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第一部 一 点数遊び

 恋の節目に必ず現れるひとがいる。

 ただし、いつも「にばんめ」だけど――



 思春期に失恋すると、少女は人生のすべてが失われたかのような精神状態に陥る。

 他人事のような言い方をしてみたが、それは当時の私のことだった。

 私には物心つくかつかないかのころから家族同然に育った異性の幼馴染がいて、親同士が「この子たち、将来は結婚するといいわね」と言い合っていた。私はそれを真に受けて、彼を運命の人だと思っていた。でも彼は決してそうは思わなかった。

 小学校高学年、異性を意識しはじめる年齢で私は彼に明白な恋愛感情を自覚した。「恋してお付き合いをして最終的には結婚したい」と思った。しかし彼はその頃から私と仲がいいのをからかわれることを嫌うようになった。

 それでも私はずっと運命の人だと信じて疑わなかった。中学の三年間でほぼ完全に他人になってしまったことを理解せずに、中学校を卒業するときに情熱のこもった告白をして、玉砕した。

「幼馴染がどうこう、っていう漫画とかドラマとかに影響されすぎじゃないの。親が仲いいってだけで、別に俺たち自身、仲がいいわけじゃないし」

 彼の困惑の極みという声が耳に残る。でも私がそれ以上に思い出すのは、幼稚園の遠足で他の男の子と手をつなぐのを嫌がったら彼が代わってくれたこと、クリスマスに二家族一緒に過ごしたこと、小学一年生で初めてバレンタインデーにチョコレートをあげたときに耳に口を寄せるようにして「ありがとう」と言ってくれたことなど、私なりに美しい思い出ばかりだった。

 幼稚園、小学校、中学校は彼と一緒だったが、高校は別々になった。だからこそ中学卒業で告白を試みたわけだが、失恋してみれば高校が分かれたのは本当によかった。失恋をずっしりと引きずった精神状態ではあったが、「新しい世界に、もう彼はいない」と何度も思い知ることができた。

 それでも私自身に気持ちを切り替える意思がなければ先へは進めない。私は「彼のことが好きすぎて、どうしようもない」という状態に酔ってもいた。それほど好きなのだと、だからやっぱり運命なのだと思いたかった。

 私の進学した私立高校は男女共学で、東大は無理でも皆が早慶を目指すようなそれなりの進学校。一、二年生ではクラス替えがなく、三年生は大学受験のために選択授業で自分なりのカリキュラムを組む。自主性と創造がモットーの割と自由な校風で、制服は着崩し可だった。

 高校一年生の私は、幼馴染の彼を思い続けて初恋に殉じるか、無理にでも次の恋をするか、悩みに悩んでいた。「もしかして、自然に彼氏とかできちゃうんじゃないか」という期待をしてもいた。全体的に仲のいいクラスで、男子と会話する機会はたくさんあったし、部活にも入ったし委員会もやった。しかし、「誰か、私のことを好きになって、劇的な恋の幕開けを運んできてくれないかな」という期待は次第にしぼんだ。秋にはもうすっかりぺちゃんこになっていた。

 幼馴染の彼とはもう完全に他人で、顔を見る機会すらない。新しい恋の気配はどこにも見当たらない。せっかくの高校生活、恋はしたい。でも初恋にどこまでも浸って悲劇のヒロインをやっていたくもある。「一途な少女」を貫けば、ある日再会した幼馴染とドラマのような恋が始まるのかもしれないと、まだそんな期待もしていた。

 そんな高校生活の真ん中に、「にばんめ」の彼はさりげなく現れた。


 私がクラスで一番親しくしている友人は木崎 ゆう、ショートヘアの似合う活発な女の子だ。脚がかっこいいので制服のスカートはしっかり短くアレンジしてキメている。私は制服を規定どおり膝丈で着こなし、長い髪をゆるく束ねて、全体的にいささか愚鈍そう――もといおっとりしたタイプ。

 由はいつも活動的な小鳥のように生き生きと飛び回っていた。そして部活では運動部と文化部を一つずつ兼部して、学園祭の運営委員もやっていた。私はクッキング同好会に図書委員という「家庭的でおとなしい」団体に所属していて、私と彼女はどこがどう気が合ったのかわからない組み合わせだった。

 私は彼女をそのまま名前で「由」と呼んだ。彼女は私のフルネーム「園田実花」を略して「ソノミー」と呼んだ。

 高校一年の秋、学園祭の季節。由は忙しさたけなわで、正門のアーチを作るの、案内ポスターとパンフレットを作るのと、学園祭運営委員の活動に明け暮れていた。私のクッキング同好会は週に一度、木曜日だけだし、図書委員の当番は二週間に一日回ってくるだけだったので、時々由を手伝って運営委員の本部にお邪魔した。

 学園祭実行委員会では学年ごとにリーダーが決められていて、一年生でリーダーになったら二年生では委員長をやる。三年生は実質、受験に集中するため活動しない。私たち一年生のリーダーは、同じクラスの馬場くん。ノリがよくガキ大将気質の彼と、活動的で何をやらせても器用な由は、いいコンビとして委員会の中心を担っていた。

 初めて経験する「高校の学園祭」は、おそらく世間一般のそうした催しと大差ないイベントだったのだろうけれど、華やかでとても楽しかった。出し物は知的で創造性に富んでいて、本当に高校生が一からやったのかと目を瞠るものも多かった。中学校の「学芸発表会」という学園祭の真似事みたいなものとは比較にならない。幼馴染のことはずっと思い続けていたが、この学園祭でそれまでの子供時代との世界の違いをまざまざと感じた。

 学園祭休みが終わって、「ああ、私、高校生なんだな」とふと身につまされた。女の子の思考回路はたくさんのことが「恋」につながっている。私は寂しさに身を任せつつ、恋を求めてノートの後ろのほうにこっそりとシャープペンシルを走らせた。

 五十音順に、クラスの男子の名前を全部書く。そして「顔」「性格」と二つの欄を作る。

 バカだなと自虐しながら、私はクラスの男子のスコアをつけていった。「性格」なんてわかるほど親しい人がいるわけではないし、「顔」の項目だって男子を顔で選ぶつもりもなかったし、だいぶあてずっぽうな遊びだった。顔と性格、両方のスコアが高かったら好きになってもいいな……なんて、不真面目なことを考えながらクラス中の男子を盗み見た。

 何の気なしに作ったリスト。各5点満点の、根拠の薄っぺらいスコア。私は特に誰がいいとも悪いとも思っていなかった。が――

 9って、なんだ?

 自分でつけていてびっくりした。顔5、性格4、計9。たいがいは「顔3、性格2」なんて意味のないスコアが並ぶ中、一人燦然と輝く高得点。「あれえ、私って、彼のこと、けっこうイイなって思ってたんだ……」とまばたきをして、こっそり彼を盗み見た。

 そんなことでもしなければまるっきり気がつかなかった、彼。

 小川 賢紀まさき――これが、私の、不思議な運命の人だった。


 小川くんに「顔5」という点数をつけたが、これは私の好きなバンドの、メンバーの中で一番好きなドラマーに似ているのがハイスコアの理由。そのドラマーは、地味だが目だけはすごく可愛くて、メガネをかけたりかけなかったりするその両方がとてもイイ。小川くんは普段メガネをかけないが、授業の時はかけている。地味で目立たないのに目が可愛くて、メガネのある・なしがどっちもイイから「顔5」。

「性格4」のほうは、一度、好きな漫画が同じだったことで話が盛り上がったから、他のあまり関わりのない男子一同よりワンランク上げて、中間の「3」より1つ上げただけ。

 でも結果的に、小川くんのスコアだけが突出していた。

 じゃあ私は彼に恋をしよう……ということになるわけでもなく、ちらちら盗み見て好きになる理由を探そうとしてみたが、そこまでだった。時々「ようし、恋愛するぞ」という気分にはなるのだけれど、元々別に気になっていたわけでもなく「スコアをつけてみたら結果的に高かった」という私の彼への認識は、恋愛から大いに距離があった。

 十一月になり、そこに変化がもたらされた。

「ソノミー、野球行かない?」

 由が珍しい誘いをしてきて私は驚いた。由は、部活(運動部のほう)はバレーボールだし、スポーツ観戦はテレビで日本代表のサッカーをちょっと見る程度。私はスポーツ全般見るのもやるのもまるっきりだ。「野球」なんてオヤジのむさくるしい趣味だという偏見を持っていた。まあ、最近は「野球女子」なるものが流行しているみたいだけれど……。

「なんで野球?」

 私は怪訝な顔で由に聞いた。由は「んー」と視線を左右に振ってから、

「馬場くんが、チケットが四枚あるから、私とソノミーでどうかって。あっちもクラスの仲のいい人から誰か連れてくるって」

 と答えた。そうか、学園祭の委員会で仲のいい馬場くんからの誘いか、と思って納得した。馬場くんは確か熱狂的なプロ野球ファンという話だった。

 もう一人、誰かって誰だろう。私はちょっとした期待に胸を躍らせた。馬場くんはかの「スコア9」の小川くんと仲がいい。確か小川くんと二人で野球の話をしていたようにも思う。野球ファン同士で一緒に来るんじゃないだろうか。

 由を通してOKの返事をして、十一月のある土曜日に東京ドームシティで待ち合わせをした。学校は制服だから、クラスメイトの男子の私服を見る機会なんてなかなかない。私は男子二人が私服で来ることがとても楽しみだった。

 待ち合わせは十七時に「野球殿堂博物館」の前。東京ドームシティに遊びに来たことはあったけれど、こんな博物館があるのは知らなかった。決して暖かくはない気温の中、由は短パンを穿いてかっこいい脚を出している。上は、逆にちょっとあったかそうすぎる、モコモコの可愛い起毛ジャケット。野球観戦だからだろう、野球帽ではないけどそれっぽいキャップをかぶっている。この格好で、野球の博物館の前で誰かを待っている由はなかなかカッコよかった。

 私はというと、野球場がどんな感じなのかまるっきりわからなかったので、動きやすくて楽な服にしておいたほうが安心だと思ってジーパンを選んだ。それでもせっかくクラスの男子に私服姿を見せるので、可愛いレースつきのチュニックと合わせてできるだけ女の子らしく着こなしたつもり。ただ、由と比べるとやっぱり野暮ったいというか、どことなくもさっとして垢抜けない感じ。由より見劣りするのは仕方ないんだけど、せめて服装くらいは勉強しないといけないなと思った。

「おまたせ!」

 馬場くんの声がして振り返ると、目に入ったのは馬場くんより先に小川くんだった。予想当たり! メンツ当たり! 大当たり!

「あ、小川くんだー」

 私はしらじらしく驚いてみせた。

「今日はよろしくー」

 ニッコリ笑う小川くん。そう、この目が本当に可愛い。他は地味で特徴ないけど。

 馬場くんは洗いざらしの黒のジーパンに黒のシャツ、黒の薄手のフェイクレザー。面白い系の人なのに、意外とハードに決めるんだなと、ちょっとびっくりした。そして、私の期待を一身に背負った小川くんは、ぽってりしたフードがついた白のスポーティなパーカーの上に、黒のラインが入っただけのシンプルなスタジャンを着ていた。服の色はジーパンの青に白と黒だけなんだけど、なんだかオレンジ色の雰囲気を感じた。ぽかぽかあったかくて可愛い感じ。

 うーん、やっぱり、この人、イイかも。

「木崎さんと、園田さん、野球は?」

 馬場くんが聞いてくる。由がすぐに答えた。

「全然。まだサッカーのほうがちょっとだけわかる」

 私もすぐに追って答えた。

「私はサッカーも何もかも、スポーツは全然わかんない」

 小川くんが笑う。

「そうなんだー」

 馬場くんは恐縮する。

「じゃあ、誘ったの、悪かったかな」

 由がかっこよく胸を張った。

「人生、何事も経験だよ」

 四人で階段を上っていくと、すぐに人でいっぱいになって進めなくなった。すごい人だ。行列というような細い人の列ではなく、通路いっぱいに人が詰まっている。野球ってこんなにたくさん人が来るんだと感心した。人気がなくなってきているという記事をたくさん見かけたけど……そうでもないみたい。

 混んでいてなかなか進まない理由は荷物検査だった。そこを過ぎたらチケットを切ってもらって回転扉に一人ずつ入る。ゆるゆる回っている回転扉なら何度か経験があるけれど、けっこういいペースでお兄さんが回していた。

 回転扉の先、球場の中の通路で四人で再集合。チケットの表示を見てもどこの席のことなのかまるっきりわからない。

「ゴメン、席は指定Dだから、遠くて見づらいかもしれないけど」

 馬場くんが先に立って進んでくれた。その後ろを颯爽と由が進む。私はきょろきょろして周りを見回しながらついていった。最後尾、私の背後を小川くんが歩く。

「とりあえず、席に行こうか。まだ試合開始まで三十分以上あるから」

 馬場くんの声に、私も由もびっくりした。

「えっ! そんなに時間あるの!」

 由が聞くと、馬場くんは私と由の反応にむしろ驚いたようだった。

「三十分なんて、すぐ経っちゃうよ。これでもあんまり無駄な時間が出ないように気を遣ったんだよ」

 そしてチケットで通路の番号を確認して、四人で階段を上った。

 暗い階段。前を行く由の背中、その前を行く馬場くんの背中。背後に感じる小川くんの気配。すぐに視界が開けた。

 ――正直、感動した。異空間に息をのむ。言葉にできない驚きに目を瞠る。野球場は想像していたよりもものすごく広かった。暗い階段の先に広がる強い光と、突然現れるものすごく巨大な空間。語彙が貧しいのがもどかしい。まるで奇跡のように不思議で、強烈な世界だった。小さいけれど世界が丸ごと入っているような広さ。私たちがいる席や、野球をするフィールドの広さではなく、東京ドームが含んでいる空気の量の多さというか、体積に圧倒された。

 それでも私が驚いて立ち止まっていた時間はたった二、三秒くらいだと思う。小川くんが横に並ぶのを感じた。

「どうかした?」

 思いがけずすぐそばで小川くんの声がする。二人で並んで広大な異空間に対峙したら、なんだか運命みたいな気がした。そしてすぐに自分を恥じた。幼馴染のことも「運命の人」だと思っていたはずだ。

 席はかなり高い位置で、フィールドでの野球のプレーが見られるのか心配した。見たってどうせわからないけれど、せっかくだから近くがいい。座席の場所を見つけて、奥から馬場くん、由、私、小川くんの順に座った。座るなり、男子二人は上着を脱いでカバンから何かを取り出した。馬場くんのは真っ赤、小川くんのは白とオレンジ。野球のユニフォームだった。

「今日はどことどこの試合なの?」

 由は聞いてから、ああそうかというようにチケットの印字面を見た。私も見てみると、「侍ジャパン×MLB選抜」とある。全然意味がわからない。

「今日は日米野球」

 馬場くんがユニフォームに袖を通しながら言った。

「日本のプロ野球と、アメリカのメジャーリーグの、交流試合みたいなものだよ」

 小川くんがユニフォームをモゾモゾやりながら補足してくれた。メジャーリーグというと、イチローが活躍してるやつだ。それはわかる。

「じゃあ、イチローは来てるの?」

 私が言おうと思ったことを由が先に聞いた。どうやら由も同じくらいの認識らしい。

「あ、残念ながら来てない。俺も見たかったんだけど」

 馬場くんがそう答える頃には、男子二人はビシッとユニフォームを着込んでいた。

「二人、よく一緒に野球に来るの?」

 私が何の気なしに聞いたら、びっくりするような大声で二人が同時に答えた。

「来ないよ!」

 私も由もあっけにとられた。ごく普通の質問なのに。世間話程度のつもりだけど……。

 馬場くんが大げさに拳を握り締めて力説した。

「日米野球くらいしか一緒に来られないから、今日初めて、一緒に行こうって話になったんだよ。普段は一緒にとか、絶対ありえないから」

 うーん。仲いいし、二人で野球好きなら、一緒に来ればいいのに。と、思っていたら由は理解したようだった。

「あっ、応援チームが別だから、普段は敵同士なのかあ」

「そう! 来るとこまでは一緒に来てもいいけど、座るの反対側だし。野球場は……違うとこもあるけどまあ、基本的には、こっちの一塁側とライトスタンドがホーム側。東京ドームで言うと巨人の側ね。あっちの三塁側とレフトスタンドがビジター、敵チーム側。巨人対広島なら、小川はこっち側、俺はあっち側に座るから、一緒に来ても意味ないの。それにどっちかが勝ってどっちかが負けるから、試合の後はゼッタイ険悪になるし」

 面倒くさいんだな。一緒に楽しく見ればいいのに。

「食べ物とか飲み物とか買うの、混んでるから並ぶよ。早く買いに行こう。試合開始までに戻れなかったら悲しいし」

 小川くんがそう言って立ち上がった。戻れなかったらって、まだ試合開始まで二十分もあるのに?

「小川、食いモンのおススメは?」

「うーん、俺も球場、そんなに来るほうじゃないし……。ただ、姉貴は、東京ドームならプレッツェルが美味いって言ってた。男子には勧めないけど、って」

「じゃあ、二人のために、プレッツェル屋行こうか」

 幸いそのお店はわりと近かったし、他のお店ほど混んではいなかった。でも、やっぱりちょっと並んだので、席に戻った時には試合開始まで五分ちょっとになっていた。

 人生初の野球観戦。ルールがわからないから、打者の人がボールを打ち返したのが飛んだ、落ちた、くらいの感覚でしか見ようがない。ベースに出た走者がホームインすると点になることくらいはわかるので、日本代表に点が入った時は周囲と一緒に盛り上がれた。私はむしろ応援している人たちの様子を見ているほうが面白かった。選手ごとに踊りや歌が決まっているみたいで、ライトスタンドを中心に皆が芸みたいなことをやっていた。

 日本代表の時には応援団がラッパを吹いて太鼓を叩いて歌をやるが、メジャーリーグ側の時は応援が入らない。「日本まで来てくれてるのに、応援しないのひどくない?」と隣に座る小川くんに聞いたら、「これは文化の違いだから、いいんだよ」と言っていた。メジャーリーグには日本みたいなラッパや太鼓や手拍子や声とかの「応援」はなくて、客が各自自分で楽しんで、雰囲気で拍手をしたり歓声をあげたりするくらいだという話。今も、ちゃんと観客の日本人がいいプレーに拍手をしたり、いい打球に「おおー」と感心する声が上がったりすることで、メジャーリーグの選手に応援の気持ちは伝わるはずだそうだ。

 ただ、野球の試合は長かった……。ちょっと退屈してきたなと、点数のところを見たらまだ「四回裏」。まだ半分にもなっていない……。

 五回表のメジャーリーグの攻撃が始まるとき、馬場くんが気を遣ってくれた。

「二人はずっと野球だと退屈しちゃうだろうから、ドームの中とか探検してきなよ。おみやげとかグッズとかも売ってるし、スイーツ系のお店もあるし」

 由が「うん、ちょっと行ってくる」とすぐに立ち上がったので、多分私と同じだったんだと思う。私と由はそれからしばらく、野球そっちのけで球場の中を歩き回った。初めて来た人が、半分も見ないうちに退屈するなんて……野球ってほんと変。不思議な趣味というか、特殊な文化があるんだなあと、心から、つくづく思った。

 日本が勝った状態で試合が進んだ。終盤はだんだん緊張してきた。メジャーリーグのほうが日本より格が上のはずだから、そこに日本が勝てるのかと思うと手に汗を握った。由も歓声の合間を縫って馬場くんに近いことを訊いていたけれど、「いや、今は日米そんなに大きな差はないよ」という返事で驚いた。もういいや、野球難しい。

 試合はそのまま日本の勝利で終わり、勝利インタビューなんかも聞いて、ゆっくり球場を出た。ゆっくりというか、いっせいに人が帰るのでまた混み合ってのろのろしか出られなかった。毎回こんな大変な思いをして、毎回あのそこはかとなく長くて退屈な試合を見に来るのか……と思うと、野球が好きな人ってすごいなと思った。

 すごい暴風に吹き出されるようにして東京ドームから脱出したら、由と馬場くんの姿がない。出口にいろんな方向から人が来ていたせいで、一時入り乱れたから……。

「由たちとはぐれちゃった」

 私は最初、一生懸命周りを見回していたんだけど、ふと思った。これ、ラッキーなのでは……。小川くんと二人っきりだ。

「とりあえず、このへんにはいなそうだから、少し離れて探してみよう」

 小川くんと一緒に、大勢が入り乱れているエリアからは一時脱した。このまま二人きりだったらいいな。高校生になったらやっぱりみんな彼氏彼女がほしいだろうか。小川くんもそうだろうか。私は正直、恋愛したい。幼馴染の彼は好きだけど、……こだわってももうしょうがない。クラスでは――それか多分今周囲にいる中では、この人が一番いい。

 そのままなんとなく歩いて、東京ドームシティの外に出てしまった。由に電話をかければいいのかもしれないけど、それはもったいない。小川くんが馬場くんと連絡をとろうとしなければ、私はしらばっくれておこう。

 そんなことを考えていたら、小川くんの微妙な響きの声がした。

「ゴメン。はぐれたの、わざと。馬場に頼まれてた」

 えっ、と思ったけど……すぐに察した。ああ、そういうこと。

「そうなんだ。じゃあ、まあ、しょうがないよね」

 私は苦笑した。私と小川くんが二人になったんじゃない。馬場くんと由が二人になっただけ。ドキドキした気分はすぐに消えた。「お互いに」わざとはぐれたならよかったのに、どうやらこっちはそういう気配じゃない。

 十八時プレーボールだったから、もう二十一時を回っている。もうすぐ半。高校生は、帰る時間。

「あのさ、聞きづらいんだけど……」

 小川くんが緊張した声でそう言ったので、私はもうちょっとだけ期待した。顔だけ向けて見上げると、彼は声を落として聞いてきた。

「木崎さんは、馬場のこと、どうなの? 望み、ありそう?」

 本当に、あくまでもこっちは「残った二人」にすぎなかった。私はえも言われぬ表情で答えた。

「由は、お兄さんタイプが好きだから、馬場くんはちょっと厳しいと思うよ」

 もちろん由と恋の話もするけれど、私は「幼馴染が」ばっかりだし、由は「安心できる人がいいな。絶対、お兄さんみたいな年上の人」と大ざっぱなことを言うばかり。馬場くんは同い年だし、お兄さんっぽいというより子供っぽい感じだから……。

 小川くんは口をへの字にして、天を見上げた。私もつられて見上げた。晴れた夜空に星がきれいだ。

「そうかあー、難しいかー。明日から愚痴の聞き役、大変だー」

 もうちょっとで、小川くんは恋愛ってどうなのと訊きそうになった。でも、彼が私を何らかの形で意識していることもないだろうし、私自身も彼に好意を伝えるほど「好き」なわけではなかったから、やめておいた。

「ま、……状況はわかったから、帰ろうか」

 私がニッコリして言うと、小川くんは渋い表情になって、

「野球全然興味ないのに付き合わせて、そのうえ試合終わったらこんな状態でゴメンね」

 と言ってくれた。なんだか本当にいい人だ。やっぱりこの人に恋をしようかな。

「いいよ。野球はよくわからなかったけど、なんか……東京ドームに圧倒された。野球場ってすごいんだなと思った。あとね」

 つい自分でぷっと笑っちゃった。私の今日の、小川くんの印象。

「待ち合わせに来た時、私なんだか、白と黒とジーパンだけなのに小川くんからオレンジ色の気配を感じたよ。あれって、巨人のユニフォームの色が小川くん自身から出てるんだね。野球ファンはすごいなと思った」

 今日で私のオレンジ色の印象が幾分変わってしまった。ふんわりあったかい、小川くんの巨人ファンの色。野球ファンって、ほんとに変なの。

「俺、オレンジ色だった? いいこと言ってもらっちゃった、すっごい嬉しい」

 小川くんはこんなことで、とてつもなく嬉しそうに笑った。うーん、可愛いよね。明るくて、素直で、ちょっと変な人。もはや、スコアは顔5に性格も5。決めた。もうちょっと頑張って、私、この人に恋をしよう。

 まだ駅が混んでいるからと、私と小川くんは線路沿いに二駅歩き、彼はそのまま歩いて、私は電車で帰宅した。ちゃんと、電車の中から由にメールは出しておいた。

『こちらは先に帰るので、気をつけてね。おつかれさま』

 由はうらやましい。どんな形にせよ、高校生らしく恋の中に身を置いているんだな……。私も恋しよう。この素晴らしきオレンジ色の出会いに身を任せて。

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