第三話
「悔しい……! 何も言い返せなかったわ……!」
第二演習場をあとにしたリリアは、やり場のない怒りを抱えていた。
「なんなのよ、あのエド・マテスタという彼は……! 少しくらい話をさせてくれてもいいじゃない……!」
先ほどのエドの余裕の微笑を思い出せば、よりいっそうの苛立ちを覚え、両の拳が震え出す。
けれど何より腹立たしいのは、彼に反論できなかった自分だ。
落ち着いて考えてみれば、エドの主張は正しい。
騎士団――なかでも竜騎士隊は、この国を存続させる上で、要となる組織だ。その長になるということが、どういうことか。リリアなりに覚悟を決めたつもりだが、隊員たちはそう捉えてはくれないらしい。
「だからといって演習場にも入れてくれないなんて、どうかと思うけれど!」
その時、ふいに声をかけられた。
「王女ともあろう者がこのような場で膝を抱えて愚痴を吐くとは、なんとも情けない」
リリアの鼓膜を揺らしたのは、女性のものに似た、低く艶っぽい声音。
顔を上げれば、目の前には白銀色に輝く鱗を持つ、大きな竜が座していた。
それは昨日の騎士団長就任式で空を駆けた竜――主とともに竜騎士隊入りした、リリア付きの銀竜だ。
「ラヴェリタ……」
リリアは彼女の名をつぶやいた。
リリアが今、膝を抱えて座るのは、竜騎士隊の竜舎のひとつ。ラヴェリタのために特別に与えられた、彼女の部屋とも言うべき屋舎である。
「まったくそなたは……隊に受け入れられないことなど初めからわかりきっていただろうに、何を今さら騒いでおるのじゃ」
竜である彼女は表情をもたないが、長らく一緒にいるリリアにはわかる。
ラヴェリタは心底、リリアに対して呆れている。
「それはもちろんわかっていたわ。けれど表向きはもう少し円滑に事が進むと思っていたのよ。父さまだってそう言っていたわけだし……」
「ふん、本気でそう思っての発言ならば、王の頭の中は花畑だな。さっさと世代交代したほうが王国のためになるのではないか?」
「ちょっと、そんなこと冗談でも言わないでちょうだい。あなたってば、あいかわらず性格に難が有りすぎるんだから」
そう。この聖竜は、なかなかに個性的だ。
姿形は精緻な銀細工のように美しいが、中身は傲岸不遜の上に毒舌である。
そもそも竜とは、ヴィステスタ王国内にのみ生息している、神から遣わされし聖獣。
その体躯は通常、漆黒だが、王城内の神殿で希に生まれる聖竜のみ、白銀の鱗に覆われている。
それら銀竜は、同日に生まれる王子や王女を主とし、その者と一生涯をともにする。
人語を解するため会話をすることができるが、それはあくまで主人とだけ。ほかの者にはただの鳴き声に聞こえるらしい。
リリアにとっての聖竜ラヴェリタは、家族のように――いや、家族以上に心を砕ける相手だ。
毒舌がすぎる彼女だが、その側にいる時がなによりやすらぐような気がして、リリアは頻繁に竜舎を訪ねていた。
「しかしそなたはいつまで経っても成長しないな。何事かあると、いつだってそうして膝を抱えて愚痴を吐いてばかりじゃ」
ラヴェリタの言が、図星すぎてつらい。
けれど認めたくなくて、リリアは反論に転じる。
「人聞きの悪い言い方をしないでちょうだい。最近はそのようなことなかったでしょう?」
「とくにひどかったのは、二年前の例の件の時か。ほれ、そなたがシリル・クラウに婚約を破棄された時じゃ。それ以来、そなたはずいぶん性格が変わって――」
「――ラヴェリタ」
自分でも驚くような低い声が出た。
「その名前を出すのはやめてちょうだい」
ラヴェリタは何の気なしに口にしたのかもしれないが、リリアにとってはなによりの禁句。箱に詰めて幾重にも鍵をかけ、深く掘った穴に埋めて忘れ去りたいほどの過去である。
「彼のことは思い出したくないの」
するとラヴェリタは、あろうことか「はっ」と嘲笑するように笑った。
「何を今さら。その男こそが、これからそなたの副官になるのじゃろう?」
「そうだけれど……! 何も必要以上にその名を出すことはないでしょう、と言っているのよ」
「ふんっ、何度だって言ってやる。そなたの元婚約者のシリル・クラウが――」
「ラヴェリタっ!」
いくらなんでも悪のりが過ぎる。
リリアは苛つきながら立ち上がった。
しかしその時、ガタッと、竜舎の扉の閂が外れる音がする。
外から誰かが入ってくるのだろう。夕方の陽光とともに、花の香りをまとった春の風が吹き込んできた。
――誰?
ラヴェリタの竜舎への立ち入りは、定められた者のみと決まっているはずだ。
風が、リリアの亜麻色の髪をふわりと舞上げる。
「――中に誰かいるのか?」
問われた瞬間、自分の身体に雷が落ちたのかと思った。
それほどの衝撃が、この身に――心に走った。
開け放たれた入り口に立つ影。
逆光であるため、そこに立つ背の高い人物の顔を見て取ることはできないけれど。
――ああ、また出会ってしまったわ……。
リリアにはもう、それが誰であるのかわかっていた。
「……ええ、いるわ」
リリアは応えた。
「リリア・アンセルム・ヴィステスタ――わたくしが、ここに」
胸が痛くて、苦しくて、今にも押し潰されてしまいそうで。
できることなら、今すぐここから全速力で逃げ出したかった。
けれどそうできないことは重々承知しているから。
だからリリアは、毅然と振る舞うしかなかったのだ。
「いったいここに何の用かしら?」
「王女殿下……あなただったのか」
返ってきたのはやや動揺したような声音。
少し考えるような間があって、やがて彼は一歩、二歩と竜舎の中に足を踏み入れてきた。
後ろ手で扉が閉められれば、外からの光が遮断される。
燭台の火に照らされるのは、艶やかな黒髪と、透き通るような白い肌と、蒼玉のように煌めく蒼い瞳。
整った顔立ちは溜息が出るほど美しく、ふとした仕草からは気品が滲み出ている。
――シリル・クラウ……こうして顔を合わせるのは二年ぶりだわ。
知らず、リリアは隊服の胸元を、きつく握りしめていた。