誘いの歌声
多くため息をつきながら、俺は家に向かって歩いていた。
あの後、もちろん電車は運転見合せとなり、俺と裕太は駅の近くのファーストフード店で時間を潰す事になったが、あんなモノを見た後では食欲もなく、ただジュースを飲んでいた。
正直、会話なんてろくに出来るような状態ではななったが。
俺達と同じように電車が動くまでの時間を潰す客が多い中、事故について「迷惑」「他人の事を考えろ」「おかげで帰れない」といった言葉が聞こえてくるが、俺自身も同じ考えであり、いつ家に帰れるかわからない状態の現状を嘆く事しか出来なかった。
はぁっと深く長く息を吐き出しながら裕太は机に突っ伏した。
「あー、もう何でこんな事になったかなぁ」
「そんな事を言っても仕方ないだろう」
目の前にある裕太の頭を軽く叩きながら、ジュースを飲む。
あの時に聞こえた歌と、自殺した男子生徒の、虚ろな顔が頭から離れないのは、変な噂を知ったせいだ。
ただの偶然だと思いたいが、すぐ横にいた裕太には、歌は聞こえていなかった。
「なぁ。変な事、聞いていいか?」
裕太が小さな声で呟きながらあげた顔の表情は、真剣ながらも少し青ざめていた。「あの時、歌が聞こえるって言ってたけど、今も聞こえていたりするのか?」
裕太の疑問に俺は静かに首を横に振る。
「今は聞こえていない。事故が起きて、その場から離れる時には、もう聞こえなくなっていた」
俺の答えに裕太は、自分のジュースを飲んだ後、大きく息を吐き出した。
「お前、大丈夫なのか?
実はスッゴいファンだったとかじゃないだろうか」
顔をしかめる裕太に対して、俺は苦笑を浮かべて肩をすくめてみせた。
「俺は違うよ。妹はファンだけど」
「妹って、確か小学生だったよな」
俺の言葉に、裕太は少し笑いながら聞いてくる。
「ああ。小学五年生だよ。本人いわく、難しいお年頃だそうだ」
「あー、なるほどネェ。高校生のお兄ちゃんとしては、なかなか手強い相手かもな」
ククっと笑う裕太にとって他人事だから楽しそうに笑っていられるが、俺にとっては全然笑えない事である。
ふぅっと息を吐き出し俺は窓から外を見る。
先程よりも日が傾き、夕暮れへと向かう空を見上げて、いつ帰れるのかを考えていた。
家への道を歩きながら、何度目かのためにをつく。
あれからは、裕太とくだらない話しをして、電車が動くのを待っていたが、それから一時間も待たずに動き出してのは、良かったが、電車が動くのを待っていたのは当然俺達だけではなく、俺達が帰る電車には沢山の人が乗っており、慣れていない満員電車の中で 押し潰されながら、俺と裕太はそれぞれの駅で降りた。
俺が最寄りの駅で降りた時には、すでに夕暮れは通りすぎ、空は暗く重い雲が広がり、いつ雨が降りだしてもおかしくない様相になってきていた。
雨が降る前に帰れれば良いのだが。
傘を 持っていない俺は心の中で呟き、視線を道路へ向けて、少し足早に歩きだした。
「こんにちは。いや、こんばんはと言う方が正解かな?」
突然かけられた声に、俺は驚いて顔をあげた。
金と真紅の瞳は、暗い所にいる猫のようにはっきりと見え、揺らめき輝いているかのよう見えて、一瞬息を飲み込み俺の思考は停止する。 膝まである長い髪。白いシャツに黒いベストとロングスカート姿の女性が、見覚えのある傘を手に持ち、微笑を浮かべて俺の前に立っていた。
あの時は、良く見ていなかったから気付かなかったが、女性は俺と同じか少し高い身長の、スタイルの良い妖艶な冷たい美しくを持つ美人である事に気が付いて、わずかに背筋を伸ばす。
「あの、こんばんは」
何と声をかければ良いのかわからずに、とりあえず挨拶をかえしてみせると、女性は瞳を細めて微笑み、俺の前へと傘を差し出した。
「傘を貸してくれてありがとう。坊や」
笑っているはずなのに、瞳の奥は笑っておらず、冷たく目の前の俺の事を観察するように、静かな興味の光が宿っている。
「坊やはやめてもらえませんか。俺は高校生で田村陽介という名前があります」
「あらそう。私の名前はディアというのよ。坊や」
クスクスと笑いながら女性はディアと名乗り、坊や呼びはやめなかった。
少し不機嫌そうな表情を浮かべて、俺はディアから貸していた傘を受け取る。
ふわりと冷たい風が吹き、ディアの長い髪が風になびくと、雫の形をした真紅のイヤリングが左右の耳で揺れた。
「あ、れ。イヤリング、落としたのに、両方ともある」
俺の呟きにディアはクスリと笑い、さらりと髪をかきあげて、両耳を俺に見せる。
「ただのオモチャだって言ったでしょう?
実は同じイヤリングを何個も持っているのよ。だから一個くらい落としてしまっても平気なのよ」
クスクスと笑い、ディアは自分の右手をそっと俺の左頬に触れる。
白く細い指先は氷のように冷たく、驚きに目を開き、わずかに身体を強張らせた。
何か言葉を口にしようとするが、唇が震えて上手く声が出てこない。
俺の頬に触れているディアは、俺の顔というよりも、瞳の奥をのぞきこむように無言でじっと見つめていた。
妖艶な美しさを持つディアから視線を離せず、俺もまたディアを見つていると、理由のわからない気恥ずかしさと共に、自身の心臓の鼓動が速くなり、全身に勢い良く血が流れ、頬が赤く染まり、奇妙な感覚に全身が支配される。
身体は暑く感じているのに、背筋は冷たく、汗をかいていた。
ディアは切れ長の瞳を細めて、唇の端をあげて笑い、息がかかりそうなほど顔を近づけてくる。
「まぁ、貴方は大丈夫か」
俺の耳元で小さく囁くと、ディアは俺から手を離し、少し意地悪そうにクスリと笑い、長い髪を揺らして横を通りすぎる。
「あのっ!」
何とか絞り出した声をあげて、通りすぎたディアの方を向く。だが、すぐに後ろを向いたはずなのに、ディアの姿は何処にも存在しなかった。
わき道に入ったので姿が見えなくなったという話なら、理解出来るのだが、俺のいる道はわき道の無い真っ直ぐな一本道になっている。
夢か幻でも見たのかと思ったが、俺の手には、彼女に貸した傘が握られていた。
冷たい風が誰もいない道の向こうへと走り抜けて行き、小さな雨粒が一つ二つと暗い空から降りてくる中、俺はディアの消えていった方向を見つめ続けたまま、ただ立ち尽く事しか出来なかった。
降りだし雨は数分とたたずに本降りとなり、ディアからタイミング良く傘を返して貰えた事に感謝をしながら、家の玄関の扉を開けた。
「ただいま」
家の中へと入り声をかけると、奥の居間の方から「お帰りなさい」と母と妹が返事を返してくる。
「大変だったわね陽介」
母が顔を出してかけてくれた言葉に、俺は苦笑を浮かべてみせる事しか出来なかった。
「人身事故で帰れなかっただけなのに、お母さんは大げさだね」
妹の美奈は、母は少し過保護だと言わんばかりに笑ってみせると、母も「そうね」と笑顔を浮かべた。
事故を見てしまい、夕食は肉の無いモノにしてほしいと、母にメールで頼んでいたので、母の言葉の意味は違うのだが、あえて説明する必要も無いので、そのまま自分の部屋へと入っていった。
制服から私服に着替えて居間に戻ると、テーブルの上には夕食が用意されていた。
肉の一切入っていない野菜炒めとご飯とスープ。
シンプルだが、急なお願いに作ってくれた料理なのだから、感謝を込めて手を合わせる。
「あれぇ、何でお兄ちゃんはハンバーグじゃないの?」
妹のいったハンバーグという単語に一瞬、事故現場を頭に思い浮かべてしまったが、俺は大きく息を吐き出し、頭を横に振る。
「ちょっと食欲が無いんで、夕飯を変えてもらったんだよ」
もう一度、手を合わせてから、用意してもらったご飯を食べ始めた。
歌が聞こえる。
沢山の気配と興奮した人々の声。
暗く広い空間の中央で死んだはずの歌姫が、スポットライトを受けて唄う。
俺は顔をしかめて耳をふさぎ、前へ前へと行こうとする人達から離れるように距離をとり、人垣の後ろへと移動する。
また、夢を見ている。
まみるのコンサートは夢を見るわずかな時間だけ、まみるを心から愛し信じる者が誘われる空間。
別にファンでも何でも無い俺が、何故こんな夢を見ているのか。
正直苦痛でしかない。
俺はまみるのコンサートを心から楽しんでいる人々の後ろで、静かに息を吐き出した。
数えきれないほどのファンの年齢は様々で、小学生から大人まで。様々な格好をしているのがわかる。みんながみんな、中央のステージを向いていて、誰一人俺の方を向く者はいない。
この中に、どれくらいの死者と生者がいるのだろうか。
ふと、そんな事を考えて、俺は頭を横に振る。
こんなのただの夢だ。昼間の事故だってただの偶然で、まみるの歌が聞こえたと思ったのも、あんな噂をネットで見たからで、本当は何も聞こえていなかったんだ。
耳をふさいだままその場にしゃがみ込み、俺は瞳を閉ざしてそう自分に言い聞かせるようにうなずくと、凄い力で耳をふさぐ手首を強く掴まれて、耳から手が離される。
「本当は納得していないのに、自分に嘘をつくのは良くないな。坊や」
驚いて開いた目の前には、金と真紅の瞳がすぐ近くにあり、微笑を浮かべて俺の顔をのぞきこむように見つめていた。
「あんたは、何でここに!?」
驚く俺の言葉が聞こえていないのか。
ディアは俺から視線をそらして、中央の方を向く。
「まだ坊やの存在は彼女に気付かれていない」
女性とは思えないほどの強い力で、俺の手首を掴んでいた手を離したかと思うと、今度は強い力で俺の身体を押した。
「彼女に気付かれる前に帰りなさい。坊やのいるべき場所へ」
押された事により身体のバランスを崩して、俺の身体は地面にしりもちをつく事も無く暗闇の中へと落ちていく感覚に、意識が遠のいていった。
ガクンと身体が大きく動き、俺は瞳を見開き自室の天井を見つめていた。身体は全身を使い呼吸を繰り返した後、俺は身体の中にたまったモノを全て吐き出すように、長く深く息を吐き出した。
夢はただの夢。
そう思いたいのに、俺の本心は違うのだと言っている。
俺はベッドから起き上がり、何気なく自分の手首に視線を向けた。
全身に汗をかいている身体が、瞬時に冷たくなり、震えだす。
「何だこれ。嘘だろう」
わずかに掠れた声で言葉を絞り出す。
手首には、掴まれた跡が赤く残っていた。
細く長い指の跡。
それが夢の出来事のはずなのに、現実でもあるのだと証明していた。
重い気持ちで制服に着替えて部屋を出ると、妹の部屋から音楽が聞こえてくる。
一番聴きたくない曲を耳にして、俺は少し乱暴に妹の部屋の扉を叩く。
「美奈!音がもれてる!」
俺の声に反応して音楽が小さくなり、妹が不機嫌な顔をして部屋から出てくる。
「うるさいな、お兄ちゃん。ドカドカ叩かないでよね」
「お前が大きな音で聴いているからだ。むしろ、彼女の歌なんか聴きたくないんだよ。俺は出来れば二度と」
妹に負けず劣らず不機嫌な顔をする。
まみるの歌と口にするのも嫌で、あえて「彼女」と呼び思わず二度と聴きたくないと言ってしまった事に、妹は本気で怒ったのか。口を尖らせて睨み付けてきた。
「あたしは、まみるちゃんの歌が好きなの!朝から聴いたっていいでしょう!
まみるちゃんは悪くないのに、何でお兄ちゃんは、まみるちゃんが悪いみたいに言わないで!」
大きな声で言って、妹はバンと扉をしめた。
結局、妹はその後、俺が家にいる間、部屋から出てくる事はなかった。
学校へと向かう道はいつもと変わらず、通勤や通学のために歩く人達の進む方向は同じで、俺も駅へと向かっていた。
最近、いろいろありすぎて、心に余裕がなかったとはいえ、妹に八つ当たりするのは兄として失格だろうな。
ふぅっと息を吐き出して、俺は自分の手首を見る。
まだくっきりと残る掴まれた跡は、全て夢だと笑う事を許さなかった。
彼女の夢に出てきたディアと名乗った女性は、何者なのかと疑問に思うが答えなんて出はしないだろう。
俺は何も知らない。ただ、なんとなく、人ではないような気がする。
そんな事を考えて横断歩道を歩く俺の横を、二人の女子中学生が楽しそうに話しながら通りすぎる。
通学にはまだ少し早めの時間だから、部活の朝練でもあるのか。それとも仲の良い友達と話を沢山するために早く登校するのかはわからないが、朝から元気で羨ましく思ってしまう。
そんな中学生に一瞬、死んだ幼なじみとのくだらない話しをして笑っている自分を思いだして、心がざわついた。
本当に、自分がおかしくなったのではないかと、本気で考えてしまう。
あり得ない事に直面して、妹に八つ当たりとか、本当に心に余裕がない。だが、誰かに言った所で、信じてはくれないだろう。
昨日の帰り際には「疲れてるんだよ。色んな事があったからさ。ゆっくり休めよ」なんて裕太には言われてしまった。
まぁ、普通はそう思うだろう。
ただ、裕太には言ってなかったしあいつもあえて説明していなかったが、死んだ幼なじみは、かなりのまみるのファンで、まみるオタクと言っても過言ではなかった。
まみるが死んだ時には、学校では普通にしていたが、俺と二人きりになったらものすごい哀しんでいたのを、良く覚えている。
だから、彼女に呼ばれたのだろうか。
わずかに瞳を細めて、俺はぎゅうっと唇を噛み締めた。
俺は横断歩道を渡り終えて、前を向いた時、歌が聞こえてくる。
・・・あの歌が。
驚き、瞳を見開き、身体が強張る。
歌声は、以前よりも大きくはっきりと聞こえていた。
どこから聞こえてくるのかと思い、俺は歩いていた足を止めて、軽く周囲を見回そうとした時、後ろでドンっと何かがぶつかる大きな音がした後、さらに何かにぶつかる音がした。
誰かの悲鳴が後ろで上がり、俺は振り返った。
道路の真ん中には、ボンネットに何かがぶつかった形跡のある車が一台止まっており、後ろの横断歩道を渡った向こう側にも、一台の車が突っ込んでいる。
どうやら信号無視をした車が、青信号で動き出した車にぶつかったのだろう。
ざわざわとする人達の向こうで、先程すれ違った中学生の一人が泣き叫び、もう一人は大量の血液を流して車の下敷きとなり、倒れて動かない。
流れ出す真紅の血液はあっという間に赤色のみずまたりをつくりだし、倒れる中学生の横でもう一人が泣きながら名前を呼び、身体をゆするが、車の下敷きとなった少女は全く反応しない。
遠目からでも、すでに事切れていることがわかった。
聞こえていた歌も、今はもう聞こえない。
あの中学生が死んだ時に歌は、止んでいた。
事故がおこった現場では、車の下敷きになった少女を助け出そうとする人もいるが、何もする事も出来ず成り行きを見守り、ざわざわとするその他大勢の中の一人の俺は、顔をしかめて事故現場を背にして歩き出した。
「彼女の歌に誘われて、死者が増えていく。
誘われた死者は永遠に彼女の空間に取り込まれる。
取り込まれた死者はいずれ自分が何であったかも忘れててゆき、魂さえも消えてゆく。
哀れな死者逹は、全てを彼女に喰われて消える」
「彼女は一体何がしたいのか。私はどうでも良いのだけれど」
クスクスと、いつもと変わらぬ笑みを浮かべて、ディアが俺の前に立つ。
いつの間にか、俺は何も無い真っ白な空間の中に立っているた。
ここにいるのは俺と彼女の二人きり。
俺は生唾を飲み込み、嫌な汗が流れる。
「さすがに昔からの友人に土下座までされて頼まれたら、さすがの私も協力するのにやぶさかではない」
クスクスと笑うディアを出来るだけ平常を装い、彼女を見る。
「あんた、人間じゃないよな。まみるも人間じゃないんだろ?
何なんだ。あんた逹は!」
俺の問いかけにディアは微笑を浮かべて、軽く首をかしげる。
「まみるは人間よ。正確に言えば人間だった」
「だった?今は違うという事なのか?」
「そう。彼女は人間の肉体を自ら捨て去り、夢に住む存在となった」
わずかにディアは瞳を細める。
「そんな彼女を追えるのは、彼女と似て非なる存在である私だけだからね」
いつもの笑みよりも、さらに妖艶な笑みを浮かべる。
「あんた、一体・・・」
何とか絞り出した声に、ディアはクスクスと笑う。
「私は、夢を司る悪魔さ」