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暗殺者は王女を護る、弑する為に  作者: 藤崎
第二章 月の妹
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3.初めての授業

 心教は〝主〟と呼ばれる太陽神を信奉する一神教であり、この大陸で唯一の信仰でもある。


 世界にはかつて〝主〟である太陽しか存在せず、〝主〟は大地と生物を創造することで、自らと対等の存在である闇をお作りになられた。


 光と闇。善と悪。生と死。


 こうして、世界は均衡を得た。

 そして〝主〟は地上の主である人々にも、闇に飲まれることなく光を信じ闇を傍らに置く生き方を求められた。


 清貧と隣人愛。そして、誠実といった徳目が奨励され、その生き様によって死後〝主〟の審判がくだされ、正しく生きたものには大いなる救済がもたらされるとしている。


 ――という程度の知識なら、常識としてアールの頭の中にも存在していた。信じているかは別だが。


 しかし、今教室で行われている講義は、ようやく歩き始めた子供に泳いでティルダー海峡を渡り切れと言っているも同然の内容だった。


「この峻険な山々とそこに君臨する狼王。これは、ペスキエラの群塔とそれを建てたジェラルド・カスティリオーニの暗喩となっているのは自明ですが、なぜ、救国の英雄とされる彼を狼王とし、惨めな死を迎えさせたのか」


 すり鉢状になった教室の底で、老司祭が声を張り上げる。自明といわれたが、そんなことを当然と言われても困ってしまう。


 アールが初めて入った〝本館〟は内装こそ地味だが立派な建物で、この講義室も数十人が入ってもなお余裕があるほどの広さだった。


 今は、アリア教国の元外交官にして思想家でもあったダレッシオの『歴程集』という作品を題材にした講義の真っ最中。すでに数回行われている講義をアールのためにおさらいしてくれるほど優しくはない。開始前に、シャルロットとティアナから基礎知識のレクチャーは受けていた。


 曰く――『歴程集』を始めとするダレッシオの作品群は寓話として読めばそのまま教訓集となるが、作者の思想と時代背景を考え合わせれば、その当時の心教が置かれていた状況を知る一級の資料になる……らしい。


 そんな何百年も前の話など知ったことではないが、ここから逃げ出すわけにもいかなかった。


「それは、ダレッシオにジェラルド・カスティリオーニの所行がよく思われていなかったからでしょうか? ダレッシオが住むマリーノとペスキエラは当時東方貿易で敵対関係にあったはずですから」


 老司祭に指名されたティアナが、やや自信なさげな声で答える。


「間違いではありませんが、それだけでは正解にはなりませんな。それに、ダレッシオは外交官ではありましたが、その著作では驚くほど中立です」

「……」


 ティアナがアールの方を見て少し笑う。間違って恥ずかしがっているというわけではなく、自分でも間違うのだから心配しないでという励ましだった。


「では、おお。レティシア殿がいらっしゃっているとは珍しい。お答え願えますかな」


 老教授に指名されたシャルロットはたおやかに一礼し、私見ですがと前置きしてから考えを述べた。

「恐らく、ジェラルド・カスティリオーニの行為がダレッシオの心教観にそぐわなかったからでしょう」

「それは?」

「これは、同時代の史料にしかありませんが、ジェラルド・カスティリオーニの異民族に対するやりようは、ペスキエラの守護者としてあがめられる現在のイメージとはかけ離れたものでした」


 教室中から、素朴な感心の声が挙がる。

 吟遊詩人が語る英雄譚の中では、異民族の騙し討ちにも正々堂々たる信念を崩さない偉大なる英雄だった。アールの中にも、陰惨なイメージはない。


「彼の敵対する者は皆殺しにする苛烈な行動。それが、ダレッシオが信じる心教の寛容さからかけ離れたものに映った。民衆の守護者ではあったかも知れませんが、心教の庇護者としては失格だったのでしょう」

「その通り。この時代は異民族の侵入があり、本来の寛容の精神を保てない不幸な時だったのです。信仰と実利の対立。その端緒と言えるかも知れません」


 今では教化されているヴァルダー帝国周辺地域は、当時は文明の光が当たらぬ蛮地だったとされている。心教側の見解では、であるが。


「故に、狼王は他の狼や獅子。さらには脅威種と戦い続け、最後には戦いの中で死に、しかも、その死体は誰にも見つからないという結末を迎えるのです。しかし、狼王も戦いを望んで――」


 老司祭の解説が続くが、教室中の目は、シャルロットに集まっていた。そして、その隣に座るアールにも。

 シャルロットには素直な羨望と賞賛の。アールには嫉妬と理不尽な怒りの視線だ。彼女への憧憬が強ければ強いほど、彼への負の感情は比例して大きくなる。「なんであんな娘が……」という気持ちは、アールにもよく分かった。彼女たちは理解されたくもないだろうし、代わることも出来ないのだが。


 木製の長机とその上に置かれた白紙の帳面を目に映しながら、アールは周囲を観察していた。


 注がれる数多の視線の中にこちらを値踏みするものがいくつかある。それはアールを田舎貴族の娘セーラ・ヴィレールではなく、シャルロットの護衛者として見極めようとする意図が籠もった視線だ。

 今まで妹を持たなかったレティシアが、編入生を。それも即座に妹にしたのだ。レティシアがシャルロットであることを知っているならば、本当の意図に気付くに違いない。


 この展開を期待してデレクを逃がしたのだが、その成果が出る前にシャルロットの大技が決まってしまった。それが今の状況。


(あの二人……か)


 当たりを付けた先をそろりと盗み見た。候補は、正面と左手に一人ずつ。当然まともに見ることはないが、特徴はしっかりと掴んでいる。


 正面にいるのは、金髪を肩の当たりで切りそろえた柔和な印象を受ける娘。一方、右手側の娘は黒髪でセーラよりも幼く見えるカスティーユ系の少女だった。


 どちらも虫も殺さぬ令嬢のように見えるが、アールは己の判断に自信を持っていた。なにしろ、今の彼だって、虫も殺さぬような淑女に違いないのだから。


「セーラ、今の部分はちゃんと書き残しておきなさい」

「はい……」


 潮時か。


 シャルロットの注意を受けて、アールは紙とインク壷の羽根ペンに意識を集中させる。

 しかし、講義が終わるまでその手が動くことはなかった。


 老教授の話をすべて書き残すことは不可能であったし、その中から重要な部分を抜き出すなど彼の能力を完全に超えていたのだから。





 そこから先の講義も、アールにとってはアマーリア女学院に潜入する同業者を識別するための時間となった。ソルレアン王国の歴史も、宮廷マナーもアールの気を引くことはない。


 その甲斐あって大まかな目星はつけられた。更なる精査と一人一人の名前や居室を特定していく作業は必要だが、明日からはある程度真面目に講義を受ける事が出来そうだった。隣でこちらを気遣わしげに見ていた、ティアナのためにも。


「ふう……」


 小さく息を吐き、緊張を解きほぐす。さすがの彼も、始終集中し続ける訳にはいかない。シャルロットは別の講義で、ティアナはまだ講義室から出てきていない。廊下で一人佇んでいる時ぐらい、気を抜いても良いはずだ。


 しかし、そんな彼の背中に軽い衝撃が発生する。それに続く、小さな悲鳴。


「きゃっ」


 すぐに緊張感を取り戻したアールが振り返ると、女生徒が廊下に尻餅をついていた。

 長い黒髪で顔が隠れて見えないが――そこに失ったかけがえのないものの面影を見て、アールは完全に固まってしまった。自分がいかに無防備であり得ない状態にあるか。それすら思い至らない。


「申し訳ありません」


 少女は顔を俯けたけたまま立ち上がり、恥ずかしそうに走り去ってしまった。

 ただ単に、ぶつかっただけ。言葉にすれば、本当にそれだけ。


 にもかかわらず、一瞬の邂逅はアールに忘我の衝撃を残していた。無理もないだろう。死んだはずの義妹によく似た他人に、いきなり出会ってしまったのだから。


 アールと同じように暗殺者の道を歩み、彼をも遙かに凌駕する暗殺術を身につけるに至った義妹――ミュリエル。


 そんな彼女も〝六本腕〟の命に背き、今はもう、いない。アールが愛用していたナイフを持って出て行った彼女は、組織に粛正されたに違いなかった。


 そして、先ほどアールにぶつかった少女もまた、もう、どこにもいない。彼女の残り香すら今は感じられない。夢だったのではないかと疑ってしまう。


「セーラさん、お待たせして申し訳ありません」


 クレアと共に現れたシャルロットに声をかけられ、ようやく意識を現実に引き戻す。


「どうかされました?」

「いえ……」


 ティアナに。誰にも言える話ではない。アールに出来たのは言葉を濁して俯くことだけ。

 それを講義についていけるかの不安だと解釈したのか、アールの手を取ってティアナが励ましの声をかける。


「気にされる必要はありませんわ、セーラさん。レティシアさまがきっとなんとかして下さいます。わたくしだって、協力は惜しみませんから」

「ありがとう……ございます」


 全くの的外れだったが、それくらいの方が今のアールにはちょうど良い。最初の講義で別れていたシャルロットがいたら、どんな言葉をかけていただろうかと考える余裕すら出てきていた。


 できれば常に側にいたかったのだが、彼女とは出席する講義が違いすぎるので仕方がない。それに、講義中にまさか実力行使もないだろう。

 むしろ、実力行使されそうなのはこちらの方だ。もしかしたら、さっきの少女も嫌がらせの一種だったのかも知れない。


「レティシアさまだけでなく、リーフェンシュタールさままで……」

「どうやって取り入ったのかしら……」

「はぁ……」


 あからさまな敵意と聞こえよがしの中傷に、さしものアールもため息を付いた。これでは、他の潜入者の気配や視線が霧散してしまう。


 ティアナ――というよりは講義の合間に現れるクレアや同じ寮の生徒たちに阻まれ直接言い寄られるようなことはないが、その分陰に籠もって鬱陶しいこと事この上ない。


 特に、偶然にもずっと同じ講義を受けていた二人組の女生徒――王都出身の貴族の姉妹だそうだ――からは敵意というよりは呪いにも似た視線をぶつけられていた。


「お嬢様、次は如何されますか?」


 そんな雰囲気の中でもクレアは孤高を保っている。というよりは、ティアナしか見えていないのではないかとアールは疑ってしまう。


「次? ああ、そうね」


 一瞬悩む素振りを見せたが、結論はすぐに出た。


「セーラさん、次は屋外ですわ。わたくしは参加できませんが、お付き合いさせて下さい」


 多少なりとも面白くなったのは、その日最後の講義。学院裏手にある馬場で乗馬の時間だった。


 ティアナに案内を受けたときにも通り過ぎたが、アマーリア女学院では馬を十頭ほど飼育している。これに順番に歩かせるという、講義なのだかレクリエーションなのだかよく分からない時間だった。

 アールが推測するに、乗馬は貴族の嗜みであると同時に、狭い空間に籠もっている令嬢たちに適度な運動をさせることが目的なのだろう。


 しかし、乗馬ということはそれに相応しい装いをしなければならない。


「わたくしに気を使われなくて結構ですのに」

「いえ、そんなことは……」


 こんなところで着替えなどという危険を犯せないアールは、ティアナと共に柵の外から見学となった。この時間は、クレアも特別に同行を許されている。

 参加しないのにここにいるのは生徒以外から同業者を探すためだが、今のところ芳しくない。


「ですが、乗馬はおできになるのでしょう?」


 馬場をゆっくりと歩いて回る馬からアールに視線を移し、車椅子のティアナが問いかける。


「多少は、ですが」


 実の所、それは過小表現だった。単独、あるいは少人数での行動が多いアールは、みっちりと乗馬を叩き込まれている。

 錬金術が発達したこの大陸においても、馬より手軽で持久力のある陸上交通手段は実用段階になかった。


「そろそろ、参りませんか?」


 もしかしたら、使用人たちにはシャルロットが妹を持ったという噂はまだ届いていないのかも知れない。だとしたら、これ以上ここにいる意味もなかった。


「そうですわね。さきほどの復習を――」

「きゃーー」


 ティアナの声は、突如発せられた悲鳴にかき消された。


「馬が――」


 空馬が一頭、馬場を猛烈な勢いで疾駆し、こちらへ向かってきていた。なにに興奮しているのか完全に我を失っている。


 ぶつかる。


 車椅子のティアナでは間に合わない。

 それを悟ったクレアが前に出るが、庇ったところでどうにかなるものでもない。


 視界の隅に、件の姉妹がほくそ笑む姿が見えた。

 ティアナは大事な隠れ蓑となる存在だ。失うことは出来ない。それに見捨てれば、シャルロットの協力が得られなくなってしまう。


 瞬時にそう判断したのか。それとも後から考えた言い訳なのか。アール本人にもわかりはしなかったが、決断と共に見せた動きに迷いは欠片もなかった。


 裾がひるがえるのも構わず柵を飛び越え、横合いから暴れ馬の鞍へと飛び移る。


「きゃあ!」


 周囲から悲鳴が上がり誰一人として直視できるものはいなかったが、彼女たちが瞼を開いたときに見たのは颯爽と馬上の人となったアールの姿だった。


「くっ」


 なんとか手綱を操作し、ティアナに衝突するコースは外す。しかし、それは暴走先が変わっただけのこと。

 自由を求めて、暴れ馬は柵の外へとひた走る。


(大人しくしろ!)


 アールにここまで荒れ狂った馬を御するほどのスキルはない。ならば迷う必要はない。見咎められないよう、武器を使えば良いのだ。


 右腕を馬の口へと持って行き、手首を打ち付けた。なんとか宥めようとしていると見えただろうが、それをするのはアールではない。練金肢から滴り落ちるラカルの毒だ。


 ヴィクトル・ジリベールから行動の自由を奪った即効性の麻痺毒とはいえ、馬体に作用するほどの量ではない。だがそれは、完全に効き目が出ないというだけの話だ。


 不快気にいななきを上げさらに前に進もうとするが、充分足が上がらずつんのめりそうになる。見る者によっては、馬が疑問で首を傾げているようにも見えただろう。

 何度かそんな動きを繰り返し、徐々に。だが確実に馬の動きが鈍くなる。

 アールでもなんとか扱えるようになったところで、不意に彼は馬を走らせた。


「また馬が!」


 再び上がる悲鳴。

 見ているだけでこれなのだ。直接向かってくる二人にとっては、山が迫っているかに思えたに違いない。


 この姉妹――アールへ敵意をむき出しにし、馬を暴れさせた張本人――は、蒼白な顔でその場に立ち尽くし悲鳴を上げることもできずにいた。


 ぶつかる。


 誰もがそう思ったその刹那。馬は突如竿立ちになり、直前で衝突は回避された。そして、今までの興奮状態が嘘のようにとぼとぼと歩き出す。


 馬上から、アールが二人に声をかける。


「申し訳ありませんでした。お怪我は?」


 姉妹からの答えはなかった。

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