第二部 三 学園祭
翌日からは学園祭がはじまった。とはいえ心理学研究会は展示発表だけなので、番をする人が交替で入ればいい。私は初めての「自分の大学の学園祭」を見て回った。高校時代に由と一緒に大学の学園祭に行ったことがあったので、驚くほどの新しさは感じなかったけれど、「大学生になったんだなー」という感慨は繰り返し湧いた。
ふと思い立って、ちょっとばかり気負いつつも、学園祭のまっただなかから小川くんに電話をかけてみた。
「サークルとか入ってるの? 構内で何かやってるなら、遊びに行ってみようかなと思って」
そう聞いたら、彼は家でのんびりしているという。
「えーっ、もったいない、せっかくの学園祭なのに」
私が頓狂な声をあげると、彼はあっさりと答えた。
「結局サークルにも入らなかったから、この時期は休みでいいやって決めてた」
熱心にサークル活動を仕切ってあれこれ走り回っている荘内先輩とは対照的。ちょっとだけだけど、私はこの時、学園祭に頑張っている人のほうがいいなと思った。
「せっかくの大学生活なのに、最初の年くらい見て回ったら?」
私は幾分拗ねた口調になって言った。なんだか彼のこの冷めた感じが私を遠ざけているように感じた。一緒に映画に行ってもまるで恋愛になりそうもない。見る映画を変えてまで一緒に過ごしてくれたのに、なんだか踏み込めないのはなぜだろう。
「そうだねー、じゃあ、一緒に回ってよ。案内して。今から行くね」
慌てて時計を見た。午後二時半、これからって……。
「一時間後なら行けるから。支度して、すぐ出るよ」
すごく簡単な言い草にドッキリした。なんか、もう、すでに恋人同士みたいな気楽さ。
「あ――うん、わかった。待ってる……」
ふわふわした気持ちで電話を切った。もう、私たちはこんなに親しいんだと思った。「今から行くよ」「わかった、待ってる」なんて。ただ待てばいいだけなのに、気持ちは右往左往した。これはもう恋なんだろうか。もう何も宣言しなくてもお互いに一緒に歩きはじめているんだろうか。
そして一方で、参ったなとも思った。「案内して」と言われたが、自分のサークルはどうしよう。普通に考えれば案内すべきだろうけれど、荘内先輩の気持ちが私に動いているかもしれなくて、男の先輩方が状況を煽っているこの環境下、私が男と二人でサークルに乗り込むのは気が引ける……。
小川くんが来るまでの一時間、迷いに迷って、私は結局心理学研究会を案内するのはやめた。高飛車かもしれないが、なんだか荘内先輩を傷つけてしまいそうで、嫌だった。
携帯電話が鳴って、小川くんが待ち合わせ場所を聞いてきた。私はサークルの展示会場の教室から遠いチャペルの前を指定して、彼と会った。
高校時代からずっとドキドキしているからか、とにかく小川くんの姿を見るとぱあっと光が差したような気持ちになる。今回彼は茶色の薄手のタートルにベージュのシャツを重ね着していて、シックなチノパンと合わせて全体で秋らしく、かつ軽くて柔らかな雰囲気だった。お姉さん素晴らしい。でも着る本人もだんだん格好よくなってきた気がする。大人になって落ち着いてくると男性はどんどん素敵になっていくのかもしれない。
どこに案内しようかと迷って、興味があるものは何なのと聞いたら、特にないと返ってきた。
「小川くんって冷めた人なの? 高校時代は巨人のユニフォーム着て熱心に野球応援してたり、漫画についてあれこれ語ったりしてたのに、学園祭は見ないし興味があるものはないとか言うし……」
可愛いし人懐っこいけど、なんだか踏み込めない。高校時代より隙がなくなったというか、とらえどころがなくなったというか……。
小川くんはニコッと笑った。どんな時もけっこう、この人は笑うんだなと思った。
「俺、あんまり、これが好きとかないんだよね。巨人ファンだったのも、父親が野球好きで、家族全員なんとなくファンだったからだし……漫画はその時その時で読んでるものは楽しいけど、自分自身が熱心にこれっていうものはないなー」
だから私のことも別に好きじゃないけどねと、そう言われた気がしてガッカリした。それでも私は小川くんをあきらめる気はなかった。
「じゃあ、今から、好きなもの見つけなよ。でも高校の時も小川くんってそんな感じだったのかー。思い出すなー、ずっと前、馬場くんが小川くんのこと『女に興味ない』『恋愛に興味ない』みたいに言ってたの……」
だいぶ昔のことを引き合いに出して責めてみた。しかも間接的に「私に興味ないの?」的な意味で。
小川くんは驚いた顔をした。
「馬場、そんなこと言ってたの? 特に恋愛に興味ないと思ってたつもりはないんだけどな、結果的に高校時代、縁はなかったけど……」
えっ! 私、馬場くんのその発言にけっこうガッカリしたんだけど。それで「だから私にも興味がないんだな」と思って小川くんのことをあきらめた気がするけど。
思いがけず恋愛に関する話になったので、私はさりげなく畳みかけた。
「それで、恋愛にその後、縁はあったの?」
「まあそうだね……ないよね、ないとしか言いようがないかな」
何、そのはっきりしない言い方。どういう含みがあるんだろう。好きな人くらいはいたんだろうか。
もう少し何か聞こうかと思ったが、その時の小川くんの横顔はなんとなくそれ以上の問いかけを許さないような感じがして、私はすぐに話題を変えた。校内を歩き回って気になったところを見に入り、模擬店を二つ三つハシゴして、私はサークルに戻り、彼は帰った。
小川くんはすぐに明るく饒舌ないつもの彼に戻ってくれたのでとても楽しかった。でも、恋愛に興味がないわけではないし、なかったわけでもないというのは気になった。ただ実際今は間違いなくフリーなのだから、今彼が私に興味がなくても、私に十分入る余地はあると思った。
翌日、朝からまた学園祭のサークルの教室へ行くと、同じ代の女子数人が待ちかねたように寄ってきた。
「園田さん、昨日、一緒に歩いてた人って誰?」
校内にはサークルの皆もウロウロしていたはずだから、誰かは私と小川くんの姿を見ていたことだろう。私は現時点の事実を端的に答えた。
「高校の同級生」
「彼氏とかじゃ……」
「ないよ」
心理学研究会の仲間たちは顔を見合わせた。私は首をかしげた。
「どうかしたの?」
「いや……男の先輩方が、園田が男と歩いてるけど上手くやらなかったのか……みたいなことを荘内先輩に言ってたから」
マイッタネ、と私は肩をすくめてみせた。そして、小川くんと歩いていたことが荘内先輩の耳に入ったのは気になった。
「園田さん、荘内先輩のこと、どうするの?」
仲間たちは私の顔を覗き込んできた。どうするも何も。
「どうもこうも、別に何かアプローチがあったわけでもなんでもないし、あの人みんなに普通に親切なだけじゃない?」
現時点ではどうしたって私は小川くんに行く。荘内先輩についてどうこう聞かれても困る。できればこのまま何事もなく、サークル内では平穏を維持していきたい。
「実花自身は、好きな人って……」
聞かれて、私は戸惑った。戸惑ったことで、小川くんのことを「好き」という言葉で表現していいのか迷う自分に気がついた。
「うん、好きになりたい人はいるかな。でも荘内先輩じゃないよ」
仲間たちはどことなく消沈したような顔をした。私は問いかけた。
「なんでみんな、若干ガッカリしてるの?」
「いや、先輩いい人だから、気の毒かなと思って……」
それだよね、と内心で私は苦笑した。そこで誰も「だったら私こそが」とはならないのが荘内先輩。誰かに愛される価値は十分にある人だと思うんだけど……でも、私も小川くんが本命だ。
それでもやっぱり、私が小川くんと歩いていたことを知って、荘内先輩がどう思ったかは気になった。
我がサークルの学園祭での展示物はそれなりに面白いものがあり、楽しめた。私が出したのは教育学部の授業で教わった内容を元にしていて、ある心理学研究論文がどのように教育学部で今教材として活用されているかを説明したパネルだった。言ってみれば授業中に聞いたことを使い回しただけで、お粗末極まりない。でも幸いというかなんというか、一年生はまだ手探りのような状態なので他の皆も五十歩百歩だった。
だがうちのサークルで、一つだけ大人気のコーナーがあった。待ち時間が十五分ほど出て、列の整理をする必要があって展示の配置を少し変えることになった。しかしそれが心理学に関係のない内容だったので、なんとも微妙なヒットだった。
そのコーナーは、パソコンに好きなキーワードを入れて、三つのアーティストの中から好きなものを選ぶと、そのアーティストが作ったかのような歌詞がランダムに作成される面白プログラムだった。プリンタが設置され、希望者はプリントして持って帰れた。たとえば私が「ヒツジ」と入れてAというアーティストを選ぶと、「ヒツジロンリービーチ」というタイトルで「一人訪れたヒツジ海岸 風に吹かれてそぞろ歩く 遠く水平線にはヒツジがたわむれ 孤独を照らし出す」……のように歌詞が出てくる。これが実にアーティストAが作ったふうの「それっぽい」歌詞に仕上がっている。ただしもちろんプログラムに任せて文章の羅列を作っているだけなので、そこはかとなくおかしい。また、どうやっておかしな作品になる単語を入れるかと考えるのも楽しい。
このプログラムを作って据えたのが荘内先輩だった。今回の展示の殊勲ではあったが、先輩一同から「心理学と関係ねえよ!」と厳しいツッコミを受けていた。
とはいえやっぱりこのプログラムは面白くて、私もハマって、お客さんがいないときにせっせと単語を打ち込んでは偽の歌詞を作ってしまった。他の人たちも、どんな単語を入れるとおかしなものができるかと懸命に考えていた。やっぱり荘内先輩は頭がいいし、ちょっと人とは違う賢さがあるんだなと感心した。
前夜祭ライブ以来、荘内先輩は何事もなかったかのように過ごしてはいたが、時折私の様子を見ているように感じることがあった。以前はそんな気配はかけらもなかったのだから、先輩の感情が変化したのはせいぜいこの数週間というところだろう。ただ、先輩の気持ちがどういうものなのかはわからない。周囲に言われてなんとなくとか、年齢的にそろそろ彼女がほしいとか、その程度のものの可能性だって大きい気がした。
それでもサークルで過ごす間は決して私を特別扱いしない荘内先輩の姿勢に好感が持てた。もし本当に私に好意があるのだとして、そんな気持ちを抱えても「後輩すべてに平等に」という態度が取れるなら、この人は心底「カッコつけ」だと思うし、それを私もカッコいいと思えるだろう。
学園祭の打ち上げで、上の先輩がやっぱり私を荘内先輩の隣に座らせようとしたが、彼は立ち上がってハッキリと言った。
「先輩方が面白がって園田さんの席を勝手に決めるのはいいかげんにしてあげてください、彼女だって自由なとこに座りたいですよ」
「心にもないことを!」
「ホントはどうなんだ!」
すぐさま合いの手が入ったが、荘内先輩はひるまなかった。
「ここはサークルの場です。その気があったら、ボク自分でチャンスを作りますんで、こういうとこでは勘弁してあげてください」
そんな騒ぎがあって、私は久々に荘内先輩の隣でなく仲間たちの真ん中に座ることができた。ただ、荘内先輩を「変わった」と感じた。ずっと漫然と先輩の余計なお世話に是とも非とも言うことなく「困ったな」「参ったな」という顔をするだけだったのに、今回ははっきりと、しかも私のために発言してくれた。
学園祭が終わると次期部長の指名が行われる。そして次期部長はもうとっくに荘内先輩に決まっていた。指名の場は、この学園祭の打ち上げだった。
「えー次期部長は、今期部長の俺から発表させていただきます」
現部長の宣言に皆拍手。でもみんなわかっているから荘内先輩を見ている。
「では荘内君、次の部長、よろしくお願いします! 伝統に則って、この発表までには彼女を作ってあげたかったのですが、無理でした! 就任までにはなんとかしたまえ!」
酔っ払った部長の宣言に、皆で拍手をした。そして、部長の言葉とそれに対する周囲のノリで理解した。このサークルには、次期部長になる人に彼女がいなかったら皆で余計なお世話をする風習があるらしい。けっこう独り者が多いサークルだが、そういえば代々、部長は彼女持ちだ。それがわかっていたから荘内先輩もあまり伝統行事を拒否できなかったのだろう。
飲み会の終盤、佐藤先輩が隣に座った。この人はそこはかとなく格好良さそうなルックスだし、女性の扱いも上手いし、恋愛に関する発言も多い。発展家らしい言動を好んでするが、実際は女子一同から「絶対、ハッタリだよ」と陰で言われている。
「初めての学園祭どうだった?」という当たり障りのない話題から入って、少しすると本題に入った。この人は絶対にこの話をしに来たんだなと思った。
「園田さん、学祭で一緒に歩いてた男って誰?」
私は苦笑して、すぐに答えた。
「高校の同級生です」
「高校の人? わざわざうちの大学まで呼んだの?」
「いえ、偶然大学が一緒だったんで、せっかくだからと一緒に見て回りました」
佐藤先輩は私の顔を探るように見た。残念ながら、小川くんと私はまだイイ関係ではない。期待したい要素もちゃんとあるが、期待できない要素もそれなりにある。
「で、どういう関係なの? もう付き合ってるの?」
だったらいいんだけど、と思いつつ笑顔で言った。
「ただの、元クラスメイトですよ」
「……ただの?」
「映画に行ったり、お茶飲んだりはしましたけど、友人です、ただの」
「それ、二人で、でしょ? 二人で映画に行ったり、お茶飲んだりするのって、それを付き合ってるって言うんじゃないの?」
「へっ? お互いに、好きとか嫌いとか言い合ったこともないのに、ですか?」
佐藤先輩の言っている意味がわからない。私と彼は残念ながら特別な関係じゃない。
「言わなくてもお互いにわかってて一緒にいる、ってこともあるでしょ? ホントに付き合ってないのかな、相手はもう、そういうつもりだったりしないの?」
全然ないですね、と言おうとしてふと戸惑った。学園祭初日の会話が頭をよぎった。
『それで、恋愛にその後、縁はあったの?』
『まあそうだね……ないよね、ないとしか言いようがないかな』
あの時の含みは何だったんだろう。もし、小川くんが私に対して恋愛的に一定以上の親しみをすでに持っていてくれたのなら、その相手から今のことを含め「恋愛に縁はあったの?」と聞かれるのは空しいことだ。「今、キミは、違うの?」……。もしかして、やっぱりもう「今から行くよ」「わかった、待ってる」と言い合える関係は特別なんだろうか。
「あー黙ってる。園田さん、心当たりがあったな?」
佐藤先輩は勝ち誇った顔で私に怪しい笑みを見せた。私は慌てて否定した。
「いやホントそういうんじゃないですから」
「じゃあ、本命は、このサークルにいたりして……?」
明らかに意図的な質問。ここは、申し訳ないが、こう答えるしかない。
「いえ、このサークルには……特に」
だって小川くんが目下最有力候補だもん。荘内先輩は、すごくいい人だけど、でもやっぱり小川くんがいいもん。
「そっかー、そうなんだー、へえー。じゃあ、今、俺がこーんなこと……」
そう言って佐藤先輩は突如、私の肩を抱き寄せてきた。あまりにびっくりして、私は凍りついてしまった。
「……しても、ここでは問題ないってことかなー」
正直、びっくりはしたけれど、佐藤先輩が決して悪くはないそこそこのレベルの男性だったので、私はさほど嫌な気はしなかった。振り払うのもナンだし、どう言って「オイオイ、やめとけよ」という意思表示をしようかと戸惑っていた。
途端、佐藤先輩の腕が私の肩から離れた。振り向くと、荘内先輩がすごい形相で佐藤先輩を引き剥がしていた。
「佐藤先輩、ウチはそういうセクハラは容認しないサークルですからー」
幾分冗談の口調で温和に言ってはいたが、明らかに荘内先輩の声はひきつっていた。
佐藤先輩はゲラゲラ笑った。
「こんな奴もいるんで、園田さん、まあ視野を広く持ってウチのサークルからも相手を検討してやって」
佐藤先輩の行動が何を意図していたかはよくわかった。そしてやっぱり、ここで一番に飛んでくるのが荘内先輩なのも偶然ではないし、それが単なる正義感の問題ではないのだろうとも思った。
「園田さん、申し訳ない、酔っ払いのすることだから許してやって」
荘内先輩は一生懸命私に謝ってくれた。私は顔の前で手を振って、「大丈夫です」と何度も軽く頭を下げた。
その日はずっと、寝床の中まで、まっすぐで真摯な荘内先輩の瞳が私の脳裏から消えなかった。
学園祭が終わって数日が過ぎたある日の学食で、私がサークル席に行こうとランチのお盆を手に歩いていたら、とうとう小川くんとバッタリ会った。
「あ、――食事?」
彼は私とお盆を交互に見て、聞いてきた。
「うん」
サークル席から今の私の居場所は見えるだろう。すると、小川くんの姿も見えるに違いない。荘内先輩の目が若干気になった。
「たまには、一緒、しない?」
いつもの笑顔で彼が言う。私は一瞬だけサークル席に行かないことを気にしたあと、
「いいの? いいなら、ぜひ」
と答えていた。小川くんはぱっと向きを変えて視線を走らせ、空いている四人がけテーブルを見つけると私に目配せをしてそこへ荷物を置きに行った。私もゆっくり後を追った。
「じゃあ、待ってて。冷めちゃうから食べてていいよ」
ニコッと笑いかけて食券の販売機に向かう小川くんの背中を、私は甘い気持ちで見つめた――つもり、だった。でも背後のサークル席が気になった。不思議な感覚だった。なんて表現したらいいんだろう。正確には言いようがないが、「あれっ?」という感じがした。それでも私はテーブルにお盆を置き、座って彼を待った。
自分のお昼を持って私のほうに歩いてきながら、小川くんはどこかに何か信号を送っていた。手のひらで「NO」の意思表示のようなサインを出して、それから私のいるほうを指さして、また手のひらをそっちに向けた。私は彼の見ている方向を追った。そこにはおそらく彼の友人と思しき二人組が座っていた。サインは「こっちに座るから、そっちには行かない」ということだろう。
友達とのお昼を断って、こっちを優先してくれるんだ……と、嬉しい気持ちが広がった。それでもどこか、後ろ髪を引かれるような気持ちがあった。私はそれを振り払った。
彼が「お待たせ」と言って座るのに合わせて私は言った。
「友達いたんだ、……だったら、よかったのに」
彼はやっぱり笑ってくれた。
「いいんだよ、園田さんとはなかなか会えないし」
なかなか会えない、という言葉は私の心にぐいっと食い込んだ。会えないことを惜しむような響きにも聞こえた。でもすぐに自分で「偶然会う機会が比較的少ない」という意味でしかないと自分に釘を刺した。
食事中、彼も饒舌にしゃべったし、私も負けじといろんなことを話した。多分私はそんなにおしゃべりではないのだけれど、小川くんといるとおしゃべりになった。間違いなく相性はいいんだろう。
彼は学食の安っぽいお茶を飲んで、ますます笑顔になって私に言った。
「今度は、どこ行こうか」
その時私の胸にズシッときたのは……その時は、私は、ドッキリしたんだと思ったし、そうでなければいけないと思った。でも本当は、すでに、胸に痛みを感じていたのかもしれない。そこから後の急展開を思えば。
その「どこ行こうか」からそのまま学食で相談して、私と小川くんは、人生初のサッカーの試合観戦に行ってみることにした。お互いに初めてなので、自宅で携帯電話で話しながらいろいろネットで調べて、味の素スタジアムの東京ヴェルディ戦を見に行くことにした。案外東京から行きやすい場所にスタジアムがないことにびっくりした。野球なら東京ドームと神宮球場がすぐに行けるのに。それで、一番近いのがそこだったわけだ。
自分の部屋で、彼と電話で話すのはとても心地よかった。お互いに自分のパソコンを開いて、スタジアムを探したり交通の路線を探したりしながら、余計なことをさしはさんで笑う。味の素スタジアムなら京王線だね、京王線なら待ち合わせは新宿だねと言い合って、試合開始が日曜日の午後一時だから、待ち合わせは十一時半に新宿。
電話をかけるのがそれでだいぶ慣れて、つい、どうでもいいことで電話してしまったりもした。食事時にテレビをザッピングしていたら珍しくプロ野球中継がやっていたから、放送終了まで見て「今日の巨人戦は盛り上がってたよ、見てた?」と電話をかけた。用事もないのにかけたのはまずかったかなと思ったら、翌日は彼から電話がきた。なんだろうと思ったら、学食の横のスイーツコーナーの新商品を食べてみたら美味しかったから、おススメだという話だった。そんな電話のやりとりが何度もあった。
サッカーの試合に行くまでの二週間、小川くんととても親しくできたし、とても楽しかったし、幸せだった。なんとなく荘内先輩は気になったけれど、やっぱり小川くんと恋をしようと強く思った。高校時代から積み重ねてきた憧れや親しみがたくさんあって、そのすべてを形にしたかった。
いよいよ翌日は味スタのヴェルディ戦、という土曜日にもサークルはあった。この時期は、冬休み明けに作るサークル会誌に何を書くかを話し合ったりする。だいたいはぐだぐだな司会者つきの雑談会になって、何も決まらない。でも大学のサークルなんて仲間たちで何かの理由をつけてつるむのが目的なんだと、もう私は理解していた。荘内先輩はまだ部長ではないが、次期部長として懸命に話し合いを進めようとしていた。だが部長本人が話を脱線させてしまうので、いつまでも話はまとまらなかった。
サークルの後、飲んで帰ろうという話になったが、私は「明日、出かけるから」と一人で輪を離れた。暴飲することはないから、飲んだ翌日にサッカー観戦に行ってもいいのだけれど、やっぱりお酒臭さやニンニク臭が残ったり、体が酸性になって変な体臭がしていたりしたら嫌だから飲み会はやめておいた。
一人でてくてく駅に向かっていたら、背後から声がした。
「園田さん」
振り返ると荘内先輩がいた。
「あの、俺――今日、こっちに用があるから」
きっと嘘なんだろうなと推測できるくらいにうさんくさい響きで先輩は言った。私がそう思ったのがつい顔に出ていたのか、先輩はもう一押し嘘を言ってきた。
「今日は、昔の友達のところに泊まりに行くことになってて……」
それは嘘じゃないのかもしれないけれど、この後皆と飲んでから行くことだってできるはずだし、多分行き先は私の帰る方向と近くはないだろう。私はそう確信しつつ、笑顔を見せた。
「そうなんですかー」
「途中まで、一緒に行ってもいい?」
「えー、ダメな理由はないですよ」
私はもっと笑ってみせた。
荘内先輩は一生懸命学園祭や会誌のことを話して駅までついてきて、それから私の乗る電車に一緒に乗った。そして私の乗換駅で一緒に降りた。
その頃には、なんだか私は悲しくなっていた。心の中で、ねえ先輩、私明日、他の人とデートなんだけど……と訴えていた。なんで邪魔するみたいによりによって今日、そんな行動をするのかと怒っていた。何か知っているのかと。引き止めたいのかと。何も知っているわけないのに。
「先輩、お友達、この駅なんですか?」
私は少し苛立ちつつ問いかけた。なんで一緒に降りたのか。まるで私を責めているみたいに。もちろん、先輩に私を責める権利はないけれど、だってそう思ったから。
「いや、――そうじゃ、なくて」
切なくて、真剣な顔。なぜかその表情を見て、私が泣きたくなった。どうして自分がそんなに情緒不安定になったのかわからない。
「私、帰りますね」
笑顔も作らず私は先輩に背を向けた。ものすごく悲しくて、切なくて、苦しくて……どうしてそんな気持ちなのかわからず混乱していた。
「待って、一つだけ答えて」
振り返ると荘内先輩は重々しい声で聞いた。
「――もしかしてもう、彼氏はいるの?」
この人はこれしか聞けないのかと、ものすごく腹が立った。つまり小川くんと私が学食で一緒にいるのを見たと、もしかしたらあれが学園祭で一緒にいた人だと聞いたと、そういうことだろう。
「いないって言ってるじゃないですか!」
どうしてそんな言い方をしたかわからない。私は投げつけるように答えると、勢いよく踵を返して改札を抜けた。どうして彼氏はいるのかと、そればかり聞くのか。だったらどうなのか。その先の話があるんじゃないのか。
その駅から出る私鉄に乗り込んで、私の気持ちはだんだん落ち着いてきた。明日の日曜はデートだ。荘内先輩は関係ない。小川くんとハッピーなデート。私は何を期待していたんだろう。追ってきた荘内先輩が、もしも私のことを好きだと言ったらどうするつもりだったんだろう。結局は断るしかないのに。
家に帰り着いて自分の部屋に入るとすごくホッとした。小川くんと電話で話したハッピーな気持ちがそこかしこに漂っている気がした。
そして図々しくも、二人同時に寄ってくるなんてひどいことだと思った。一人は高校時代にしてくれれば、高校時代に一人、大学で一人、彼氏ができたのにと。でもすぐに反省した。小川くんは高校の時からそこにいた。私が幼稚だっただけ。やっとたどり着けたのだから、ただただ彼に全力を尽くしたかった。