第一話
「本日は飛行訓練もかねて、西の国境付近に哨戒に出かけるわ」
リリアが騎士団長に就任してから半月が過ぎた。
竜騎士隊で過ごす日々はとにかく忙しい。
剣技の定期演習や、竜に騎乗しての飛行訓練、王国内のあらゆる地への巡視や、聖獣である竜の世話など、仕事の種類は多岐にわたる。
それに加えてリリアには、隊長ならではの業務もある。
部下たちを主導する立場にあるため、訓練や勉学の予習など、やるべきことは枚挙にいとまがなかった。
「本日の飛行訓練だけれど、出動命令が下る可能性も考えて、隊の三分の二には残ってもらうわ。第二班と第三班は午前中に定期演習をしたのちに、午後から座学をしてちょうだい」
勤務開始時刻。集合した隊員たちに向けて、リリアは指示を出した。
総勢三十三名の竜騎士隊は、三班編成になっている。
本日はエドが率いる第一班に、隊長であるリリアと副隊長であるシリルが同行する予定でいる。
「第一班、準備完了いたしました」
エドがリリアに向けて敬礼をしてきた。
飛行訓練に参加する者たちの隣には、それぞれが騎乗する竜が座している。
「よろしくね、ラヴェリタ」
相棒である聖竜の首元をなでると、固くて冷たい鱗の感触が手に伝わってきた。
「面倒じゃがしかたがない。――が、あとで報酬はきっちり取り立てるぞ」
「わかっているわ。水花が食べたいのでしょう?」
「三つで手を打ってやろう」
「さっそく今晩にでも探してくるわ」
リリアはラヴェリタの鼻先をぽんと撫で、彼女の背にまたがる。
水花とは、神殿前の湖に咲く水中花だ。
ダリアに似た形をしていて、赤や黄色、緑や橙など、色とりどりでとても美しい。
ラヴェリタはとにかくその花が好物で、ことあるごとに欲してくる。
口に入れるとほんのり甘く、美味なのだという。
「団長、号令があれば、いつでも飛べるぞ」
声をかけてきたのは、黒い竜にまたがったシリルだ。
彼が駆る竜の名はセノフォンテ。もう長らく彼の相棒を務めている。
「……ええ、わかったわ」
返事をして、けれどすぐさまシリルから視線をそらした。
『毎夜、あなたの部屋を訪ねるのはこの俺だ』
そう宣言されたのは、リリアが騎士団長に就任してから三日目のこと。
その言葉どおり、彼は毎晩、仕事上がりにリリアの私室をたずねてきている。
――どういうつもりなのかしら。
もちろんリリアは拒否し続けた。
明確に「困る」と。「もう来ないでちょうだい」と。
けれど何度断っても、次の夜には必ず部屋の扉がノックされる。
そして「食事を作らせないのなら、朝まで部屋の前に居座るぞ」と、脅しにも似た文句をふりかざされるのだ。
結局、根負けしたリリアは、シリルを部屋に入れてしまう。
そして彼の作ってくれた食事を彼とともにいただくという、なんとも奇妙な毎日を送っているのだ。
――でも、いつまでもこうしているわけにはいかないわ。
彼は元婚約者だ。
このまま彼と一緒にいてよいものか? リリアは日々、葛藤し続けていた。
「団長? どうかしたのか?」
黙り込んでいたリリアを心配したのだろう。シリルがこちらをのぞきこんできた。
いけない。今は訓練の最中だ。
リリアは隊員たちに号令を下すべく、右手を挙げる。
しかしその時、あたりに鈴の音のような声が響いた。
「シリル様! こちらにいらっしゃったのですわね!」
振り返れば、演習場の入り口に数人の女性が立っている。
その集団を抜けだし、こちらにやってきたのは、桃色のドレスを着た可愛らしい娘――リリアの従姉妹であり、ロドルフの妹である十五歳のヴィオラだった。
「ヴィオラ、どうしてここに?」
リリアが問えば、彼女は可憐に微笑みながら膝を曲げ、挨拶をしてきた。
「あら、リリア様もいらしたのですね。ごきげんよう」
ロドルフと同様の輝く金色の髪に、愛らしい目元と、それを縁取る長いまつげ。
色白の肌に、レースやフリルをふんだんに使ったドレスが、とてもよく似合っている。
「わたくし、シリル様にお会いしたくてまいりましたの。お仕事中とは存じておりますが、少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
ね? と彼女が笑いかければ、あたりに和やかな空気が広がった。
「ヴィオラ様だ……いや、いつ見てもかわいらしいよな」
「ほんと、目の保養だよ」
騎士たちの間からざわめきが起きる。
「あの噂、本当なんだろう? シリル副隊長の恋人だっていう……」
「静かに……! 団長に聞こえるぞ!」
胸がずきり、と激しく痛んだ。
まるで、鋭利な刃物を心臓に突き立てられたかのように。
――知っているわ、その噂は。
従姉妹のヴィオラがシリルの恋人になった、との噂が出回ったのは、リリアとシリルの婚約破棄が成立して数ヶ月後のことだった。
悪役王女であるリリアを捨て、心優しいヴィオラを選んだ――当時、民たちはこぞってそう口にした。
その話の真偽を、リリアは知り得ない。
いや、知りたくなくて誰にも問うてない、というほうが正しい。
だがこうやって仕事中のシリルを訪ねてくるのだから、やはりあの噂は真実なのだろう。
シリルに歩み寄るヴィオラは喜びに頬を紅潮させ、シリルもすぐさまセノフォンテから降りる。
「どうしたのです、このようなところまで」
「ディナーのお誘いにまいりましたの。今宵はわたくしの部屋でご一緒にどうでしょう?」
「できかねます。先約がありますので」
シリルは素っ気なく断った。
先約。それはリリアの食事作りのことだろうか?
もしや、と思えば、はらはらして挙動不審気味になってしまう。
「そうですの……それは残念ですわ」
「訓練中ですので、失礼いたします」
「あっ、お待ちになって!」
踵を返したシリルの腕を、ヴィオラはつかんだ。
「それでも、やはり来ていただかないと困りますわ。お母さまもぜひに、と申しておりますし……」
「ブルネラ様が……?」
シリルの視線が、ヴィオラの背後に向けられる。
そこには大勢の侍女を引き連れ、こちらにやってくる女性――ロドルフとヴィオラの母であるブルネラがいた。
「久しぶりね、シリル。元気にしていたかしら?」
紫のドレスに身を包んだ彼女は、妖艶に微笑んだ。
クラウ家出身の彼女は、シリルの父の妹。つまりシリルの叔母にあたる。
「お久しぶりです。とくに変わりなくやっておりますが」
「そう。それはよかったわ」
ところで、と、ブルネラは自分の娘に視線をやった。
「ヴィオラがあなたと食事がしたいそうなの。今夜、予定をつけてもらえるかしら」
「いえ、今夜は先約がありまして――」
「予定をつけてちょうだい、と、お願いしているのよ。この私が」
いつしかブルネラの顔からは笑みが消えていた。
かなり威圧的な言動に、リリアは思わずごくりと息をのむ。
「お願いですわ、シリル様。今宵はおそらく兄様もいらっしゃいますし……」
「ロドルフ隊長が?」
「ええ。兄様もきっと、あなた様に御用があると思いますの」
「用……」
結局、シリルは「わかりました」とうなずいた。
そしてヴィオラに手を振られながら、セノフォンテの背にまたがったのだ。
「団長」
待たせて悪かったな、と言わんばかりに、シリルが軽く頭を下げてきた。
「え? ええ、では行くわよ」
しかしブルネラが、今度は「リリア様」と、こちらにやってくる。
王弟の妃である彼女と、竜に乗った状態で会話をするわけにもいかない。リリアはすぐさまラヴェリタの背から降りた。
「ごきげんよう、ブルネラ様」
「あら、わざわざ申し訳ないわね。あなたのほうが身分が高いというのに」
彼女は腰元から取り出した扇を広げ、優雅な動作で扇ぎ始めた。
「騎士団長に就任したのですってね。おめでとう、と言うべきかしら」
「ありがとうございます」
「けれど、陛下もいったい何を考えていらっしゃるのでしょうね。あなたが騎士団をまとめあげたところで、ジョルジュ様が王位に就かなければまったく意味がないというのに、ねえ?」
「…………!」
あからさまな敵意に、リリアははっとする。
つまり彼女はこう言いたいのだ。
自分の息子であるロドルフが即位することになれば、リリアのことなど即座に騎士団長の座から引きずり下ろしてみせる、と。
要は彼女は、ロドルフを次の王にと推す者の筆頭。表向きは政治に関心がないよう装っているものの、やはり自分の息子の頭上に王冠を載せたいのだろう。
いくら息子本人が、それを拒否しようとも。
「ブルネラ様」
リリアはにこりと微笑んだ。
「ご心配いただきありがとうございます。けれど、わたくしのことより、どうぞご自分のことを心配なされたらどうかしら」
「どういう意味?」
「ジョルジュが王になったあかつきには、大規模な粛正があるかもしれませんわ。慣例をねじ曲げ、王太子以外の者の即位を望むは、もはや謀反。謀反人は罰しなければなりませんもの」
「…………!」
打って変わって顔色を変えたのはブルネラのほうだった。
彼女は忌々しげにリリアを睨むと、ヴィオラの手を引き、演習場をあとにする。
「大きな顔をしていられるのも今のうちだわ。せいぜい満喫することね」
そのような台詞を、吐き捨てるように残して。
「さすが悪役王女……あのブルネラ様を撃退したぞ」
「すごいよな。俺なんてブルネラ様と目が合っただけでもびくついてしまうのに」
隊員たちのざわめきがおさまらない中、リリアはふたたびラヴェリタの背にまたがった。
「団長、大丈夫か?」
声に反応してシリルを見やれば、胸の中にもやもやした想いが広がった。
――結局、先約よりも、ヴィオラを優先するのね。
それも当然のことか。
なにせ相手は大切な恋人なのだから。
「では、あらためて行くわよ。遅れそうになったら知らせてちょうだい」
消化しきれぬ想いを抱えたまま、「飛べ!」と、リリアは右手を挙げて合図した。
途端に十一匹の黒竜と、一匹の銀竜が空に昇る。
ラヴェリタはほかの竜たちに合図をするかのように、声高々とひと鳴きした。