第三部 五 輝きの中で
電車で、彼の最寄り駅までを一駅一駅近づいていく。今日起こる出来事を私は今から知っている。不安も戸惑いもない、平和な日曜日のお昼前。ドラマチックな日になるはずなのに、こんなに穏やかな秋の日差し。
待ち合わせには五分以上前に着いたのに、小川くんはもう、来ていた。
「早いね」
「俺の近所まで来てもらって、俺の方が遅いなんて横柄だよ」
「普通、家が近いほうが遅刻するんだよ」
「学校はね」
彼は先を急ぐように私を連れて携帯電話のショップに入った。そして変更する機種を決めると、胸ポケットから自分の携帯電話を出し、由のアドレス帳を読み出して私に画面を見せた。
「長い間、お世話になりました。……俺がお世話したんだけど。でも、これで、便利な男は卒業」
あまりにもあっさりと、木崎由は削除された。小川くんはそのままその携帯電話を窓口へ持っていき、機種変更の手続きをした。電話のキャリアが変わるからメールアドレスは必ず変更になるが、電話番号は持ち越せると店員さんが言った。電話番号を持ち越す場合は、先に元の携帯電話会社に手続きが必要だという説明を、小川くんは静かに礼儀正しく聞き、それから彼らしい笑顔で答えた。
「いえ、番号は変えるんで、普通に変更の手続きをしてください」
日曜日で少し混んでいて、一時間ほど手続きにかかると言われ、時間をつぶすために二人で店を出た。
「お昼食べちゃう?」
「そうだね、地元民のおススメは?」
彼の笑顔、それに応える私の笑顔。高校時代から変わらない可愛いまなざしと、大人になったやわらかくて落ち着いた雰囲気がじんとしみる。彼から見た私はどうだろう。
「エビフライの美味い洋食屋。オムライスとかもあるし、可愛い店だよ」
「じゃあ、そこにする」
カントリー風のインテリアが可愛い洋食屋さんに入った。彼はエビフライを連呼してグリルランチを選び、私はパスタ&オムレツのプレートを頼んだ。
ニコッと彼が私を見て笑う。それがどういう意味かは問わず、私もつられて笑う。私たちは、今日がはじまりの日になることを知っている。ただしそれは携帯電話の手続きが済んでから。
口数が少なくても居心地がいい。これまでに黙って向かい合う時間もたくさんあった。黙って並んで座っている時間もあった。しゃべらなくても別にいいよねと、空気が共有されている。
ゆっくり食後のコーヒーを飲んで携帯電話のショップに戻ると、機種変更の手続きは済んでいた。引き渡してもらい、私の携帯電話に入っている小川くんの番号とアドレスを新しいものに登録し直した。
「――これから、どこ行こうか?」
小川くんが斜め下に私を振り返る。うん、ずっと思い出にできる場所に行きたいね。
「私ね、小川くんの思い出は、実は東京ドーム。だけど、もう野球見に行ってないんだよね?」
野球なんか好きでもないのに、私はあそこがずっと思い出の場所。でも今、小川くんももう野球に興味ないなら、無理に行っても仕方ない。
「うーん、行けたら行ってもよかったんだけど、今、野球は試合ないんだよね」
小川くんが眉尻を下げて困ったように笑った。そうか、やってない時期なんだ。
「でも、行こう。春になって、野球がはじまったら」
そう言って、私へとまっすぐ下りてくる素直な視線。うん、春になっても私はあなたと一緒にいる。彼の思いと私の思いが重なったのを感じ取った。
それから少しだけ考えて、小川くんは言った。
「じゃあ高校に行こうか。最近、高校の近くにアウトレットモールの小さいのができたみたいだし、低いけど、展望台みたいなのもあるらしいよ」
「へえ! そうなんだ」
小川くんの最寄り駅から高校までは電車で割とすぐだ。私たちは数駅乗って電車を降りた。
まずは懐かしい高校へ。日曜日で門も閉まっているのに、正門の小さな警備ブースにはしっかりガードマンがいた。一応はそれなりに名門校だからな。
「でも、絶対、裏門のもう一つのほうは開いてると思うよ」
私は小川くんを連れて裏へ回った。女の子たちが内緒話をしていた中庭のところに小さな裏門がある。正規の裏門ではなく、通用口みたいなもの。行ってみたら、ずっと使われていないせいか、ツタで覆われていた。卒業して時間が経ったのを感じる。
「……まあ、ここをむしって開けて、警報とか鳴っちゃったら困るもんね」
ちょっと残念ではあるけれど、高校探検はこれで終わり。私たちは、高校の裏を三分も歩けば到着できる、小さいアウトレットモールに移動した。せいぜい十店舗くらいしかない小さなショッピングコーナーと、ガラス張りのオープンスペース。その片隅に螺旋階段があり、上がりきったところは展望スペースになっていた。
私たちが上がると、四、五人の先客がいた。親子連れとカップル。みんな楽しそう。心地よい風が吹きぬけていく。
私は嬉しくなって学校のほうへ乗り出した。
「あ、ウチの学校の校舎もよく見えるね。テニスコートもちょっと見えるよ」
「高校の中には入れなかったけど、ここはここで、いいかー」
小川くんの言葉は鬨の声。私は待てばいいのかな。
高校を背景に私たちは向かい合う。交わすまなざしは、照れくさくてくすぐったい。
「何から言えばいい?」
彼の目が私を覗き込む。私は可笑しくてつい笑う。
「言わなくても、いいよ」
私の運命の中にはいつでもあなたがいた。そして、あなたの中にも私がいた。私たちはもうその気持ちをお互いに十分知っている。
「ううん、ちゃんとする。また、いつの間にか、どっちかがどっちかのことを勝手にあきらめたり、遠ざかったりしないように……」
ニコッと、こんな時にも彼は笑う。
「今日から、俺たち、付き合おう。本当は、お互いにずっと好きだったんだから……」
「今は?」
「え?」
「好きだった、って過去形だった。ちゃんと聞きたい。――私は小川くんのことずっと好きだったし、今も……好き」
「ああ、先越さないでよ、俺も好き。なんかこうやって言い合ってると、バカみたいだけどね」
ふふっと笑って、それから自然に、二人で柵にもたれて高校を見た。わざとらしくちょこちょこっと立ち位置を変えて、小川くんの肩が私の肩に重なった。
そのまま長い間、高校と、その向こうに広がる景色を一緒に見ていた。そしてここにたどり着くまでの道のりを思った。
慧士くん。懐かしい幼馴染。きっと私の原点。「ありがとう」の声はいつまでも耳に残っている。彼がいなければ私そのものが存在しない。
外山さん。多分幼稚すぎる私に女性としての自覚を植え付けた人。自分が女性だという自覚と誇りを持たなかった私に警告を発するための悪役。
荘内先輩。温かく優しい人。初めての彼氏がこの人でよかった。ファーストキスもこの人でよかった。でも、私は女性として未熟すぎた。先輩はまっすぐすぎた。誰も悪くないし、どうしようもなかった。
南さん……。必要悪としか言いようがない。いつまでも荘内先輩の時のように未熟な女ではいられない。悪い男だからこそ私を上手く扱えたんだろう。複雑な気持ちは果てしなく湧いてくるけれど、恋だと思えている間は心底騙されきって幸せだった。
そして小川くん。すべての準備はできている。積み重ねた時間も温かい思いも、気がつけばこんなに溜まっている。もう恋の先にあるものも怖くない。恋に過度な期待をするほど子供じゃない。無謀な情熱に身を投げるほどの未熟さもない。
私の運命は、この人と近づくたびにざわざわと動いて、私に「この人だよ」と知らせてくれていた。今やっと、運命をつかまえた。
「園田さん。……元カレって何人?」
私が考えていることが伝わったんだろうか。彼は手痛い質問をしてきた。
「ううー……ん。二股かけて遊ばれた分も入れると、二人」
「ええ! サークルの人の他にもいたんだ。でも、俺が知らないのは一人だけか。何、遊ばれたりしてるの。早く俺に決めないからそういうことになったの、反省してね」
「私、小川くんとベストの状態でこうなれるように、人生の修業をしてきたの。多分、小川くんが、一番私のオイシイとこ取りだと思うよ」
「俺、木崎さんでずっと足踏みしてきて、キミが初彼女だからね。恋愛初心者だから、多少ダメなとこあっても、大目に見てよ」
お互いに糾弾するような視線をぶつけ合って、すぐに吹き出して笑う。だってゆっくり合わせていけばいい。きっとずっと縁は切れないし、ヤケドもケガもしないで穏やかにそばで過ごしていける。
「ねえ、さっきのモールにスポーツシューズの店あったでしょ。俺、そこ、もうちょっと見たいな」
「私はタオルの雑貨屋さんが気になった。お店、もうちょっと見てこよう」
心地よい空気を共有したまま私と彼は笑顔で階段を下りる。何年か前なら、この穏やかすぎる空間を「恋ではない」と断じたかもしれない。けれど私は大人になれた。優しすぎるこの引力は、永遠へとずっと続いていく。熱さも痛さもなく、幸せだけを紡いで……。
階段を下りきったところで、彼は立ち止まって振り返った。中庭の天井はガラス張りで、明るい光が降りている。側面からは向かいのビルの反射光が伸びていた。それらの光は干渉し合い、彼の足下で波打って重なり合っていた。
彼はその光の中で私を待つ。いつだってそう。彼のいる空間はいつも、私の中でキラキラ輝いている。
優しい手のひらが私に差しのべられた。私はその手を自然にとった。
ギュッと、初めて握り合った手のひらの感触、指の感触。
健やかなる時も、病める時も――決して変わらない想いを抱いて。
彼の笑顔に応える私も、きっと今、最高に輝いている。そう思える幸せを、私の人生に登場したすべての人々に感謝したいと思った。