まなうらに灯るひかり(卅と一夜の短編第16回)
『 さらさら 』
さらさらと。
さらさらと。聞こえてくるのは水音だ。
わたしは眠っている。眠りながら、ああ夢だと分かっている。
わたしは薄暗い場所にいる。わたしの前に広がるのは、ため池だ。ため池は、歪なまるい形をしている。公園の砂場ほどの大きさだ。ため池の水面を、高くひくく飛び交う小さなひかりがある。
風が吹く。
昼の暑さをぬぐい去るような、夜のつめたさをまとった秋の風だ。その風を受けながら、ひかりは頼りなげに揺れる。
アレをわたしは知っている。
けれど、どうして此処にいるのかが分からない。もどかしい思いにかられる。
ひかりに、そっと手を伸ばす。裸足の足がため池の浅い部分を踏む。ぞんがい水はあたたかい。足裏に感じる泥のようなものも温かい。もどかしさを含む焦りにも似た感情が、あたたかさに触れた途端。ぱたりと止んでしまう。ひかりを手にする事はやめ。凪ぎいた気持ちで、ひかりを目で追う。
さらさらと。
水音ばかりの世界にいる。
『 夜の踊り場。もしくは眼病について 』
夜半。
買い物がてら部屋を出た。それが全ての始まりだった。
アパートの階段を下りていくと、踊り場で国枝良悟さんに会ったのだ。
時刻は真夏の二十二時過ぎ。手ぶらで階段を上がって来た国枝さんは、右目に眼帯をしている。
国枝さんは高校で美術を教えている独身男性で、わたしの住む日の出ハイツ四〇五号室に住んでいる。同じ階の住人だ。以前わたしの部屋のインターフォンが壊れた時に、たまたま通りかかった彼が観てくれたのが縁で、言葉を交わすようになった。その後会話の端から同業であるというのが分かり(わたしは小学校教師だ)、親密さに一役かった。
「なんですか。それ」
眼帯を指差して聞くと、「ああ、これ」
国枝さんは困ったように、後ろ頭を掻いた。
「なんか、瞼がはれちゃって」
「それは大変ですね」
「うん。昨夜から妙にいずいんだ」
いずい。と国枝さんが言う。
いずいとは、国枝さんのお国言葉で「痛いようで痛く無い」という、どうにもあやふやな状態を指す方言である。
眼帯をしているというからには、目医者に行ったのであろうか。
「薬で治るんですか?」
当たり障りのないわたしの質問に、国枝さんは大袈裟に両手を振った。
「薬? まさかだよ。せっかくこうなったのに、薬なんかさしたら元も子もない」
随分変な言い草ではなかろうか。なにやら、たくらみの匂いがする。
わたしは部屋で缶ビール二本をあけていた。実はこれから明日の食パンと共に、追加のビールを買いに出るところであった。アルコールの助けもあり、彼へとずずずいっとつめ寄った。国枝さんが狭い踊り場で、一歩ひく。
さて。なんでこんなにも気になるのか。それは至極簡単な話しである。
わたしは国枝さんを、少しばかり憎からず思っているのだ。
しかしわたしのほのかな気持ちを、彼は気がついていない。
互いに三十路。恋愛にうつつをぬかす熱量は、若い時と比べ低くなっている。ここはひとつ。ぐっと距離を縮めるチャンスではなかろうか。
わたしは国枝さんを壁際へと追いつめる。
国枝さんは背丈はそこそこあるものの、ひょろひょろだ。もやしっ子だ。眼鏡をかけたカトンボだ。いや、そこまで言うのはいくらなんでも不躾か。
「薬は必要ですよ、国枝さん」
「いえ。めっぱみたいなもんですし。そんなお気を使わずに」
めっぱも又お国言葉だ。通常は「ものもらい」という。
瞼が腫れたり、目の縁にできものができる状態だ。
国枝さんは困ったような笑みを浮かべて、わたしを防ぐべく両手を心持ち前へだす。
中高六年間。全国大会を目指し、バスケットボールに明け暮れていた元PGーーポイントガードのわたしに、そんなへなちょこガードが通用するわけがない。今だって高学年のバスケ部顧問をしているのだ。
わたしは不敵な笑みを浮かべると、さらに彼へと一歩近づいた。
「目は大切なんですよ。国枝さん。そしてデリケートなんです。コンタクトを使用期間無視でつけたままにした結果、網膜に傷をつける場合もあるんです。そうなっても、初期は意外と痛みはないのです。けれど傷から細菌感染などすると、角膜に白血球があつまって、黒目がまっしろけ。白濁してしまうんです。あれは全く気味悪いものです。ホラーです」
「僕は、コンタクトではありません。眼鏡派です」
そう言いながら、国枝さんは若干顔色を悪くする。あまつさえ指先がぷるぷるしている。ふふ、可愛い。よし、もう一押しだ。
「そうですね。けれど眼鏡だからと言って、全てにおいて大丈夫ってわけではありません。現代病ではスマホ老眼なんていうのもあるんです。その名の通りスマホの使いすぎで、目に疲労が蓄積し、早いと十代から老眼のようにものが霞んで見えるんです。
もっと怖いのが寝スマホです。これを長期間続けると、黒目が後天的にずれたりする場合があります。知っていましたか? 黒目が鼻側によってしまい、元の位置に戻らなくなる後天的内斜視です。ものが二重に見えたりするんですよ。恐ろしいと思いませんか」
「……思います」
ひきつった顔で国枝さんが、あさく頷く。
「そうでしょう。そうでしょう。だからちょっといずいなんて理由で、眼帯だけして医者も薬もパスしていると、とんでもない目に合いかねません」
「小野寺さん……ずいぶん詳しいんですね」
「実はですね」
わたしは国枝さんを見上げると、ちょいと爪先立ちをして、彼へと耳こすりをする。
「母方の祖父が眼科医だったんです。開業医だったので、祖父の家に行くと、壁中眼病のポスターだらけ。こども心にも、しろくなったり、あかくなったりの眼球の写真は、そりゃあもう恐ろしくてなりませんでした」
「ははは。本当に」
今や壁に背をつけて、国枝さんは乾いた笑いを浮かべるばかりだ。
長年バスケをしていたが、PGであったわたしは選手としてはさほど背が高くない。それでも百七十三センチある。今夜はサボ風厚底ミュールを履いているので、更に背丈は上乗せだ。
国枝さんは背中をまるめ縮こまっているので、どんどん視線が同じたかさまで落ちてくる。
愉快痛快。気分があがる。
好意がある男性を、少しばかりいじめたくなるのは、わたしの悪い癖である。
「で、」
「で?」
国枝さんが眼鏡の奥で、左目をすぼめながら聞き返す。
黒めがちの大きな瞳である。そしてこどもように澄んでいる。
人間は他者とより複雑なコミュニケーションをとる為に、他の哺乳類にはない白目がある。要は黒目の動きで感情の動きを訴える生き物なのだ。今国枝さんの黒目は困ったように、あさっての方を向いている。
「で、一体全体眼帯のしたはどうなっているんです? まさか中二病患者みたいに、魔物が宿りし瞳。なんて事はないのでしょう?」
冗談めかして言うと、国枝さんがかすかに笑った。
「受け持ちの生徒じゃあるまいし」
そう言いながら中指でレンズをつなぐブリッジ部分をくいとあげる。わたしは男性のこの動作が、ことの外好きだ。今までの歴代お付き合い男性の眼鏡率は高い。
「じゃあ何ですか? 見せてくださいよ」
「いやですよ」
国枝さんが頭を左右に振る。意外と強情だ。
「じゃあ、病名。教えて下さい」
「……なんでそんなに気になるのです?」
もっともな事を聞いてくる。
「眼科医の孫ですから。気になってきになって。このままでは貫徹します」
「うそおっしゃい」
教師然とした態度で彼が言う。
すっかりびびりタイムから抜け出したようだ。つまらない。
国枝さんはしゃんと背を伸ばすと、斜めうえを見上げる。人が思案している時の動作である。問題の分からない生徒も、誤摩化す時によくコレをする。
「う〜ん。誰にも言いませんか」
「言いません。いいません。神に誓って言いませんとも」
「では。教えてあげます。実はですね」
そこで切ると、にっこりと口の端で微笑む。左目の眦に、きゅうと皺が寄る。
「瞼の裏側に、ほたるの卵が産みつけられているんです」
さも大事な話しだと言わんばかりに、国枝さんはひそめた声である。
「……」
わたしは言葉を返せなかった。国枝さんは構わず続ける。
「それも三個も。大変貴重なものです」
そう言って。国枝さんは嬉しそうに指を三本立ててみせる。
口元が変な具合に歪んでいる。隠しても隠しきれない満面の笑み一歩手前だ。
だが一転。わたしは真顔になった。一気に頭の中からアルコールが抜けていく。
「たまご?」
「はい」
国枝さんが、おおきく頷く。
「瞼の裏側に、蛍の卵が三個? 産みつけられているのですか?」
「はい。卵はごく小さな物ですが、ぐりぐりと眼球にあたって、いずいんです」
そう言ってあははと笑う。笑い事ではない。
「国枝さん」
「はい」
「蛍は通常水辺に生息しています」
「ええ、そうですね」
「そして日本においては、主に六月頃に成虫が水辺を飛び交い、産卵します」
「詳しいですね。蛍。お好きなんですか?」
「いえ、さほど好きでもキライでもありません。興味など今この瞬間まで、ほぼありませんでした。まあ、わたしの好みの問題など、この際どうでも良い事です。いいですか。国枝さん。蛍の産卵シーズンは六月。しかるに今は?」
「八月初旬です」
「そうですとも!」
わたしは叫んだ。
夜の踊り場に、わたしの声が朗々(ろうろう)と響き渡る。
無駄に地声がでかいのだ。バスケの試合中は、司令塔として役に立った。しかし女子同士のひそひそ話しが苦手で、若干苦労してきたでかさである。
「さあ、結論はでました。八月に人さまの瞼の裏側に、産卵などできようはずもありません。疲れているんですよ。世間一般夏休みといっても、学生と違い教師は学校がありますからね。ゆっくり休んだ方がよろしいでしょう」
果たして。高校の美術教師の忙しさはよく分からないが、この頃はどこにでもモンスターペアレントが出没する。生徒以上に気を使う存在だ。
彼の疲れの原因は分からぬが、完璧におかしい。
妄想に取り憑かれているのは確かであろう。
「いいですか。ゆっくり休む事です」
わたしはそう言い残し、階段を下りた。
いくら好いているからと言って、付き合っているわけではない。彼の妄想に付き合う程、お人好しでもない。話しはこれでお終い。そう思っていたのだが終わらなかった。
「まってください!」
国枝さんに腕をとられた。ひょろひょろのわりに力がある。
え? なにコレ。強引さがちょっと素敵。
変てこりんな状況にも関わらず、わたしは顔をわずかばかり赤らめた。
「散々ぼくに言えと強要し、その対応がこれではあまりに酷い」
語気荒く国枝さんが言う。のぞく左目には真剣なひかりをたたえている。
へたれから一転、強気な態度。
やだ、素敵。
恋する女は、幾つになっても頭のなかは乙女である。すぐにもピンクの靄がかかる。しかも今夜は、そこにアルコールも入っている。放してくださいと、国枝さんの腕を振り払い、わたしは逃げるべきだったのだ。しかしぼやけた頭のまま、わたしは国枝さんの接近を許した。
国枝さんに引っぱられ、再度踊り場へ立った。
「さあ、見てください」
眼鏡を外すと、思いのほか乱暴な仕草で眼帯をむしり取る。
現れた右目はしろくもあかくもなっていない。
左目同様澄んだ眼球だ。瞼だってさほど腫れていない。なんだ、では拗らせた中二病なのか。内心がっかりしていると、国枝さんはやにわに瞼をべろんと上げた。
「見えますか?」
「え? なにが?」
「卵です。たまご」
「え? まさか」
わたしの応えにご不満なのか、国枝さんが唇を尖らせる。
「見えないんですか?」
「無理ですよ」
百歩譲って彼の瞼の裏側に、ナニかがあるとしよう。そのナニかがある事によって、いずい状況になる代物だ。
眼球はデリケートだ。睫毛一本入ったって、飛び上がる程の痛みを覚える。それが不快感ですむ代物だとしたら数ミリ。もしくは0・数ミリの可能性だってある。そんなもの何の設備もない、うす暗い踊り場の照明のしたで確認できるわけがない。
わたしが理論的にそう諭すと、「そうですか……そうですね」国枝さんが肩を落とした。
「確かにそうです」
「ええ」
納得してもらって良かった。
しかし国枝さんはわたしの腕を離さない。時折赤やら黄やらの、カラフルな絵の具で汚れる彼の指先が、わたしの腕に熱をじんじんと伝えてくる。
国枝さんは項垂れている。頭のつむじが丸見えだ。
「小野寺さんは、僕を信じていませんよね」
「ええ。そりゃあまあ……」
ここで、「いえいえ。信じます」と言える程わたしは小賢しくはない。これで彼との関係が悪くなるとしても、妄想に付き合う気などない。
「僕の田舎に、もうせんからいた蛍なんです」
ちいさな声で国枝さんが話す。
「それも特定の水場にしかいないのです。ゲンジボタルでもヘイケボタルでもありません。他で見た事がない蛍です。とてもちいさくて。ゲンジボタルを見慣れた内地の人からすれば、物足りないくらいちいさな蛍です」
「はあ……」
「子どもの頃はたんといたのですが、この頃は絶滅を危惧されるくらい数が減りました。先月末に実家に帰りましたが、ほんの僅かしか飛んでいませんでした。それでも目にできて、そりゃあもう嬉しかったんです」
国枝さんの指が、わたしの腕からそっと離れていく。
「……七月末まで生きている蛍なんですか?」
「秋口まで水辺を飛ぶ蛍です。ちいさいけれど、うっとりするくらい強いひかりです。……そう言っても、あなたはまだ信じないのでしょうね?」
拗ねた口調である。案の定顔をあげた彼の口元は、への字を描いている。
「聞いた事ないですから……」
「本州にはいませんから、小野寺さんは知らないのです」
しかしいくら生息していないからと言って、秋までひかる蛍などいたら、いくらでもニュースで取り上げられるだろう。しかもひとの瞼に産卵するのだ。ネットで大いに盛り上がるネタでもある。
「知らないのは申し訳ありませんが、目にした事がないものを俄には信じられません」
「そうですか」
わたしの返答に国枝さんが肩を落とす。
「では、これで」
わたしは彼にほんの僅か頭をさげた。
下げた視界に国枝さんの裸足の足が飛び込んで来た。サンダルを履いている。すね毛はうすい。おおきな爪をしている。
そんな見当違いの事を咄嗟に確認していたせいか。頭をあげた瞬間、彼に間合いを詰められた。意外と素早いではないか。
「ここに」
国枝さんの指先が、わたしのひだり瞼をかるく押す。わたしは彼の予想もしない行動に、しばし動けなかった。
「あなたが信じなくても、ぼくのココにいるのです」
国枝さんの指先が、わたしの瞼のうえを左右にゆっくりと往復していく。
「あなたももし卵を宿したら、ぼくの気持ちが分かるはずです」
押された瞼に、痛みはない。恐れもない。ただただ呆気にとられ、彼のその非常識な行動を許してしまった。今までわたしのなかにあった、彼への好意がほんの僅か目減りした。
「おやすみなさい」
国枝さんはわたしの目の前で眼帯をしなおすと、そう言い残し、夜の階段をあがって行った。彼のサンダルのたてる空気の抜けるようなペタペタという音だけが、しばらくの間聞こえていたが、それもすぐに聞こえなくなっていった。
わたしは躯中の力が抜けたように、しばしその場に呆然と佇んでいた。
『 水音 』
それからだ。
夜中にふと気がつくと、水音がどこからともなく聞こえてくる様になった。漏水している様な耳障りな音ではない。水面を何かが跳ねるような。水がさらさらと流れる様な。実に良い心持ちになる微かな音だ。
大家さんにわざわざ問いただす程の事例ではない。
ただ同じ階に住む者同士。国枝さんに会えば、挨拶代わりに聞いてみたいとは思っていた。それなのに会わない。
たまに廊下の端や階段の先に、彼の姿を目にする。
そんな時は、「国枝さん! こんにちは」声をかける。わたしの大きな声が聞こえぬわけがない。それだと言うのに、素知らぬ振りで足早に去って行く。
避けられているのだ。そう理解するのに、さほど時間はかからなかった。彼の顔には、未だしろい眼帯がかかっている。
わたしは国枝さんの態度に、腹を立て始めた。なにも避ける事はなかろう。そりゃあ最初に無理矢理話しを聞き出し、信じなかったのはわたしであるが、信じろと言う方にも無理はある。
幼い学生同士ならばいざ知らぬ。成人をとおに過ぎた社会人が無視をするなど、子どもっぽい事をよくするものだ。
わたしは国枝さんに声をかけるのも。姿を探すのも止めた。
そうこうしているうちにも、ちいさかった水音は次第に鮮明になっていった。
終いに水音は、わたしの夢の中にまではいりこんできた。
夢のなかで、わたしは音に耳をすます。さらさらと流れる水音は、耳に心地よい。意識をほどき、わたしは夢のなかを水音と共にどこまでも揺蕩っていく。
やがて滲み出る水が嵩を増す様にして、ため池がわたしの夢に現れた。
見た事もない池であった。
ふかくえぐれた谷底が、そのまま池になっている。
人口のものなのであろうか。谷には池に下りる頼りない梯子がかかっている。
夢のなかでわたしは梯子をするすると下りる。足裏で梯子が揺れる。随分古いものである。もし梯子が途中で壊れたら、わたしは谷底にひとり残されてしまうかもしれない。
夢を見つめている冷静なわたしが心配する一方、夢のわたしには何の躊躇もない。使命感にも似た感情のおもねくままに、梯子を下り、池の縁へと降り立つ。
すり鉢状の底から見上げると、空がまるくぽかりと広がっている。濃紺の夜空に、月がひくくかかっている。
地面に視線を移せば、水は浅い。雨が降っていないのであろう。それでも大小様々な水たまりが、そこかしこにある。縁の地面は湿っている。ところどころに岩があり、まばらな雑草がひくく生えている。
わたしは足を泥土に汚しながら、ゆっくりと歩く。
聞こえる。
水音だ。
流れる程の水がないにもかかわらず。さらさらと清らかな音がある。音はどんどん強く。どんどん鮮やかに鳴り響いてくる。やがて泥土から幾筋かの水の流れが吹き出してくる。
ああ。これだ。
わたしは蹲り、その流れにそっと指先を浸す。
水音は地中を流れる暗渠のものであろう。誰の目にもとまらぬ水だ。
繰り返し。くりかえし。
ため池の夢を観る。水音を聴く。
そんな時。決まって水音と共に国枝さんの声がする。
「あなたにも、きっとぼくの気持ちが分かるはずです」
朝。枕に頭をつけて目を覚まし、部屋の天井を目にすると自然涙がこぼれ落ちるようになった。目覚めた安心からではない、還ってしまった寂しさからだ。
『 まなうらの秘密 』
「目に不快感?」
わたしの言葉に、保健室の安藤先生は眉をよせた。
「そうなんです」
放課後の保健室にわたしは居た。
目の前には白衣姿の安藤涼子先生が居る。齢五十うん歳のベテランだ。
放課後の学校は、がらんとした寂しさに満ちている。こども達の気配だけが、そこかしこに残っている。
九月だというのに未だ空気は熱をはらみ、教室の窓をすべて開けても、生徒たちはすぐにも汗をかく。幼い。体温のたかい子ども達の熱は、圧倒的な力でわたしに立ち向かってくる。気を抜くとすぐにもわたしは、その熱に気圧されそうになる。
「確か低学年のクラスでウィルス性結膜炎が流行っていたけれど、うつっちゃったかな?」
安藤先生が言う。
「いえ。そう言うんじゃないと思うんです……」
歯切れ悪くそう言うと、わたしは安藤先生の指差す丸椅子へ腰かけた。
安藤先生がわたしの下まぶた。次に上まぶたをめくって見る。
「うーん。赤くないねえ。結膜炎ではないし。他に異常は見られない」
「……はい」
新学期が始まる前に近所の眼科医へ一度行っている。そこでも同じように言われた。一応眼精疲労の目薬を処方されたけれど、ちっとも効かない。わたしのひだり目は、ごろごろしたナニかを感じたままだ。
「心配だったらちゃんとした眼科へ行くんだ。ちゃんとしたね」
両の指先を消毒しながら安藤先生が言う。
「そうですね」
わたしは丸椅子から立ち上がりながら、頷いた。本当はとっくに気がついている。ここにはいわば、最後の確認の意味で訪れたのだ。
「ありがとうございました」
わたしは頭を下げながら、そっと瞼をかろく閉じる。
閉じたまなうらに、ちかちかと瞬く灯りがある。灯りは秋になってから現れた。
この頃は夜中でなくとも、気がつくと水音が聞こえる。音はわたしの瞼から流れ出す。
きいろいひかりが、閉じたまなうらで水音と共に点滅する。
ひかりは美しいが、微かな違和感がそこにはある。
夢の後。涙を流す瞳は決まっている。夢の余韻を感じているのは、いつだって左目だった。国枝さんの指先が触れた左目だ。わたしは片手でひだり目を押さえると、家路を急いだ。
夜の部屋にひとりで居る。
眠りについていなくとも、わたしを誘う水音が聴こえてくる。
流れる水音だ。
水面が揺れる音だ。
風が水面を渡る音だ。
とおい祖先から受け継がれる、あらゆる生き物の血潮の音だ。
そうだとも。これはまるで、母さんの胎内で聞いていた羊水の音の様ではないか。
そのまま音に聞き入っていると、やがて闇がしんしんと下りてくる。
水の気配が濃く漂う。部屋のなかの空気と共に、わたし自身の存在感がうすくなる。
代わりに水の重みを、肩に。背に感じる。
両の瞳は閉じている。わたしはまなうらに現れる梯子を下りる。するすると下りる。もう不安な気持ちなど、ひとつもない。早く。はやくと急く思いで、ため池へと下りる。池はこの頃では、いつでも水をあさくたたえている。
池の縁の岩陰を覗く。
岩の側面にそってある。二つ。まるい。小さな玉がある。
玉は岩についた濃い翠色のコケについている。白銀色をしている。
なかに蠢く気配がある。
わたしは玉へ手をかざす。もうすぐだ。きっともうすぐ産まれてくる。
玉からは、ある種の熱を感じ取る。こども等の熱にも似たものだ。玉のなかに命の息吹を感じる。これは守らねばならないものだ。わたしのなかの本能がそう告げる。
「やっと信じてくれましたね」
いつの間に来たのだろう。
ちかくに人影がある。
頼りなげに細いシルエットは国枝さんだ。両の瞳がむき出しだ。
国枝さんの躯には、数多のひかりがまとわりついている。ひかりはふわふわと空中を舞う。
「僕の蛍はもう産まれて、幼虫になり出ていってしまいました。小野寺さんのはこれからですねえ」
国枝さんはため池のぐるりを廻りながら、わたしの側へとやって来る。
今まで散々無視していたくせに。なんで断りもなくわたしの夢へと現れるのだろうか。わたしは微かな反抗心で唇を尖らせる。そうして後ろ手に卵を隠した。そんな動作に国枝さんがうっそうと微笑む。
「誰も盗りはしません」
「本当ですか」
「本当です。卵は守るべきものであって、盗むものではありません」
国枝さんが頷く。
「それにこれは全てが夢であって、夢ではありません」
不思議な事を言う。
「あなたは今、日の出ハイツ四〇二号室にいます。ソファーに座っているのでしょうか。床にいるのでしょうか。そこまでは分かりませんが、眠っているわけではありません。卵が産みつけられた今、あなたはどこに居ても、どんな事をしていても、まなこの中の蛍を感じられます。
少しばかり瞼の裏の卵はいずいかもしれません。しかし痛みを誘う程ではありません。そこさえ我慢してしまえば、あなたは卵のなかの命の気配を。蛍のひかりを身のうちに感じます。どうです? まなうらの蛍は素敵でしょう」
国枝さんがおおきく笑う。
癪に障るがその通りである。
蛍が、ため池のうえを飛ぶ。ひくく。高く飛ぶ。
「来年の夏はこの蛍たちが産卵するかもしれませんねえ」
国枝さんが言う。
「この池はわたしのひだり目なのでしょうか?」
わたしは常々思っていた疑念を彼へと問いただす。
「そうとも言えます。違うとも言えます。僕にも全部がぜんぶ分かっているわけではありません。ただ守りたいだけです。そして、ああ美しい。そう思える気持ちがあるだけです」
そう言って国枝さんは泥土に腰を下ろす。わたしもつられる格好で隣に座る。尻が濡れるが、なに気にするものか。どうせ夢。幻の類いなのだ。
見上げる空には、まるいお月さまがぽかりと浮かんでいる。
しろっぽい朧な月だ。
一匹の蛍がふわりふわりと飛んでいく。無論蛍が月までなんぞ行けるわけがない。それでもどういう具合か月はかなり下にある。
「あなたの夢のなかですからねえ、色々な矛盾があるようです」
国枝さんがくつくつと笑う。
蛍のひかりの軌道が、お月さまを横切っていく。
夜はいつまでも、あける気配が訪れない。
しんしんと。水羊羹の様な薄闇ばかりがふかく。静かに辺りを包む。
いつの間にやら国枝さんの指がわたしの片手を包んでいる。そこにも一匹。蛍がとまった。
ではこれもわたしの作った状況なのだろうか。それとも彼の願望なのだろうか。
どちらでも構わない。
わたしは蛍に触れるふりをして、そっと国枝さんの掌を握り返した。
完
今回のお題はいつになく難しかったです! プロットは何通りかでるのですが、なかなか書けない。悪戦苦闘しながらなんとか捻りだしました。わたし自身消化しきれていない部分があるかもしれません。
物語りの核になった「目のいずい感じ」は実際体験したばかりです。
なんの眼病だ!? 恐るおそる眼科へ行くと、瞼の裏側にできものがあります。そう言われました。まぶたの裏にーー!? ガクブルでした。点眼薬であっさり治って良かったよかった! からできた物語りです。感想等いただけると大変嬉しいです。
原稿用紙換算枚数 約31枚