第一部 四 恐怖の夜
大学サークルの遠足に付いていったのは土曜日で、日曜一日おいて、月曜にクラスで顔を合わせた途端、私は由に「お昼は中庭に行こう」と言った。中庭は校舎が平行に二つ並んでいる間に挟まった、つるバラのアーチで飾られた空間。ベンチがいくつか置いてあって、女子のナイショ話の場になっている。ベンチは競争率が高いけれど、さいわい私と由の教室は場所取りに比較的有利な位置にあった。
見事ベンチを勝ち取って、由に外山さんを好きになったと言ったら、「好きになったっていうか、もう出来上がっちゃってる感じだよね」と言われた。私はさらに舞い上がった。
「いいな、大学生の彼氏かあ。私が出会いを探しに行ったのに、ソノミーに先を越されるとは」
そんなふうに言いつつも、由はまるで悔しそうではなくて不思議だった。なんとなく気になったことがあったから、私は遠慮なく聞いてみた。
「由、見た感じ、由はあんまりサークルの男の人と関わってないけど……ホントに彼氏探そうと思ってる?」
由はわずかにギョッとした顔をした。私は「もしかして、やっぱり?」と思って、もっとはっきり聞いてみた。
「ねえ由、もしそうでも、私は変わらず由の友達だから、気にしないでホントのこと答えて。あのね、由ってサークルの女性にばっかり話しかけてたから、ちょっと思ったんだけど……もしかして、由って、年上の彼女を探しに大学のサークルに……とか?」
私は緊張して由の答えを待った。由はしばらくボケッとして、それから奇妙な苦笑を浮かべた。あ、違ったのか、とホッとした。
「ああ……私が女目当てなのかと思ったんだ。そういう趣味はないよ。あったらソノミーは面白かっただろうけど」
「だってサークルの男の人に全然近寄っていかないから」
「女性全体と軽く仲良くすれば、男の評価はだいたいわかるよ。いい男の見つけ方は知ってる。ああいう女性たちが、誰一人嫌ってないのに、『いい人よねー』って言うだけで恋愛対象に入れてない人が狙い目。皆にいい人と思われてるのは必ずいい人。必ず優しい人。恋愛対象になってないのは女に色目を使わないから。そういう人は絶対誠実。だけどあのサークルのメンバーには、残念ながらそういう人はいなかった」
あ、……でも、いるよ、そういう人。私って目ざとい。
「でも一人いるよね、そういう人」
「え?」
「原田先生」
私が大発見をしたかのように勝ち誇って言うと、由はなんとも言えない奇妙な味わいの笑顔を浮かべた。どうやらバカにされているらしい。
「原田先生は奥さんがいるからでしょ」
えっ、そうなんだ。実は……原田先生、独身かと思ってた。なんか浮世ばなれしてるって言うか、家庭を持ってる落ち着きとかどっしり感みたいなものがなくて。特に星を見てたりすると、大学生たちに完全に交ざっちゃってるし。
「ソノミーは恋愛のワザとか、誰がいいとかよくないとか、考えてなかったのがむしろよかったのかもねー。どうしようかなー、あのサークル。原田先生の他には、大学関係の知り合いっていないんだよなー」
今度は立場が逆転した。私は由に「お願い」のポーズを取って必死になって訴えた。
「由、外山さんと個人的に連絡とれるように頑張るから、あと二回か三回かくらいあのサークルに一緒に行ってー。原田先生に、呼んでほしいってお願いしてー」
「しょうがないよね、自分の時はソノミーに頼み込んだクセに、ソノミーのお願いは聞かないってわけに、いかないでしょ」
由は私への協力を了承してくれた。
六月には高校の「創立記念日」があった。実際の創立の三月末から四月の頭あたりだと慌ただしいし、五月は連休だ春の遠足だといろいろあるから、ウチの学校の創立記念日は六月になっている。六月は祝日もないから、ちょうどいいんだそうだ。
平日が学校休みになるので由は原田先生に「キャンパス訪問」の約束を取り付けてくれた。最初に天体観測に行って「幽霊団地みたい」と思った郊外のキャンパスだ。原田先生や天文学サークルの人の多くは理学部地学科という珍しい学科の所属で、理学部はここがメインキャンパスなのだそうだ。
理学部はそもそも男の人が多いらしく、天文学サークルに女性がけっこういたのは他学部や他大学やこの大学の短大のほうからも参加しているからだという。ここは、飲み会や旅行ばかりやっている看板倒れなサークルとは違い、本当にちゃんと天体観測をするので、名門まで言うと言いすぎだけれど、けっこう評判のいいサークルらしかった。だからよそからも人が来るし、私や由みたいな校外の人が来てもそれなりに受け入れてくれたし、かといってやっぱり大学生ならまだしも高校生は普通来ないので戸惑いもあったらしい。
原田先生が校内を十五分くらい歩いて案内していろんな話をしてくれて、それから先生は講義があったので今度は助手の人(助教というらしい)に学生食堂や購買部につれていってもらった。それから原田先生の研究室に戻ったら外山さんがいた。
「二人が来てるって聞いたから、講義ブッチして、こっち来ちゃった」
外山さんが優しい笑顔で言った。隣で由が小さい声で「二人、じゃなくてソノミーがでしょ」と言ったので私は焦って由のわき腹を小突いた。
それから外山さんが原田先生の研究や地学科のゼミについて話してくれた。外山さんは三年生、今年から原田ゼミにも所属しているそうだ。と、わかったようなことを言うが、実は「ゼミ」というのがよくわからない。普通の授業と何がどう違うんだろう……。
講義を終えた原田先生が研究室に戻ってきて、それからしばらく四人で話をして、その日はそれで解散した。残念ながら外山さんと親しくなれる余地はなかったが、別れ際に私を見てくれているのがわかった。錯覚でも思い上がりでもなく、まっすぐ私を見ていた。
由は「外山さん、ソノミー目当てなの間違いないよね」と言っていた。私はその別れ際の視線以外でそういう自覚はできなかったが、由にしてみれば「私は眼中にないんだな」と感じる場面がちょくちょくあったそうだ。
私の気分は最高潮に達した。由はお世辞を言うタイプではない。時間の経過とともに「でも、私の勘違いかも……」と半信半疑になってきていたが、これで気持ちは一気に高揚して、後は時間の問題だと思うことができた。
次は七月最終週にまた観測会があるそうだ。最初の時と同じように、郊外のキャンパスに一泊して天体観測をするらしい。原田先生に挨拶を済ませているおかげで、両親は簡単に参加をOKしてくれた。ただしくれぐれもお酒を飲んだり不純異性交遊をしたりしないようにと厳しく言われた。不純異性交遊という言葉に私は大笑いした。純粋な異性交遊をする気は大いにあるが、不純という言葉は私にはふさわしくない。高校生になるまでまともな恋愛をしてこなかった恋愛オンチでお子様な私に、不純異性交遊だなんて。子猫に国際問題を語るくらいおかしい。
高校二年、もうすぐ夏休み。でもまずは一学期の試験をクリアしてから。夏休みが終わればひと月も経たずに学園祭があるので、馬場くんと由はもうその準備に入っていた。馬場くんは由のことをどう思っているのか、ただ、委員会の場にそうしたことを持ち込むことはないらしく、由も積極的に、精力的に、楽しそうに頑張っていた。
その一方で私は小川くんを、なんとも言えない懐かしい思いで見つめることがあった。一年生の秋に野球を見に行ったのがとても昔のことのようだ。あの、暗い階段を上った先に開ける巨大な空間。広大な空間のすべてがキラキラ輝いていた。野球は結局よくわからなかったけれど、あの場所に集う五万人(確かそんな数だったはず)がたった一つの白球を目で追い、ホームベースに人が駆け込んだかどうかで大騒ぎする異文化社会。
今の私は半分大学にいる。「大学のサークル」という、「高校の部活」とは全然違う世界。クッキング同好会も休まず出ているし、図書委員もちゃんと務めている。でもなんだか実感が薄い。高校時代の思い出として浮かぶのはなぜかあの東京ドームの景色だ。高校生らしい恋愛沙汰のわずかな思い出ということなのかもしれない。小川くんと二駅、夜の道を歩いて帰ったのは楽しかった。結局は恋に育たなかった瑣末なドキドキの記憶。
大学のサークルの今後の予定は、七月に観測会、九月に夏合宿があって、十月末から十一月頭は大学の学園祭。恋はいつ、どこまで育つだろう。不安なのは今、この瞬間に外山さんのそばに誰か別の人が現れて、先を越されてしまうこと。早く会いたい。毎日の高校での日々が希薄で、ただただ退屈だった。
待ち焦がれた七月下旬の観測会に、私はめいっぱいのオシャレをして出かけていった。由みたいに綺麗な脚じゃないけど、スカートはちょっと短めにした。足下もぽてっとしたサンダルで、編み上げの紐がすごく可愛い。そんなに痩せているわけじゃないのに若干寂しいボリュームの胸元にはアクセントのフリル。ほんとに目一杯、限界まで頑張った。
由は膝下までのジーパンで、民族衣装風のバサッとしたトップスが可愛い。首にぐるぐるっと巻いた羽の付いたチョーカーがかっこよくて、本当にこの子はセンスがいいんだなと思う。しかもチョーカーは手作りだそうだ。
今回は、所在なさそうに私が立っていると、ルナさんが私を呼んでくれた。夕暮れの光がわずかに残る中で宵の明星が輝いていた。外山さんと話をしたかったが、恋愛一辺倒ではこのサークルから浮いてしまうし、絶対に後でチャンスを作るつもりで夜浅いうちはルナさんやサナエさんと星を見ていた。
それから何気なく由のところへ行って話をして、先生のところにも行って、次にさりげなく外山さんに声をかけた。穏やかで心地よいドキドキ感。集合した時にさりげなく交わした視線で安心できた。お互いに気持ちは変わっていないという確認のような視線。
もう片想いではない不思議な気持ちの高揚を感じた。それは想像していたよりずっと落ち着いていて、安らかなものだった。本当の恋はこうして始まるんだと思った。
「久しぶりだね」
優しい声が暗闇の中で聞こえる。六月にも会ったから、そんなに久しぶりでもないのかもしれない。でも私はずっと会いたかったからすごく久しぶりだったし、きっと同じように思っていてくれたんだろう。
「いい星は、見えますか?」
「天体観測の日は、それなりの『天体ショー』の日に合わせて設定されてるんだよ。何の星と何の星が接近するとか、流星群とか。星に興味がなければ星と星が接近したなんて面白くもないだろうけど、俺たちはそういうのを見ながら、もちろんそれだけじゃなくていろんな星を見たりしてるわけ」
私は外山さんにごく自然にいざなわれて天体望遠鏡を覗いた。でも、私には「なんだか星が見える」というだけで、どこが見所なのかはわからなかった。
「まだ二年生じゃ、大学受験の勉強は始まらないよね」
「いえ、三年生からは授業が選択制になるから、夏休みが明けたらもうオリエンテーションと進学指導が始まります」
「え、選択制って……」
「一、二年の間に高校の三年分の授業がほとんど終わるんです。三年生の一年間は、受験対策で、自分の受験に有効な科目を選んで授業を受けます。二年生の後半で半年考えて三年生で受講する科目を決めるから、もうすぐ進路を検討する時期になります」
「すごいね、エリート校なの?」
「いえ、全然そういうのじゃなくて、スポーツも陸上とか柔道とかけっこう強豪なんですよ。自由で楽しい、普通の高校です」
何気なく会話が途切れた。そのまま口を開かなくても居心地よくいられた。弾けるような幸福感。きっと外山さんも同じものを感じてくれている。
「……寒くない?」
私を優しく思いやる声が聞こえた。暗くて表情は見えない。
「あ、大丈夫です」
私はすぐに答えたが、外山さんはさらに言った。
「でも、こういう気候のときって、自分で思ってる以上に冷えてたりするよ。今日はけっこう脚も出してるでしょ。膝にかけるものとか、ある?」
「いえ、……あの、でも、大丈夫ですから」
「夜に長く外にいるの慣れてないでしょ。そこは、大人の言うことを聞くもんだよ」
からかうように言うと外山さんはやや身を低くしたまま立ち上がった。
「前の時にも使った、毛布取ってくるよ。ちょっと待ってて」
月明かりの中で外山さんのぬくもりが私の横をすり抜けていき、わずかに止まって、振り返る気配があって、それからぬくもりが少し近づいた。
「――それとも、一緒に行こうか」
その声には甘い響きと、わずかな緊張感のようなものが含まれていた。私は反射的に、ついていくべきだと判断した。もしかしたら、付き合おうと……私のことが好きだと、言ってくれるかもしれない。
私は月明かりを頼って外山さんの後を追い、屋上への出入り口のドアを抜けた。ドアを閉めたら真っ暗で、外山さんは携帯電話の画面の明かりで足下を照らした。
「大丈夫?」
手が差し出される。夢のような気持ちでその手に手をのせた。温かくて大きな手が私の手を包む。間違いなく、この人は私と恋を始めてくれるんだと感じた。
手を引いてもらって階段を下り、校舎の奥の連絡通路を歩いた。また月明かりで足下はいくらか見えるようになったのに、手が放される気配はなかった。確かこの通路の向こうが部室棟で、この天文サークルは大学公認団体として一室を与えられている。夜の逃避行。ずっと、心地よいドキドキが止まらない。
「また、暗くなるけど」
外山さんはそう言って部室棟のドアを開けた。真っ暗な中をまた携帯電話が照らす。ドアがずらっと並んでいて、古い建物独特の気配が不気味。でも外山さんと一緒だと思うと怖くなかった。
三つめのドアを開けて中に入ると、外山さんがすぐ右を照らしていた。押入れのような用具入れスペースがあって、そこに防寒具がいろいろ置かれていた。誰のともわからない厚手のジャンパーコートや何本ものマフラーが壁にかけられていて、おなかの高さにある上の段に毛布が何枚も積んであった。
入ってすぐのところに大きな机があって、外山さんは私を呼び入れるのにその奥に入ってしまったから、押入れには私の方が近かった。
「あ、私が取りますよ」
そう言って毛布のところへ行き、何枚取ろうか迷った――その時、部屋が真っ暗になった。外山さんが携帯電話を閉じたらしい。それをポケットに入れる気配とともに、彼が近づいてくる気配がする。私は真っ暗な中、押入れのほうを向いたままじっとしていた。
「園田さん」
優しくて甘い声。
「――実花ちゃん」
もっと甘い声。嬉しい。やっぱり外山さんも私のことを想ってくれていた。呼び名が変わる……それはきっと、もう、今日、今、ここから恋が始まるんだろう。
「キミは、本当に、可愛いよ……」
背中から抱きしめられた。こんなの、人生で初めて。男の人の温もりを背中全体で感じる。吐息を耳元で感じても全然嫌じゃない。むしろこれが恋の成就なんだと胸が熱くなる。外山さんが少し震えているのを感じた。大学三年生の男の人でも、想いを告白するときは緊張するんだろう。
「ホントに可愛い……もう、俺、どうしたらいいか、わからない……」
私を抱きしめる腕がギュッと強くなる。この人、私のこと、本当に大好きなんだと心から感じた。手のひらが何度も私の肩や二の腕を力強く撫でた。好きな人に好きになってもらうのって、こんなに幸せなんだ……。
私は抱きしめられ、抱き返されながら外山さんの吐息を感じていた。その手が勢い余って胸元のすれすれを撫でても気にしなかった。でも片手がどこかに行ったとき、ふと不安を感じた。
右のふとももにひやっとした空気を感じた。え、と思った。多分スカートが上がってる。
「可愛いよ……」
抱きしめる片腕が私を揺らして、少し前のめりに体重をかけてきた。私は混乱していた。大好きな人が、私を抱きしめて、好きだよと――言ってくれる、はず?
つるっと、右のお尻の外側が撫でられた。つるっと、つまり、直接だったし、その手のひらに連れられて下着が右側から下げられた。頭に冷水がざばっとかけられたみたいに冷静になって、反射的に思いっきり下着を上げた。その手を外山さんにつかまれた。すごい力で毛布の上に右手を押し付けられて、今度は外山さんの左手が容赦なく左から下着を下げた。それを上げ直す前に左手がつかまって、毛布に押し付けられた。
「キミのこと、可愛くて、どうしようもないんだよ……」
さっきまで怖くなかった吐息がとてつもなく怖い。乗っかってくる外山さんの体が重い。窒息しそう。重くて声が出せない。苦しい――
その時突然、ドアが乱暴に開く音が響いた。乗っていた外山さんがどいて、私は何より先に下着を上げた。
「外山だろ。てめえ、そこで何やってんだよ」
ガラの悪いヤンキーみたいな女性の声が響いた。ルナさんだ。でもルナさんは、確かに派手だけど、こんな下品なしゃべり方をするイメージじゃない。
「……毛布、取りに来たんだよ。彼女が可愛いから、ちょっとハグしちゃったけど、すぐ戻るよ」
外山さんは平静を装ってそう答えたけれど、声が上ずって震えていた。でも……ハグしちゃった、って何? 私は二回も下着を下げられた。ハグじゃない。
「実花ちゃん、帰ろう」
外山さんの奇妙に震える声が私を呼ぶ。私は立ち尽くしていた。どうしたらいいかわからない。
「園田さん、電気つけるよ、大丈夫ね」
ルナさんはわざわざそう言ってから電気をつけた。私は振り返ったが、ドアのところにいるルナさんのほうを向いて、押入れの前でただ棒立ちになっていた。ひたすらぼうっとしていただけで、さっきまでここで何があったかなんてまるっきり誰にもわからないくらい呆けていた。
「あんたは戻りなさいよ、一人でね!」
ルナさんは外山さんには徹底的に攻撃的な口調だった。外山さんはルナさんを無視するように私に声をかけた。
「……実花ちゃん、戻ろうよ」
外山さんは蛍光灯を背にしていてやや影になっているけれど、私に優しい笑顔を向けているのはわかる。でも変な声の震えが止まっていない。ただひたすら怖かった。
「園田さん、私と戻ろう、いいよね」
ルナさんに言われて私はうなずいた。
「わかったらとっとと失せろ、クズ」
吐き捨てるように言われて外山さんは渋々ドアに向かい、それからルナさんに斜めに顔を向けて、
「てめえが食われた仕返しかよ。なんもしてねえよ、バカ」
と、初めて聞く薄汚い怖い声で言い捨てていった。
ルナさんは廊下に乗り出して外山さんが去っていくのをじっと見送り、部室棟のドアが閉まる音がしてから私のそばに来てくれた。
「騙されたらダメだよ、素直な高校生なんて、慣れてるバカ男にかかったらひとたまりもないんだから」
……そうか、私、騙されたんだ。
「大丈夫だった? なんかされた後だったりしない? されちゃってたら、すぐに対処したら妊娠防ぐ方法もあるし、正直にちゃんと言ったほうがいいよ。私は誰にも言わないから。それよりあなたの体のほうが大事だから」
妊娠? 私、妊娠するようなことされちゃった?
「大丈夫? 私、来るの遅かった? 二人ともいなくなったの、いつだかわかんなかったし……ゴメン、あいつはやめとけって、最初に忠告してあげればよかったね」
ルナさんは私の顔を覗き込んでじっと待ってくれた。だんだん落ち着いてきて、そしたら今度は私のほうに震えが来てしまった。
「可哀想に、とりあえず、ここ座ってね。いい、何されたか、言ってね。誰にも言わないから大丈夫だよ。今恥ずかしいとか、知られたくないとか、思って黙ってたら後が怖いよ。私にだけ、信じて、何されたか言って」
「あの……」
それだけ言ったら突然泣けてきた。ぶるぶる震えながら、私は必死で声を絞り出した。
「パンツ下ろされました。すぐ上げたけどまた下ろされました。でもそしたらルナさん来てくれて。慌ててパンツは上げました。それだけでした」
後から思い返すと小学生みたいな説明。でもその時の私にはそれがめいっぱいだった。
「よかった。間に合ったはず、とは思ったんだけど……すっごい怖かった。ほんと、よかった……」
ルナさんは心の底から安心したようにため息をついて、私の隣に座った。
「妊娠とか、大丈夫ですよね」
私は呆然としながら聞いていた。
「えっ、下着下ろされただけ……じゃ、ないの?」
「それだけです。それだけだから大丈夫ですよね」
「大丈夫だよ。大丈夫。落ち着いてね」
そう言ってルナさんはもう一回、私が何をされたかをしっかり聞き取って、大丈夫だよと念を押してくれた。私は、自分の記憶が飛んでいるだけで、本当は何かされた後なんじゃないかという不安にかられた。でもルナさんは、「大人の女として、いろんな観点から」私を大丈夫だと再三言ってくれた。事前と事後ははっきりわかるよと。
警察に行くこともできるとルナさんは言った。ぞっとした。結果から言うと下着を下ろされただけだから、忘れたい。そしてもう二度と外山さんに会わないで生きていきたい。このサークルにも絶対に来ない。人生から今夜のことを切り離したい。
「車で送るから、今夜、もう帰ろう。気分が悪くなったことにしようか?」
「はい」
脚が震えて上手く歩けなかったけど、長く屋上を留守にして何かの騒ぎになったら嫌だと思って必死でルナさんと戻った。由をどうするかと聞かれたが、今夜、由の身にも何かあるとは思えないから、心配をかけたくなくて一人で帰ると答えた。
屋上に出ると、ルナさんは「ここにいて」と言ってまずは原田先生のところに行って何か話をしてから、外山さんのところに行った。私は震え上がったけれど、ルナさんは私の荷物を取ってきただけだった。外山さんは元の天体望遠鏡のところに戻っていた。何事もなかったように見えた。その時、この人はこういう常習犯なんだとはっきりわかった。
もしかしたらあのまま何かされても、その後で「好きだから」と囁かれたら騙され続けてしまうのかもしれない。あの時のことすべてに現実感がなかった。さっき「怖くて記憶が飛んだんじゃないか」と思ったように、もしかしたら、本当に何かされた後でも、ショックでやっぱり記憶があいまいになるものなのかもしれない。
ルナさんが戻ってきてくれた。
「先生に、体冷やして具合悪くなっちゃったからって言ってきた。それと荷物が外山のとこにあったから、財布には手を出してないだろうなって凄んで持ってきた。もし何かなくなってたりしたら遠慮しないでちゃんと言うんだよ」
ルナさんはそう言って私に荷物を渡すと、私の背後に回って、校舎に下りる階段の電気をつけた。ちゃんと電気がつくようになってたんだ。そういえば前の時も、みんなで電気をつけてここを下りたっけ。すっかり忘れていた。だから、外山さんが電気をつけずに私の手を取ったところから、もうお芝居は始まっていたんだ。二人で出ていったのを誰にも気付かれないためにも、そうしたのかもしれない。ルナさんは気付いてくれたけど。
由が慌てて飛んできた。本当は由の顔を見たくなかったけれど、心配をかけないように笑顔を作った。
「由、ごめん、ルナさんに送ってもらう。せっかく来たんだから由は楽しんでいって。でも先生のところ離れたらダメだよ。先生と一緒にいてね」
私の声はまだ震えていた。由はそれを具合が悪いせいだと取ったようだった。
「ごめんねソノミー、私も一緒に帰るよ」
「ううん、由の邪魔しちゃったら嫌だから」
私と由の押し問答にルナさんが決着をつけた。
「木崎さん、園田さんはあなたに心配かけるのが嫌で、具合悪くても帰らないって言い張ってたんだよ。あなたが一緒に帰るって言ったらこの子帰らないよ。家であったかくして、ちゃんと寝てもらいたかったら、私に任せてこの子一人で帰してあげて」
ルナさんが言ったのはウソばっかりだけど、事情を知らない由と一緒にいるのが今はつらい私の気持ちをわかってくれたんだと思う。ルナさんは大人だと思った。
「ごめん由、ルナさんと帰る」
「……わかった。ほんとゴメンね。明日メールするね」
「うん、今夜はすぐ寝ちゃうから」
四階分の階段をよろよろと下りて、駐車場まで歩いて、私はルナさんの車に乗り込んだ。やっとホッとして深いため息が出た。ルナさんは黙ってゆっくりと車を発進させた。カーナビに住所を打ち込んで道順を出してもらった。カーナビがあってよかった。私はここから家までの道案内なんてまるっきりできない。
「すみません、ルナさん」
「気にしないで。一人、守れてよかった。多分急にサークルやめて来なくなった子の何人かは、被害者だったと思うから」
「外山さんがそういう人だって、みんな知ってるんですか?」
「うん、うすうすと、ね。でも大学生の男ではああいう奴、時々いるから、そんなに皆も難しく考えてない。犯罪者とかじゃなくて、次々女食ってく奴くらいにしか思われてないと思う。あいつ上手いんだよ、来なくなっても皆が気にしないような子を狙うし、相手が騙されきっちゃうとひと月くらいは表向き付き合ったりするし。あと、このサークルの欠点というか、……メンバーに階級みたいなのがあって、外山は一番上だから」
「階級?」
「そう。ここの四大の理学部地学科が一番上。次が理学部の他学科。次が四大他学部。その下にここの短大で、一番下が他の大学。園田さんたちはそれ以外だから、もっと下かな。でも先生の紹介だからもうちょっと上にはなるのかな」
「……見てて、そういうの、わかりませんけど……」
「普段はいいの。問題があったときに、『だったら、ヤメたら?』って言われるのは中心から遠い人。外山は理学部地学科だし、今はしかも原田ゼミだから、絶対に『嫌ならヤメろ』とは言われない立場。短大の子とか他大学の子は、『じゃあ出ていけよ』って言われたら、居づらくなるでしょう。居候みたいなものだから。わざわざよそから来てるほうが絶対に弱いの。――私も今は理学部の三年だけど、短大からの編入だったからね……」
ルナさんはそこで言葉を切ってずっと黙っていた。私はルナさんの心の中をなぜか感じ取ることができた。外山さんの捨て台詞は「てめえが食われた仕返しかよ」だった。ルナさんは私に最初から「食われないようにね」と釘を刺していた。つまりルナさんはこの展開をわかっていた――知っていた。やるせない気配が車中に広がる。
「私は……四大に編入したくて、原田先生の推薦状をもらいたかったからサークルやめるわけにもいかなかったし、騒ぎ立てるのも嫌だったし。ちくしょうとは思ったけど、初めてでもないからいっか……って無理やりあきらめた。でも園田さんは初めてでしょ?」
「はい」
戸惑いもなく答えた自分に驚いた。私は片想いも上手くできない子供だし、由とも、他のどんな友達とも、「初めて」だとかなんだとか、そんな方面の会話をしたことすらなかったのに、ルナさんの話には正しく返答できた。
「大事にしてね。子供だからまだわかってないかもしれないけど、変な男にくれてやるもんじゃないから。それはあなたの誇りであり、宝物だから」
私は一応うなずいたけれど、この時にルナさんが言ったことを決して正しくわかってはいなかった。それは「性犯罪に遭わないでね」程度のことだと思っていた。でもずっと後になって正しい意味がわかった。
高校生の女の子なんて子供だ。自分の体の本当の価値なんてまるっきりわかってない。女性としての誇りも何も育っていない。この日、外山さんにどんなにひどいことをされそうになったのか、私も正しくはわかっていなかった。「とてつもなく怖い未知のこと」を強要されたと怯えていたけれど、「怒り」を感じることは決してなかった。侵害されることに対して正当な「怒り」を感じる能力が、未熟な女の子たちにはまだない。
ルナさんが言ったのは、どんな状況下であっても、自分の未熟さから男に体を与えてはいけないという意味だった。売春もそう、認識の甘いロストバージンもそう。
よく援助交際(つまり売春)をする女子高生に「体を売るほうも悪い」と世間が言うのを耳にする。そうじゃない。買ったほうの大人はすべてをわかっている。でも女子高生たちは(あるいは女子中学生なんてもっと)、なんにもわかっていないんだ。この日の私が、ただ「怖い」「もう外山さんに顔を合わせたくない」くらいにしか思えなかったのと同じ。自分という女性の体が誰にも侵害させてはならない神聖なもので、欲望の手が伸びてきたら正しい怒りを以て排除しなければならないことを、まるでわかっていない。
体を侵害される悲劇に気づかない女の子たちの幼さは、まるで、死を理解しない子供が「死んだら生き返ったらいいんじゃない、なんで死んだらいけないの」と言っているようなもの。自らの失ったものの価値を、失った後で知るのは不幸なことだ。あるいは無駄に失ってしまったせいで誇りも自覚も持てないまま、自分の体を無価値だと思って生きるのだって不幸だ。
「どうする? 先生に言って、外山を罰してもらう?」
「……他にも同じような人を出さないためには、……そのほうがいいんだと思いますけど、……嫌なんです。どうしても、由にも、誰にも、こんなこと、知られるのは……」
「そうなんだよね、女ってツラいよね。知られたくないんだよね。ああいう奴は、それをわかっててやってるから悔しい」
都心に戻ってきた。まだまだ車もたくさん走っている。時計を見たらまだ二十二時だった。多分もう、家までそんなに遠くない。
「ルナさん、ありがとうございました。なんか、……なんてお礼を言ったらいいんだろう。ルナさんいなかったら、私……」
改めてぞっとした。きっとひとたまりもなかった。そして、その結果を上手く自覚できなければ外山さんの思うつぼだし、自覚できたら――正しく自分の身に起こった悲劇を理解できたら、死を選んでいたかもしれない。
「ううん、かっこいいこと言っちゃうと、あなたを守れて過去の私も救われたから。もう短大からの編入もしっかり済んだし、女の意地で残ってたようなものだから……やめることにするよ。あのサークル」
ルナさんの身に起こった現実を感じさせるその言葉は重かった。そしてふと思った。私は何の苦労もなく平和に生きているけど、一方で、由みたいに家族に恵まれない人もいるし、ルナさんみたいに傷ついている人もいる。外からはそれは見えない。最初、ルナさんを無駄に派手な人みたいに思ったけれど、本当はこんなに優しい人だった。逆に外山さんは優しそうに見えてひどい人だった。私は大人にならなきゃいけない。人を見る目を育てなきゃいけない。
幼馴染の彼は、もう私が好きだった子供の頃の彼じゃない。時間が流れていることをちゃんと感じ取らなければいけない。自分はもう体を狙われることがある年頃だし、人の裏側を見る力も養わなきゃいけない。そして由みたいに事情があっても明るく強くありたいし、ルナさんみたいに傷ついても優しくありたい。
この、帰りの車の中は、異次元トンネルのように不思議な空間だった。悪夢の世界から私を平凡で平和な日常に帰してくれる不思議な道。暗い道を照らすライトが寂しさを誘う。
「今日でお別れだね。もう、園田さんもサークルには行かないでしょ? そこ曲がったら、家はすぐだよ」
思いがけない方向から近づいていたから気付かなかったけど、もう自宅のすぐそばまで来ていた。
「ルナさん……」
名前、本当の名前を聞いたら失礼だろうか。戸惑っていたら、信号で止まった途端ルナさんはハンドバッグから何か小さい紙を出した。
「何かあったらいつでも連絡して。明日でもいいし、十年後でもいいから」
それはキャラクターの模様のついたプライベート名刺だった。携帯電話の番号とアドレス、それと……中央に大きく、名前。
「月城奈留」
私は振ってあったローマ字を見ながら声に出して読んだ。
「名字が月でしょ。名前がナルでしょ。上から読んでも、下から読んでも、月。名前を逆に読んで、ルナだよ」
信号が青に変わった。私は大切に名刺をしまった。
「あの、メールで、私の番号とアドレスを送ります。もしもブロックされちゃったら、電話します」
ルナさんはニッコリ笑ってアクセルを踏み込んだ。とても素敵な横顔だった。