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第三部 三 最悪の記憶

 多分それもきっと因果関係の説明がつくのだろうと思うが、小川賢紀とまた近づいた後、私は次の恋愛に出会った。彼がいつも私の二番目である理由は、結局私が二番目だったんだから仕方ないという「お互い様の論理」が成立した。でも彼が恋の節目の使者であることはどう説明がつくんだろう。

 ただ、次にはじめた恋は一年経たずに終わり、その時期は私の人生最悪の記録として残ることになった。初めのほうにあった素晴らしい幸せやとてつもない喜びは、今でも記憶に残っているけれど、そこは上手に語れない。「でも当時は幸せだった」とすら言う気が起こらない。

 大学三年の春にアルバイト先を飲食店に変えた私は、そこで大卒二年目の店舗サブマネージャー、南佳広さんに出会った。背が高くて細身で洋服栄えする人。顔はそこまでよくもないけれど、スタイルがいい。特に飲食店の制服がとても似合っていた。

 五月半ばに小川くんを心から追い出して、恋なんてしばらくいいやと思っていたところに南さんからのアプローチがあった。ちょっとしたプレゼントをくれたり、「かわいい」と言ってくれたり、上手いスキンシップがあったり……。私は自分がスキンシップなんかに靡くとは思っていなかったけれど、上手い人のスキンシップは本当に上手い。親しみを軽く心地よく伝えてくれる心へのノック。だんだんそれにドキドキさせられてくる。

 多分南さんがわざとそうしたんだと今は思うが、六月下旬にシフト上、戸締まりが私と南さんだけになった日があった。本来は男女一人ずつは避ける決まりがあるらしいのだけれど、どうしても誰もいない場合はそうも言っていられなかった。

 戸締まりを終えた後、控え室で南さんに口説かれた。今思うと恋に我を忘れていたなと思うが、二十三時を回った店内で男性と二人きりなんて危険極まりない。高校時代に被害に遭いかけたことをまるで忘れて有頂天だった。

 好きだよと、付き合ってほしいと、額が触れそうな顔の距離で言われて夢見心地でOKした。その時にごく自然にキスを持っていかれた。そう、「持っていかれた」。嬉しい、ありがとう……と南さんが言ったその流れで自然に感動のキスになった。

 荘内先輩の時はキスまでひと月半。南さん相手は付き合ったその日、というかその数秒後。このときに、もっと自覚してブレーキを引くべきだった。

 バイトの女の子に手を出したとわかったらまずいからと、店の他の人には絶対言うなと言われた。でも大学に迎えに来てくれたり、デートの後は車で家まで送ってきて家族と顔を合わせたり、バイト先以外での南さんは私の彼氏として堂々と振る舞った。

 バイトで週に二、三回一緒に働き、土日のどちらかはデートした。二回目のデートで、もう体の関係を打診された。私は荘内先輩の時と同じく「一年間は絶対ダメ」と答えた。南さんは「わかった」と答えた。「実花が大切だから、何年でもちゃんと待つよ」と。でも、会うたびに「ガマンするから、少しだけ」と押し切られ、案外早く関係は進んでいった。荘内先輩を固く拒みすぎた負い目のようなものもあり、可愛い女性でいたくて強靭に断ることができなかった。

 結果として、六月下旬に付き合い始め、八月初めにはすべてを許してしまった。最初のキスの時と同じで、シチュエーションを上手く作り上げられたと思う。結果的に南さんの一人暮らしのマンションに上がる状況になり、「お願い、少しだけ」と攻め込まれ、最後の一線は雰囲気で押し切られた。そういう誘導が上手い男の手にかかれば、私みたいな子供すぎる大学生なんて、しかも未経験の未熟者なんて、あっけないものだった。

 しかも南さんはアフターフォローも上手くて、私の精神的にも「性的な進展はどうこう」という大騒動にはならなかった。でもそれはきっと、荘内先輩とそうした事態に直面したことで私が少し大人になっていた結果だと思う。先輩には「一年」と頑なに言い続けて半年経たずに「絶対拒否」を貫いて別れたのに、次の男にはひと月半と経たずに許してしまったと、荘内先輩に申し訳ない気持ちにもなった。でも、先輩は真剣で真正面からで重かった。南さんは私をうっとりさせて気持ちの波に理性を流してしまう技術を持っていた。

 深い関係になってからは、デートの時だけでなく、バイトの帰りに南さんのマンションでちょっと済ませて帰るみたいな日もあった。正直、私自身、こんなにいいものだとは思わなかった。避妊もちゃんとしてくれたし、ずっと一緒にいようねといつも言ってくれた。

 半年間、身も心も南さんに捧げ尽くした。戸締まりを済ませたバイト先で抱かれることもあった。南さんの部屋も、車の中も、私たちの愛の巣だった――だと思っていた。

 おかしいなと思ったのはクリスマス。当然私と過ごしてくれるものと信じて疑わなかったが、バイトの人たちのシフトが決まらないと言って予定がなかなか立たなかった。直前になって、家族の具合が悪いからと、休みをとって実家に行くと言いだした。私はまるっきり疑わずに、クリスマスイブは仕方なくバイトに入った。そして、バカだと自分で思ったけれど、センチメンタルな気分で、バイト先のお店からぐるっと遠回りした方向にある南さんのマンションの横を通って帰宅した。その時、いつもの駐車場の場所に車がなかった。南さんの実家は、名前が「南」なのに北海道。「一泊程度ですぐ帰るよ、仕事も二日丸々は休みづらいし」と言っていたのに、北海道に車で行くだろうか。それでも信じていた。

 年末年始も実家に帰ると言われて会わなかった。バレンタインデー、南さんは店のシフトに遅番で最後まで入っていたので、チョコをそっと渡して私は仕事が終わるとすぐに帰った。今思えば、二十三時の閉店後だって、片付けて戸締まりをしてから誰かと会うことはできる。でもそんなこと、考えもしなかった。

 三月、バカバカしいドラマの幕が切って落とされた。三文ドラマのシナリオだって今どきこんなにつまらない話は書かない。その日、バイト先を出て帰る途中、見知らぬ女性に「お名前、ミカ、ですよね」と声をかけられた。訝って答えずにいると、女性は勝手に私と並んで歩きながらこう言った。

「あのー、あなたで、浮気相手三人目なんですけどー」

 意味がわからなかった。

「もういい加減未練ないから、あんな男……あげてもいいんだけど、不幸になりますよ」

 吐いて捨てるような言い方。私はボンヤリと脳内で言葉を選び続けていたが、自分への答えも、その女性に対する返答も出なかった。隣を歩く女性の様子を恐る恐る見ると、怒っている表情は怖いものの、とても可愛い顔立ちの、小柄な子だった。

 彼女が姿を消すと、すぐに南さんに電話して問いただした。南さんは「俺のストーカーだよ、気にするな」と言った。「あることないこと言うと思うけど、気にしないで。ひどいようなら警察に行こう」と真剣に答えていた。

 でも、数日後、南さんの携帯電話から写真つきのメールが送られてきた。写真だけでメッセージはなし。深夜二時、武士の情けか上半身だけだったが、裸で寝ている南さんの写真だった。明らかに、今一緒にいる誰かが、今目の前で寝ている南さんの写真を撮って送った様子だった。

 翌日からしばらくは修羅場というか、私が半狂乱になって南さんを糾弾して、南さんがもはや辻褄の合わなくなった言い訳でごまかそうとするひどい状態が続いた。二週間、電話とメールと、あとは会って話をして、別れを決めた。もちろんバイトも辞めた。

 ショックだった。私の初体験をこんな男に捧げてしまった。荘内先輩にあげたほうがよっぽどよかった。どん底まで落ち込み、自暴自棄になった。荘内先輩を呼び出して「今からでもいいから、ホテルに行きましょう」と言いたくなった。でも、そんなことをしたってもう初体験は戻ってこない。自分の愚かしさを呪った。

 立ち直れなくて、ルナさんに久しぶりに電話をした。ルナさんは私の、しゃくりあげながら話す聞き取りづらい話をゆっくり丁寧に聞いてくれた。

「せっかく、ルナさんに、守って、もらったのに、結局、こんな男に、私、ホントに、バカだ……ルナさん、謝っても、しょうがないけど……ゴメン、なさい」

 私の話は終始こんな調子で、しかも時々洟をかむ。こんなわけのわからない電話に応対させて、ルナさんには本当に申し訳なかった。

 それでもルナさんはやっぱり優しく話をしてくれた。

「園田さん、そういう時は、こうやって考えるの。一番大事な人とそういう関係になる前に、初体験の恥をかき終わっておいてよかった、実験は先にやっておいたぞ、って。あのね、悲しいけど……女の子は、人生全体から振り返って『この人が一番だった』って思える人と初体験できることは、まずないよ。誰かに『奪われてしまう』ものなんだよね……。それでも園田さんは、避妊ちゃんとしてもらえて、恋人らしく優しくしてもらえたんだから、よかったのかもしれないよ」

 下を見たらもっと不幸な初体験はたくさんあるのかもしれない。でも、少なくとも、荘内先輩が相手のほうがずっとよかった。先輩は本当に本気で真剣でいてくれた。相手を間違えたことも悔しかった。

「でもね園田さん、その先輩を相手に無理にペースを合わせて最後まで進んでたら、それはそれでやっぱり『私は不幸だ』って思うことだってあるんだよ。待ってもらえなかった、大切にされなかった……って。大半の女の子はベストの初体験なんてできてない。私だって初体験の相手、全然、人生で一番好きな人じゃないもん」

 会いにおいでとルナさんは言ってくれた。とびっきりの美味しいものをごちそうするからと。

「社会人すごいなーって、思ってもらえるカッコいいお店探しとくね」

 ルナさんは四歳上だから、もう社会人になって三年が経っている。ちょっと気取った明るい声に、私は大いに癒された。

 心に深い傷は残っていたけれど、理屈はわかった気がした。荘内先輩に押し切られていたらきっとそれはそれで違うことを悩んでいただろう。南さんは、恋愛の部分はウソだったけれど、初体験の壁を簡単に、言ってみれば快く越えさせてくれた。荘内先輩相手に対峙した時、初体験は恐怖と絶望と、何かの終焉にしか感じられなかった。大好きだけど絶対に与えてはならないと必死だった。もし、次も荘内先輩のようなまっすぐ真面目で女性慣れしていない人と付き合っていたら、また同じように拒んで揉めて、私はその後の恋愛すべてに萎縮していたかもしれない。

 そしてルナさんが言っていたこと。避妊をちゃんとしてくれていた、それが実はものすごく大切なんだと気がついた。恥ずかしい話だけれど、けっこういいペースでそういうことをしていたから、避妊していなければ多分妊娠している。南さんは浮気男だったかもしれないが、浮気男なりのルールを持っていた。私は何も考えず、成り行きに任せて愛されてしまっていた。自分の体は自分で守るようにと、若い女性向けの啓蒙は常に目にし、耳にしていたのに……。

 荘内先輩は求めることに必死で、避妊のことまで考えていたようには思えない。実際避妊の話なんて出たこともない。先に進むことを怖がる私に、先輩は一度だって「妊娠が怖いならちゃんとする」と言ってくれなかった。私の不安を拭うなら、その点だって、ちゃんと話してくれてもよかったはずだ。

 未熟な私から見れば「もっといい道があった」と感じるけれど、本当にそれは「いい道」なんだろうか。そう思ったらあきらめがついてきた。そこが「あきらめ」なのは悲しいけれど、「女って、悲しいものなんだよ」というルナさんの声を思い出して飲み込んだ。

 仕方ない。荘内先輩と未熟な恋愛の果てに無自覚に妊娠……なんてことがなくてよかった。南さんは許せないけれど、事実として、女になる歓びは教えてくれたし、避妊をして私を妊娠からは守ってくれた。少女が大人になるには血を流さなければならない。結局はそれが真理なんだと、私はなんとか自分を納得させていった。


 四月、私は大学四年生になった。大学の構内で小川くんに会うペースはすっかりまばらになっていた。あの大学三年の春に異様に遭遇したのはやっぱり何かの思し召しだと思うしかないくらい、小川くんと会うことがなくなった。

 正直、私は、彼と近づくことが怖くなっていた。小川くんとの接近は、私に恋の節目が訪れる兆候。高校のときは初恋の彼を断ち切る合図、その後二回は恋の始まる合図だった。

 いろいろなことに傷ついて反省して、少し自己分析をした私は、自分が案外流されやすいオンナであることに気がついていた。荘内先輩の時も、恋愛感情らしきものを向けられたら簡単に呼応して惹かれていった気がする。南さんにもスキンシップやベタなアプローチで簡単に落ちた。さらに言うとずっと前の外山さんにも、すっかり「(見せかけの)いいムード」を作られていた。三人中二人が「悪い男」。私に男を見る目がないのは確かで、小川くんと近づくことで悪い男に出会う可能性が上がる気がする。そう思うと、荘内先輩は奇跡の人だった。有難いことだ。

 荘内先輩は先日、大学を卒業していった。私に穏やかで温かい微笑みと、「こんな俺と付き合ってくれてありがとうね」という言葉を残して。私はその場で大泣きしてしまい、荘内先輩は心理学研究会全員から「最後まで泣かすな!」「先輩、ひどい」と糾弾されていた。本当に素敵な人で、初彼がこの人だったことは私の誇りに思えた。

 けれど私と荘内先輩に「復縁」という選択肢はなかった。先輩は、別れた直後の夏合宿の深夜に一度未練を見せただけで、その後私にそうした態度を向けることはなかったし、私も「もう一度」とは思わなかった。南さんと別れて、実は体の関係が大変なことでもないし、それなりにいいものだと理解した後も、だからと言って荘内先輩に甘えるような態度をするつもりはなかった。だから黙って卒業を見送った。

 荘内先輩を素敵だと思い返すことは何度もあった。けれどなぜか、そんな時に私を止めたのは小川くんだった。先輩に対して「もしも」とか「やっぱり」とか、慕情のようなものが湧き上がるたびに、小川くんが公園で長い話をしてくれたときのことが浮かんだ。

「彼氏とお幸せにね」と小川くんは言った。実際はもう別れていたけれど、小川くんはそれを知らずに荘内先輩を指して「お幸せにね」と言った。

 なぜだろう。だからもう荘内先輩と幸せになりたくなかった。嫌だった。小川くんに祝福されるのが。

 南さんとの思い出で、一つだけ、とても印象深いことがある。

 私は当時、すべての楽しいことを南さんと共有したくて、あのキラキラ広がる明るく開けた東京ドームもいいなと思った。小川くんとの思い出だけど、他の人とは行っちゃいけないわけじゃない。南さんとも、あのうわっと飛び出すような明るい広大な輝きを見たかった。

 南さんと待ち合わせて東京ドームへ行った。高校の時に行ったのは安い上のほうの階の席だったけれど、南さんは一階の内野席を用意してくれていた。

「通路、こっちだね」

 南さんが指した先は真っ暗だった。もちろんその真っ暗の先には明るいフィールドが見えているのだけれど、二階席をのせた庇の下をくぐって下りていく通路はものすごく暗かった。暗い蛍光灯の下でチケットを見せて、真っ暗な通路を下りて、そんなに開けた感じもない内野席前方にたどり着いた。

 あれー、と思った。見上げると高校の時に座った席がはるか上方にあった。それで理解した。あの時、あんなに明るくて広大だったのは、上から出てきたからだって。

 だから物理的には当然だし納得もしたのだけれど、心には引っかかった。

 小川くんと来た東京ドームは、なんであんなに輝いていたんだろうと。

 その時はまだ南さんを心からの恋人だと思っていたのに、なぜここはこんなに暗いのだろうと強烈に感じたことを思い出す。「それでも輝いて感じた」くらいのバカは、言ってもよかったはずなのに。当時の有頂天な私ならば。


 ルナさんと会うのは四年ぶりくらいになる。私が高校時代、大学のサークルに由と一緒に参加した時、男性に部室で襲われそうになったのを助けてくれたお姉さん。一緒にいた時間はとても短いのに心から信頼できる人だった。

 ルナさんは電話で「目立つオレンジ色の服を着ていくから、そっちからはすぐわかるよ」と言っていた。待ち合わせの場所に早く行ってきょろきょろしていると、エレガントでカッコいいオレンジの服の人が改札を抜けてくるのが見えた。「あっ」という顔をしてじっと見つめていたらルナさんも気付いてくれた。私はすぐに駆け寄った。

 遠目に見るとルナさんに間違いなかったけれど、近づくにつれちょっと驚いた。お化粧が派手じゃなかった。すごく綺麗だったけれど、ルナさんのイメージの刷り込みが派手めのお化粧だったから不思議に感じた。

「ルナさん」

「園田さん、久しぶりね」

「あのー、思ったんですけど……私、実花って呼ばれたいです」

「実花ちゃん?」

「ううん、実花」

 四年前にせいぜい何度か大学サークルで会って、ちょっと車に乗せてもらって、その後二回電話でしゃべっただけだけど、「園田さん」と呼ばれることになんだか寂しさがあった。ルナさんは嬉しそうに微笑んでくれた。

「じゃあ、実花、行こうか」

 ハイヒールでスマートに歩くルナさんの後ろを、私はめいっぱいオシャレしたパンプスで追いかけた。ルナさんにカッコよく見られたくて明るい青のファッションスーツを着てきたけれど、スッとシンプルなだけの淡いオレンジのワンピースを着たルナさんのほうがずうっと素敵だった。

「実花が元気そうで安心したよ」

「あの、ルナさんがいろんなこと話してくれて、それで気持ちの整理とかつきました。そうだよな、何もかも思い通りにはいかないし、振り返ったらあっちのほうがよかったとか、言ってもしょうがないよなって思って」

「そうね……理想は高く持っていたいけど、現実に適応することも大事だよね」

 高層階行きのエレベーターでぐんぐん昇ってホテルの最上階へ行き、バーとレストランがあるうちのレストランのほうにルナさんは進んだ。そして入口で「予約の月城です」とスムーズに言うと、お店の人がピシッとした身のこなしで「お待ちしておりました。こちらでございます」とすぐに案内してくれた。

 控えた照明だけど決して暗くはない店内、窓の外には夜景が広がる。存在くらいは知っていたけれど本当にあるんだ、「夜景の見える、ホテルのオシャレなレストラン」。

 席について落ち着くと、なんだか感動を伝えたくて、すぐルナさんに言った。

「すごいです。すごく緊張します。こういうとこ、初めてです」

 ルナさんは「あらあら」というように目を見開いてまばたきをしてみせた。

「歴代彼氏は、こういうとこ、連れてきてくれなかったんだな?」

 覗き込むような表情でお茶目な口調になってルナさんは言った。私は肩をすくめて、

「全然、なかったです」

 と答えた。今にしてみれば南さんは私にこんなぜいたくをさせる気はなかっただろうし、荘内先輩と私じゃ右も左もわからなそうだ。

「何事も経験よ。私、こういうとこ、慣れておこうと思って大学時代に友達とわざと来たもの」

 うーん、いい女は修業の仕方から違うんだな。ルナさんは美人とまではいかないけど美人っぽい雰囲気が漂っている。いい女のオーラを出している。

 ふと、小川くんとこういうところに来るのも楽しそうだなと思った。彼もこんなオシャレなところは慣れていなそうに見えるけれど、きっとそれなりの服装で来てくれて、二人で楽しく試行錯誤できそうだ。ルナさんの服は、淡い色だけどオレンジ。色に小川くんのイメージをつけてしまったのは失敗だったかな。オレンジ色を見ると小川くんを思い出す。もう、きっと、親しくなることはないのに。

 メニューを見たらびっくり価格だった。私のお財布の中身の全額くらいの値段のコースがある。ルナさんは一番高いのを勧めてきたけれど、高級なエビが価格の半分くらいを占めていそうだったので、その下のコースにした。

「格好つけたくてここに来てるんだから、ぜいたくしていって。たまにはこんなふうに大人ぶってみたいのよ」

 そう言ってルナさんは笑った。それから私にワインが飲めるかどうかを聞き、ソムリエを呼んでいろいろ質問をしてからフルボトルで白ワインを頼んだ。

 しばらくはルナさんに就職活動の報告をして私がしゃべっていた。もう内定は取れていて、ネームバリューはないけれど手堅く地道そうな中堅の教育総合事業会社。各種通信教育の教材開発と運営、あとは知育玩具、教育玩具の開発をしている。

「うちの学部は卒論が必修なので、これから論文です。ちょっとは貯金もできたからバイトも一時休止して、真面目に論文書きます」

 懸命に話す私を、ルナさんは穏やかなまなざしで見ていた。派手じゃないルナさんはもっと綺麗だと思った。

「じゃあ、恋愛は一時休止?」

「そうですね……自己改革しなきゃなって思って。自分が男の人の好意にふらふらっと流されるところがあるのに気がついて、また変な人にひっかかるぞって、反省したんです」

「そう」

 ルナさんはワインを飲んでしばらく外の夜景を見ていた。それから顔を正面に戻して、私をじっと見て、少しだけ前に乗り出した。

「失恋したての傷ついた女の子に、幸せ報告もどうなのかなって思ってたんだけど、大丈夫そうかな?」

「幸せ報告!? えっ、ぜひ、聞きたいです」

 私が思わずひゅっと背すじを伸ばして居住まいを正すと、ルナさんは慈しむような優しいまなざしになった。私の頬は紅潮した。

「実花は人の幸せが素直に聞けるんだね。根本的に幸せな子なんだね」

「え、でも、私、ルナさん好きですから……」

「自分が失恋したとか、あまりいい状態じゃないときに幸せ話が聞ける心根は大切だよ。逆に、人が幸せなときに、人の幸せを邪魔しない言い方で、素直に自分の不幸が話せる人も私は好きだな。ゴメン私はこういう状況なんだって、素直に言ってほしい。だから、もし私の幸せ報告が気に障ったら、素直に言ってね。実花を不愉快にしたくないから」

 ルナさんがそう言うのを聞きながら私は由のことを思い出していた。私がメールで無神経なバカハッピー報告を送りつけたとき、由はずっとずっと好きだった原田先生にとうとう最後の失恋をしたところだった。でも由は私の幸せを邪魔しなかった。素直に自分の不幸を話してくれた由。私は友人にも恵まれている。

 ルナさんはニコニコしていて、なかなか話しはじめなかった。でも、いつ話が始まるのかを待っているのは楽しくてウキウキした。

「――私ね、来年、結婚することになったの」

 わあ、すごい、親戚以外の身の回りの人が結婚するの、初めてだ。おとぎ話を目の当たりにしたような気がして、私は「うわあ……」と子供のように声をあげてしまった。

「すごい、おめでとうございます。お祝いに、ここのお食事を支払いたいところですが……さすがに、無理そうです……」

 私は嬉しさのあまり変なことを言った。ルナさんは笑い転げた。

「学生の女の子がこういう場面で『お祝いに払います』って切り返しするの、おかしいね」

 さほどおかしいとも思えなかったけれど、ルナさんにはツボだったらしい。でも多分、幸せが高じすぎていてハイテンションだったんだと思う。

 ルナさんは笑い終えると、少し酔いが回ったのか、くだけた感じで乗り出してきた。

「ねえ、偉そうにまたお姉さんぶって語っていい?」

「なんでも聞きますよ。ルナさんの話、私、すごくいつも役に立つから」

 たまには女性の酔っ払いの相手も悪くない。どんなバカバカしい話でも私は聞くつもりだった。年上の人から経験談を聞く機会は案外ないもので、私にとってはいつもルナさんが人生の先輩として上手なお説教をしてくれた印象がある。

 ふふふふーととても嬉しそうに笑って、ルナさんはとても素晴らしい教示を私に与えてくれた。ルナさんも私の「運命の人」なんだなと思いながら、私は話を聞いていた。

「結婚について、『望まれて嫁ぐのが女の幸せ』とか、『二番目に好きな人と結婚するとうまくいく』とかいう話、聞かない? 私ね、そのことを、何バカを言ってるのか、自分が好きでたまらない人と結婚するし、二番目と妥協するなんてもってのほか、って思ってた。最大最高に好きな人と目一杯熱い恋愛してゴールインするぞって。

 私、恋に熱くなりすぎるタイプだったからいつも傷だらけで、自分の熱でヤケドするみたいなことばっかしてた。好きになったこと自体を後悔した人はいないけど、自分がバカをやらなければよかったっていう後悔はすっごくいろいろある。

 ……でもね、結婚することになった今の人は、そうじゃなかった。ただとても穏やかに私のことを思いやってそばにいてくれる人。でもきっと五十年後も、ううん百年後もお墓の中で、この人は私のことが大好きだろうと思った。ああ、この人だったら、ずう……っと好きで生きていけそうだなって思った。ただ、私の恋愛の歴史の中で、何番目に好きかって聞かれたら、他の人たちに対してはものすごい熱量があるのに、この人にはそういう熱量がないの。一瞬一瞬で見ると他の人たちのほうが熱いから、歴代彼氏や歴代好きな人のほうが熱くて好きだったみたいに見えなくもない。でも、一瞬でどこまで高く昇れるかっていうのは、あくまでその短い時間の中でのこと。それで、『二番目に好きな人と結婚するとうまくいく』っていう本当の意味がわかった気がした。

『望まれて嫁ぐ』っていうのは、自分は望まないっていう意味じゃなくて、多分、自分より相手のほうが愛情が多いこと。それから『二番目に好きな人』っていうのは、本当に一番二番ってことじゃなくて、情熱を傾けすぎない、好きになりすぎない人と結婚すると上手くいくってことなんだろうなと思った。昔の人が言うことってたいがい正しいよね」

 私はただじいっとルナさんの顔を見ていた。

「退屈?」

「ううん、ものすごく大事な話だと思って聞いてるんです」

「まだまだのろけ話、しゃべってていい?」

「どんどん話してください。今、ものすごく役に立ってます」

「もう、実花、しゃべらせ上手だなー」

 それからもルナさんはすごく幸せそうに語り続けた。これまでの恋を否定するわけではないけれど、今の婚約者との恋愛の質は明らかに違うこと。「望まれて嫁ぐ」と「二番目に好き」がものすごく腑に落ちたということ。やや酔っ払っていたルナさんの話は若干繰り返しだったけれど、それだけ身をもって実感したということを私は聞き取っていた。

「永遠なんて信じないけど、信じたくなるよね」

 そう言って首を傾けて崩れ落ちそうなほど幸せに笑ったルナさんの顔を、私は強く胸に刻んだ。

 ルナさんに幸せのハグをされて解散した後、私はすいている電車の中で座らずに立って外を眺めていた。ドアのガラスに映る自分の顔と、その向こうに広がる街。途中でいつもの電車に乗り換えて、小川くんの最寄り駅を通り過ぎた。

 大学生活はあと一年。縁はあるのだろうか。

 長い長い道のり。答えは運命が出してくれるだろう。私はもう小川くんに自分から近づくつもりはなかった。それでも、携帯電話を取り出して、小川くんの連絡先が消えていないことをしっかりと確かめた。

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