第四話
――今夜は、さすがに来ないでしょうね。
長い一日も終盤にさしかかった頃。
竜騎士隊専用宿舎の私室に戻ったリリアは、今日こそ自分で食事を作ろうと、厨房の竈の前に立っていた。
恋人同士では無いと言いつつも、ディナーの約束をしていたシリルとヴィオラだ。
今夜は久しぶりにひとりで夕食をとることになる。
メニューは半月ほど前に黒こげにしたものとまったく同じ。
汚名返上すべく、スパイスで味付けした牛肉の蒸し焼きと、魚のバター焼きを作ることにした。
――大丈夫。厨房長に教えてもらったとおりに作れば、今度こそ上手くいくはずよ。
けれど。
「どうしてこうなってしまうの……?」
三十分後、リリアは絶望していた。
結果は半月ほど前と全く同じ。
火力の調整に失敗したのか、肉や魚だけでなく、竈の周辺やリリアの頬まで真っ黒になってしまったのだ。
火が強い方が早く焼けると思い、薪をたくさんくべたのがまずかったのだろうか。厨房の床に座り込み、がくりと肩を落とす。
と、その時、部屋の扉が叩かれる音がした。
「この匂い……殿下! 何かあったのか!?」
声の主はシリルだ。
なぜ彼がこの時間にここにいるのだろう?
「殿下! 無事か!? おい、殿下!」
焦げた匂いが私室の外にまで漂ってしまっているのかもしれない。
まずい、と、リリアは慌てて立ち上がった。
しかし立ち上がると同時に、扉のあたりからけたたましい音がした。
「殿下!」
あろうことか血相を変えたシリルが、厨房に飛び込んできたのだ。
「ちょっと……あなた、扉を蹴破ったの!?」
「怪我はないか!? ああ、またこんなに頬を黒くして……どこか痛いところは!?」
シリルは隊服の袖でリリアの頬を拭き始める。
「怪我なんてしていないわ。ただちょっと料理に失敗してしまっただけで……」
ばつが悪くなってうつむけば、状況を把握したであろう彼に、大きな溜息を吐かれた。
「廊下に嫌な匂いが漂っていたから、もしや手遅れかと……」
「それは……心配かけて悪かったわ。ごめんなさい」
「謝ることはない。が、なんでまた料理を? あなたの夕食は俺に作らせて欲しいと願っておいただろう」
「だって、今日はあなたが来ないと思っていたから……」
通常、フルコースのディナーにかかる時間は、一時間半から二時間程度。
本来であれば、シリルはまだヴィオラの部屋にいるはずだ。
なのになぜ今、ここにいるのだろう?
「ヴィオラとの約束は、これからなのね?」
「いや」
即座に否定された。
「彼女との用事はもう済んだ」
「嘘。だって、ディナーでしょう?」
「俺がディナーの誘いを受けたのは、ロドルフ隊長が俺に用があると聞いたからだ。俺もあの方に聞きたいことがあったからな。――が、結局、彼女の部屋には彼女しかいなかった」
ならば用はない、と、帰ってきてしまったらしい。
「ほら、あっちに座って。すぐに扉と厨房を修復し、夕食を用意しよう」
「えっ、でも……」
「いいから、さあ、早く」
強引に促され、リリアは隣室の椅子に座らされた。
まだ汚れが残っていたのか、シリルはリリアの頬を軽くひと撫でし、優しげに目を細める。
「よし……これできれいになった。本当に、あなたに怪我が無くてよかったよ」
――どうして。
唐突に、胸が張り裂けそうになった。
どうして彼はこんなにもリリアにかまうのだろう。
どうしてヴィオラとの約束を取りやめてまで、急いでリリアの元にやってきてくれたのだろう。
こんなにも優しくされれば、勘違いをしてしまいそうになる。
もしや彼は、本当はリリアのことを好いてくれているのではないか? 婚約を破棄してきたのは、彼の想いとは別のところで、何か事情があったのではないか?
そう思いたくなってしまうのだ。
「どう、して……?」
抑えきれなくて言葉にすれば、「ん?」と、シリルが小首をかしげた。
「どうしてわたくしにかまうの?」
問いながら、顔をうつむける。
質問したはいいが、その答えを聞くのがこわくて、彼の顔を見ていることができなかった。
「……三年前、シリル様は言ったわ。もうわたくしと一緒にいることはできない、と。それなのになぜこうして訪ねてくるの? なぜわたくしの世話を焼きたがるの」
そう、彼の態度が、考えが。
「わからなくて……あなたが何を考えているのか、わからなくて。振り回されて……正直、つらいのです……!」
知らず、声が揺らいでしまっていた。
膝の上で握った両の拳も、力なく震えている。
――言ってしまった……! 再会してからずっと、疑問に思っていたことを。
本当は、聞きたくなかった。こんなことなど。
彼のことなど忘れて、悪役王女と呼ばれつつも、どうにか生活していたかった。
だって彼と会ってしまえば、心がかき乱されてしまうから。
彼の一挙手一投足に心が揺らいで、平常心を失って、自分が自分でいられなくなるような心地に陥るのだ。
――好き、なんだわ。わたくしはやはり、彼のことを……。
唐突に理解した。
そうと認識したくはなかったけれど、もう知らぬふりはできなかった。
そう、リリアはいまだシリルのことが好きなのだ。
手ひどくふられてしまっても、彼のせいで悪役王女と噂される結果になっても、それでもやはり彼のことが忘れられなくて、心のどこかでほのかに期待してしまう。
「殿下」
呼ばれて、びくりとした。
彼と視線を合わせることがこわくて、顔はうつむけたまま。
「ご、ごめんなさい……なんでもないわ、忘れてちょうだい。わたくし、どうかしていたわ。あなたにこんなことを聞くなんて……」
「あっ、こら、待て……!」
隣室に逃げ込もうとすれば、シリルが血相を変えて追ってきた。
彼はいきなりリリアの前に跪き、リリアの両手を彼の両手で包み込むようにする。
「頼む、逃げないでくれ。まずは俺の話を聞いてくれ」
「だって、こわくて……」
「なにがこわいんだ」
「またあなたに拒絶されたらと思うと、こわくて……!」
するとシリルは、苛立ったような様子で舌打ちをした。
「まったく、あなたは……!」
「えっ……」
立ち上がった彼に、ぐいと腕をひかれる。
「なぜそんなにも俺を煽るんだ……!」
「し、シリル様、何を……」
気づけばリリアは、シリルに抱きしめられていた。
――な、なぜ……? なぜ急にこのような……。
かき抱くように引き寄せられた腰。後頭部に回された大きな手。
身体のあちこちに彼の熱を感じれば、息苦しささえ覚える。
「殿下……頼むから逃げずに。俺の話をきちんと聞いてくれ」
彼の吐息が、耳にふれる。
頭の天辺からつま先までを、甘やかな電流が走り抜けた。
「シリル様……」
「俺があなたの世話を焼きたがるのには、もちろん理由がある。二年前、たしかに俺はあなたとの婚約を破棄した。けれど結局、俺はどうしてもあなたのことを――」
その時。
「――申し訳ない、と思っているからだよね?」
聞き慣れた声が、リリアの鼓膜を揺らした。
「一方的に婚約破棄したことを申し訳ないと思っているから、優しくするのだろう?」
何? とシリルに抱き寄せられたまま首を巡らせれば、蹴破られた扉によりかかるようにしてロドルフが立っていた。
「失礼するよ」
彼は白い隊服の裾を揺らしながら、こちらにやってくる。
「この際だからはっきりさせておこう。シリル、君の気持ちも、僕の気持ちもね」
僕の気持ち?
「ロドルフ……?」
リリアが首をかしげている間に、ロドルフはリリアとシリルの間に割って入ってきた。
そしてシリルから奪うように、リリアの手をとり、引き寄せたのだ。