第一部 二 天体観測
結局馬場くんは由にあっさりふられ、由は私に「さっさと帰るなんて、薄情だ」と怒っていた。でも、誰かの告白が終わるのを近場でじっと待ってるなんて悪趣味だよ。「私がOKしないのはわかるはずでしょ」と半分八つ当たりする由の様子を私は面白がった。
「――で、そっちはどうだったの?」
由は私にそう聞いた。一瞬、私が小川くんを好きっぽいことがバレたかと焦ったが、由の興味深そうな視線で誤解に気がついた。
「こっちはそういう話じゃ全然なかったよ。馬場くんが由に話があったから、わざとはぐれてゴメンねって謝られた」
「えっ! そうなの。だって普通、二対二で、二手に分かれたら……」
「私は由とは違うよ。残念ながら」
小川くんを好きになりたいって宣言しようか迷った。でも多分「幼馴染の人はどうするの?」って、ズバリ厳しい追及を受けるだけだから言うのはやめた。
由はこの事件が何かのきっかけになったのか、それからなぜか十一月下旬に大学の学園祭を調べていくつか回ろうと言いだした。「受験の時に役に立つよ」と言われたが、まだ高校一年生だから興味ない……と、思ったけれど、由はもう私と行くことを決めていた。
「どうして、急に」
私が訊くと、由は堂々と答えた。
「出会いを求めて」
そういうのは面倒くさい。私は逆に、大学生の男の人なんて興味ない。クラスメイトとか、同い年くらいの男の子のほうがずっといい。
「由に出会いがあっても、私は出会いは要らないよ。出会うところは一人でやってね」
私は由に釘を刺した。由は、
「あんたは幼馴染をうじうじ思ってなさい」
と言って得意満面に笑ってみせた。
馬場くんと由は微妙に気まずい感じになってしまったけれど、私と小川くんは少し親しくなれた。でも、「今日から私、この人を好きになる!」と言って、単純に気持ちが切り替えられるわけじゃない。何度も「いいかも」「やっぱりいいな」と思いながらも、時々幼馴染のことを思い出してはセンチメンタルになったりして、私の日々は過ぎていった。
由と私は、大学の学園祭には行ったものの、出会いなんてなかなかなく、結局空振りに終わった。「学園祭はダメだ」と由は拳を握った。大学生のお兄さんを彼氏にするため、これからも頑張るつもりなのだろう。
私が「馬場くんもいい人じゃない?」と言ったら、「私は同い年だと物足りない」と由は言った。それをそこまで断言するのにはそれなりにわけがあった。
由の家庭には複雑な事情がある。由がまだ三歳の頃、お父さんとお兄さん(当時六歳、小学一年生)が事故に遭った。工事現場のクレーンが強風で倒れて、それが直撃した建物から落ちてきたコンクリート片に当たって車がハンドルを取られ、大型車と衝突したという大事故だった。お兄さんが亡くなり、お父さんは脊髄損傷で働けなくなった。事故の内容が内容だけに賠償金と補償金が出て、生活の目処は立った。それに、元々お母さんの家は裕福なほうだった。
お母さんは五年間、働きながら育児とお父さんの介護を続けたけれど、次第に疲れて心身に不調をきたしはじめてしまった。お父さんもお母さんに迷惑をかけ続けることを苦痛に感じていて、結局由の両親は離婚した。お母さんは、お父さんの面倒をみきれなかった自分を責めた。数年後、施設に入っていた由のお父さんは肺炎で亡くなった。由はまだ十二歳だった。
由は金銭的に不自由はない。だからこうして私立の高校にも通えている。でもお母さんは今もお父さんを死なせたと自分を責めている。お父さんはもういない。お兄さんの記憶はなく、写真でしか知らない。
「お兄ちゃんが死なずにいたら、全然違ったかもしれない」と由は思っている。お父さんの体が動かなくなっても、誰一人死んでいなければきっとなんとかなっただろうと。お母さんは、決して口にはしなかったけれど、お父さんに「なぜ、息子を守ろうとしてくれなかったのか」という思いを抱いていた。事実としては、突然落ちてきたコンクリ片に助手席側の前輪が乗り上げて右折の向きに弾き飛ばされたため、お兄さんの乗っていた助手席側から反対車線に出たことはどうしようもなかったという話だ。でも両親を最終的に遠ざけていったのは兄の死だと由は思っている。次第にすれ違っていく家族の中で、ずっと「お兄ちゃんさえいたら」と思って苦しんできたそうだ。
由が「お兄さんのような人」を求めるのはそのせいだ。自分でそう言っていた。
一方の私は、父が公務員で母が在宅のデザイナー、きょうだいのいない核家族。母は社交的な人で、いわゆるママ友も多い。私の初恋の幼馴染のお母さんとも、近所の何かのイベントで知り合い、時々母子四人で遊んでいて、子供たちを入れる幼稚園も一緒にしたそうだ。私としては有難迷惑なことに、母はいまだに彼のお母さんと仲が良くて、時々会話に彼の近況が出てきてしまう。母は、私が今もなお彼を好きなことなんてもちろん知らない。幼少期に初恋の真似事をしていたのは知っているが。
父は影の薄い物静かな人だけど、一人娘の私のことは大好きなようで、よく無駄にオシャレな高級菓子を買ってきてくれて、その都度母に小言を言われている。
平凡で幸福な家庭環境を、由に対して申し訳ないように思うこともある。由がしゃきっとしっかりしていて、私がぼけっとトロくさいのは、そんな違いもあるんだろう。由は子供時代にたくさん傷ついていて、私より大人だし、どこかドライなところもある。同い年の男の子を「子供だから話にならない」と言うのも、傲慢とは思えない。私から見ても男子は幾分私たち女子より精神年齢が低くて、私はそれでかまわないけれど、由はきっと、もっと――甘えたいんだろう。お兄さんやお父さんにそうするはずだったように。
クリスマスやバレンタインといった恋愛の気運が盛り上がる時期が過ぎても、私と由に恋は訪れなかった。バレンタインデー、私は本当は小川くんにあげようか迷ったけれど、二年生まではクラスが一緒だからとやめておいた。失恋したらやっぱり気まずい。馬場くんが目の前で実際にその悲劇を演じてみせてくれたことで私は臆病になった。
小川くんのことが好きかと――言われると、微妙だった。言ってみれば、消去法。誰かに恋をしたいから、選ぶなら小川くん。でも私は知っていた。本当に人を好きになる情熱の深さを、胸の痛みを。小川くんに対してそういうものは感じなかった。ほんわりと温かく優しい気配を感じても、それは恋ではなかった。
毎日クラスで姿を見かける。楽しい。会話ができると気持ちはすごく高揚する。でもそれがすべてであり、それ以外には何もない。小川くんを想って泣くことを私は想像できなかった。そしてこの期に及んでもなお、幼馴染のことを想えばいつでも泣けた。
春休み、由は私を天体観測に誘った。私は天体観測に興味も何もなかったから、翌朝にまで及ぶというそのイベントへの参加に難色を示した。だが由は引かなかった。
「えーっ、お願い、うちのママるんが、一人だったら行かせないって言ってるの。他に女の子が一緒に行くならいいって。ソノミー、お願い」
由はお母さんのことを「ママるん」と呼んでいる。こうして傍から見ていると、由もまるっきり幸せに育って、まったく苦労を知らない子みたいに明るい。
「なんでよりによって天体観測なの。お昼に遊びに行くイベントがたくさんあるじゃない」
私が乗り気でない返事をすると、由は「お願い」のポーズをとった。
「あのね、うちのお父さんの昔の親友で、時々心配してうちの様子を見に来てくれる人がいるんだけど、その人が大学教授で、サークルの顧問やってるの。他の大学からも、その先生のサークルに入る人がいるんだって。だから、きっと私たちも参加させてくれるよ。天体観測に興味があるフリをして、大学のサークルに行こう。ソノミー、お願い、私に出会いを!」
やれやれだ。由は「今回行って、すぐに女の友達を作って一人でも行けるようにするから、一回だけ」と必死で粘った。私もそんなに頑固なわけじゃないので、仕方なく付き合ってあげることにした。
双方の親に心配をかけないように、私はその夜、父の車で由の家まで行き、お母さんに挨拶をしてから由を拾って、父の運転で集合場所に行った。そして由に引率者の先生を紹介してもらい、父は「娘たちをよろしくお願いします」と挨拶をして帰っていった。
引率者であり顧問の原田先生が、サークルの人たちに私と由を紹介してくれた。微妙に歓迎していなそうな漫然とした拍手が気にはなったが、私は一回きりのつもりだったし、由はもともと原田先生と知り合いだから気負いはないようだった。
その大学は、由に連れられて学園祭に行ったところだったけれど、学園祭の会場だった本キャンパスと違って、天体サークルの本拠地は郊外のセカンドキャンパスのほうだった。けっこう田舎にあって夜になるとかなり暗い。古いその大学の建物は幽霊団地みたいに感じられた。もう三月も終わりだが、夜の屋外ということで、私はセーターを二重に着込んで一番厚手のダウンのコートを着ていた。由もかなりモコモコだった。
私は黙々と大学生たちの後をついて歩き、その近くでは由が原田先生と一生懸命しゃべっている。原田先生はもう五十歳近いおじさんだった。優しそうだがパッとしない感じ。失礼ながら、この大学のサークルの女性たちが先生を異性とは見ていないのがよくわかる。
屋上に天体望遠鏡をセットしたら天体観測会らしくなってきた。由は私に代わる女友達を作ろうと行動を開始したらしく、あちこちで女性ばかりを捕まえては望遠鏡についての質問をしていた。皆、大学生だから、年が上だ。中には派手っぽい人もいるけれど、深夜の天体観測に厚化粧は必要ないと思うな。原田先生は、単に顧問というだけじゃなくて本当に天体観測が好きらしく、望遠鏡をセットした途端一人の世界に入ってしまった。どうやら周囲の人たちもその光景にすっかり慣れているようだった。
「――ねえキミ、高校生なんだよね」
ボケッと座って周囲を眺めていたら突然声をかけられた。天体観測のために明かりは必要最小限だから、「なんか男の人」というくらいにしか姿が見えない。その「なんか男の人」は私の隣に腰を下ろした。
「今日はなんか、あの、お邪魔させてもらってます」
私はとりあえずお辞儀をした。その前にあなたはどこの何さんですか。
「キミ、全然星に興味なさそうだよね」
謎の男はそのまま名乗ることなく会話を始めた。今日だけのことだからと、名前は聞かなくていいことにした。
「すみません、友人の付き添いです」
しかも、友人も天体に興味はないんです……というこの失礼な状態。由、やっぱり興味のない団体にむやみに潜り込むのはやめようよ。
「高校何年生?」
「一年です、でももう四月から二年ですけど」
「そっか、じゃあ受験対策ってわけでもないんだね、それとも、もう一人の子は受験?」
「いえ、学年一緒です。彼女のほうは、原田先生のサークルに興味をもったみたいで……」
興味を持ったのは星じゃなくてサークルにだけど。本当に申し訳ない。そして、この人は何者なのかがやっぱりわからない。顔も見えないし名乗ってもくれない。
「でもお連れさんは、星じゃなくて、望遠鏡に興味があるみたいだね。それと、人のほうかな。望遠鏡の中は全然覗こうとしてないじゃない」
当たり。由は人目当てで歩き回ってるから、星を見る気がまるでない。時々望遠鏡を指さしたりしてるのは、多分、話のとっかかりにすぎない。この隣に座った謎の男はなかなか鋭い人らしい。
「星、興味ない?」
暗闇での会話は続く。
「……実は、あんまり」
「そうか、残念だな。でも、初心者の子は、天体望遠鏡を覗くよりも空を直接見たほうがいいと思うよ。――部室から、毛布持ってきてあげようか。シートの上に毛布を敷いて、横になって空を見ると綺麗だよ」
「あ、おかまいなく……」
「いいよ、取ってきてあげるよ。ちょっと待ってて」
謎の男はその場を離れ、どうやら校舎の中に下りていったようだ。あの、おかまいなく。
ほどなく彼は帰ってきて、天体望遠鏡が並ぶエリアから少し外れたところにレジャーシートを敷いて私を呼んだ。ここまでさせて「興味ない」とは言えないから、恐縮しつつ寄っていった。
「毛布、一枚は敷いて、一枚は上にかけるといいよ。でもこのコンクリ冷たいから、下から寒さを感じたら二枚下に敷くのがいいのかもしれない」
親切な人。でも面倒くさい。天体興味ないんだけどな。そしてどこの誰さんだろう。
言われたように横になって、毛布をかけたらあったかかった。厚着はしてきたけど、やっぱり寒かったみたい……。
そのまま謎の男は横になっている私のすぐそばで、星の説明を始めた。
「そうだな……オリオン座はわかる?」
「わかります。というより、オリオン座しかわからないです」
「オリオン座から、北斗七星の探し方ってわかる? それか北極星の探し方」
「いや……なんか、学校で習った気もするんですけど……」
そんな感じでしばらく話していたはずが、なんと私は途中で眠ってしまったらしい。三時間ほどで天体観測タイムは終了して、大学の研修棟の和室に移ってみんなで寝ましょうという声がかかった時、私が寝ていて大爆笑になったそうだ。由が起こしてくれて、謎の男と思しき影がまた毛布とレジャーシートを片付けてくれて、私は大学生の人たちに必死で謝りながら校舎の階段を下りた。
謎の男にも折を見て感謝とお詫びを言おうと思っていたら、その人は部室に毛布などを片付けに行ったらしく、一度目を離してしまったからわからなくなった。顔も名前も知らないからお礼が言えない。申し訳ない気分のまま、暖房の入った和室で大学生の人たちと雑魚寝して、翌朝始発の路線バスに乗り込んだ。原田先生を含め何人かはキャンパスに残った。
駅で解散する時に、一人の人が声をかけてきた。
「風邪引かなかった? 大丈夫?」
よかった、多分これが昨夜の人だ。
「いえ、あの、昨夜はありがとうございました」
違う人だったらおかしいけれど、本人を相手にして言い損ねるよりいいと思って、とにかくお礼を言った。幸い、どうやら昨夜の人だった。
「俺の星の説明、よく眠れたみたいでよかったよ」
「親切にしていただいたのに……ほんとにすみません」
必死でお辞儀をして、顔を上げたら、優しい笑顔があった。雰囲気が幼馴染にちょっと似ている。やや面長で、目が奥二重で、唇は薄め。髪型は朝だからちょっと寝崩れていたけれど、普段は綺麗に整えていそうだ。
「名前、なんだっけ」
昨夜の人は聞いてきた。
「園田実花です」
私はそう答え、めいっぱい「あなたも名乗ってください」という念を送った。
「そうか、――星、興味ないんだったら、もう来ないのかな。でももう一度くらい来てよ。天体観測のときじゃなくて、遊園地とかに遠足に行ったりもするサークルだから」
やっぱり名前は名乗らないのか……と、ちょっと上目遣いになった瞬間、昨夜の人はもう一度口を開いた。
「また会えるの楽しみにしてるよ。俺は外山聡、トヤマの字は外の山。忘れないでね」
トヤマ、サトシ。
心のドアがわずかに音を立てた。
「あの、ほんとに、お世話になりました」
そう言っておじぎをすると、私は慌てて由のところへ走っていった。
その数日後、私は馬場くんからお呼び出しを受けた。用事は簡単に推測がつくので、私はいぶかることもなく気軽な調子で待ち合わせに向かった。お昼をおごるからと、土曜日午前十一時半に私と馬場くんの最寄り駅の間にあるターミナル駅集合。
駅のそばにある喫茶店で向かい合うと、馬場くんは単刀直入に本題に入った。
「木崎さんは、どうしても、俺じゃ無理なのかな?」
十一月の告白から四か月と少し。馬場くんは由をあきらめきれないらしい。予想通りの話だったので可笑しかった。馬場くんは真剣なのでもちろん笑わずにおいたけれど。
「うーん、私は由本人じゃないから、なんとも言えないな……」
「彼女、好きな人はいるの?」
「いないみたいだけど、年上の人が好きなんだよ。同い年の人は、子供っぽくてなんだか気持ちが動かないんだって」
そんな感じでしばらく不毛なやりとりが続いて、馬場くんは最後にこう聞いた。
「待ってもダメなのかな。いつか、ある日、何かをきっかけにとか……。俺、二年の学園祭委員で気まずいの嫌だから、あきらめたいとは思ってるんだけど、他の男にかっさらわれたらホントに耐えられない。絶対ダメならあきらめるけど、ほんのちょっとでも可能性があるんだったら……」
うーん、私、由じゃないから答えられないよ。それに、由が年上を好きなことには理由があるわけだけど、彼女の生い立ちに関しては私がぺらぺらしゃべることじゃない。悩んだ後、私はこう答えた。
「由ね、大学生と付き合いたいみたい。今、彼氏探しに、大学のサークルに交ざらせてもらったりしてるよ。多分――ほんとに、由は、年上の人がいいんだと思う」
だから馬場くんは無理だと思う。ゴメンね。
由が他で彼氏を探しているという事実にショックを受けたのか、馬場くんは大きなため息をついて、しばらく黙っていた。
私は馬場くんの向こうに小川くんを見ていた。大学の天体サークルに、次回、行くか行かないか……すごく悩む。外山さんという、毛布を持ってきてくれた人にまた会おうと言われた。でも社交辞令かもしれない。小川くんを好きになりたい。でもなんだろう、外山さんという人がちょっと気にかかる。
「同じ学校から、木崎さんの彼氏になる人が出ないんだったら――それはそれで、つらくないのかもね」
馬場くんはどうやら自己完結したようだ。よかった。
私も質問したいことがある。馬場くんは小川くんのことをどれだけ知っているだろう。こんな機会はまたとない。小川くんのことを聞きたい。でも、私が小川くんに興味を持っていることは知られたくない。それに、……好きになるかどうかわからない。
それから、由のことをしばし忘れて無駄話をしていた。私はずっと、小川くんについてどうしようかと悩んでいた。好きになりたいけれど、気持ちは盛り上がらない。絶対にこの人がいいという確証が持てない。
「秋の野球、どうだった? 木崎さんはそれなりに楽しかったって言ってくれたけど、園田さんがどうだったかは、そういえば、聞いてなかったんだよね」
馬場くんは無難なのか危険なのかわからない話題を振ってきた。小川くんにつなげようか、どうしようか。
「あ、すっごいよかった。野球はよくわかんなかったし、試合が楽しかったかって聞かれると微妙なんだけどね、東京ドームがすごいなーって、巨大な世界がスポッと入ってる感じがよかった」
あの日、東京ドームの客席に、通路を抜けて出た瞬間の記憶が広がる。隣に立った小川くんの気配に恋を感じた。あと一年、同じクラス。これから好きになるのかもしれない。あの瞬間が錯覚でないのなら。
やっぱりこの機会は活かしたい。今しかない。
「馬場くん、ところで小川くんには彼女っているの?」
私は何でもない話のように言った。本当は、けっこうマジリサーチなんだけど。
「……え? 小川? ……なんで? いないけど……」
そこまで答えた馬場くんは、なぜか、突如表情を引きつらせて慌てて続けた。
「あいつね、女に興味ないって、誰かと付き合う気が全然ないって言ってるよ。変なヤツなんだよ。仲間内で女の話とかしてても、全然興味なさそうで……」
私は最初、馬場くんの意味不明な動揺の様子に戸惑っていたけれど、だんだんショックを受けてきた。小川くん、女に興味ない人なんだ。いや、男の子が好きっていう意味じゃないだろうけど、とにかく……恋愛、興味ないんだ。
「あの、別に、由は小川くんにも興味はないからね? ただ、東京ドームの話が出たし、馬場くんと仲がいいって言えば小川くんだから、何の気なしに聞いただけだよ」
私は、自分が小川くんに興味があることが露呈しないように、「由はそんな気ないよ」なんて言い方をして、さりげなく話を遠くにそらした。由はそんな気ないよ。私が……恋をしたかっただけで。
女の子に興味、ないんだ……。私はものすごくガッカリした。小川くんのほうが私を気に入ってくれたら絶対OKするのに。だって幼馴染と小川くんを比べたら明らかに幼馴染のほうが好きな以上、私が小川くんに熱心になるのはウソだけど――チャンスがあったら、わざわざそれを逃す必要なんかない。相手のせいにして恋に落ちたかった。でもそんな夢はあぶくになって消えた。
馬場くんは「木崎さんのことは忘れて、委員会は普通に頑張るよ」と気丈に言ったものの、肩を落として帰っていった。そして私も……小川くんは「違う」んだなと、肩を落として帰途についた。