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第一部 五 初恋卒業

 翌日、お昼過ぎに天体観測から帰ってきた由は、すぐに私を見舞いに来てくれた。とはいえ私は具合が悪かったわけではないので、普通に私の部屋でお茶にした。

「なんで外山さんのこと振っちゃったの?」と訊かれて私は驚いた。彼は一体、由に何を吹き込んだんだか。ルナさんのおかげで私はだいぶ回復していた。

「残念だけど、あの人、あまりいい人じゃなかったみたい」

「え? なんで? 僕は好きだったのにって悲しい顔してたよ」

 そうか、そうなんだ。あの状況は、好きだからハグしただけだよとか、抱きしめちゃったとか、そういう風に言い逃れをするものなんだ。私があのまま逃げられなくて、どうにかなっちゃったとしても、「好きだから」って言うんだろう。

『高校生は、高校生のところにいたほうがいいよ』

 ルナさんが最初に言っていたこと、今はすごくよくわかる。ルナさんがいて本当によかった。もし、あの場では外山さんから上手く逃げられたとしても、その後で「ゴメン、君のこと好きで、可愛くて」と上手く言いくるめられたら、「この人はそんなに私のことが好きなんだな」と思って、結局は騙されてしまうのかもしれない。

 誰にも知られたくないと思っていたけれど、私は由が外山さんを疑っていないことが怖くて、結局正直に言うことにした。

「由、……あのね、私ね、……毛布取りに行こうって部室に連れて行かれて、……襲われかけた」

 由の表情が凍った。あの時の私の様子が尋常でないことは見て感じていただろう。健康優良児の私が夜風に当たったくらいであんなに震えるほど体調を崩して帰るはずなんかないと、実感として理解したんだと思う。

「ルナさんが、元々、外山さんのこと怪しいと思ってて……いないの気がついて、見に来てくれたから助かったの。多分外山さんそういうこと何度もやってるって。周りの人もそれはうすうす知ってるんだって。でも、大学生の男の人で、そういうふうに、女の子をどんどん狙っていく人もいるんだって。みんなも、犯罪っていう認識じゃなくて、次々女を食う奴なんだなとか、そういう話になるだけなんだって」

 そして私は由に、もう二度とサークルに行かないことを告げ、原田先生に迷惑をかけたくないから高校の部活が忙しくなったと言ってほしいと言った。由はサークルに誘った責任を感じて必死すぎるほど必死に謝ってくれた。

「由は、行きたかったら行きなよ。でも先生のところ離れないでね」

「……ううん、私も、怖いから……背伸びするのは、やめるよ……」

 由が帰った後、入れ違いに、私が体調を崩したことについて原田先生から私の両親にお詫びの電話があった。最後に母が電話を代わってくれたので、「実はこれから受験のクラス分けの勉強で忙しくなりそうだけど、時間が取れそうならまた行きます」と嘘をついた。純粋に星が好きでぼけっとした、あの善良そうな先生には何も言えなかった。

 長い夏休み、週に一度クッキング同好会に出て、時々由と遊んで、大量に出された各教科の宿題をやって、日々は過ぎていった。時々、外山さんに腰の横、つまりお尻の外側を撫でられた感触を思い出してぞっとすることがあった。あのまま助けが入らなかったらと考えてしまって恐怖に囚われることもあった。他の人が外山さんに何かをされた様子が思い浮かんで必死で思考を遮断することもあった。そんな時に私を救ってくれたのは、なぜか小川くんのイメージだった。

 待ち合わせの笑顔、熱心にユニフォームの前ボタンを留めていた横顔、夜道を並んで歩いた時の優しい声。高校生は高校生のところにいたほうがいい、それが実感をもって感じられた。小川くんは嘘をついて私を暗がりに連れて行ったりはしない。暗い表通りを二駅もただ優しく歩いてくれる人。「女に興味ない、変な奴」って馬場くんに言われてしまうような人。安心できる。

 やっぱり小川くんを好きになろうかと、悩んでいるうちに夏休みは終わり、新学期になった。


 クラスに小川くんの姿を見るととてもホッとした。中学までは幼馴染にしがみついた幼児のままで、惨めな私。大学に飛び入りしたら食い物にされかけて情けない私。高校は安心できる。この場所で一番好きな人は多分小川くん。恋をしたい。

 私は由にも誰にも言わずに小川くんを眺め、会話ができるチャンスを窺い、涼しい顔をして過ごしつつも心の中はかなりガツガツしていた。時々会話ができると嬉しかった。可愛いまなざしが私を見てくれると幸せだった。きっと恋だと思おうとした。そう思えることも時々あった。

 でも――やっぱり、私は小川くんに恋をしてはいなかった。多分、大好きなのに。

 秋が過ぎてすっかり寒くなり、そろそろ年末の声も聞こえはじめた頃、ある出来事をきっかけに私の心の中で小川くんにははっきりケリがついた。

 その日、部活を終えて帰宅した私が玄関を開けると、見慣れない背の高い人の後ろ姿があった。誰だろう、と思った途端にその人が振り向いた。

「……さとしく、……」

 急速に口の中が乾いて最後まで言えなかった。立っていたのは懐かしい思い出の人。大好きだった幼馴染。山口 慧士さとしくん。……外山さんのフルネームを聞いたとき、必要以上にドキドキしたのは「さとし」という名前が一緒だったから。ずっとずっと忘れたいと思っていたけれど、全然忘れるなんてできていなかった片想いの相手。すごく背が伸びた。だから背後からじゃ誰だかわからなかった。

 私が動揺しているのを見て、慧士くんは決まり悪そうな顔をした。そこに母が現れた。

「実花ちゃん帰ってきたの。慧士くんね、お母さんの届け物に来てくれたのよ。久しぶりでしょう、二人とも。慧士くん、あがっていらっしゃいよ。たまには実花とも話をしてあげて……」

「お母さん」

 私は慌てて母を止めた。これ以上慧士くんを困らせたくない。もうあんな迷惑そうな顔は見たくない。

「いやあの、ほんとに、届け物だけなんで……」

 慧士くんは目を伏せた。

「あら……そう? じゃあ、これ、代わりに届けてね」

 母は慧士くんに何かの包みを差し出した。慧士くんは会釈だけしてさっと受け取り、私はさっとドアの前を開け、彼はそのまま外に出る――はずが、思いついたように私を見た。

「……ちょっとだけ……」

 目を伏せて慧士くんは言った。私は心の中がめちゃくちゃで、動転しきっていて、ただまばたきを繰り返していた。

「その角まで、俺のこと送ってくれない」

 必死で息を殺して私はうなずいた。母はその変な空気を感じる気配もなく、

「まあ、男の子ってなんだか難しいのねー。お母さんによろしくねー」

 とニコニコ笑顔で手を振った。

「――ああ、お母さん、ちょっと出て戻ってくるね」

 私はそう言って母に笑顔を向けた。いざとなったら強いんだなと自分に感心した。私はもう失恋し終わっているし、慧士くんが一体なぜそんなふうに言ったのかわからない。それでも、さっと出ていった彼の背中を追って私は玄関を出た。

 これから彼が私に何を言うのかまるっきりわからない。もう別世界の人、もう知らない人。遠い……と思った。背の高さの分、余計に遠いと感じた。

 彼に対してどの位置に立ったらいいかわからない。歩いていくのか、いかないのか、中途半端にゆっくり足を運ぶ彼にためらいがちに近づいた。

「……園田」

 息が止まるような彼の声。昔は「実花ちゃん」だったのにいつしか「園田」になった呼び名。私はずっと「慧士くん」と呼んできたのに。

 名前を呼ばれたんだから返事をしたかった。でも私はそれすらもできる精神状態ではなかった。

「前、――ひどいこと、言いすぎた、と思って」

 私の顔を見ずに慧士くんは言った。私は呆然と立ったままだった。

『幼馴染がどうこう、っていう漫画とかドラマとかに影響されすぎじゃないの』

 昔の彼の声が再生される。思い出したくなくて記憶の奥底に沈めていた声が。

『親が仲いいってだけで、別に俺たち自身、仲がいいわけじゃないし』

 小学校までは仲がよかったのに。中学では確かに縁は切れていたけれど……。

 慧士くんはすっかり声変わりした低い声で、静かに言った。

「子供の頃、親しくしてくれて、ありがとう。おまえと子供の頃遊んだの、すごく楽しかった。なのに全部否定するみたいなこと言ったの、……ゴメン」

 頭痛じゃないけど頭がガンガンした。自分の感情がよくわからない突沸をしている。でもそれを自分で認識できない。ひとごとみたいに「どうにかなってるぞ」と思った。

「多分もうおまえとは、こういうふうに親の用事で顔を合わせるくらいのことしかないと思う。でも子供の頃楽しかったなって、それはずっと思ってるから」

 彼はやっと私の顔を、私の瞳を見た。その瞬間、自分の体からじゅっと泡が立つような気がした。きっと人魚姫はこんなふうに海に還ったんだと、そんなファンタジックなことを考えた。「うん」と、答えてあげたかったのに唇が震えた。

「あの、……おまえの気持ちは嬉しかった。ありがとう。俺の答え、それで終わりでゴメン。これから俺たち、お互いに、人生、がんばろうな」

 そう言って慧士くんは手を差し出した。導かれるように自然に私も手を出した。唇の自由はきかなかったけれど、どうしても答えたくて、なんとか声帯を震わせた。

「私、大丈夫だから……今日、そう言ってもらえたから、ずっと大丈夫」

 優しい握手をして、ほんの数秒でぬくもりは離れた。私は自分を泣かせないことに必死だった。やっぱりあなたを好きになってよかったと、あなたに出会えてよかったと、心の中で何度も繰り返した。想いがかなわなくてもいい、ただ慧士くんがこれからの人生、幸せであってほしいと願った。

「ありがとう、じゃあね」

 最後は笑顔でそう言って、彼は私に背を向けた。私は「恋がかなった」と思っていた。好きな人からの「ありがとう」――それだけで恋は報われる。気持ちが返ってこなかったとしても。体が泡に変わっていくような感覚は続いている。その泡に全身が溶けてしまいそう。

 彼の背中を見送って、自分の腕を両側から抱いた。彼を好きになった過去はずっと心に守っていく。でも――やっと今、終わった。私の中から私が出ていって、新しい自分になれた気がした。

 部屋に戻り、一人になって、今聞いた慧士くんの声をずっとずっと反芻していた。もう他には何も要らなかった。慧士くんとの恋の可能性も、他の人との恋の可能性も。

 小川くんは好きな人じゃなかった。

 すごく大好きだったけど、「二番目に好き」でしかなかった。

 私は、小川くんも、別の新しい恋を探すこともあきらめて、新しく増えた幼馴染との思い出を胸にひたすら受験勉強に邁進した。三年生になると小川くんの顔を見ることもほとんどなくなって気持ちは落ち着いた。

 結局、私はまるっきり彼氏ができないまま高校を卒業した。

 それでも幼馴染の「ありがとう」を思い出せば私はいくらでも幸せになれた。

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