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第三部 一 恋愛飢餓感

 初めての彼氏を失ってから、たくさんのことを考えた。次の恋ではどうありたいとか、もっと大人になってからもう一度荘内先輩と恋をする日がくればいいとか……。

 それでも多分、私が一番たくさん考えたのは、小川くんのことではないかと思う。もちろんそれは荘内先輩について悩みすぎた後、もう先輩について考えるのはやめようと努めた中でのことだけれど。

 高校時代も、大学での再会も、そして一緒に過ごせた短い時間も、小川くんと一緒にいる間、世界はいつも輝いていた。なぜ私はいつも彼と恋をしそこなうんだろう。なによりも、あの日のサッカー場の不思議な気配が理解できなかった。大好きなつもりで隣にいたのに、全部が消えてなくなってしまった。この人じゃないんだなと、私は何を根拠に思ったんだろう。

 荘内先輩への我を忘れるようなみっともない情熱のようなものを、小川くんにはなぜ感じられないんだろう。小川くんに対しては、私はいつもそれなりに上手く振る舞っている。失敗した記憶はまるでない。結局、私は彼をどう思っているのだろう。反対に、彼はどうなんだろう。

 大学二年の春に荘内先輩と別れ、それから一年が経ってやっと私が落ち着いた大学三年生の春、妙にキャンパスで小川くんと遭遇することが増えた。彼はいつも一人か男友達数人と一緒で、女性と一緒にいることはなかった。そのたびに、彼が女性といないことに安堵した。なぜ安堵するのかは不明だった。彼を好きになるつもりもないのに……。

 見かけるたびに、会うたびに、小川くんに対して不思議な懐かしさと甘苦しさを感じた。それは過去の美しい思い出を振り返るような、届かない憧れに切なくなるような、なんともいえない心地よさだった。

 そんな中、大学から帰ろうとして、何があったか駅がひどく混み合っていた日があった。それでも電車に乗らないと帰れないので、私は駅のホームの隙間に陣取り、なんとか必死でドアに飛び込んだ。背後からさらに無理に乗ってきた一群に押されて前方へと放り出されたら、飛び出した先に小川くんが立っていた。二人とも「あれっ」と声を漏らして、お互いの距離の近さにえも言われぬ気まずさを感じてそのまま黙った。

 電車が発車すると人の雪崩がゆるやかに起こる。足下には誰かの荷物が陣取っていて、上半身は押され、足下は身動きできず、私はバランスを完全に失った。ぎゅうぎゅう詰めだったから倒れはしなかったが、ひどいアクロバットな体勢で私は斜めに立たされた。これは無理、次の駅まで絶対無理……と打開策を探していたら、

「大丈夫? 嫌かもしれないけどちょっとガマンしてね」

 と優しい声がすぐそばで聞こえた。

 私の肩から首の後ろにかけて、小川くんの手が回り込んできて、私の上半身を押しているおじさんの背中を静かに強く押し返してくれた。そして同時に私の足下を塞いでいる荷物を足でぐっと押しのけて、足場を作ってくれた。私はまっすぐ立つことができた。途端、次の駅に接近して軽くブレーキがかかり、今度は逆向きに雪崩が起きた。彼は思わず私の肩に触れていた手に力をこめたため、まるで肩を抱くような姿勢になった。その状態はすぐに解消したものの、踏ん張った力が雪崩に負けて、私に一歩踏み込んだ。

 私はよろけたふりをして小川くんの胸元に近づいた。こんなチャンスはめったにない。好きではなかったと何度も思ったはずなのに、私は何度でもこうやって彼に惹かれていく。

 小川くんが私の後ろに回した手をまだ下ろしていない気配が、えも言われぬ気まずさを醸し出す。下ろせないだけなのはお互いにわかっているけれど。

「ゴメン、悪気はないから」

 至近距離から小川くんの囁き。そうかな。悪気、ないかな。あってもいいけどな。それでも私も言い訳をした。

「こっちもゴメン、居場所、なくて……」

 言葉を返したらずるくなった。電車の揺れのふりをして、私は彼にできるだけ身を寄せた。三駅、四駅、五駅と過ぎていき、とうとう私と彼のそばのドアが開いた。ドアの外へと転がり出ていく人の雪崩に巻き込まれ、きりきりまいになって二人でホームに押し出された。

「――俺、こっちだから」

 小川くんは背後の、反対方面へ向かう電車を指した。そう、彼はもっと手前の駅で降りなければいけなくて、でも車内はとうていそんな状態じゃなかった。反対側のドアが開き続けた六駅の中に彼の最寄り駅はあった。そして彼はその駅で、人をかき分けて降りようとしなかった。

 帰ろうと彼が背後に体を向ける前に、

「あ、――ちょっと、待って……」

 と私はしおらしく言って彼の上着の袖をつかんだ。両方の電車には順次人が詰まっていき、途切れ途切れの音を響かせてドアが閉まった。それを合図に私は袖から手を放した。

 階段に向かう人の流れを避けて丸い柱の陰の死角に移った私たちは、なんとなくしばらく黙って立っていた。その雰囲気はまるで、昔別れた恋人同士のようだった。

「ゴメン、一本遅らせさせちゃった」

 私が謝ると、小川くんは、やっと笑った。

「園田さんも、乗ってきた電車で帰れなかったでしょ、お互い様」

 お互い様なもんか。私は彼を引き止めた。彼は私を引き止めなかった。そこには大きな違いがある。

 私は所在なくて彼の胸元を漠然と見ていた。いつの間にか、胸が男らしく、広くなったような気がした。もう彼も二十歳を過ぎた。出会ってからもう五年が経つ。次の恋は、今度こそこの人だといいなと思った。

 長く黙っていたらおかしい。私は必死で「言うべきこと」を探した。比較的簡単に回答は見つかった。数日前、ポストに、このときのための助け舟が来ていたっけ。

「……同窓会、行くの?」

 二十歳を記念して高校の学年全体同窓会が開催されるという連絡があった。高校の卒業生交流会主催で、高校がバックアップしている、ちゃんとした会だ。

「え、行かないよ」

 小川くんはごく自然に言った。即答に拍子抜けした。私はそれなりに、切ないような恋の雰囲気の中で問うたつもりだったのに。

「えーっ、行かないの?」

「別に、会いたい奴には会うし、会いたくもない奴に会いに行ってもしょうがないし」

 男の子ってこんなものかな。それとも小川くんがドライなだけか。私は由と一緒に行けたらいいなと、ちょっとばかり楽しみにしていたんだけど……。

「園田さんは行くの?」

「……うん、そのつもり……」

「へえー、あんなの誰も行かないかと思ったら、いるんだねー、行く人」

 こう言われてしまったら会話はもう終了するしかない。それでも必死で話題を探して、私はこれだけ、聞いた。

「そういえば、ずっと連絡してないけど……番号とか、変わってないよね」

 それなりに勇気の要る質問だった。電話番号が変更されていたら、「また教えて」と言えるほどもう親しくない。

「あ、全然変えてない。機種変とかもしたけど、変わらないようにずっとしてある」

 これまたあっさりと、彼は私に、嬉しいほうの答えをくれた。私が喜びを必死で隠していると、小川くんは苦笑して問い返してきた。

「自分だけ聞かないでよ。園田さんは変えちゃったの?」

 とんでもない。小川くんから連絡が来て番号が黙って変わっていたら気まずいと思ったことは何度もあった。

「私も変えてない。――何かあったら、いつだって、連絡つくからね」

 だから以前のように、誘ってもいいんだよと……小川くんがもう私とそういう位置関係にないことはわかっていても、口にのせる言葉に含みを持たせずにはいられなかった。

 そのままお互いに反対方向の電車に乗り込んで帰途についた。まだホームも電車も混んでいるからと小川くんが繰り返した「気をつけてね」が、私を女性扱いしてくれたようで心地よかった。

 この日のこれはよくなかった。私はやっぱり寂しかったのかもしれない。小川くんのそばに身を寄せたくて、抱きしめられたくて、ものすごく切なくなってしまった。背中に回った腕、感じた体温、至近距離で響く声、すべてをリクエストしたい。荘内先輩の腕の温かさをまだ覚えていた。その幸せはもう戻ってこないけれど、他の人と恋をすればまた手に入る。

「しばらく恋はいいや」なんて友達相手には格好をつけていたけれど、恋への飢餓感のようなものは日増しに強くなっていき、その時その願望の先には、たまたま小川くんがいた。寂しさのはけ口にすぎないとしても、神様はその相手になぜか小川くんを連れてくる。

 大学で、さりげなく視線で小川くんを探すようになった。無駄に購買やカフェテリアに足を向けることが増えた。実際、会うことも増えた。もしかしたら、別の恋が私に近づいてきているんじゃないか……とも思った。小川くんは恋の分岐点に現れる謎の使者。私は彼のことが妙に好きで、大好きで、でも結局は他の誰かを好きだという結論と出会う。

 それでもいい。小川くんが次の運命の人ならそれでいいし、他の恋が訪れる予兆ならそれもいい。

 多分、私は恋に飢えていた。


 由は、七月に付き合いはじめた彼氏と半年で別れて、その後四歳上の別の彼氏ができてそろそろ四か月になろうとしていた。でもゴールデンウィークを前にして『別れようかなー』というメールを寄越した。本当は由に聞いてみたいことがあった。彼氏と最後まで進んだかどうか。でも下世話な興味と思われそうで、どうしても聞けなかった。

 サークルでは荘内先輩とずっと顔を合わせていた。相変わらず先輩は温和で優しいお兄さんで、由もこういう人なら一歳しか歳が上じゃなくてもいいかもしれないし、それなら先輩にあんなふうに求められた時、どう対処したんだろうと考えていた。

「二十代でまだ処女なんて」という価値観の女性がいるのは知っている。でも自分の体内に他人を侵入させるなんて慎重でいいに決まっている。それだけでなく、間違えてしまったら子供ができるわけで……。私には「Hすること」がロシアンルーレット級の愚行にしか思えなかった。確率は低いかもしれないが、ヒットしたらそれで終わり。人生設計がすべて狂ってしまう。なんでそんなことに急いで挑まなければならないのか。だから荘内先輩と別れたことを後悔はしていなかった。

 先輩はもう四年生で、来年にはもういない。いろんな複雑な思いもあったけれど、優しい笑顔を見ていると、やっぱり初めての彼氏がこの人で正解だと思ったし、ファーストキスがこの人だったのはよかったと思えた。

 私の次の恋はどうなるんだろう。Hはすることになるんだろうか。恋愛をしたい私の悩みはいつもそこに向かっていく。

 クラスの仲良しの女子三人は、一年のときは熱心につるんでいたものの、二年で必修が減り、三年では必修がほぼなくなって、必要最低限の付き合いになっていた。だからかえって話しやすくて、結局、悩みに悩んだあげく、クラスメイト三人をお茶に誘って恐る恐る悩みを打ち明けた。篠は明らかに「そういうの、まだ私には関係ないわ」という態度で聞き流していた。佐緒理と今日子は「隠すようなことじゃないから」と、とっくに彼氏とそういうことを済ませているのを教えてくれた。それでも二人は、私がそこまで進むのを許容できなくて先輩と別れたことについて「それでよかったんだよ」と言ってくれた。

 由。由はどうなのと、聞きたいけれどなぜか聞けなかった。多分、私にとって、由は友人というだけでなく、憧れの人だったからだと思う。きっと「半年で別れた彼とも、今四か月付き合ってる彼とも、済ませた」なんていう話だったら聞きたくないのだろう。

 私が「恋愛とは」と悩みつつ、小川くんとの恋を期待して過ごしていると、由から『結局、彼氏と別れちゃった』とメールが来た。きっと由も試行錯誤の途中なのだと、右往左往しているのだろうと思ったら嬉しかった。そんな感想は由に失礼ではあるけれど、なんだか安心できた。

 ゴールデンウィーク翌週の土曜は、高校の学年同窓会。私は行くけれど、由は行かないそうだ。「高校には、ソノミー以外、面倒な思い出しかない」とのこと。確かに、プチモテ状態だった由は何人かの男の子を振り払っていたから、再会が面倒ごとでもあるのかもしれない。別の友人たちは何人も来るから、私はその日を楽しみにしていた。

 小川くんとの遭遇率は上昇したままだった。だから私は、同窓会で思いがけない人と再会して、恋が始まることを期待した。あるいは三年生になって新しいアルバイトを始めたから、そのお店での出会いでもよかった。

 きっと、二度あることは三度ある。自分がこうして小川賢紀に強く惹かれていること自体、また恋の運気が動く前兆に違いない。幾分思い込みでもあったけれど、私は小川くんに心揺れながら、その気持ちが別の恋を連れてくる期待にも身を浸していた。

 ただ、相手が誰であれ、次の恋でもきっとまた、キスから後が大いなる問題となるに違いない。それだけはひどく気が重かった。

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