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第二部 二 不穏な気配

 大学の後期の授業が始まってから、サークルではなんだか不穏な気配が漂っている。あれこれ証拠を挙げていっても仕方がないから、総合して端的に表現すると、どうも男の先輩方が荘内先輩と私をくっつけようとしているように見える。飲み会の席を無理に隣にされたり、学園祭のオープニングライブチケットのサークル割当分(弱小サークルなので、二枚)がなぜか私と荘内先輩に渡されたり……とにかく、さりげなさを装ってはいるらしいのだが、結果的にあからさまだ。

 荘内先輩にも全然そんなつもりはないらしく、そんな声がかかるたびに目を丸くしたり困惑したりしている。

 ――先輩方、惜しい。それ、前期にやってほしかった。前期なら、私、荘内先輩でよかったのに。

 私は心の中でそう言って、荘内先輩に「他の先輩方、私が遅れてサークルに入ったから心配してくれてるんですねー」とか「荘内先輩に任せておけば安心、って思ってるんでしょうねー、人望ありますね」とか言っては無難に世間話をした。先輩も、言葉にはしないものの表情が「申し訳ない」と語っていた。

 荘内先輩は本当に優しい人で、親切な人。夏休み明けに出すサークルの会報誌には、何冊かの心理学の本をものすごく面白そうに紹介した文章を掲載していて、私は実際にそのうちの一冊を読んでみたけれど、先輩の紹介文のほうが何倍も面白かった。この人は、頭もいいんだな、と思った。由の判断基準はやっぱり正しい。この人にすればよかった。

 でも私の気持ちは小川くんにまっしぐらに向かっていた。まずは行動。用事があったら電話をしてもいいと言っていた。用事をつくろう。

 高校時代、東京ドームで野球を見た後に小川くんが帰っていった方向から、小川くんの家の場所はだいたいわかる。そして大学のクラスメイト、今日子の家は小川くんの家と比較的近いと言えなくもない。これを使うことにした。

 彼と今日子の最寄り駅の近くに、小さな雑貨屋さんが何軒か集まった「雑貨屋アーケード」という場所がある。ある日曜日、昼の三時に今日子と一緒にそこに行く約束をして、私は三時でなく「十三時」に駅に行った。そして十三時五分、小川くんに電話をかけた。彼に電話をかけることそのものが初めてで、ものすごくドキドキした。でも、ここを乗り越えなければ勝利はない。

「小川くん? 園田です、今ちょっと平気?」

「あれ、どうしたの? 休みの日に。大丈夫だよ、何?」

 初めて聞く電話の声。なんだかほのぼのしている。声もどことなくほんわりとオレンジ色な感じ。

 私は、小川くんの駅の近くに住む友人と遊ぶために「十三時」に待ち合わせたはずが、友人は「三時」つまり十五時のつもりでいて、駅前で二時間空いてしまったのだとまことしやかな嘘を言った。

「それでね、この駅の近所って言ったら小川くんがいたな……って思って、ダメもとで電話してみたの。時間あったら、そのへんでお茶でも飲まない? お茶代は出すから」

 本当はものすごく緊張していたんだけど、女って基本的に役者なんだなと思った。息継ぎを忘れていて、言い終わってから若干息が上がっていたけれど、その気配は上手く電波にのせずに済んだと思う。

「いいよ、行くよ。お茶代も自分で出すよ、大丈夫。十分だけ待って。十分後なら駅前まで行けるから」

 そう答えて小川くんは、駅前のわかりやすい場所を待ち合わせに指定して電話を切った。私は往来にもかかわらず「よっしゃ!」とつい声が出てしまった。

 初めの一歩、二人だけのお茶タイム。なんて気軽に、簡単に応じてくれるんだろう。このままとんとん拍子に進んでいってしまうんだろうか。運命ってそういうものだろうか。

 十月のさわやかな日差しと風を浴びて、小川くんは駅前に現れた。白地にオレンジ色と茶色のチェックが入った可愛いめのシャツを着て。白地のシャツが陽光に輝いて、なんだかまぶしいくらい。駅前の開けた空間が余計に世界を明るく感じさせる。

「どこ行こうか、このへんに気に入ったお店とかあった?」

「逆に、地元民として、お勧めのお店はある?」

「うーん、女の子がいいと思うかどうかはわからないけど、落ち着く店はあるよ。園田さんはコーヒー飲む人?」

「あ、うん、コーヒー、好きだよ」

「じゃあ、こっち」

 彼の後について彼の街を歩く。高校時代から、本当はもう青春は始まっていた。もう出会っていた。気分がどんどん高揚していく。

 彼が案内してくれたのは、店内にジャズのかかった、インテリアがモノトーン調と銀でかっこよくシンプルにまとめられたコーヒー専門店だった。こういうカッコいい感じのコーヒー店が好きなのは意外。小川くんはとにかく地味で可愛い。でもやっぱり、こういう店を気に入る感じは男の人らしいなと思う。

 窓際のテーブルに向かい合って座った。目が合って、ニコ、と彼が笑う。優しくて可愛い目。服もすごく似合っている。なんだかすごく格好よく見える。

 お店は日差しが入る明るい造りで、でも決して直射日光が照射してしんどい感じになる明るさではなくて、とても素敵だ。二人でコーヒーを注文した。私はブラックだが、彼は恐縮しながら店主らしき人に「砂糖をお願いします」と言った。砂糖だけは入れないと飲めないのだという。

 落ち着いて、改めて私は嘘を言った。

「ゴメンね、私と友達の連絡不行届きなのに、巻き込んじゃって」

「いや、いいよ、ボケッとネット見てただけだから」

「そうなの? でもよかった、二時間近くもどうしようかと思ったんだ。小川くんが、野球に出かけてたりしたら、ホントに退屈して過ごさなきゃなんなかった」

 野球の話を出したのは、上手くしたら、また一緒に行けるんじゃないかと思って。そういう方向に話を進めたいなと策を練っていたら、彼は苦笑した。

「……あ、俺、最近はあんまり、野球は見てないんだ」

「そうなの?」

 でも、服はオレンジ色だよ。関係ないのかもしれないけど……。

「なんか大人になったっていうか、野球界のいろんな裏事情とかをこの二、三年でけっこう見たり聞いたりして、ビミョーな気分になっちゃって。無邪気に応援だけしていられた頃が幸せだったなー」

 彼はそう言いながら窓の外に目をやった。一緒に野球に行ってから三年。私もいろんな経験をしたし、それは彼もそうなんだろう。

「そっかあ、なんだかまた、小川くんと野球を見に行ってみたかったな」

 じゃあ、まずはこうやって「一緒にお出かけしてみたかったな」というところだけは伝えておこう。そこからどうつなごう。別のどこに行こうと言えば不自然じゃないだろう。

「――そうなの? じゃあさ」

 彼はわずかに乗り出した。私はドッキリした。

「俺、今、見に行きたい映画あるんだけど、今度つきあってくれない?」

 まるっきり緊張感のない顔をして、小川くんは私にそう言った。おい、それデートのお誘いだぞ、と内心でツッコミを入れていた。彼には全然そんな気配はなくて、私はその点だけ不本意だった。でもその提案はもろ手を挙げて賛成に決まっていた。

「え、もちろん、私でよければいつでもつきあうよ」

 私も無邪気なふりをした。でも「映画に」じゃなくて「つきあってくれない?」だけだったらなおいいんだけど……と、胸に邪悪な欲望を抱えていた。

 それからずっと他愛もないことをしゃべっていた。彼は饒舌で、楽しそうに見えた。私は時間が過ぎていくごとに期待を感じた。そういえば一緒に夜道を歩いて帰ったときも、彼がけっこう楽しそうにずっとしゃべっていてくれたっけ。

 気がついたら十五時を五分回っていて、私たちはワリカンで慌てて勘定を済ませて駅前に戻った。今日子はもう来ていて、小川くんは私と一緒に来て今日子に謝ってくれた。

「すみません、待ち合わせのこと聞いてたのに、しゃべりすぎてしまって……逆にお待たせしちゃいました」

 今日子は単に十五時の待ち合わせだと思っていたので、何が「逆に」待たせた話なのかと若干戸惑ったようだったが、そこは女性同士、そこはかとない気配を察してうまく振る舞ってくれた。

「いえいえー、それはどうせこいつが悪いんでしょう、こいつに詫びてもらいます。でもいいんですか、コレ、引き取っちゃって……お話の途中だったんじゃ?」

 完全に私が「こいつ」「コレ」扱いだが、そこは仕方ない。私も今日子にすまなそうなまなざしを向けつつ、

「今日子との待ち合わせまで、時間をつぶさせてもらってただけだから……」

 と、小川くんに怪しまれないように嘘の仕上げをした。

 小川くんは帰っていき、私は今日子にいきさつを話した。

「へー、実花もやるようになったねー。それで私を無理やり呼び出したのか」

「雑貨屋アーケードは一度来てみたかったんだよー」

「そう? 今の彼がこの近所にいなかったら、来てないんじゃない?」

「へへ、多分ね」

 それからは本当に今日子と雑貨屋アーケードを見て回り、猫のグッズのお店でいささか散財した。でもそんなことよりも、小川くんが映画に誘ってくれたことがうれしかった。待ち合わせも決めた。来週の、土曜日。すぐだ。映画の上映期間が終わってしまうといけないから、来週のうちがいいと言われて即OKした。

 今週喫茶店デート、来週は映画デート。二度あることは三度ある。いや、起こす。映画の日は、私から次のデートのお誘いをしなければ。

 今日子には、別れ際に、

「あんた、さっきの男のことばっか考えすぎ。何回か私の話、スルーしてたよ」

 と叱られた。私は照れ笑いでごまかした。


 キャンパスで彼の姿を見かけることはなく、翌週、映画の待ち合わせで私は再び彼と顔を合わせた。白地に紺の細いストライプが入ったシャツに薄手のカーディガン。いつも何気ない格好なのにすごく彼に似合っている。私と彼の最寄り駅の真ん中にあるターミナル駅のロータリーは、いつも人だらけでゴミゴミしているけれど、男の子と二人の待ち合わせって世界が違って見える。快晴の空の下、彼の白っぽいシャツがひときわ明るい。

「ねえ、小川くんは、服って自分で選んでるの?」

 ズバリ聞いてみた。男の子は服なんてあまり気にしないか、気にしすぎて気持ち悪いかのどっちかで、こういうバランスのいい人をなかなか見かけない。大学で最初に会った日も、前回のコーヒーも、今回も、さりげなく程よくオシャレっぽい。

「あ……これ?」

 彼はなぜか決まり悪そうにしばらく左右に視線を迷わせた。そして白状した。

「大学生になったらもっとカッコよくしろとか言って、姉貴が勝手にコーディネートするんだよね……。クローゼットの中に勝手に組み合わせが作られてるから、俺はそれを端から順に着てるだけ。変かな」

 お姉さんのセンスがいいんだな。小川くんの雰囲気にすごく合っている。

「変なんてとんでもないよ、大学生になったら小川くんすごくオシャレになったんだなーって思ってた。高校の時も一回野球行った時、イイカンジの着こなしはしてたと思うけど、ふつうにイイくらいの感じだった。今はけっこうイイと思う」

 私はめいっぱい正しい感想を伝えようとしたが、表現はとてつもなく貧困になった。けれど、幸い小川くんはその気持ちを汲んでくれた。

「そっかー、ありがとう。俺、姉貴にお礼言っておくよ」

 ニコニコと、彼が笑う。恋愛最高。すごくうれしい。

 続けて彼はびっくりすることを言った。

「ねえ、映画、何見る?」

 私は驚きのあまり、すごい速さで彼を見上げた。

「見たい映画があるから、呼んでくれたんでしょう?」

「いや……なんか、改めて考えたら、けっこうハードな戦争ものだし……女の子と一緒に見るものでもないかなと思って。園田さんが見たいものを、一緒に見ようかな……って」

 それじゃ、今日の待ち合わせは何? 待ち合わせをこの日にしたのは、見たい映画が終わってしまうからという理由だったはず。言ったこと、いろいろ、辻褄が合わないよ?

 私が目をしばたたかせていると、小川くんはニコッと笑ってみせた。照れるでもなく、気後れするでもなく、ただ、ニコッと。よく、漫画でドキューンとかズギューンとか、ハートを打ち抜かれるような表現がなされるけれど、このときの私の気持ちはまさにそれだったと思う。

 夢見心地で映画館へ行き、一緒に映画を選び、ほどほどに恋愛要素の絡んだアクションコメディを選んだ。ハラハラして、笑って、ホロリとして、過不足ないチョイスだった。映画代は、誘ったんだから出すよと言ってくれたけれど、私は割り勘を主張した。

 それから二人でお茶を飲んで、映画の感想を話したり大学のことを話したりして、夕方には解散。帰り道の私の足取りには明らかに羽が生えていた。

 恋愛の気配は、小川くんからあまり感じなかった。でも「特定の映画に誘ったくせに、その映画を見なかった」というのはやっぱり変だと思った。そして変じゃなく恋だと思った。思いたかったし、自分自身でそう育てたいと思った。

 もちろん、ぬかりなく次への布石を打っておいた。今回は映画に誘ってもらったから、次は私が誘うねって。「あ、うん、いいよー」と気軽に答えてくれた彼の笑顔が眩しい。どこに行こう。本当は、野球なんて全然好きじゃないけど、東京ドームのあの輝くような広い空間に二人でもう一度うわっと飛び出してみたい。あの空間が開ける不思議な感覚は、私の高校時代最高の、なんだか特別な思い出だった。

 このまま何度かデートすることができたら、もう彼が野球を見に行っていないとしても、一緒に東京ドームに行きたいと言ってみよう。

 私はとにかく究極にハッピーな気分だった。きっといつか恋になれる、そう思ってベッドに入り、ふわっふわの気分で眠りについた。


 十月末近くなって、心理学研究会のサークル発表展示の準備も進み、学園祭が近づいてきた。私の手には一枚のチケットがあった。

 前夜祭ライブ。サークルの購入割当は二枚。一枚は私に、もう一枚は荘内先輩に渡ったチケット。行かないという選択もあるが、それだと荘内先輩に悪い気がする。上の先輩方がなんだか荘内先輩と私をくっつけたそうにしているこの状況から、「行かない」というのは荘内先輩を「NO」と言っているようにも見える。NOじゃない。もしかしたら、小川くんがいなかったらそれでもよかったのかもしれない。そのくらいにいい人だと思ってはいる。でも、今、断然小川くんがいいのであって、荘内先輩には気持ちが向いていない。それに、先輩も、私に恋愛感情を持っている気配はまるでない。

 まあ、先輩にその気がないのなら、逆にライブに行くだけ行ってもいいか……と思い直した。学園祭の前夜祭ライブなんて人生初だ。大学一年生なんだから当たり前だけど。

 学園祭準備の期間も終わり、いよいよ前夜祭当日。サークルの他の面々は夕方を過ぎると三々五々帰っていき、残り人数が少なくなってくると、なんだか微妙な空気が漂ってくる。けっこう恋愛に貪欲で、いつも発展家っぽく振る舞っている四年生の佐藤先輩が、私と荘内先輩に声をかけてきた。

「ライブ組は、もうそろそろ、講堂に行ったほうがいいんじゃない?」

 振り返ったら佐藤先輩は非常に嬉しそうにしていた。人の恋路なんてどうでもいいと思うんだけど……と心では言いつつ、私は大人な笑顔で返事をしてあげた。

「そうですねー、ありがとうございますー」

 男の先輩数人が荘内先輩を小突くのが見えた。あーあ、と私は思った。荘内先輩もさぞかし困っていることだろう。だからこそ、私が寛容になってあげなければ。

「荘内先輩、じゃあ、すみませんがご一緒しますね」

 笑顔笑顔。社交辞令の笑顔。荘内先輩はとてもいい人。好きになってもいいくらいにいい人。でも、私の特別な人じゃない。

「そうだね、行こうか」

 荘内先輩がひきつったような微妙な笑顔で私のところまで歩いてきた。先輩方の余計なお世話の対処、お疲れ様。

 二人で校舎を出たら、先輩が申し訳なさそうに言ってきた。

「あの……なんか、変なこと言う先輩とかいるけど、気にしなくていいからね」

 いえいえとあいまいな返事をしつつ、なんだか穏やかな温かいものを感じた。お兄さんのような人。穏やかに微笑んだような顔立ち。由、こういう、一歳しか違わないけどお兄さんみたいな人は好き?

 講堂の中では学生のスタッフが誘導や音響確認の準備をしていた。入学式の時も入った講堂なのになんだか雰囲気が違う。入学式の時は厳かだったのに、ライブの準備中の講堂は活気に溢れて華やかだった。これが大学かあ……と、もう半年以上大学生をやっているのに、改めて感じた。

 小川くんはそういえば、サークルに入っていたりはするんだろうか。この会場にいたりするだろうか。もしいたら、ここで私と荘内先輩が二人なのを見て、誤解したりはしないだろうか。さりげないふりを装って周囲を見回したけれど、幸い小川くんの姿はなかった。そういえば、彼はどんな音楽を聴くんだろう。まだまだ彼のことを何も知らない。これからどこまで仲良くなっていけるだろう。

 半分荘内先輩に気を遣いながら、半分は小川くんのことを考えて、過ごしているうちにライブが始まった。正直、歌はそこそこ上手いんだろうけれど興味の持てないアーティストで、私は先輩への気遣いのために手拍子を取ったり周囲に合わせて腕を振り上げたりした。楽しくなさそうに振る舞ったら申し訳ないから……。

 大音響で耳がワンワンする中、ライブが終わった。時刻は二十時になっていた。私はまるっきり、まっすぐ帰るつもりだった。もう学食も閉まっているし、食事をして帰るならファストフードとラーメン屋と飲み屋くらいしか選べない。

 私は「私、こっちなんで」と続けるつもりで口を開いた。私と荘内先輩は、大学から帰るときに使う最寄り駅が違う。

「あの……」

「あの……」

 でも、荘内先輩も同時に同じことを言った。

 慌てて二人で口を閉じた。相手は先輩なので私は遠慮し、先輩が再び口を開いた。

「晩ごはん、食べてないよね。……食べて帰らない? 嫌なら、いいけど」

 私と先輩の思っていたことは逆だった。その時のいつになく真面目な先輩の瞳に、一瞬不可解な気がしたことは否めない。私は自分の中にわずかに生じた自惚れた疑いを打ち消そうと、余裕の笑顔を作って答えた。

「――あ、いいですよ。学園祭の時期は、晩ごはん要らないって親にも言ってあるし」

 先輩はホッとしたようだった。

「どこ行く?」

「先輩にお任せします」

 高校時代、男性と二人で歩いたり過ごしたりしたのなんて、野球の後に小川くんと二駅歩いた時、外山さんとの遠足ドライブの帰りの車の中、あとは忌まわしき外山さんの策略にひっかかった時くらいだ。なのに、大学生になったら小川くんを呼び出して二人でお茶を飲んだり、映画を見てお茶を飲んだりして、今度は荘内先輩と二人でライブと食事だ。一年経たずにこんなにたくさん、やっぱり大学生は違う。

 荘内先輩と二人できょろきょろしながら繁華街を歩いたが、どうも決まりそうになかったので、私は、

「いつものチェーン店でいいですよ」

 と言ってあげた。いつもの、というのはサークルでいつも行く店だ。

「いや、それは……他に誰か、いるとアレだから……」

 先輩はそう言って若干無理やりイタリアン系の飲み屋に私を連れて入った。他に誰かいたら合流すればいいのに、と思ったが私は素直に従った。

 店に入って注文を済ませると、微妙な無言の空間が広がった。ここしばらくはサークルの飲み会のたびに隣に座って(というより上の先輩たちに隣り合わせにされて)他愛ない話をしていたので会話はし慣れているはずなのに、奇妙な雰囲気だった。

「ライブ、どうでした?」

 私は沈黙を打破すべく先輩に無難な話題を振った。先輩は、

「――あ、いや……そうだね、うん、まあまあだった」

 と答えた。私と同じでそんなによかったとも思っていないんだなと察した。

「まあ、誰かがあの券を使わないといけなかったから、行ってよかったことにしておきましょう」

 私がそれを言い終わるとまた会話が途切れた。しばらくはガマンしていたが、なかなかこの独特の気まずさは重い。また私が口を開いてしまった。

「今日は無口なんですね」

 面倒見のいい、優しい人。毒にも薬にもならない無難で穏やかな人。眉の辺りは少し凛々しい。ほんのりと笑っているような目元と口元。そのまなざしが私に向かい、また下りる。おいおい、と脳内でツッコミを入れた。この状況はなんか、出来上がってる感じがする。まさか先輩、周囲に言われてその気になっちゃったなんてことはないよね。

「すみません、私、あんまり話題が豊富な人じゃないんで、たくさんしゃべらなくても気にしないでくださいね」

 そんな微妙な空気の中にお酒と料理が運ばれてきた。なんとなく理由もないけど乾杯して、ぽろぽろと会話をしながら漫然と飲んだり食べたりした。会話が途切れ途切れなので余計なことを考える時間はたくさんあった。私は小川くんと荘内先輩を比較していた。もし荘内先輩が私に対して恋愛感情的ものを持つようになっていたらどうしよう。小川くんとは、次に私が何かに誘って一緒に出かけようという会話が成立している。高校の時から大好きだった。やっぱり小川くんだよな、と比較的すぐに結論は出た。

 結局、ひたすら不穏だったり不自然だったりするだけで、荘内先輩が何を告げてくるでもなく食事は終わった。一時間半経たずに店を出た。

「楽しくなかったよね、ゴメン」

 別れ際、荘内先輩がしょんぼりした様子で言った。その肩を落としたシルエットがなんだか可愛かった。本当に、この人は、いい人。

「そんなことないですよ」

 私は笑顔で社交辞令を言った。だいたいデートじゃないんだし、上の先輩たちに押し付けられたんだから、荘内先輩が私を楽しくさせないといけない道理はないよ。

「遅いから、そっちの駅まで送るよ」

 先輩が遠慮がちに言った言葉に私は驚いた。正直、荘内先輩に「女の子を駅まで送る」という男性らしい気遣いができるとは思っていなかった。いかにも女性慣れしていなそうな、恋愛で言うと野暮ったい人だから。お兄さんとしての面倒見はいいけれど、女性を女性扱いするのは普段から決して上手くはない。

 大学近くの繁華街はどちらかというと先輩の最寄り駅近くに広がっていて、私の最寄り駅は少し外れにあった。少しだけ暗い道もある。人通りが途絶えるエリアではないけれど、一人で歩くより男性のナイト役がついてくれるほうが安心だし嬉しい。荘内先輩は「先輩である自分が仕切るべき」「男性は女性を守らなければならない」という建前が守れる人なんだなと思った。

 自分でそんなことを思っていて苦笑した。私はどうやら荘内先輩に多大な信頼を置いているらしい。でもきっと多分みんなそうで、そしてだからこそ、なぜか彼を恋愛対象に感じていない。真面目な、いい人。「いい人よね」で終わる、いい人。

「それであの……先輩方が変な態度とかしてる件だけど……」

 いい加減、会話が少ないことにも慣れてきて、ボケッとしていたら急に微妙な話題が投げかけられて私は顔を上げた。荘内先輩はモジモジしていた。多分、こういう様子を「モジモジしている」と言うのだろうという態度をしていた。

 危機感というか、何かが進行している気配を感じるセンサーがピンと立った。恋愛経験にものすごく乏しい私でも「これは、イカン」と思った。

「俺は全然迷惑じゃないけど、園田さんには申し訳ないなと思ってて、その、全然俺が頼んでるとかじゃなくて先輩方が勝手にやってるだけで、やめるようには頼んでるんだけど、園田さんに不愉快な思いはさせたくないけど、その……」

 女子一同にそれなりに(本命でなくとも)評価されているこの人が、私に好意を持ってくれているとしたら光栄だし、私もまんざらでもない。真面目な人だし、優しい人だし、思いやりのある、いい彼氏になってくれそうだ。

 でも残念だけど私には小川くんが……。本当に惜しいけれど、もう絶対に彼と恋愛したいから、ゴメン先輩。……でも、断らないでうまいこと「考えさせてください」とか言っておいて、小川くんにアタックしてもしもダメだったら……なんて、卑怯だよね。

 私が心の中でドバーッといろんなことを猛スピードで考えているのと対照的に、先輩はあのーとか、えっとーとか、歯切れの悪いよくわからないことを繰り返し、結局最後に彼が私に言えたのは、

「これだけ、聞いてもよかったら……あの、園田さんは、彼氏はいるのかな?」

 というところまでだった。しかし残念ながらというかなんというか、気持ちは痛いほど伝わってきてしまった。こういう、恋愛に免疫のなさそうな人って、きっとあんなふうに煽られたら私のことを意識してしまうものなのだろう。そこは同情するし、もちろん私のことを元々「悪くはない」くらいに思っていてはくれたのかもしれない。

 先輩の気持ちは嬉しかったが、私は小川くんにターゲットを固めていた。先輩の気持ちへの回答はNO。でも、実際に問われた質問の答えはこれが正解だった。

「残念ながら、彼氏は、いませんねー」

 重くなりすぎないように軽い世間話の調子で答えた。もう駅が目の前だったので、私はこれ幸いと話をそらした。

「もう駅です、送っていただいて、ありがとうございましたー。明日から、学祭、頑張りましょうね!」

 先輩はホッとしたようだった。ここでホッとするのはどうなんだろう、こんなチャンスは畳みかけてもいいんじゃないの……なんて心の中で思いつつ、正直悪い気はしなかった。荘内先輩は重圧から解き放たれたような満面の笑みで手を振って自分の駅のほうへと戻っていった。「それじゃ、彼女なんてできないよ」と思いつつ、かつて由の言っていた「狙い目」で「必ずいい人。必ず優しい人」で「絶対誠実」な人はまさにこれだろうなと思った。

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