第二話
ラヴェリタの背に乗り、空を駆けるのは好きだ。
建物が所狭しと建つ王都の上空から離れれば、緑の山々や広大な畑、果樹園などの景色が迫るように目に飛び込んでくる。
その上を風を切って進むのはとにかく気持ちがいい。
「全員、前進! 針路は西へとるわ。目指すは国境の街、リアットよ!」
とくに今日のように晴天の下を進むのは格別だ。
太陽の光が竜の背に降り注ぎ、地上に大きな影を落としている。
その影に気づいた者たちは、即座に空を仰いで叫ぶのだ。「竜騎士隊だ!」と。
「ラヴェリタ、あなたとほかの竜では出せる速度が違うわ。今日はゆっくり飛んでちょうだい」
「ちっ……面倒じゃの」
悪態を吐きつつも、ラヴェリタはリリアの指示に従ってくれる。
――なんだかんだ文句を言うわりには、優しいのよね。
そうして進み続けること四十分。
隣国テシレイアとの国境代わりの連山が見えたところで、リリアはふたたび隊員たちに命じた。
「そちら側の隊員五名はシリル副隊長の指示に従い、山沿いを飛んだのちに街の裏手に降りてちょうだい! 残り半分はわたくしと一緒よ。あちらの森沿いを哨戒飛行したあと、街へ向かうわ!」
しかしすぐさまシリルが異を唱える。
「俺は団長とともに行くぞ」
「命令よ。従いなさい」
「できかねるな。あなたに何事かあったら後悔してもしきれない」
「ラヴェリタが一緒で何事かあるわけがないわ。五秒後に針路を変えるわよ!」
「ちっ……どうしても聞き入れないつもりか」
シリルは困ったような顔で息を吐く。
「……しかたない、不本意だが従うさ。何事かあればエドを飛ばしてくれ。すぐに馳せ参じる」
とにかく気を付けて、と、シリルが言った直後、リリアは右手を挙げた。
途端に針路を変える隊員たち。竜の一団は左右逆方向に分かれて飛んでいく。
「団長、あの森には竜が生息しています。たしか二十二匹だったかと」
すぐさまエドが操る竜が隣に並んだ。
「ええ、そのようね」
リリアは連山の麓まで広がる森を注視する。
ヴィステスタ王国内にのみ生息する聖獣。
人を背に乗せ、空を高速で飛ぶことができるそれを求めて、過去、数多の国がこの地に押し入ろうとした。
しかし騎士団が常駐する国境の守りは堅く、他国の刺客をことごとく退けた。
それでも今なお、竜を盗もうと忍んでくる不届き者がいるらしい。
そのような者から正しく竜を守ることも、騎士団の重要な仕事のひとつである。
――空から竜の姿を確認できるかしら。
リリアは眼下に広がる緑の森のあちこちに視線をやった。
異変はないか、と注意深く見回し、そこではっと気づく。
「ラヴェリタ、あれは……」
「悪い者ではなさそうじゃの」
「エド・マテスタ! ここからの指揮をあなたに託すわ。あなたが指示を出し、このまま哨戒飛行を続けてちょうだい!」
高度を下げながら命じれば、エドは驚きに目を見開いた。
「団長はどうなされるのです!」
「確かめたいことがあるから下に降りるわ! 有事の際にはラヴェリタが合図を出すから、集合して!」
「了解いたしました!」
翼を広げたラヴェリタは、さっそく旋回し、森の中にぽかりと存在する草原に降りる。
「――おやおや、これはなんとも珍しいことだね。まさか銀竜に会えるなんて、これ以上ない僥倖だ」
そこにはひとりの男と一匹の竜がいた。
竜はなにか問題を抱えているのだろう。緑の絨毯の上に座り、肩で息をしている。
「銀竜――ということは、王家の方だね。……そうか、あなたが王女殿下ですか」
にこりと微笑んだ男は、二十代後半に思える容姿をしていた。
いったい何者なのだろう。無造作に結った黒い長髪に、印象的な丸眼鏡。身に着けているのは白いシャツに深緑色のズボンと簡素なものだが、醸し出す雰囲気は気品に満ちているようにも感じられる。
「あなたは、どなたですか?」
リリアはラヴェリタの背から降りるなり誰何した。
「ここは竜の森。いったい何用があるのでしょう?」
「私はカイエン。医者です」
「医者……?」
「ただし、診ることができるのは竜のみだけれど」
竜のみ。ということは。
「竜医の方ですか……!」
途端に肩の力が抜けた。
なるほど。竜医となればこの場にいるのも納得だ。
彼等は王国内の竜を守るため、定期的に見回りや健康観察などをしてくれている。
「この竜、怪我をしてしまっていて。今から治療するところなんです」
カイエンと名乗った男は、腰に下げていた皮のバックから治療器具らしきものを取り出した。
「見学していてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
カイエンは手招きをしてくれる。
「翼の付け根を見てください。……ほら、ここ、鱗がないでしょう? そこを何かで切ってしまったらしい。傷の形状から考えるに尖った岩か、裂けた樹木か……この部分に空気が当たって痛みを感じているんです。すぐに縫ってあげる必要がある」
カイエンは竜の首元をいたわるように撫でる。
「おそらく、昨日からこの場でずっとうずくまっていたんでしょうね」
「かわいそう……まだ血が滲んでいるわ」
「でももう大丈夫。私が助けます」
その言葉に安堵したのか、竜は小さく鳴いて目を細めた。
「少し痛むけど、我慢してくれよ」
カイエンは傷口に茶色の液体をかけると、その箇所にナイフをあてた。
「竜は傷口を硬化させ、自己修復しようとする能力があるんです。が、時にそれが邪魔をして、傷が綺麗に塞がらない場合があって。今回がまさにそれでしょうね」
よく見れば、ぱっくりと開いた傷口に、尖った氷のような形状のものが付着している。
どうやらそれが硬化した箇所らしい。
カイエンはその部分をナイフで削り取ると、そこにふたたび茶色の液体をかけた。
「それは何ですか?」
「私が調合した薬液です」
「薬液……? 竜医の方がそのようなものを使う場面は、初めて目にしますが」
「薬の調合について学ぶため、つい先日まで東の国――シェンシャンに勉強に行っていたんです。シェンシャンでは竜に似た獣に薬を用いて治療をしている、と聞いてたので、ならば竜にも応用できるんじゃないかと思いまして」
「それで、薬を使ってみた結果はどうでしたか?」
「傷の治りや病気の回復の程度が格段に早くなりましたよ。三年も異国で学んだかいがありました」
話しながら、カイエンは流れるような動作で竜の傷を縫い合わせていく。
そして最後にまた違った薬液をその箇所に塗った。
「これでよし。薬が傷口に染み渡れば、二日程度で普段どおりに飛ぶことができるでしょう。それまでは僕がこの場でこの竜を守りますよ」
――すばらしい腕前だわ。
いつしかリリアは、カイエンの技術に見惚れていた。
ラヴェリタの主であるリリアは、幼い頃から最高峰の竜医術を間近で見て育ってきた。それでいても、カイエンの医術には圧倒される。
「カイエン様は、普段はどちらにいらっしゃるのですか?」
竜を駆る竜騎士隊には、専属の竜医がいる。
日々の体調管理や変則的な怪我や病気の治療など、隊所属の竜を診ることが主な仕事だ。
――その職に就く気はないかしら。
勧誘してみようか、との思いが生まれた。
なぜなら現在の竜騎士隊付き竜医が高齢であるため、後任を探していると父であるヴィステスタ王が言っていたからだ。
――いえ、まずは会議で推挙して、勧誘の許可を王にいただくべきね。
騎士団長という立場にある自分だ。思いつきでの行動は控えた方がいい。
「僕はあの山沿いのサワバの街に居を構えたばかりです。昼間はこうして調査に出かけていることが多いけれど、朝晩は家にいることがほとんどだ。何かあったら頼ってください。街の西の外れです」
カイエンは胸に手をあて、優雅な動作で一礼した。
「サワバの街……きっと訪ねますわ」
たとえ竜騎士隊の竜医に勧誘しなかったとしても、竜の主である以上、彼とはまた相まみえるような気がしていた。
「ではまた、王女殿下。帰りはどうぞお気を付けて」
丸眼鏡の奥の蒼い瞳が、優しげに細められた。
その瞬間、リリアの鼓動がどきりと高鳴る。
なぜだろう。知っている、と思ったのだ。その澄んだ瞳の青を。
けれど、いったいどこで見たのだろう?
わからないまま彼に会釈を返し、ラヴェリタとともにその場をあとにした。