゃない。
神様を冒涜する暴言を平気でくちにし。さらには、よりにもよってこの私に、神様を裏切るような真似をしろ、とうながす態度にぼう然となったのだ。
怒りの衝動が、ハラのうちにカッとこみあげてくる。
「どこのだれだか知らないけど、いますぐにこの部屋から出ていってください。さもないと大声をあげて、家族の者をよびます。おそろしい言葉で私をまどわそうとしても、その手にはのりませんよ。なぜってわたしは国教徒で、それに、うううっ……」
にらみつけて、声を荒げて、この悪魔じみた男を追っぱらおうとしたが、うまくいかなかった。
ふたたび襲ってきた骨身をふるわせる痙攣の苦しみに耐えようと、両肩を抱くように自分の身を抱きしめて、ベッドのなかで身を縮める。
歯を食いしばり、呻き声をかみ殺そうとする私の頭上に、大きな黒い影がかぶさる。
その男は、感情の読みとれない表情で、苦しみに耐えている私の顔をながめていたが。やがて低く重苦しい声で、こう語ってきかせた。
「黒死病がこの大陸を荒らしまわるようになってから。思うところがあって、旅をしながら、たくさんの村や町を見てまわった。どこもかしこも、いたるところ、死者と病人たちであふれかえってる。
病に倒れた連中は、助けを求めた人々に突き放され。教会に入ることも許されず。つめたい石畳の上でふるえながら息絶えるしかない。死んだあとも、集めて埋めるまで、やっかいものだと悪態をつかれる始末だ。
おまえは、死ねば家族が涙をながし。国教徒らしく埋葬してくれるだろう。いいか、おまえは幸運なんだぞ。神様じゃなく、おまえの両親に感謝するんだな」
男の声には、大げさな誇張もなければ、真顔で感動的な物語をきかせようとする説教の熱もなかった。
低く重苦しい声で、なるべく起きている事実を語りきかせるやりかたで、私を諭そうとしているのだ、とわかった。
信じられない話だが、この男は、疫病が蔓延し、死者や病人であふれた町や村を、なんのつもりか、馬車に乗って物見遊山でもするように旅しているらしい。
この男は疫病がおそろしくないのだろうか。もしかしたら、疫病を退ける、なにか得体の知れない、不思議な力を持っているのかもしれない。
自分でも気づかないうちに、涙がこみあげてきた。
ずっと気をはりつめてきた、その緊張の糸がぷっつりと切れてしまったらしい。
涙が浮かんだ顔で、男をながめると、いちばん知りたくなかったことをたずねた。
「私、死ぬの?」
そうだ、とうなずいたり、都合のいい弁解はかえってこない。
そのかわり、その男は、感情の読みとれない、低く重苦しい声で、こうかえした。
「神は、おれが見たところ、だれも救ったりしなかった。きっと、この世に興味や関心がないんだろう。
だがな。神がやろうとしないことが、おれにはできる。それが正しいことかどうか、おれにもわからないけどな。
黒死病は差別しない。死は、人の身であるすべての者に、平等に訪れる。しかし、おまえが人の身であることを捨てても生きることを願うなら、おまえに黒死病を退けて、生きのびるチャンスをあたえてやろう。
そのかわり、考えもしなかったひどい苦しみを味わうはめになるけどな。どうだね? どうするね?」
死人のような顔つきをした、その男にむかって、私は必死になっていいかえしてやろうとした。
あんなこといってたけど、やっぱり悪魔がよくやる取り引きをもちかけにきたんじゃないか。
教会で教えてもらって、そうした取り引きのの結末がどうなるのかよく知っている。
悪魔の誘いにのった愚か者は、最後はけっきょく、自分のあやまちを悔いて。そんなことするべきじゃなかった、と神様に許しを請うことになる。
私は顔をそむけると、その誘いを拒絶しようとした。
「私は国境徒です。神様を裏切る真似なんてできない」
くやしいけれど、自分が訴えていることが強がりでしかないのはわかっていた。
最後の瞬間まで、一人の国教徒らしくふるまえる、という自信がぐらついて。それまで必死におさえつけていた、怒りも恐怖もごちゃ混ぜになった、どうしようもない感情が胸中にわきあがってくる。
自分は死ぬのだ、と考えると、いくら我慢しようとしても、涙が込みあげてきた。
顔を見られないようにして、声を殺してめそめそ泣いていると、その黒衣の男が身をかがめて、こちらへ腕をのばした。
ひっ、と声をあげそうになった。血が通ってない氷のように冷たい指が触れたからだ。冷たい指は、熱で熱くなった額をなぞり、頬を濡らした涙のしずくをぬぐう。
おびえた眼で見ている私が泣きやんだのを見取ると。あいかわらず感情がこもってないくちぶりで、いいきかせる。
「しかたあるまい。国教徒らしく、残りの時間をすごせ」
男は、身を起こして立ち去ろうとした。
なにがそうさせたのか、あとになって考えてみても、よくわからない。
よくなるはずもない病気とむかいあったまま、わずかな残り時間をすごさなきゃならない、と考えたとたんに、いっさいに我慢できなくなったのかもしれない。
神よ、お許しください。私は腕をのばすと、立ち去ろうとする男の上着のすそをつかんだ。べそを浮かべた泣き顔で弱々しく訴えた。
「死にたくなんかない。どうか、助けてよ」
そのとき、暗やみのむこうに私が見たのは、歯をむいて笑っている、大きなくちだ。
この相手が天国からつかわされた救い手でないことだけは、そのとき、はっきりとわかった。
その男は、上着のすそをつかんだ私の小さな手をじっと見下ろした。
ふりはらう必要もなかったろう。必死につかまえているつもりでも、私の手は力を失い、下に落ちたからだ。
しかし、男はその手を途中でつかむと、感情らしいものを初めてうかがわせる、優しさのこもった低い声で私にたずねた。
「本当に生きのびたいか?」
私は熱に浮かされた頭をめぐらして、なにかぴったりした同意の言葉をさがしたけれど、けっきょく思いつかなかった。しかたなく、かすかにうなずいてかえす。
「では、その願いをかなえてやろう。ただし、それでよかったのかどうか、あとでもう一度答えてもらう。そのとき、本当にどうしたいのか、はっきりするだろうさ」
あとで答えるって、どういう意味だろう。本当にどうすればいいのかわかるって、なにをするつもりなんだろうか。
かけられた言葉の意味をたずねようとしたが、不意にこみあげてきた恐怖に圧倒されてしまい、私は言葉を失って我が身を硬直させた。
その男は、それまで自分をおさえつけていた衝動の枷をはずすと、本性をあらわした。
獣じみた唸り声を咽喉の奥からもらすと、薄い色のない唇がめくりあがり、ずらりとならんだ歯列と、とがった牙がむきだされた。
あっと思った次の瞬間には、私の喉もとに食らいついていた。歯列をつきたてて、咽喉の肉をくいやぶり、どっとあふれだした大量の血液をがつがつとむさぼり始める。
あとのことはよく憶えていない。恐怖のあまり、意識を失ったからだ。
翌朝。なにが起きたのか最初に知ったのは、私の母親だった。
病気がうつる危険があるから、と医者からかたく禁じられていたが、母親はかまわなかった。
母親は、衰弱した病人でも食べられるように、と肉や野菜の濃いスープの皿と水差しを盆にのせ。いっしょに着替えもたずさえて。そっと娘が寝ている部屋を訪れた。
わが子の面倒を看て、元気づけてやるのは自分のつとめだ、と決意していたからだ。
ノックして、ドアをあけたが、そのとたんに……。床に落ちて、がしゃんとひっくりかえる食器の音と。つんざくような、金切り声が家中に響きわたる。
悲鳴をきいて、あわててかけつけた父親は、息を呑む。
鮮血に浸され真っ赤になった白いベッドに、自分たちの一人娘が仰向けに倒れているのを見たからだ。
咽喉にうがたれた噛み傷からの出血はとまっていたが、着ていた寝巻やむきだしの肩や髪の毛にまで、赤黒くねばつく血糊が飛び散っている。
父親は両膝をつくと、がっくりとうなだれる。
「だれがいったい、こんなおそろしいことを……」
父親は蒼白な表情になると、ふるえる腕をのばし、あおむけに倒れた娘の体を抱きあげようとした。
しかし、そこで黒死病になるかもしれない、と気がついて、その手を途中でとめる。
不意におしころしたような苦しみの声をあげると、むけようもない憤りを胸中で煮えたぎらせて訴えた。
「ぐうおおおおぉぉっ……。これは夜盗のしわざか? 体を起こすこともできない衰弱した病気の娘に、なぜこんなひどい仕打ちをする? こんなことが許されていいハズがない。いいや、わたしが許さない。こうなれば、必ず犯人を見つけだし、おかした罪のつぐないをさせてやる。どれほど時間がかかっても。どんな障害があろうとも。わ、わたしは必ず……」
父親の怒りの独白には、まぎれもない決意があった。
そのままだったら、殺された娘の仇を討つために、家族ぐるみの血なまぐさい復讐劇をおこなう、べつの物語が幕をあけていたに違いない。
父と母が、私が何者かに殺されたと思ったのも、しかたがなかった。だけど、当の私は、まだ天国に召されていなかった。
いくら見た目は死んでいても、大量の失血のせいで一時的に気を失っているだけで、咽喉のケガは生命を奪うほどの致命傷ではなかったのだ。
さらにいうなら、私を死の淵まで追いやった黒死病にも、本来起きるはずのない劇的な変化が訪れていた。
父親が、報復を悲痛な決意をもって誓ったとき。当の私は、少しずつ、意識を回復しつつあった。
……またなんで、父さんはあんなに物騒なことをいってるんだろうか。それに、母さんはどうして、声をおさえて泣いているんだろう。
そう考えながら、あかないまぶたをムリヤリにこじあけた私は、そのとたんに襲ってきた、ズキズキと脈打つ灼けるような痛みに、思わず悲鳴をあげた。
「……あいっつつつっっ。痛い、痛い、痛い。クビが痛い。ものすごく、痛いっ」
私は首筋を掌でおさえると、耐えきれない痛みに思わずベッドからとびあがった。
ちょっとまをあけてから、今度は血だらけになっている自分の寝巻を見て、さらに大声で悲鳴をあげる。
「奇蹟だ。生き返ったんだ」
母親がそう口走るのをきいて、私はふりかえった。
私を見る、むきあった両親の顔つきには、信じられない出来事をまのあたりにしている驚きと、まぎれもない怖れとおののきの感情が浮かんでいた。
それも当然だったろう。
どんな超自然的な力が働いたのか。息絶えているとしか見えなかった血だらけの遺骸が、不意に大声をあげると、むっくりと身を起こしたのだから。
その場にへたり込んでいた母親がようやく、おびえたような表情で、おずおずとたずねた。
「……おまえ、病気の具合はいいのかい?」
私は、ハッとなった。
ためらっていたが、足もとをふらつかせながらベッドから立ちあがると。咽喉をおさえてないほうの腕をぐるぐるまわしたり。部屋のなかを歩いて往復しながら、ぴょんぴょんと跳ねてみた。
あれほど辛かった熱病や、苦痛をともなう全身の痙攣は、すっかりおさまっていた。
体の調子をたしかめているうちに、驚きはしだいに確信へと変わり。それから隠しようのない心の底から喜びとなってこみあげてきた。
ポカンと驚いた顔でいる両親のほうをふりかえると、不安を隠しきれない、困惑した笑顔で、私は二人に小声でこう伝えた。
「どうしちゃったんだろう。もしかしたら、本当に、病気、よくなっちゃったみたい」
ウチの両親には、そのあたりが我慢の限界だった。
やっぱりそうだ、神のおぼしめしだ。奇蹟が起きたんだ。そう口走ると、次の瞬間には、かけよった父親と母親に、私はしっかりと抱きしめられていた。
私は、おいおいと泣きくずれる両親にむかって、大慌てで忠告した。
「ダメだよ、ダメ。病気がうつったらどうするのよ。すぐに離れないと」
「かまうものか。おまえがこうして元気になったのなら、この命を捧げてもかまわない。これは神への感謝と、おまえへの私たちの気持ちだ」
父親の頬が涙で濡れているのに見て、私は拒絶の言葉がでてこなくなってしまった。
しかたないので、よかったよかった、と涙を流す母親の肩に腕をまわして、二人を抱きかえすことにした。
両親は、黒死病にはならなかった。
(あとでわかったことだが)どうやらそのときすでに、私の血に入りこんだなにかが。黒死病の源となる存在を、べつの無害な存在へ変えていた。そのためらしい。
さらにいえば、疫病に倒れなかっただけでなく。父親と母親は、天寿をまっとうするまで、敬虔な国教徒として恥じることない、立派な人生を送った。……まあ、そうでないときもあったのだけど、この二人を手本とする私としては、そういっておく。
一度はまちがいなく、私を死地へと追いやった黒死病は。たった一晩のあいだに、潮が退くようにその力を失っていた。
あの、夢だか現実だかはっきりしない不思議な一夜があけたあと、首筋に残された奇妙な噛み傷がふさがるのといっしょに、私はもとどおりに回復した。
おそろしい疫病は、あれよあれよというまに、治癒してしまったのだ。みんな度胆を抜かれたが、だれよりも私自身がいちばん驚いた。
それでも病気が治って嬉しくないわけがない。感激してとびまわったすえに、嬉しさあまって私は元気な顔を近所一帯にに見せてまわり、奇蹟の体現者として、町の有名人になった。
ついでにいうと、奇蹟か否かを認定するべき立場にある教会側は、原因が原因なせいだろう、この小さな事件を黙殺した。
教会できく教訓めいた短い話なら、このあたりで、めでたしめでたし、と幕が下りるところだろう。だけど、そういうわけにはいかない。
私の身に起きた出来事は、じつは神の恩恵でなかったからだ。
当事者となった私の立場からすると、腹立たしいかぎりだが、もっと面倒で、やっかいで、ある意味ばかばかしいけれど、深刻な問題だった。
それから五年、十年と時間が経過するうちに、問題はあきらかになった。
ごくあたりまえの自然の摂理として、両親がしだいに年老いていくのに、私は黒死病の危機をのりこえたときの背丈や容姿のまま、成長がとまっていた。
つまり十五歳の子供の姿のまま、それ以上年齢をかさねることも、大人になることもなかったのだ。
あの黒衣の男がもたらしたのが、奇蹟なんかじゃなく、とんでもないトラブルだと気づいたときには、あとの祭りだった。
近隣の地方都市に住む腕がたつと評判の医術士のもとへ、両親は大急ぎで私を連れていった。
その魔術師めいた老人は、頭のてっぺんから足の爪先まで、私にさまざまな診察を試みたすえに、むずかしい顔つきで、最後にこう結論をくだした。
「思うにこれは、教会の管轄ではないかと」
「それはつまり、どういうことで?」
「恥を忍んで、はっきりといいますと、まったくどうにも、お手上げです。残念ながら、対処方法はありません……。
娘さんにかけられているのは、呪いやまじないのたぐいと同じもんですよ。その問題の男をみつけて解く方法をききだすか。まじないをかけた当人を滅する以外に手はないでしょう。私にはどちらもムリだ。つまり、あとは神様におすがりするだけです」
そうサジを投げられても、しかし、両親はあきらめなかった。
ささやかながらも、堅実な交易商であった父親は。なんとかしてその黒衣の男をみつけだそうと、仲間の商人たちに足取りをきいてまわった。
どうやら黒衣の男は、地方から収穫物を運んでくる商隊とともに、この町へやってきたとわかった。
(商隊は、ほかの商隊と協力しつつ、地方をまわって商品になりそうな魅力ある品々を買いつけてまわっていた。
しかし、地方を行き来するための街道はきちんと整備されているわけではなく、見知らぬ土地への旅行は、いつの時代でもそうだが、苦難と危険をはらんでいた)
仲間の商人たちによれば、問題の黒衣の男は、この物騒なご時勢に、御供もつれない一人旅を続けていた。
しかもだ。本人によれば、疫病が蔓延し、野盗が住人を皆殺しにして略奪をおこなう、そんな野蛮で危険きわまりない町や村、集落を好んで旅してきたという。
そんなヨタ話を信じる者はいなかったが、地理にくわしく頼りになる旅の仲間が一人でも多いほうがいいのは間違いない。
商隊は男を同行させ、さまざまな苦労を経て、積み荷を無事に町まで運ぶことができた。同行した黒衣の男は、この町で一晩をすごした翌日には、またべつの商隊について町から出発してしまった。
さらに調べると、馬車でここから三日の距離にある港湾都市まで行き、奴隷を売り買いする商船にのりこみ、半月後には船出したとわかった。
そこから先の消息はぷっつりと途絶えて、どうやってもたどることはできなかった。
聖者にも医者にもすがることができず、事件の発端となった当事者もみつからず、それ以上は打つ手はないとわかった。
さらに悪いことがあった。
外観は十五歳の子供のままだったが、それ以外にも、考えもしなかった奇妙な変化が私の肉体に起きていた。
上下にならんだ歯列のうち、犬歯とよばれる上顎の歯がぐらぐらしてると思ったが、それが抜けると、かわりに鋭く尖ったべつの歯が生えてきた。
抜け変わった歯を鏡に映して、私はふるえあがった。牙としかよびようがない新しい歯は、つかまえた獲物の急所に噛みついて、倒すためのものだとわかったからだ。
ほかにも微妙な変化が訪れていた。
いまの自分の体を形作っている、骨格や筋肉や血管や、呼吸したり消化するためのさまざまな臓器にいたるまで、なにか言葉にできないような性質の変化が始まっていた。
大人になるためについやされるエネルギーが、それとは違うかたちに働いて。これまでとは異なる、なにかべつの代謝や機能へと自身を変えていく。
はっきり確信したわけではない。けれど、耳を澄ませて遠い音をききとるように、それを感じとることはできた。
昨日まであたりまえのように感じていた、陽の光のまばゆい暖かさや、そこに吹く風の感触を心地よい、とうけとる肉体の感覚が徐々に変わっていった。
かわりに、夜の真っ暗な闇に底知れない自由な広がりを覚えて、夜の空気を呼吸することに喜びを感じるようになった。
(私がもっともおそろしかったのは、その暗やみに身をひそめて息を殺し、近寄ってきた何も知らない獲物に襲いかかってつかまえたい、という衝動が起こったことだ)
当時の私には、自分の肉体に訪れた変化がちゃんと理解できなかった。
両親にも、わかっていたとは思えない。それでも二人は、それでもできるかぎり、私に変わりなく接するようにしてくれた。
それどころか、父と母は最後まで、私に愛情と信頼をかたむけて、世の中で生きていくうえで守らなくてはならない規則や価値観があることを辛抱強く教えてくれた。
自分が人と違う存在になったことに人知れず苦しみ悲しんでいるときも、それをとがめたり、ことさら慰めたりはしなかった。
私が絶望のあまりに自暴自棄となって、怒りにまかせて手当たり次第に犠牲者を襲ったりしなかったのは、この二人の愛情によるところが大きい。
私がなぜ子供のままでいるのかと質問する人に、両親は。きっと自分たちが教会で祈祷したときに、黒死病の死の運命から逃れられるなら、かわりにどんな責め苦もひきうける、と訴えたからだ。とありもしない説明さえした。
本当に、感謝の言葉もない。
あの事件から、気の遠くなるような月日が経過したが、私は十五歳の容姿のままで、成長して大人になることもなければ、年老いることもなかった。
一時期は、自分の身にふりかかったこの運命を楽天的にうけとめようと努力したこともある。
だけど顔見知りの友人や知人たちが自分のそばからはなれ。知り合った人たちと同じ時間を共有もできず。最後まで自分を慈しんで味方となってくれた肉親がこの世を去ったあとは。もともとあった考え方も変わってしまった。
年老いた両親が天寿をまっとうし、その最期を看取ったのが、一昨年の秋のことだ。
両親が亡くなってから、私は残っていた使用人を解雇して。からっぽの空洞のようになった実家の建物で、半年あまり、一人でぶらぶらと考えごとをして暮らした。
こうして一人きりになったいまでは、自分に訪れた運命を肯定する気もなくなった。
世のなかは、半世紀前と同じく、やっぱり宗教的な秩序や規律にのもとに組み立てられていて。気がつくと、異形の者と化した私はその範疇の外側にいた。
自分の立場をふりかえると、私は世間という大きな渦中からたった一人とり残されて、途方に暮れているのだと、思い知らされずにはいられなかった。
もはや知る者などいない私あてに、奇妙な書状が届けられたのは、そんな頃だった。
ためらいがちなノックの音に玄関のドアをあけると、旅からもどった商隊の一員だろう。疲れた顔をした青年が立っていた。
帽子を脱いで、おびえるような眼でこちらを見ながら、訪れた理由をくちごもりつつ説明した。
自分は商人仲間の新顔だが。商品を買いつけにいった地方の村の教会で。ふらりとあらわれた黒装束の男に、礼金といっしょに、これを届けるように、と命じられたという。
「死人みたいな顔したおっかねえ旦那に、あなたに手渡すように、っていわれまして」
上着のポケットにしまうと、苦労して遠路はるばる運んできたに違いない。
たずさえていた書状を、びっくりして言葉を失って私いるにおしつけると、これで自分の役目はすんだ、といわんばかりに逃げるように立ち去った。
それは、数十年ものあいだテーブルの引き出しにしまわれていたような、分厚く、ごわごわと大きな封筒だった。
封を切ると、四折りにした、おそろしく古びた羊皮紙の地図が一枚でてきた。
ひろげてみると、すっかり色が変わってしまった地図には、いままで一度もきいたこともないような、小さな町や村の名前が、こまごまと記されている。
よく見ると、その名前のひとつをぐるぐるとかこんで、そのうえにインクでバツ印がつけてある。地図の余白にはさらに、この書状の送り主だろう、羽ペンで書きなぐった〈ヘイフリック〉という署名がされていた。
はっきりと確証があったわけでもないし、霊感のようにひらめいたわけでもないけど。それでもこの書状の送り手の意図を読みとることはできた。
このヘイフリックという人物は、おそろしくまわりくどいやりかたで、自分のもとに訪ねてくるように、と私に伝えたいらしい。
私はその書状を手にしたまま、ぼんやりしていた。
さんざん頭を悩ませてから、けっきょく決断しかねて、有価証券や約束手形を保管しておく、カギつきの物入れに放りこんで、しまっておいた。
だいぶ以前から、どうすべきかはわかっていた。
あの黒衣の男……。あいつはきっと、ヘイフリックって名前なんだろう。あいつともう一度顔をあわせなくちゃならない。
あの男の正体は、いったいなんだろう。教会できく話に登場するような、私たちの生活に入り込んで、悪業を為す、悪魔や魔物のたぐいなんだろうか?
もし悪魔だとしたら、私はあいつを滅ぼさなきゃならないんだろうか?
もしそうすることでしか、私の身にふりかかった呪いが解けないというなら、あいつと戦わなくちゃならない。
自分の身になにが起きたのか、幾度となく検討することはできた。
これまで自分の身に起きたことを考えあわせれば、私がどんなものになってしまったのか。おおよその見当ぐらいつく。
問題は、どうすればこの苦境から抜けだせるかだ。
可能性があるとすれば、このまじないをかけた当人に解かせるか。そうでなければ、かけた当人を滅ぼすこと。
私がふたたび書状を物入れからとりだしたのは。それから七年後のことだ。
すでに、生家の建物や、父親が遺した証券や手形などの、わずかな財産を。信頼できる管理人にまかせて。目的地までの旅行に必要な準備をととのえておいた。
このままこの家で暮らしても、なにも解決しない。あてもなく一人きりの時間を永遠にくりかえすだけだ。
あいつともう一度会って。私が生きるべき道をみつけるんだ。そんなことができるのかどうか確信はないけれど、そうするしかない。
たとえ、どんな結果となろうとも。
そこで、私は出発することにした。