表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/15

第二部 五 由の告白

 久しぶりに会った木崎由は、めちゃめちゃ綺麗になっていた。高校時代の由は、脚は確かにカッコよかったけれど、美人とか顔がいいとかいう感じはなかった。でも大学生の由は美人に見えた。ちょっとこまっしゃくれてお高く止まったような、つんっとした感じがするけれど、それが美しい小鳥のようですごく可愛い。

「由、すっごい美人になったねー」

 私が感嘆してそう言うと、由はふっと、ちょっと斜めに笑った。

「整形なら、してないぞー」

「えー、それは絶対整形じゃないよ、すごく由っぽいのにすごく綺麗だもん」

「褒めてくれてありがとー」

 私と由は、母が出かけてしまい、父が休日出勤日の、お正月のある昼下がりに我が家のダイニングでお茶を飲んだ。私の部屋に案内できればよかったのだけれど、残念ながらあそこは美しくてカッコいい木崎由を招き入れるには散らかって汚れていた。

「これ、“彼氏ができた祝い”。絶対ソノミーに似合うと思って、買ってみた」

 由はややオレンジ色の入ったピンクパールの口紅をくれた。明るくて可愛い色は、地味な私に似合うとはとても思えなかった。戸惑っていると、由は笑った。

「ソノミー、あんた、自分もすっごい綺麗になってるって、自覚したほうがいいよ」

 全然意味がわからない。私はいつも地味でパッとしない。それでも、由がこんなに綺麗になったからには、その十分の一くらいは私も綺麗になっている可能性があるかもしれないと思った。

 由は面白おかしい話ばかりして、なかなか「本当のこと」を話そうとしない。やがて夕方が近づいてきて、差し込む日差しがやや黄色くなってきた。

「ああ、ダメだソノミー、この家は幸せな空気が詰まってる」

 突然そう言って立ち上がった由は、荷物を手にして上着を着た。

「ソノミーも、外出る用意してきて。ハイ」

 指先で私に二階で支度してこいと指示すると、由はとうとう暗い顔になった。私はいよいよ震え上がった。由に一体何があったんだろう。

 私の家を出ると、由はどこに行きたいのか、ふらふらと街の中を歩いた。由は当然私の地元に詳しくなんかないので、時々「駅ってどっち?」と聞いては軌道修正した。

 駅の近くまで来て公園を見つけると、由はそこへ入っていった。ブランコと鉄棒と、真ん中に滑り台を兼ねたコンクリートの山があるだけの殺風景な公園だった。

 由はまっすぐブランコに向かっていき、二つあるうちの一つに座った。つまり私はもう一つのブランコに座れということだ。私はすぐにおとなしく座った。

「ねえソノミー、あんた、実はとっくに気がついてるとかない?」

 由はそう切り出した。私はまるっきり話が見えなかった。ポカーンとしていると、由は大きすぎるため息をついた。

「一から話すの、重い。あんたはちょっとくらい、察しててくれればよかったのに」

 しばらく由の口は開かなかった。それから、三回ほどやるせないため息が漏れて、やっと小さな声が公園に転げ落ちた。

「――原田先生が、離婚した」

 その時の私の衝撃は、大学で小川くんを見つけたあの時のさらに十倍にも及んだ。その一言で、私はいろんなことを理解してしまった。だからその後の由の告白じたいにはそれほど驚かなかった。

「お兄さんタイプの人がいいとか、大学のサークルで年上の彼氏を探すとか、全部ウソだよ。だって、お父さんみたいな人がいいなんて、言ったら答えがバレちゃうじゃん。だから言ったのに。女性たちが誰一人嫌ってないのに恋愛対象に入れてない人が狙い目って。皆にいい人と思われてるのは必ず優しい、いい人だって。そういう人好きって、言ってたじゃん。それって原田先生だよねって、あんたもその時看破してたじゃん」

 由。私ずっと由のついたウソ、見抜けなかった。『でも一人いるよね、そういう人。原田先生』って言った時、由はどんな顔をしたっけ。表情は覚えていないけど、なんだか変な顔をしたなっていう印象だけは残ってる。実は言い当てていたんだ。

「私、最初に、十三歳の時に原田先生に告白したの。お父さんの代わりだなんて思えなかった。父は父。この人は別のおじさんだって思った。でも父のように温かくて、兄のように優しくて、大好きだった。いつも来るのが待ち遠しかった。ずっと家にいてほしくて、小学生の時は父と兄の代わりに好きなんだと思ってた。でも中学生になった頃には、そうじゃないって思った。その場にママるんに一緒にいてほしくなくて、私とだけ話をしてほしかった。だからそう言った。好きだから一緒にいてって」

 由はそれだけ一気に言うと、ブランコをわずかにこいだ。由のブランコがゆらゆら揺れた。

「先生は、子供の、幼い女の子のたわごとだと思って当然相手にしなかった。だから、十年待ってねってお茶を濁してきた。十年経ったらそんなこと忘れてるって見くびられてるのは、私もすぐにわかった。だから、五年しか待たないって言った。十三歳の五年後だから、十八までは待つって言った。それでも私、――五年待つのもつらいくらい、ずっと原田先生のこと好きで。だからソノミーをダシにしてサークルまで押しかけた。先生にはソノミーが天体に興味があるからって言った。でも、ソノミーの様子見てたらすぐに先生には私の策略なんかバレたけど」

 まるでオセロゲームのように、脳内の記憶がパタパタと裏返っていく。お兄さんみたいな人が好きと、だから同世代は嫌と、誰にも靡かなかった由。本当は、ずっとずっと好きな人がいたんだ。それもお兄さんみたいな人じゃなくて、お父さんほど年の離れた人。

「ソノミーに、外山さんの車に乗れって言ったの、ソノミーのためじゃないよ。外山さんのためでもない。私、先生の車でドライブしたかった。二人っきりで車に乗って、いろんなこと話したかった。だからソノミーを追い払っただけ。ゴメン」

 こんなにも事実は明白に目の前に突きつけられていたのに、私は何も気がつかなかった。もちろん、気付いたとしても何ができるでもなかったけれど、少なくともこういう話を当時から聞いてあげることはできただろう。由は一人で悩まなくてよかっただろう。

「約束の五年は経ちましたよって、大学生になってすぐにもう一度私は先生に告白した。でも『お父さんにはなってあげられないよ。君はお父さんと見間違えてるだけだよ』ってまるで相手にされなかった。『それにボク、奥さんいるんだよ、知ってるよね』って。知ってるよ。だけど相手は小学生の時から一人で家に来てくれるおじさんだよ。奥さんとか子供とか、会ったことも見たこともないから実感わかない。確かに、私がどんなに引き止めても、絶対に一時間いるかいないかで帰る人だったけど、奥さんのもとに帰っていくなんて感じたことない。でも先生の言うことはわかった。不倫なんて絶対する気ない。だからあきらめた。その時、すごくつらい思いしてあきらめたのに、先生――この前、離婚したんだよ」

 由は慌ててカバンからハンカチを出した。そしてガバッとそこに顔を埋めた。しばらく、由の背中がひくひくっと動くのを黙って横から見ていた。私は何一つ由の友達らしい役に立っていなかったんだなと、その背中を見て自分を責めた。

「離婚、したなら、私にもチャンスありますよねって――私、しつこいと思ったけど、また先生に連絡しちゃった。そしたら今度こそ言われた。『これまでは他の理由が言えたけど、もうちゃんと言うしかないね』って。『ボクはキミのこと、女性だとは思えない』って。『一番よく思えて、娘としての愛情までしか持てない』って。でも、離婚なんてしないでほしかった。必死であきらめたのに、また可能性が出てきちゃって、やっぱり好きで、私あの人のこと、十二歳の時から恋として好きで、もう七年近く無駄にしちゃった……」

 とうとう由は何も語らなくなった。私はただ無力に、黙ったまま心の中で「由」「由」と呼びかけていた。肩に手を添えてあげたいとも思ったけれど、振り払われそうで、怖くてやめた。怖かったのは、私が拒絶されることではなく、そうすることで由が傷ついてしまうこと。木崎由はいつだってカッコよくて、同情なんてされる子じゃない。

 家を出てきた時点でもう夕方になっていたから、じりじりと日が落ちて、比較的すぐに夜になった。私はいろんなことを考えながら由の隣に座っていた。退屈はしなかった。由と一緒にいたいろんな時間を思い出しては、その時の由の気持ちを認識し直していた。

「ソノミー」

 突然由がハッキリした声で言った。私は黙って顔を向けた。由はハンカチからむくっと顔を上げて、目の周りと鼻をぬぐって、濡れた側を内側にしてハンカチを折りたたんだ。

「黙って聞いてくれてありがとう。あんたはいい友達だわ」

 私は由の言葉が承服できなかった。何も言ってあげられない無能な友人だと自分を責める気持ちしかなかった。

「さっき七年って言って気がついた。私、七年しか無駄にしてない。この後、まだ二十年……は、言いすぎかもしれないけど、そのくらい恋愛できる。七年なんてどうってことない。私もソノミーを見習って、彼氏を作る」

 由は私のほうを見ないまますっくと立ち上がった。

「ずっと騙しててゴメン、ソノミー」

 私も慌てて立ち上がった。

「ずっとわかってあげられなくて、ゴメン由」

 ぐしゃぐしゃっと、今度は手の甲で、由は目と鼻をぬぐった。公園の水銀灯に照らされた由はひどい顔をしていたけれど、やっぱりものすごく綺麗だった。


 由の衝撃の告白の後も、私は由に何をしてあげられるでもなく、しばらく簡単なメールが行き来した後はまたほどほどに疎遠になった。でも私と由はそういう関係でずっと来たし、今回のように何かあればお互いを頼りにできることはわかっていた。

 由の告白を聞いてあげられてよかった。由にしてみれば、原田先生の人となりをまるで知らない友達にこんな話をしても真意は伝わりっこないと思っていただろう。原田先生のぼうっとして冴えない感じ、女性に興味のなさそうな感じ、ただただ天体にかまけている様子を見ていないと、ただの不倫騒ぎにしか思えない。でも実際はそうじゃない。

 由は清く正しく美しくてカッコいい、なんでもできちゃう素敵な子。由の明るさ強さを見ていたら、あんなに年上で既婚で浮世離れした原田先生に惹かれる気持ちはわからないだろう。不幸で不遇な生い立ちを知っていれば、彼女が何を求めて生きてきたかをわかってあげられる。でも普段の由だけ見ていても、そんなことは決してわからない。私は初めて由の本当の孤独を客観的に理解できた気がした。あくまで客観的にでしかないけれど。

 由は正々堂々清い気持ちで原田先生に恋をしたし、先生もやっぱりいい人、ちゃんとした人で、由の成長に都度合わせて返事をしてくれたんだと思う。十三歳を相手に「ボク、奥さんいるから」という返事は適切じゃない。きっと由の男を見る目は確かだ。だから由は、今はつらいだろうけど、これから幸せになれるに違いない。

 由が傷ついている時に友達がいがないなとつくづく思いながら、私は人生初のバラ色のハッピーを満喫していた。想っている人が想ってくれる。家でふと思い立ったら電話ができる。荘内先輩は温かくて優しくて、誠実で穏やかで、正直で素直で寛容で、頭がよくて本当に素敵な人だった。表面上は決してはしゃがないようにしようと思いつつ、私はサークルの女性全員に「あんたたちの目は節穴だー!」と叫んでやりたいと思った。なんでこの人を放っておいたんだろう。彼女になった人は絶対に幸せだろう、そんなことはみんな知っていたはずなのに。女の先輩方なんか、私より美人でも可愛くても、結果としてみすみす後輩の私がかっさらうまでこんな素敵な人を放っておいたわけで……。

 とにかく私はとんでもなく舞い上がっていたし、でも舞い上がる女は嫌いだからそんな自分を必死で把握して押し留めようともしていた。一方で素直な荘内先輩は時々あからさまにサークルでも空を飛んで見えた。でも、私と付き合っていることがそんなに嬉しいのかなと、私の幸福が倍増するだけだった。

 サークル内で、もちろん私と荘内先輩がうまくいったことは情報共有されたけれど、約束どおり私と先輩は淡々とそれまでと同様に過ごした。むしろ距離を置いてクールにしていたから、すぐに「もう別れたの?」なんて言われてしまった。

「荘内先輩は次の部長だし、サークルまで来て恋愛ばっかりなのはおかしいですから」

 涼しげにそう答えた私の心の中は、猛烈な優越感に満ちていた。自分をしょうがない人間だと再三自覚した。それでもハッピーはやめられなかった。

 週末に遊園地に行って、映画に行って、スケートに行って、バレンタインデーを迎えた。人けのない都心のビルの物陰で、初めてのキスをした。優しくて不器用で、正直、下手だった。むしろ嬉しかった。でも本当は、付き合ってひと月半でキスまで進むのは早いと思った。どんなに早くても半年はかかると思っていた。ただ、その認識が甘かったことは理解した。後悔はまったくなかった。

 この、クリスマスからバレンタインまでのひと月半ほどが、結局は私と荘内先輩の一番幸せな季節だったことになる。春の足音が近づくとともに、私と先輩はすれちがっていった。幸い、サークルで元々距離を置いていたおかげで、私と先輩に会話がなくなったことを誰もおかしいと思わなかった。

 キスの後に何が起こったか――それは、多分、人生で初めて異性と付き合った人たちの多くが経験することだと思う。私と先輩は、二か月近く、Hをするかしないかのバトルを繰り広げた。きっと多くの人がこの障壁を越えていくのだろうけれど、私たちは、そのまま終焉へと向かってしまった。ひと月半でキスをしたら、次は着々とHに向けて邁進するなんて、私はまだ無理だった。けれど先輩はそうしたかった。私は断った。先輩はそれが理解できなかった。結局、その溝が私たちの恋を侵食していった。

 好きなら許してほしいというのは男性の理論だ。失うのはいつも女性で、リスクを負うのもみんな女性だ。先輩は私のことを本当に好きだし愛していると言ってくれた。一生一緒にいようとも言ってくれた。就職したら早めに結婚しようとも言ってくれた。でも、だから深い仲になろうなんて言われても困る。男性は夢物語で勝手なことが言える。だけど、今その言葉が本気でも、結果としてウソになることだってある。その時、ゴメンでは済まない。ゴメンで済むのは男性の側だけだ。

 一年待ってと私は言った。一年付き合って、ずっと大好きで、もっと長く一緒にいられると信じられたらきっと受け入れるからと。先輩は「俺のことそんなに信じられない?」と悲しい顔をした。信じたい。でも、二十歳やそこらの男性の誓いを、無邪気に十割信じられるほど、私は子供じゃなかった。

 悩みに悩んだ私は、一度ルナさんに電話をかけて相談した。私と由が高校生の時に潜り込んだ大学のサークルのメンバーで、私が外山さんという悪い男に襲われそうになったのを助けてくれたルナさん。ちょっとお化粧は派手だけど優しくて思いやり深いルナさん。大人の女性のルナさん。

 ルナさんはとても親身に話を聞いてくれて、それから、アドバイスをくれた。

「園田さんが一年待ちたいんだったら、彼氏には『絶対に一年はしない』って言っておけばいいと思うよ。園田さんが一年って言うのに、そんなの嫌だってどうしても彼氏が言うなら、残念だけどその時は、『すぐにヤラせてくれる彼女を探して』って言って別れたらいいよ。でも――実際は、一年って言っておいて、本当のところは半分ガマンしてくれたら、いいんじゃないかな。でも、あなたのことを本当に待てる男と恋愛しなきゃダメだよ」

 本当は一年だって不安だし、交際半年なんてとんでもないと、私はルナさんに力説した。ルナさんは笑った。

「そう思ってる子も、実際はもっとずっと早く押し切られちゃうものだよ」

 私は目を白黒させた。やっぱり、何が何でも一年は清い交際でいたかった。だから荘内先輩にも再三それを伝えた。必死に説明した。でも先輩はいつも悲しい顔をした。

「俺は信用されてないんだね」

 結局堂々巡りになる。とうとう私がうんざりしてしまった。

「体目当てで近づいたんだったら、他を当たってください」

 先輩が本気で怒るのを初めて見た。でも、その怒りの理由がわからない。私はまだHをしたくない。それは私の自由だし、自分で時期を決める権利はあるはずだ。

「だったら俺はどうなるの?」

 恋愛が何なのかわからなくなった。ヤリたい盛りの適齢期のオスを相手に理屈は通じない、そう思って絶望した。

 あんなに幸せだったのにと、少し前までの自分を思い出して幾晩も泣いた。昔外山さんに襲われかけたから過剰に拒否しているのかもしれないと怖くもなった。Hを許可しない自分が異常なのかと悲しくなった。でも、恐る恐る由にもその状況をメールで伝えたら、一刀両断してくれた。

『彼氏はソノミーのこと、まるっきり、幸せにする気がなくなっちゃったんだね』

 そうだなと、脱力しながら納得した。先輩と付き合っていることはもう不幸でしかなかった。悩みや苦しみばかり生まれてきて、時々やけくそで「ヤラせてあげればいいんでしょ」と自分の体を叩きつけてやりたい気分にもなった。まるで「死ねばいいんでしょ」と屋上のへりに立つみたいな――そんな気持ちのどこにも幸せなんてなかった。

「疲れました」と別れを切り出した。先輩はそれでも何もわかってはいなかった。あくまでもHをするかしないかの話だとしか思っていなくて、心からの愛情はいずれ体の結びつきに自然になっていくと力説していた。

「俺がキミのことすごく好きでそう言ってるのは伝わらない?」

「だから――先輩が私を好きでいる限りこういう話をし続けないといけないなら、私はもう無理です。私はもうやめますから、先輩も私のこと、好きでいるのやめてください」

 別れる、別れないの押し問答が繰り返されるたび、気持ちはどんどん冷めていった。初めての男女交際に浮かれすぎていた自分を恥じた。好きで好きで、あんなに夢中だったのに、多分どこのカップルも乗り越えられるようなことが、私たちには乗り越えられなかった。先輩はいい人、優しい人、とても素敵な人だった。でも、女の子が恋愛の果てに失うものの大きさや大切さをちっともわかっていなかった。

 結局お互いに理解し合えないまま、私と先輩は四月に別れた。実際はもっと早く破綻していたけれど、「もう、お互いに、これでいいよね」と納得し合えたのは四月だった。たった四か月弱、そのうち幸せなのはひと月半、私の初めての恋はこうして終わった。


 別れてしばらくの間、サークルでは別れたことを伏せたまま、荘内先輩と私はしらばっくれて距離をおいていた。小川くんとはごくまれに、二か月に一度くらい校内で顔を合わせた。でも、「おはよう」とか「元気?」とか、簡単な挨拶だけで会話は終わりだった。

 荘内先輩と別れても、だったら小川くんにすればよかったという気持ちは湧かなかった。やっぱり可愛いし素敵だなと、彼を見かけるたびに思ったけれど、先輩のこととは無関係に、あの日サッカーの試合の後で、確かに私と小川くんは終わっていた。始まってもいなかったんだから、そういう言い方もおかしいけれど……。

 そういえば、私と先輩が別れた三か月後、由に彼氏ができた。原田先生に気持ちはいくらか残っているけれど、やっぱりお父さんが欲しかった側面はあると思う……と由は自分を振り返った。だから恋を始めてみることにしたと、彼氏と撮った写真を送ってくれた。相手は由のサークルのOBで、六つも上だった。結局、由ときたらどうしても年上が好きなようだ。

 一度だけ、サークルの夏合宿(夏とは言っても九月)の時、荘内先輩に深夜呼び出されたのが、その時期の私に起こった唯一恋愛らしいことだったろうか。別れて五か月近くが経っていた。

 先輩は「心配している」と言ってくれた。それから、「幸せにしてあげられなくてゴメン」と真剣に謝ってくれた。そして本当は今も気持ちが揺れることがあると言った。

「でも多分俺、キミが彼女になったらまた、同じ失敗をするんだろうね」

 このときに先輩が吐いたため息の切ない響きを、私は今も忘れられない。

 この人はこの人なりに真剣だった。私だって本気だった。ただ、お互いに幼かったんだろう。上手な折り合い方をとうとう見つけられなかった。

 もう一度だけキスがしたいと先輩は言った。私はそれを断った。本当は、その提案は悪くなかった。でも私はそれをきっかけに先輩をまた好きになるのが怖かった。

 きっと、すごく、本当に、荘内先輩のことを私は好きで好きで、大好きだった。だからもう傷つきたくなかった。自分の意に反して体を投げ出したくなって、自己嫌悪に陥るのも嫌だった。何度も何度も「それでもいい」と思った自分のことが、多分、一番怖かった。好きで、心が痛くて、痛すぎて、もう絶対そばにはいられないと思った。

「いい思い出になってくれますか?」

 私はめいっぱいの想いをこめて先輩に最後の言葉を投げた。先輩は、切ないけれどとても温かいまなざしでうなずいた。

 合宿最終日、私と荘内先輩は、別れたことを皆にやっと告げた。先輩はまた、男の先輩たちにさんざん小突かれて、「甲斐性なし」「バカ野郎」と罵られていた。私はそれを見ながら、初めての彼氏がこの人でよかったと、心から安堵していた。

 そのまま冬が来て、次の春がやってきた。

 また小川賢紀が私の人生に姿を現す、次の春が……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ