4.レティシア・ル・フォール
「あら、やだ。怪我をしているじゃない」
有無を言わせず連れ込まれた部屋。殺風景なセーラの部屋とは違い、棚には様々な置物や調度品が並び壁にはタペストリもかかっていった。
しかし、木製の椅子に追いやられたアールはそれを見ていない。ただ呆然と、目前の人物を見ていた。
燐光球のランタンでアールの姿をしげしげと眺めているのは、レティシア・ル・フォール。いや、シャルロット王女その人だった。
なぜかこの時間でも制服姿だったが、薄闇の中で見る彼女の相貌には幽玄の美があり、真摯な表情にはその印象に反して生命の根源的な美しさが同居している。
昼間にまみえたときよりも近距離で、なぜか気安い。
この部屋にも、夢境草の煙はしっかり届いていた。それなのに、なぜ彼女は平気でアールに刺さったままの毒針を抜こうとしているのか。
そこでようやく、彼の意識が現実に追いついた。
「毒が塗ってある。触るな」
鋭い声に弾かれたようにシャルロットは手を離すと、分かったとばかりに頷いて衣装箪笥へと移動した。
絹の衣装袋を手に取り、中身を床にぶちまける。そこから夜会で身につけるような白い手袋を拾い上げた。
「う。着けにくいわね」
その手袋は、制服のままでは長すぎる。シャルロットは躊躇いの色も見せず、長い手袋を鋏で半分にしてしまった。
その端切れだけでも、マリーカ辺りなら喜んで再利用するだろう。その前の手袋を両断する行為で卒倒しなければだが。
「これでよし」
満足げに頷いた彼女は、中身のドレスは床にそのまま、袋を持って戻ってきた。
そして、アールが何か言うよりも早く、白い繊手で毒針を抜いて絹の衣装袋へと慎重に捨てていく。
毒は常に諸刃の剣だ。武器に塗付する際に誤ってその身に受ける事故は、決してなくならない。そういう意味では、彼女の対応は適切だった。
「ああ。コルセットのお陰で無事だったのね?」
大胆な手際に、アールは頷くことしかできない。
普段の彼なら、今すぐ殺すか。それとも拉致監禁でもするか。選択肢から最も効率的な一手を選ぶべく行動していただろう。
しかし、いきなり事が露見したという想定外の自体と、その後の予想外の展開に頭がまともに働かない。雷鳴草の副作用である頭痛も彼から思考能力を奪う。そして必死なシャルロットの横顔がアールから言葉も奪っていた。
毒針を引き抜いた彼女は手袋を外し、今度はアールの全身を観察し始める。
「ああ……。細かい怪我も、たくさんあるじゃない」
「腕は良い」
事情を察し、彼女は無言で頷いた。今度はチェストへと移動し軟膏を取り出す。
アールは、頭痛のせいではなく、思わず頭を抱えそうになった。
これでは治療を肯定していることになってしまう。いけない。とにかく、これ以上は駄目だ。
正体不明の危機感に煽られ、アールが椅子から立ち上がろうとすると――
「だめよ」
シャルロットに肩を掴まれ、強引に椅子に戻された。「抵抗は無意味だ」数日前、ゲオルクから言われた台詞が意味もなく去来する。
傷の様子を観察するため、シャルロットが吐息する感じら距離に近づいていた。汗と混じった香水の芳香に加え、嗅ぎ慣れた匂いがアールの嗅覚を刺激する。
夢境草の煙ではない。だが、そこからの連想で正解に行き当たった。
「夜明葉か……」
「凄いのね。ばれちゃったわ」
なんのことはない。シャルロットは夜明葉で眠気を殺しながら勉強でもしていたのだろう。故に、夢境草の煙がウルスラ寮を覆っても起きていられたのだ。そして、アールとデレクの戦闘が終わるまで息を潜めていたのだろう。
「まあ、そこまでして起きているのなんて私だけでしょうからね」
主席生徒の背景にはこんな事情があった訳だが、アールからすると余計極まりない努力だった。生徒が夜明葉を常備しているなど、考慮したこともない。
そうこうしている内に、結局、治療を最後まで受けてしまった。
「ふう……。落ち着いたわ。顔に傷がなくて良かったわね」
まあ、外傷という面では、本当にかすり傷同然ではあったのだが。これも、いくつかのトリックでデレクの勝利したお陰。潜入任務中に、目立つ傷など以ての外だ。
それに、今度こそ、こちらの番。
主導権を握るべくアールが口を開こうとしたところ――またしても、彼女に機先を制された。
「ところで、あなたは叔母様とフェリックスのどちらに雇われたのかしら?」
「なんの話だ?」
質問の意味は分からないが、意図は理解している。
「俺は宰相に雇われた護衛だ」
「嘘ね」
ベッドに腰掛けたシャルロットは薄く笑い、アールの発言を真っ向から否定した。彼に対して怯えたり気後れする様子はまったくない。
「小父様にそんな甲斐性があったら、私はこんな所にいないもの。そっか、あなた……セーラだったわね? セーラも知らされていないのね」
先ほどまでの気安い雰囲気から一変。思案気な様子に切り替わり、すらりとした指を顎の辺りに当てて目をつぶる。
主席生徒レティシア・ル・フォールと聡明な王女シャルロットのシルエットが、徐々に重なっていく。
仮にあのデレクとの戦闘を見られていたとしたら、これ以上の抗弁は逆効果だろう。それに、彼女はアールが知らない。知らされていない事実を元に喋っているようだ。
話の矛先を変える必要がある。
「それで、俺をどうするつもりだ?」
「お止めなさい」
怒ったような顔でアールの言葉を遮った。しかし、なにを言われているのか分からない。暗殺者を止めろとでも言うのか? だとしたら、お笑い草だ。
「なにをだ?」
「その言葉遣いよ。仮にとは言えこのアマーリア女学院に籍を置く以上、相応しい振る舞いをなさいな」
「関係ないだろう」
暗殺者に向かってなにを言っているのか。
「あるわよ。女として生まれついた以上は、立ち居振る舞いは常にエレガントを心がけなさい」
「俺は男だ!」
時間も場所もわきまえず、思わず怒鳴ってしまった。
自分が興奮して立ち上がったのだと知ったのは、椅子が床に倒れた音を聞いてから。
「えー。あ? ええ? あなたはなにを言っているの?」
思考能力を奪われたシャルロットが惚けたような声をあげる。聡明な彼女がここまで驚くというのは、非常に稀なことだろう。
「う、嘘……?」
「なぜそう思う」
確かにコルセットでやや体型は変わっているが、判別できなくなるほどの違いがあるはずがない。
「なぜって……。え? いや、本当に?」
しかし、混乱する彼女を見て復讐心を満たすどころか、意味もなく情けなくなって涙が出そうになる。セーラが暗殺者であったことを知られたなど、些末事に思えた。疲労と副作用で情緒が不安定になっているのかも知れない。
「それはごめんなさい。でも、だって、そんな。なんで? こんなに可愛いじゃない?」
アールへの問いか。それとも自問なのか。まじまじと無遠慮にアールの全身を眺めては感嘆の声をあげ、触って確かめたいと両手をそわそわと動かす。実行はしなかったが。
アールもアールで、混乱の極地にあった。
いっそ死にたい。いや、殺すか。ああ、だめだ。それらでは、任務が達成できない。どちらにしろ、標的にばれた時点で失敗か? なら殺すか?
「ちょっと良い?」
結局、触ることにしたようだ。
アールが堂々巡りの思考を展開している隙に、シャルロットは立ったまま身じろぎもしない彼に近づき恐る恐るといった手つきでまず髪に触れた。
「うわ。ちょっと。前髪上げた方が可愛いわよ。テレーズと違って、お化粧してるだけなのね。これで男? 反則じゃない? ああ、そうか。コルセットで胸を作っているわけね。声は地声みたいだけど……」
まるで珍しい見せ物の様な扱い。
実に、適切な答えだ。女装した女学院への潜入者など、珍獣以外の何者でもない。
自分の思いつきに、アールが薄く笑う。
「こら。口だけで笑わないの。笑うのなら、満面に笑みを作りなさい」
ぎゅっと頬をつねられた。手つきが大胆になっている。
「いい加減にしろ」
「そうね……」
怒気のこもったアールの声音に自分の行為がいかに非常識だと悟ったのか、シャルロットは手を引っ込めた。
「今日はこの辺にしておきましょう」
今日は?
アールの心に疑念が芽生えるよりも早く、シャルロットが次の質問をぶつけてくる。
「あなた、本当の名前は?」
「アール」
「姓は?」
「ない」
これだけではさらなる問いを呼び込むだけ。アールはそれを封じる言葉を口にした。
「俺は戦災孤児だからな」
「そう……」
今までの快活な。悪く言えば悪戯が成功して喜ぶ子供ような笑顔が、沈痛な表情に変わる。しかしそれはアールの境遇に同情してではない。為政者である自分たちの力が至らなかったばかりに不幸を生み出したという自責の念からか。
手遅れの憐憫を向けられるより、アールにとってはその方がまだましだった。
「私はシャルロット・ベランジュール・ソルレアンよ」
「知っている」
なぜだろう? 彼女に対しては、嘘や腹芸を用いる気になれない。その瞳ですべてを見透かされているという錯覚に陥る。
そんなこと、あるはずがないのに。
「とりあえず、これで自己紹介は済んだわね?」
それにどんな意味があるのか分からないが、事実としてはその通りなのでアールが頷く。するとシャルロットは満足げに微笑み、居住まいを糺して静かに宣告した。
「アール。あなた、私に協力なさい」
「…………」
アールは答えない。
冗談としては笑えないし、〝主〟が西から上ったとしても事実だとは思えなかった。
しかし、アールの返答が無くともシャルロットは言葉を紡いでいく。
「私が太陽の婚姻を行うまで、きっとたくさんの襲撃を受けることになるわ。さっきあなたが撃退した襲撃が始めてではないし、今まで私の身の回りでは何度もこんなことがあったわ。そして、暗殺者同士や私の護衛者が退場していった」
自らの不利を告白するシャルロット王女の声に悲壮感はない。それどころか、ある種の覚悟で満ちていた。
使えるものならば、敵でも暗殺者でも使ってやろうという王者の覚悟だ。
「今となっては、この学院に私の正体を知っている味方は一人もいないわ」
「それで、俺にどうしろと?」
自分よりも背の低いアールの襟を掴んで、顔を近寄せる。強引な動きとは裏腹な囁きが、熱い吐息と共にアールの耳朶を刺激した。
「私が女王になるまで守りなさい」
その内容は、予想していた通りだった。というよりは、この状況でアールを放置する理由は他にない。
しかし、それに続く言葉は、予想外続きの今夜の中でも最大級だった。
「その後、殺されてあげるわ。他でもない、あなたに」