第三部 四 もう一つの真相
毎日が穏やかに過ぎていった。二十代の一日一日はとても貴重だ。学生という自由な時間が残り少なくなっていくのが惜しまれ、私は貯金を少しずつ使って小さい旅に出ることを楽しんだ。卒業論文もそれなりに形になっていき、秋も十月の時点ですでに指導教授にはほぼOKをもらっていた。
小川くんと構内で顔を合わせることも何度かあった。ただ挨拶をする程度でいつも手を振って別れたが、彼が自分のことを話してくれたあの日から、私たちの間には穏やかな安心感が漂っていた。彼が例の好きな人と今どうなっているかはわからない。私が荘内先輩と別れたことを彼は知りようがないだろう。それでも、お互いに、意識して時間を止めたままでいた。
ずっと心の中にいた人。爆発力はなかったけれど、ずっとずっと、穏やかに恋していられた人。彼といる時、世界はいつも輝いていた。いつも明るくキラキラしていた。
――神様、運命ならば機会をください。運命でないならば、それはそれで受け入れます。
私は小川くんとの運命を祈った。
じりじりと卒業が近づいても、私は穏やかにチャンスを待っていられた。チャンスがないとしても、その何もなさを待っていられた。
ルナさんの話には説得力があった。でも、私はうかつな人間だから、今度はそれに流されるのかもしれない。二番目に好きな人が運命の人だと、思い込んで暴走するつもりはなかった。一度くらい、小川賢紀に好きだと伝えても、積み重ねた時間の分くらいはバチが当たらないんじゃないかとは思ったけれど……。
秋が更けていった。十一月になった。
ある土曜日の朝九時すぎ、私の家の電話が鳴った。もはやこの時代、家の電話が鳴ることはほとんどない。なんとなく、嫌な気配が居間に漂った。
母が電話を取り、
「ああ、木崎さん……」
と言ったので居間の父と私は緊張を解いた。携帯電話は私の部屋に置きっぱなしだから、電話をかけても通じなくて、由が家電話にかけてきたんだろうと思った。
「――ええっ!」
次に響いたのは母の悲鳴のような叫び。私がハッとして立ち尽くしていると、母は私をせかして電話を代わった。電話の向こうでは由のお母さんのか細い声がしていた。
「実花ちゃん、由ね、由ね、……うちのマンションから、飛び降りてね……」
えっ、と思ったきり私の脳内は凍りついた。でも幸い、最悪の事態ではなかった。
「うちのベランダからだったから、脚を折ったのと打撲くらいで済んだんだけどね、でも飛び降りたの……、実花ちゃん、由についててあげて……」
由がお母さんと暮らす部屋はマンションの三階だ。でも、それだって死ぬことはある。普通はどんなことがあっても、三階から人は飛び降りない。緊急事態なのは間違いない。
私がすぐ行くと答えると、これから車で迎えを出すからと、そのまま家にいてほしいと言われた。玄関の呼び鈴が鳴って私が急いで出ると、そこにいたのは原田先生だった。由がずっと片思いしていた人。由のお父さん代わりの人でもあるけれど、この場面で現れるのに適役ではない。
――まさか、由?
飛び降りた理由は原田先生だと思った。両親に送り出され、私は先生の車で病院へ向かった。迷った末、私は先生に聞いた。
「由は、先生と、何かあったんですか」
できるだけ責めないように聞いたつもりだった。でも原田先生の横顔は苦しげにゆがんだ。やっぱりそうなんだと思った。
「園田さんは、どこまで聞いてるのかな?」
先生の声が死人みたい。ハンドルを握る指がわずかに震えている。
「多分、たいがいは……。愛情は、持って娘まで、って由がふられたところまでです」
自分でその言い方をしてハッとした。由は母子家庭で、原田先生は由のお父さん代わり――だったら由のお母さんと、原田先生の関係は? でも由の話にはそんなことは一切出なかったはず……。
「じゃあ、全部話して、わかってもらったほうがいいね。もう、由ちゃんも彼氏ができたりして、ボクのことは関係なくなったと思ってた……」
由。忘れてなかったんだ。原田先生のことじゃなきゃ、由がそんなとんでもない行動をするとは思えない。
「昨日の夜、由ちゃんと、由ちゃんのお母さんと、ボクで、食事に行った。そこで、春には……お母さんと再婚するけど、いいかなって、許可を求めた」
由。バカだ。絶対バカだ。彼氏ができたなんて、自分の心にウソついてただけだったの。
「誤解しないでね。ボクはお母さんと変な関係だったわけじゃない。正直を言うと気持ちは長い間、あった。でもボクはちゃんと自分の家庭を大事にしたつもりだし、お母さんもちゃんとした人だよ。でも結果的にはボクの家庭はうまくいかなくて、離婚した、……だからその後から、もう気持ちをガマンしなくてよくなった。それでも由ちゃんには最大限、配慮したつもりだよ」
多分、きっと、原田先生はちゃんとしてくれたんだろう。実際由は、先生とお母さんのことを疑っていなかったように思う。でも、だからこそショックだったんじゃないかな。こんなに近くにいて気付かなかったことに。
「由ちゃんは就職も決まって、春から家を出ようかなって言ってた。住む場所も探しはじめてた。今は彼氏はいないみたいだけど、付き合った子も二人くらいいるみたいだし、もう――由ちゃんも大人だから、それならボクとお母さんも、春から……って。ボクたちは、言い訳に聞こえるかもしれないけど、ずっと長く、待ってたんだよ」
高校時代、原田先生のサークルに行っていてよかった。よく知らなかったら、私は多分先生のことを許さなかった。でも原田先生はとても純朴で不器用な人に見えたし、今説明していることも筋が通っている。時間も、確かに、かけていることがわかる。
でも由。由の気持ちは今、最悪だ。どうしたらいいんだろう。
「事情はわかりました。でも、由は実際に受け入れられなくてこうなったんですよね」
「申し訳ないとは思う。でも、ボクにも『彼氏できたんですよ』なんて笑ってて、……わからなかった。わかってあげられなかった。娘なのに……」
その言葉は残酷だ。娘――そうなんだ。お母さんと長く恋愛関係だったなら、由は最初からずうっと、原田先生にとっては娘でしかなかった。
「机の上には、『幸せになってね』って殴り書きのメモがおいてあったらしい。今はただ、由ちゃんが、屋上でなく自分の部屋のベランダから飛び降りてくれてよかったと思うしか……」
由。みんなで幸せになれる方法はなかったの。なんであきらめなかったの。
「園田さんには迷惑をかけて本当に申し訳ない。でも、今、由ちゃんは、お母さんがついていても、ボクがついていても、気持ちが休まらないから……」
由、今行くから。でも由、あなたがあきらめないと、誰も幸せになれないんだよ。
病院の駐車場で先生の車を降りて、入院している部屋番号を聞いて、そのまま先生には帰ってもらった。「待つよ」と言ってくれたけれど、いつまでついていることになるかわからない。待たれていると落ち着かない。
「何かあったら連絡します。由の家の電話番号は、ケータイに入ってますから」
それだけ言い残して私は急ぎ足で病院に入り、入院病棟のエレベーターで由の病室の階に上がった。ナースステーションには見舞い客の受付帳があったが、看護師さんが誰もいなくて勝手がわからなかったから奥に入った。
こぢんまりした明るい廊下の突き当たりを右に曲がったところに由の病室はあった。私が角にさしかかったところで大きな声が聞こえた。
「こんな時にこんなこと、言わせないでくれよ」
私はびっくりして立ち止まった。誰だろう。
それから声は少し小さくなって聞こえにくくなった。私は、病室に入るタイミングを見極めようと、ドア越しに様子を探った。
「どうしたって心配するだろ。でも、……頼られたって、俺何もできないよ」
聞いたことのない強い声。知らない人の声だと思った。それでしばらく戸惑っていたら、看護師さんが飛んできた。そして私を見つけると、ちょっと眉を吊り上げた。
「今日入った子のお見舞い客さんね。名前書いて入ってね。もう一人来てるでしょう。みなさん名前書かないで……」
看護師さんは容赦なくドアを開け、問答無用で中に入っていった。
「お見舞いの人は、名前書いてね。はい書いてきて」
病室の中には脚をギプスで固められた由が寝ていた。その横にいた人が見えた瞬間、私は雷に打たれたように衝撃を受けた。
小川賢紀。まごうことなき彼が、由のそばに立ち、看護師さんに注意されていた。彼の目は看護師さんではなく、私を見ていた。
――そうか、そういうことだったのか……。
「お二人とも、名前書いてきてちょうだい」
小川くんは看護師さんに引っ張られて体勢を崩し、そのままひょこひょこっと歩いてドアのほうへ来た。そして由を見て、私を見て、看護師さんを見た瞬間に、
「名前、書いたら戻ってきていいですよ!」
とダメ押しをされてドアの外に出てきた。
「ソノミー」
由の声がした。私は慌てて由のほうを見た。
「ソノミー、戻ってきてね」
由が私を頼りにしているのがわかった。私は動揺する気持ちをしっかり抑えて、由に笑顔を見せてあげた。
「由、ちゃんと戻ってくるよ。一緒にいるから大丈夫だよ」
さほど長くない廊下を、私と小川くんは一緒に歩いた。ナースステーションの前で彼が戸惑った様子を見せたので、私は「はい」とノートを指してペンを取ってあげた。
「由、だったんだね。好きな人」
私は彼が名前を書くのを見ながら言った。彼は何も言わなかった。私はそのまま黙って彼からペンを受け取って名前を書いた。ルナさんにいろんな話をしてもらって、何かを期待して、運命を願って、訪れたのがこんな再会か。ルナさん、おかしくて笑っちゃうよね。
「由と話の途中だったんでしょ。私、しばらくここにいるから、行ってきたら」
ナースステーションの脇には小さな待合コーナーがあった。私はそこに座りに行った。小川くんはじっと立っていた。だから私は少し強く言った。
「由を一人にしたくないから、早く行ってきてあげて。後から私も行くんだから」
彼は私を少しの間見て、何か言いたそうにしたけれど、そのまま由の病室へ戻った。私は緊張していた全身の力を解いた。
小川くんが誰か女の子から相談を受けていた話は……わざとわかりづらく言っていただけで、馬場くんと由のこと。由が「馬場くんは、ナシだから、わからせて」という相談を小川くんに持ちかけていたんだろう。
由は、小川くんに甘えてはいたけれど、恋はしていなかった。先生に失恋した由を、小川くんがクリスマスイブに慰めて、その後に由は「本当のことを言う勇気が出た」と私に連絡してきた。だから年末だった。時期が時期だからよく覚えている。
多分由は、小川くんが「付き合いたいと思ってる」と言った相手が私だと知らない。彼はきっと由にも私にも、もう一人の相手が誰かを告げずにいた。今回のことがなければ、私と由が小川くんを挟んでこうして対峙することはなかったのだから、それで正解だと思う。
私よりも早く小川くんがここに来ている理由は一つ。由が自分で呼んだんだろう。枕元に携帯電話が置いてあった。電話が用意されていたのは、最初にお母さんが来て面倒を見ていったんだろう。
――さあ、私はどうしよう。小川くんが戻ってきたらどんな言葉をかけよう。気にしないよと……由のことが好きだったならいいんじゃないと、言ってあげなければ。由は魅力的な子だ。男の子の気持ちはわかる。
さっき小川くんの怒った声を初めて聞いた。いつも優しい人だったから、あんな声を聞いたことはなかった。そこは由に嫉妬する……。私の知らない小川くんの人生。縁は長く続いてきたように思ったけれど、私が知っているのはほんの少しだけだ。
気持ちが定まらないうちに、のろのろと、小川くんが姿を見せた。私はさっと立ち上がった。由を一人にする時間は短くしてあげなくちゃ。
「じゃあ、今度は、私が由のところに行くから。また、会いたかったら会いに来てあげて。無理することないと思うよ」
私は彼に笑顔を見せた。言ったことは本音の本音だった。私に、小川くんと由が積み上げてきた歴史をどうこうする権利はない。それは二人の問題だ。
ナースステーションの前で所在なく佇む小川くんの方へと、私は歩を進めた。その方向に行かないと由の病室へ行かれない。彼の姿が否応なく近づく。すぐそばで彼と目が合ったとき、私はごく自然に、こう口に出していた。
「――私、……由の『にばんめ』でも、いいよ」
その瞬間曇りが晴れた。いつかきっと、この人と由の縁は切れるだろう。きっといつまでも私はここにいる。燃えたぎる情熱でなく、安らかな温もりを持って。
自分が自然に穏やかな笑顔になったのがわかった。その私の表情に、小川くんがハッとしたのもわかった。私は彼の横を抜けて奥へと向かった。背後で今、彼はどんな顔をしているだろう。クスッと笑ったら、声がした。
「――電話するから」
私は振り向いた。小川くんがまっすぐに私を向いて立っていた。
「番号、変えてないよね?」
彼の問いに、私は満面の笑みで答えた。
「縁を切りたくなくて、変えられなかったから、変わってないよ」
あとはもう振り返らないで、私は由の病室に飛び込んだ。看護師さんはもう部屋にはいなかった。
「ソノミー」
由はベッドに体を起こしてうなだれていた。私はそのそばに座り、由に微笑みかけて手を握った。
「由、ゆっくり休みなよ。ケガ……痛いでしょ」
バカだよ由。原田先生はあなたのお父さんだよ。百歩譲ったってオジサンはオジサンだよ。綺麗でカッコいい木崎由は、オジサンなんか忘れて、素敵な恋をしようよ。
いろんな言葉が出てくるけれど一つも由に言えない。何を言っても傷つけてしまいそう。
「ソノミー、……あのね……」
「どうしたのかは聞いたよ、ここに来る前に。お母さん心配してたよ。大事なお母さんでしょ。心配かけちゃダメだよ」
原田先生の名前は出さなかった。ベッドの上に並んだ由の手の甲を、できるだけ優しく撫でてあげた。私は何も上手いことを言ってあげられない。だからせめて心からの愛情をこめて。
「そうじゃない。……ゴメン。今の今まで、私、知らなくて」
動揺した由のまなざしが私を恐る恐る見る。言いたいことはだいたいわかったけど、そんなことはどうでもよかった。
「私、由に謝られるようなこと、何にもないけど?」
由は別に私と小川くんの仲を邪魔したわけじゃない。邪魔されるような関係にすらなれなかったし。
「今、……小川くんが教えてくれた。何度もソノミーに付き合おうって言おうとしたけど、その都度、結果的に私が邪魔してたって」
飛び降り騒ぎを起こした子に、ひどいことを言うなあ。自殺未遂なんだよ。デリケートな状態なのに……。
「結果的にそうなっただけでしょ。それは、小川くんが私をそこまで好きじゃなかったってことだよ。由が悪いわけじゃない。それに私だって普通に彼氏作ったりしてたでしょ。縁ってそういうものだよ。由とは関係ないよ」
「小川くんが、ソノミーのこと何度か好きになろうとしてやめてて、その原因になってる〝誰か〟がいることだけはソノミーに話してあったって……。それが私だってことは内緒にしてたのに、さっきそれがバレたって。ソノミーも小川くんのことそれなりに好きだったんでしょう? 二人ともお互いに好きで、でも私に邪魔されてたのに、……ソノミーは優しいね。私は、邪魔したお母さんも、振り向いてくれなかった原田先生も恨んだのに、ソノミーは……」
そうじゃない。私はそこまで小川くんに執着してなかっただけだよ。そして由は原田先生を本当に好きで好きでどうしようもなかっただけだよ。気持ちの差だよ。
「小川くんに言われた。好きだっていう気持ちを命で当てつけるのは卑怯だし、私の場合は相手が親だから甘ったれてるだけだって……」
「いいよ由、今はそんなのは。ゆっくりしなよ。小川くんも、言うタイミング考えてあげればいいのに、ひどいよね」
由の手が私をぐっと握り締めた。
「大丈夫……言われて、よかった。小川くんに、もう絶対に死なないこと、約束した。もう恋を邪魔しない、私は死んだことにしてねって言った。小川くんとは本当にサヨナラした。私――彼にも自分の恋愛があること、考えてあげてなかった。子供だった。小川くん、携帯電話、変えるって。その連絡先は聞かない。私は今日死んだつもりで、これから新しい人生を探す。卒業式が過ぎたら家を出る」
断ち切ろうとして、実際に何度も断ち切ったはずなのに、どうしても切れなかった思いはきっと今後も由を苛むだろう。原田先生への気持ちも、小川くんに甘える気持ちも。これまで私が友人としてあまりに頼りなすぎた。由。いつも心に由がいて、憧れだった。
「由、私……小川くんほど優しくも親切でもないけど、由の、もっといい友達やるから。つらいとき連絡してよ。最初に頼った人が小川くんだったから、ずっとそれで来ちゃったんだろうけど、みんな、いるよ。私もいるし、他にも、由のこと大好きな人いっぱいいるから」
それから由はたくさん、たくさん泣いて、眠って、目を覚まして、お昼ごはんを食べたらまた泣いて、眠って、次に起きたときには不思議な元気が満ちていた。たとえはいまいちだけれど、サッカー場で私と小川くんがそうだったように、憑き物が落ちたような、何かつなぎ止めていたものが切れた顔をしていた。私は由が寝ている間に本を買ってきておいたからいくらでも時間がつぶせた。由が泣いていても寝ていても、夕方まで一緒にいてあげられた。本を買いに出たときに由のお母さんには状況を電話してあった。
面会時間は夕方五時まで。私は面会時間の終わり際、由に問いかけた。
「明日は、私じゃなくて、お母さんでいい?」
由は深呼吸をして、まっすぐ私を見て答えた。
「ありがとうソノミー、これからは、ママるんでいい。ママるんと、ちゃんと話をする」
いつでも連絡してねと言い残し、五時ギリギリに私は由の病室を出た。心配だったから、帰宅してからと、夜の八時にメールを入れた。最近は病院も病室では携帯電話が使用可なことが多くて本当によかった。
由からは二通ともに、ちゃんと返信があった。
『ソノミー今日はありがとう。迷惑かけたこと本当にゴメン。もう大丈夫だよ。ゆう』
『心配しないで。こんなことしでかしたら、どれだけ多くの人に謝らなきゃいけないか、思い知ってるところです。でも謝る相手はみんな私のことを好きな人たちばかりだって気がついた。ありがとうソノミー、大好き。ゆう』
夜、九時を回った頃に携帯電話に着信があった。小川くんからだった。
「――もしもし、園田です」
普段は名乗らないけれど名乗って電話を取った。穏やかで温かい気持ちが心に満ちる。
「小川です。今日のことは、……なんて言ったらいいのか、……こんなところまで、縁がなくてもいいのにね」
小川くんの声に動揺はなかった。
「小川くん、由のこと、これまでずっと支えてくれて……ありがとう」
「そんな立派な話じゃないよ。俺が一人で勘違いして、追いかけて、振られても懲りずに振り回されてただけ。まさかね、その相手が誰かってこと、園田さんにバレるとは思わなかった。恥ずかしいよね、仲のいい女の子二人の間をふらふら、行ったり来たりしてて……」
しばらく、電話なのに沈黙が続いた。私は目を閉じた。電話の向こうで小川くんはどんな表情をしているんだろう。会いたい。
「由は魅力的な子だよ。プレゼントとか、バレンタインとか、それにデートのお誘いとか何度もあったら、私だって靡いちゃうよ。それは由が悪いよ。それに、それとは逆に、私相手だったらそこまで好きになりきれないのもわかるし……」
「そうじゃないよ」
強い口調にドキッとした。由は向けられていた、意志を強くのせた声。
「木崎さんと園田さんを比べたことはない。木崎さんはずっと、好きだけど腹を立ててた。別れたい、離れたいと思ってた。でも園田さんには、会うたびにあったかい幸せみたいなものが積もっていって……」
息を継ぐそのわずかの気配も、今私は彼をいとおしいと思う。
「キミがキャンパスでいつも同じ人と一緒にいるって、気付いた時ショックだった。腹いせに……じゃないけど、いつか『お幸せに』って言ってやろうと思った。電車で偶然会った時……あんな至近距離じゃなかったら言ったのに。キミは彼氏がいるんでしょ。どうして、今日、木崎さんの二番目でいいなんて言ったの」
あれからどれだけ時間が経ったと思ってるの。あなたの時間、由のせいなのかな、止まりすぎてるよ。
「俺はもうずっと木崎さんとは連絡なんて取ってなかった。あの同窓会の少し前に、また彼氏と別れたってメール入ってて、返信は意地でもしなかったけど、メールの着信拒否設定ができない自分に腹を立てた。……だから同窓会に行った。黙って連絡先を消すの、どうしても怖いんだよ。拒否設定するのも怖い。取り返しのつかないことになりそうで。木崎さんが同窓会に来てたら、連絡先消すよって宣言してちゃんと消せると思って……でも同窓会には園田さんしかいなかった。――あの時、俺の行く先には、いざとなったら必ずキミがいるんだなって思って安心した。もういいやって、本当に思えた。でも、その時残してたせいで、今回の自殺未遂の連絡が入ったんだけど……。
園田さんとは、いつか恋愛になれたらいいと思ってた。ずっと縁が続いてたから、そうなれるような気もしてた。ただ、キミは彼氏がちゃんといて……」
「ゴメン、彼氏、いない」
「……え?」
「あの同窓会の時、もう別れてた。彼氏できたよねっていう言われ方だったから否定しなかったけど、彼氏いるよねって言われてたら、いないよって答えてた」
「え? でも、お昼休みに一緒に席について……」
「だってサークルの先輩なんだもん。別れても、お昼はサークル席でみんなで食べるから。別れた彼氏とサークル席で一緒にいなきゃいけないの、けっこう気まずいんだよ」
小川くんが呆然としている間があった。お互いに空振りしていた時期も長いんだね。私も遠回りしたし、小川くんも無駄な空白を作っていた。
「こっちからは、園田さんがお昼時どこの席にいるかわかってるから、その気になればいつでも探せて……だから、ああ、同じ人と一緒だなって……」
なんだ。サークルに入っていない小川くんには定位置がなかったけれど、私はいつもサークル席にいた。彼は私をいつでも探せていたんだ。時々見ていてくれたんだ。
「ねえ、もういいよ」
こんな会話はもういいよ。お互いに事情を説明し合うより、もっとしなきゃいけないことがある。
「会いに行くから、会って話そう」
今度こそ恋をはじめよう。ずっと二番目に好きだったあなたと。でも本当は二番目じゃなくて、ヤケドをしない幸せな温度で、穏やかに長く愛していけるひとと。
「じゃあ、――俺、携帯電話買い換えるから、つきあって。電話番号とメール、変えるから。今日木崎さんと約束した。もう連絡とらないって。俺が連絡先を変えて、彼女の連絡先を完全に消すからって」
「無理しなくても……」
「それをしてから、園田さんとちゃんと話したい。会いに来て。言いたいことがたくさんある」
じゃあ、いつにしようかと問うたら、彼は「明日」と答えた。長かった土曜日は残り三時間を切っている。「早すぎない?」と戸惑ったら、彼はこう答えた。
「出会ってから六年経った。全然、早すぎないよ」