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第二部 四 サッカーとクリスマス

 日曜日、快晴。私はめいっぱいオシャレをして新宿の待ち合わせに向かった。事前に小川くんと「チームカラーの服は避けよう」と話していたから、私は服装をモノトーンでシックにまとめた。もう十一月、シーズンの終了が近い時期らしい。スタジアムは決して暖かくないだろう。黒の厚手のタイツにロングブーツを履いて、私としてはだいぶカッコよく決めたつもりだった。

 待ち合わせ場所に行くと、もう小川くんは来ていた。私に気がつくと、壁にかけていた片足の踵を下ろしてこちらに向き直り、ニコッと笑った。その日の彼の服装は、私と同じモノトーン。珍しく黒のジーパンを穿いていて、服の配色が私とだいぶ近かった。そんなささやかなことがとてもとても、嬉しかった。

 実は私は京王線に乗るのが初めてで、ちょっとした冒険気分だった。初めて訪れる場所に一緒に向かう小川くんを頼もしくも思ったし、こうして思い出が増えていくことを幸せだと思った。

 その日の私は間違いなく心から幸福だったと思う。心に翳りはなかったし、彼の笑顔も輝いて見えた。足取りも軽く、弾けるような喜びとともにあった。

 初めてのサッカースタジアム。野球は「ホーム」と「ビジター」とで出入り口を厳密に分けたりはしていなかったのに、サッカーでは「ホーム」と「アウェイ」でものすごく厳密に分けていた。小川くんが言うには野球でも外野席だと「ホームの服を着てビジターエリアに入るな」とかその逆とかの注意を係員から受けるらしい。でも、そのエリア間の売店では両方のユニフォームの人が入り乱れてお酒を買っているくらいで、ほのぼのしたものなんだそうだ。でもサッカーは違った。「アウェイのチームはこの通路」「この出入り口」「このエリア」と完全に区分けされていた。私も「へー」とひとしきり感心したが、小川くんはもっと驚嘆してきょろきょろしたりじろじろ見たりしていた。

 チケットを見て席を探して、荷物を置いて買い物に出たけれど、どこも長蛇の列。すいている店を探してウロウロしたけれどどこにもなく、結局並んでお弁当を買ったら試合開始ギリギリになってしまった。スタジアムに入った時点で試合開始まで三十分以上あったはずなのに。

 試合が始まると、お店が妙に混んでいた理由がわかった。野球は自分のチームの攻撃じゃない守備の時や、回の間のグラウンド整備の時に買い物に出たりするのだけれど、サッカーは前半の間、カンペキに周囲の人が自分の席を離れなかった。すごいと思った。私たちの席がサポーター席に比較的近い場所だったせいもあるのだろうけれど、ホントに誰一人席を離れない。もちろん急にトイレに行きたくなる人はいるだろうけれど、前半何分の段階で弁当を買いに行くとか、そんな人はまるでいない。前半が終わってハーフタイムになったら、皆がどっと通路に繰り出して、トイレに行ったりタバコを吸ったり飲み物を買ったりしはじめた。小川くんもこの状態には感心しきりだった。

 野球を見てからサッカーを見てよかった。逆でもよかったけど、とにかく両方見てみてよかったと思った。なんだか文化が違うのが感じられた。

 野球の時は私と由で途中で飽きてしまって、確か真ん中の五回か何かからしばらく東京ドーム探検に出たし、それが許される雰囲気だった。実際通路はずっと人でごった返していた。でもサッカーは試合途中で席を立ちづらく、後半、冷えてトイレに行きたくなって私は出るに出られず七転八倒した。結局周囲の人にペコペコしながら客席を出てきたが、人っ子一人……は言いすぎだけれど、通路にはとにかく人がいなかった。お店も店員さんがすっかり引っ込んでいて、物を売る気も何もなかった。小川くんも体が冷えたと言っていたから、戻る時にあったかいコーヒーを買っていってあげたのだけれど、これを買うのに店員さんを探してかなり右往左往したことを話して一緒に驚いた。

 後半四十五分が終わる間近、アディショナルタイム三分の表示が出た直後、ヴェルディがゴールを決めて追いついた。沸き返るスタジアム。このへんは野球もサッカーも同じで、皆がすごく純粋に、いい意味でバカになりきって喜んでいるのがとても楽しそう。爆発しそうな歓喜に包まれることなんて、日常ではなかなかない。スポーツっていいなと、傍観者ながらすごく思った。

 時計とフィールド上を交互に見ながら残りの三分が過ぎていく。試合終了の長ーい笛が鳴り、やや攻め込んでいたヴェルディのファンからは「あーあ!」のため息が漏れた。でも、それが次第に「でも、よく追いついた!」になり、さわさわと、やがて鳴り響くように拍手が広がっていく。称える声と指笛。引き分けだけど、二対二だったから、四ゴールも見られた。

 この日、この試合、本当にとても楽しかった。明るい日差しに映えるグリーンのフィールドも綺麗だったし、スタジアムも綺麗だし、小川くんは優しかったし、私もだいぶはしゃいだと思う。

 でもなぜだろう。「じゃあ、帰ろうか」と荷物をまとめて立ち上がった時、私は何か大きな憑き物が落ちてしまっていた。その感覚は今も上手く説明することはできない。ただ、もうこの人とは、明日から、二人で楽しく過ごすことはないのだと――自分で決めたんじゃなくて、そう決まったんだとわかっていた。

 それでも私にはまだ、小川くんに失礼のないように明るく帰るという任務が残っていた。だから私はできるだけ嬉しそうに笑って小川くんの顔を見上げた。

 そしてとても不思議なことに、彼も同じ顔をしていた。楽しかったねと、ものすごく楽しかったねと、顔はとても明るい笑顔。でも次はないんだと、知っている顔をしていた。

 帰り道はとてもとても不思議な空間だった。私はなぜか、外山さんに襲われて震えながらルナさんの車で送ってもらった帰り道を思い出していた。そんな感覚になることを小川くんに悪いと思ったけれど、なんだか似ていた。幻想の世界から現実へと帰っていく長い道のり。スタジアムから駅まで歩きながら、明るく、楽しく、会話は続いていた。でも、私はもう小川くんに電話をしないし、彼からも電話は来ないだろうと思った。というより本当に「知っていた」。この日、私と彼の中で、なぜか始まってもいなかった「何か」が終わった。

 狐につままれたような気分で帰り着くと、私の部屋の中から、電話で話したときのハッピーな時間の名残のようなものも皆消えていた。私は、私の身に何が起こったのか、まるでわからなかった。彼に何が起こったかもわからなかった。でも、わからなくても、困りはしなかった。もう連絡はしない。連絡は来ないから、自分が連絡しなければそれでいい。この日、小川賢紀はまた、私の人生の中からふいと姿を消した。


 十一月半ばにサッカーに行き、何かが終わってしまった呆然とした気持ちを抱いたまま半月が過ぎ、十二月を迎えた。小川くんから連絡が来ることは、思った通り、もうなかった。私も、連絡したいと感じることすらなかった。ルックスは好きだし、一緒にいて楽しい。会話は尽きないし、価値観は近いし、笑いのタイミングも同じだ。大好きだけど、好きな人と言いきれない微妙なライン。それは恋ではなかったということか。私は答えを探した。高校時代も好きになりきれず、大学でこんなに親しくなれたのに結局は同じ結末を迎えた理由を知りたかった。

 ただ……一つだけ、理由らしきものが見つかってはいた。

 サークル席でお昼を食べる時も、土曜日のサークルの日も、私はただじっと待っていた。荘内先輩が私を好きだと言ってくれるのを。

 なぜあの土曜日、追ってきてくれた荘内先輩を前に、泣きたいほど悲しくなったのだろう。私は小川くんでよかったし、小川くんがよかったし、荘内先輩を好きだなんて思ったことはまるでなかった。そのはずだった。でも――本当はあの日、他の男とどこかに行ってほしくないと言ってほしかった。なのに「彼氏はいるの?」だなんて。そうじゃなくて、待っていた。キミが好きだと、そのひと言を、本当はずっと。

 小川くんが心から消えて半月、私の気持ちは静かに、そしてまっさかさまに恋に向かって落ちていった。荘内先輩の真剣なまなざしを信じて、ついていきたいと思っていた。

 サークルの後の飲み会で、クリスマスの話題が出た時に、私はわざと荘内先輩に聞こえるように声高に言った。

「十代最後のクリスマスくらい、いい男と過ごしたかったなー。誰か誘ってくれたら、絶対デートに行くんだけど、当てがないよー」

 普段こんなことを叫んだりしない私の不自然な行動は、正しい意味で荘内先輩に伝わった。仲間も何かを察したのか、その日の帰り道で彼女たちは私を一人っきりにした。荘内先輩はそのタイミングが生じるのをわかっていたように、当然のように、自然に私の隣に来た。私は歩みを遅くした。前方を歩く仲間たちと距離が少しずつ広がっていくが、そんなことは気にならなかった。

「あの、飲み会で言ってたこと……」

 荘内先輩はそう切り出した。私は、これまでだったら「あれー、何言いましたっけー」とか言って笑ったかもしれないが、もうそんなことを言うつもりはなかった。

 静かに黙って次の言葉を待っている私に応えるように、先輩はその先を続けた。

「十代最後のクリスマス、立候補したらダメかな」

 きっとそう言ってくれると思って、私は返事を用意していた。だから決めていた通りに答えた。

「……先輩がそう言ってくれるの、待ってたんです」

 そこから時間はかからなかった。クリスマスの待ち合わせを決めようと、相談のために携帯電話の番号とメールアドレスを交換して、毎日メールをやりとりして、大学の帰りも先輩がさりげなく私を待ち伏せしてくれたりして、一気に二人の世界が出来上がっていった。クリスマスイブには、もうお互いに、その日が恋の始まりの日だと理解していた。

 荘内先輩は、「実は女の子とデートすることじたい初めて」とメールに書いてきた。だからカッコいいデートができないんじゃないかと、先走ってお詫びの言葉が並んでいた。大丈夫だよお兄ちゃん、と言ってあげたかった。次期部長、みんなのお兄さん、でも恋愛には頼りない。でも私も恋は初めてだから、お互いにみっともなくていいよね。

 クリスマスイブ、二人で東京駅近くのイルミネーションを見に行った。やっぱりその日はものすごく混んでいて、私は先輩と時々はぐれそうになった。手をつないで歩きたいと思ったけれど、それは恋のけじめがついてから。私は先輩の手につかまりたくて、先輩を追って歩きながら、じっとその場所ばかり見ていた。

 そういえば、小川くんにはこんな気持ちになることはなかったなとふと思った。友達でしかなかったのかなと思った。人混みを歩いたことは何度もあったはず、高校時代の東京ドームも、映画が終わった直後の映画館の通路もそう、サッカー場に入ってからの一部の通路の辺りもそう。サッカー場の帰りはもう何かが終わっていたから、そういう気持ちはなくても仕方ないけれど、他の場面ではこんな気持ちになったってよかった。

 また、小川賢紀は二番目だったんだな……と思った。そんなに好きなつもりはなかった荘内先輩なのに、今こうしていると触れたいと思う。幼馴染の慧士くんへの思いもそうだった。まあ彼の場合は、幼稚園の時につないだ手をいつまでも忘れられなかっただけかもしれないけれど、それでもやっぱり、手のひらに手を重ねたい願望があった。小川くんに対してはなかった。荘内先輩には今、それがある。

 人混みに紛れて一瞬先輩の姿を見失うと、私を探す必死の目をすぐに見つけた。ほんの一瞬はぐれただけでそんな目をして探すなら、することがあるでしょうと私は思った。思いを伝えてもらえれば手をつないで歩ける。ほんのひと言告げてもらって、中途半端な関係を終わらせて、もう手をつないで歩きたい。

 私が立ち止まると、荘内先輩は私のまん前まで戻ってきて、同じように立ち止まった。

 そして人工的に点滅する光の空間の中で、やっと言ってくれた。

「――キミのこと、いつの間にか、好きになってた。俺と付き合ってもらえませんか?」

 私は、いろんなパターンを考えてあらかじめいくつか決めてあった言葉があったのに、その瞬間全部忘れて一つも思い出せなかった。だから、その前の時に使ったセリフしか出てこなかった。

「……先輩がそう言ってくれるの、待ってたんです」

 それから、これじゃYESの返事にならないと思って慌てて付け足した。

「私も、あの、……好きに、なっちゃったんで」

 思い返すといささか失礼な言い方のようにも思う。でも、そのひと月ちょっと前には他の男の子とデートに行っていたし、そっちを本命だと思っていたんだから、「なっちゃった」んだけど。

 言ってから、私は、もしこんな機会があったとしたら小川くんを「好き」だと言えたんだろうかと思った。はっきりと、小川くんとの不思議な終わりを実感した。

 甘い空気の中、それまでの私の心の声を実はずっと聞いていたかのように、荘内先輩は私に向かって手を差し出した。私は自然に先輩の手に自分の手を預けて、それからは手をつないで歩いた。

 それから場所を移動して、上野の創作料理の洋風居酒屋に入った。先輩は大いに恐縮した。

「オシャレなレストランとか探してみたんだけど、もうどこも埋まっちゃってて……」

 お店はそこそこオシャレに飾ってあったけれど、やっぱり居酒屋は居酒屋だった。でも私はそれで構わなかった。

 クリスマスの記念にと、その店はその日、全部のお客さんにポラロイドの写真をプレゼントしていた。私と先輩も、初ツーショット写真を撮った。その写真は私がもらった。そして会計の際は押し問答をして、結局先輩が全額払った。私はずっと、恋愛ならばこそ二人で同額のワリカンにしたいと思っていたのだけれど、男性はこんな時、断固払いたいものなのだと知った。

 帰りの電車で、一つ、ルールを決めた。

 付き合っていることでサークルに迷惑をかけるのは嫌だから、二人になるのはむしろ極力避けて、これまでどおりに振る舞うこと。

 先輩が遠慮がちに切り出したこのルールは、私も元々考えていたとおりだった。だからすんなり決まった。こういう価値観が一致するのはとても嬉しかった。きっと、ずっと一緒にいられると思った。

 先輩とその日別れた後、一人の電車の中で、私はまた小川くんのことを考えていた。彼はいつも恋の節目に現れる。私が初恋の彗士くんをやっと卒業する時も。初めての彼氏ができるそのタイミングにも。彼が現れて、惹かれた後に、いつも私の恋愛人生が大きく転換する。私が小川くんに恋をして、小川くんとの事態が動くならわかるけれど、そうではなくて、まるで触媒のように彼自身は私の恋に寄与しない。いつも好きになりたいのに好きにならせてくれない。二番目に好き――そんな位置にいつもいる。

 荘内先輩に導いてくれたのが小川くんのような気がした。お門違いかもしれないが彼に感謝した。そして願わくば、もう彼と接近することがないようにと祈った。荘内先輩とずっと恋愛関係でいて、そのまま何の変化もなく、夢物語かもしれないけど結婚して、ずっと幸せに生きていきたいと思った。もう次の恋愛に導いてくれる触媒なんて要らない。私はその時、人生最高の幸福の中にいた。


 久しぶりに、由にメールを打った。大学に小川くんがいたことがわかった時に一回興奮してメールで報告したけれど、その時には彼を好きになるとかなりたいとか、そんなことは一切書かなかった。そういえば高校時代も私は由に小川くんが気になっていることを言わなかった。今思うとそれは賢明だった。

 今回も私は、大学のサークルの先輩と付き合うことになったとしか書かなかった。まさか小川くんと恋愛したくてけっこう追い回したなんて報告できない。しかも「やっぱり彼は二番目にしか好きじゃなかったので、やめた」なんて話はできるはずがない。振り返ってみるとけっこう私は小川くんに対して頑張っていた。それなのにあっさり他に彼氏を作って、小川くんが私を失礼な女だと思っていないことを祈るばかりだ。

 由からの返事はたった二行。

『幸せ報告ありがとう。

 申し訳ないけど私の不幸報告聞く気になったら連絡して。』

 何があったんだろう。私は慌てて返信した。

『由、落ち込んでる時に浮かれた報告しちゃってゴメン。

 いつでもいいから会いに行くよ。日時と場所指定して。』

 由からは三日、返信が来なかった。私は動揺した。由の状況も何も考えないで、ものすごく浮かれたバカなメールを送ってしまった。人生最高のハッピーとか、世界幸せランキングがあったらどこまで行けるかとか。基本、私は幼稚な人間なんだと思う。それと、由がハッピーじゃないイメージが湧かなかった。きっと彼女はどこでも上手くハッピーにやっていると思っていた。

 やっと由から返事が来た。

『ソノミーに本当のことを言う勇気がやっと出ました。

 泣くかもしれないし、ウチは嫌なので、ソノミーの家で話せますか。』

 私は肝が縮んで震え上がった。由は一体、私に何を隠していたのだろう。本当のことってなんだろう。そもそも由が私に何かを告げて、私がショックを受けるようなことがあるとは思えない。それに由が泣くようなことって一体なんだろう。どんなにものすごいことなんだろう。私は怯えに怯えた。あらぬことをいっぱい考えた。たとえば荘内先輩が由の好きそうなお兄さんっぽい人だから、実は先輩と由に何かあるんじゃないかとか……。そんなの、どう考えたってありえないのに。

 それでも私は由に都合を伝えて、由からの返事のとおりに予定を立てた。屠殺を待つような思いでその日を待った。

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