3.ウルスラ寮の死闘
ナイフや鏃に塗って使用されるセントール毒。かするだけで手足から力が抜け、運が悪い者はそのまま死に至るという猛毒だ。
一定の量を毎日投与することにより、ある日突然死に至らしめるという訃音天使。病死と判別つかないため、成功例が表に出ることはほとんどない。
あらゆる毒の効能を打ち消すという〝伝説〟を持つ白の霊液もあったが、効果のほどは眉唾物だ。恐らく、一時的に体の抵抗力を高め、毒を生命力でねじ伏せるというだけだろう。それでもあると無いでは大違いだし、お守りにはなる。高価すぎて気休めになる量しかないが。
その煙で眠りを誘い、数時間は深い睡眠から目覚めることがなくなる夢境草。さらに、それと対をなす、口に含むことで覚醒効果をもたらす夜明葉。
他に、様々な毒の原料となる素材各種に鉢や香炉などが、所狭しと並べられていた。使い方や加工法次第では、薬にもなる物も多い。
医療従事者の守護聖人の名を持つウルスラ寮の自室に入ったアールは、早速〝荷解き〟を始めた。
寮の床は板張りで、壁は厚いが飾り気というものはまるでない。学生それぞれ個室が与えられていたが、広さはアールがミュリエルと一緒に起居していた部屋と同じぐらいとかなり余裕がある。
とはいえ――個室な上に建材が剥き出しでないだけで充分なのだが――貴族の子女からすると簡素な部屋であることには違いない。
前身が神学校なのだからある意味で当然だが、それ故に、寮に持ち込む家具は学生の自弁となっていた。
華美にならないことという唯一の規則を守ってか、セーラの部屋に運び込まれた木製のチェストやデスク。それに、ベッドやカーペットも物は良いが派手さはない。
だが、アールにとって見た目などどうでも良かった。重要なのはその中身。
今並べた毒物は、持ち込んだ調度や寝具の中に隠して持ち込んだ物だった。枕の下に隠された箱状のスペースや、デスクやチェストの二重底などそこかしこに仕掛けが施されている。まるで奇術道具のような特注品だ。
セーラの部屋は一階の西側。左隣にティアナの部屋があり、さらに右隣や向かい側にも誰かの部屋があった。聞けば、その内の一室は今は不在の監督生のものらしい。
出来れば、この件が終わるまでは不在でいて欲しいものだ。
物音を立てぬよう慎重に、錬金肢のメンテナンスに必要な駆動液と予備の球体関節や皮膚紙。それに、各種の武器を所定の隠し場所から取り出してはひとつひとつ確認していった。
準備したのはゲオルク本人ではないが、彼の指示だけに漏れはない。どれも必要充分に取りそろえられている。
最後にダガーを上着の隠しポケットに仕舞い込みながら、アールは思わず安堵のため息をついていた。
落ち着く。
そのほっとした表情は非常に無防備で愛くるしいものだったが、本人はそれに気付いていない。
本来、アールは道具に愛着を持つタイプではなかった。だが、一日ぶりに触れる仕事道具には、長い間離れていた故郷に帰ってきたかのような懐かしさがある。
本当の故郷は、今も人が住まぬ廃墟となっているのだが。
しばし心の故郷である毒や武器を愛でた後、必要なもの以外を戻していった。場所は、持ち込んだ衣装箪笥の奥。板がスライド出来るようになっており、定められた方法で開くと、そこに薬瓶や武器を収納するスペースが現れる仕掛けになっていた。錬金肢のメンテナンスツールも同じ衣装箪笥の中に仕舞う。
寮の部屋には、規則により鍵は取り付けられない。不在時や夜間などに家捜しされたら言い訳は出来ないのだ。なるべく怪しまれないのが肝要だろう。
本当に帰ってこないようなら、監督生の部屋を隠し場所に使わせてもらおうか。
そう検討を始めたところで、タイミング良くセーラの部屋の扉が鳴る。
思わず、アールは息を飲んだ。しかしすぐに部屋を見回して怪しい物はないと確認を終え、呼吸を落ち着けてから扉を開く。
そこにいたのは、ティアナの侍女クレアだった。
「お食事をお持ちしました」
そんな話が出ていただろうか? 何かの罠かも知れない。だいたい、なぜ彼女がそんなことを?
警戒して受け取ろうとしないセーラに、クレアが説明を続ける。
「セーラさまはお疲れでしょうから、皆様へのご紹介は明朝にした方がよろしいでしょうとお嬢様が」
それがどうして食事の配達につながるのか。セーラが困ったように小首を傾げるが、クレアは無表情に言葉を紡いでいく。
「夕食は本来、揃って食堂で摂られる規則ですので」
つまりアールも本来はその食堂に行かなければならないのだが、そうなると自己紹介やそれに続く質疑応答が発生してしまう。それは酷だろうから今日は部屋でゆっくりしていろと、そういうことのようだ。
親切だが、実に、回りくどい。
「ありがとうございます」
そういう話であれば、受け取らないわけにはいかなかった。
トレイには、角切りになった野菜の煮込みに混ざり物のない白いパンや魚の薫製。それからグラスワインなどが載っていた。
水は室内の水差しにあるから勝手に飲めということか。
食事など手持ちの携行食糧で済ませようと思っていたので、どうしたものかと途方に暮れる。
端的に言うと、贅沢すぎた。
「後ほど、寮内のご案内だけは私が行わせていただきます」
「……」
礼を言うべきかどうか。先ほどのことがあるだけにアールは戸惑う。それをどう受け取ったのか、クレアは物言いたげな視線をセーラに向けるが、しばらくして床へと外した。
「失礼いたしました。お済みになりましたら、食器は外へ。その後、簡単にですが、寮内をご案内いたしますので」
何か感づかれているのだろうか? 確信を得られないまま、アールは食事の乗ったトレイをとりあえず机上に置いた。
それを確認して、クレアは扉を閉める。再び、部屋に静寂が戻った。あとに残ったのは、まだ湯気を立てている食事とその食欲を刺激する匂い。
食べなくては、ならないのだろう。
食欲がないわけではなかったが、普段食べている干し肉や雑穀のパンとの落差に、珍しくアールは逡巡する。
多くの錬金術師の尽力により庶民の食糧事情は改善されつつあるが、飢餓からは解放されても贅沢には結びつかない。
マリーカなら、喜んで食べるのだろうか? 食べるのだろう。
その様を想像すると、自然と微笑がこぼれた。
それで吹っ切れたのか、アールはまずパンに手を伸ばす。いくつかに割り、匂いを確かめてから一欠片を口にする。
甘く柔らかで、口に入れているだけで溶けてしまいそうだ。
他の料理も解体して、毒物の混入が無いことを確認した上で嚥下していく。料理人が見たら憤慨するだろうが、これで案外アールは食事を楽しんでいた。
可憐な少女の、偏執的な食事風景。
しかし、人目があるところでは、こんなことは出来まい。つまり、心安らかな食事はこれで最後ということになる。
明日以降はどうしたものか。
味の感想よりも、アールはそんなことを考えていた。
それから数時間後。
セーラの時間が終わり、アールの夜が始まった。
何かを詰めた麻袋を持って、自室の扉から廊下に抜ける。そこには燐光球などはなく、一面の闇に包まれていた。就寝時間後の外出は禁止されているし、明かりが欲しければ個人で用意できる事が理由だろう。
そもそも、アールにとってこの程度の闇は問題にもならない。
先ほどクレアから案内を受けた寮の構造を頭に思い浮かべ、行動を開始していく。
最初に思ったのは、寮というよりは屋敷として考えた方が適切だろうということ。
一階の東側にはセーラやティアナらの部屋が並んでおり、西側には食堂や談話室に簡易礼拝堂。それから、浴場などがまとめられていた。
浴場に関しては、案内されても使うわけにはいかないのだが。
玄関の正面には上階への階段があり、一階で各種施設に当たる部分にも生徒たちの部屋があった。ただ談話室だけは例外で、二階と三階にもそれぞれ備えられている。
そしてこれが一番肝心な情報なのだが、シャルロット王女ことレティシア・ル・フォールの部屋は三階にあった。
移動を始めたアールは各区画に二個ほどのペースで、麻袋から中身を出して廊下に置いていく。
それは、簡素な香炉だった。祭礼の時に使うような鈴のついた振り香炉ではないし、その中にあるのは乳香などではなく、夢境草。単純に、石の床で燃やすよりも後片付けが簡単と言うだけ。
火を付けると同時に煙が湧き出て、辺りに充満していく。
この濃度では、起きている人間を強制的に眠りにつかせることまでは出来ないが、すでに眠っている者を滅多なことでは起きないほど深い眠りに誘うことは可能だ。
この深夜にまだ目を覚ましている寮生がいるはずもない。外部からは異変が一目瞭然だが、それも時間が味方をしてくれる。人目に付きたくないアールにとって、実に便利なアイテムだった。
一階から三階までくまなく香炉を設置し終えた彼は、闇色の外套を頭からかぶり、レティシア――シャルロット王女の部屋の前にうずくまる。
無論、夢境草の効果はこうしている彼にも分け隔てなく現れるはずだが、噛みしめている葉の苦さが彼の頭を覚醒させていた。
そして、じっとその時を待つ。
眠りの雲が充満し、ウルスラ寮を糸車の眠りに落とすその時を。
彼女を狙う暗殺者が罠にかかるその時を。
程なくして、それは訪れた。
霧のように濃密な煙が、ゆらりゆらりと揺らぐ。どんなに隠れ身や忍び足に熟達しようとも、人は空気を揺らさずに動けない。
アールは外套を僅かに浮かし、その隙間から手首だけで投げナイフを放った。
狙いは、揺らぎの中心。
過たずナイフは一直線に進んでいき、しかし、鋭い金属音に遮られて床に落ちた。
もちろん、これでしとめられるとは思っていなかったが、闇の中からの奇襲を何事もなく叩き落とした手腕は看過できるものではない。
「おっそろしいねぇ……」
煙の向こうから、とぼけた男の声が聞こえてきた。くちゃくちゃと口から喋りにくそうな音がする。夢境草対策に、夜明葉を口に含んでいるのだろう。
「やっぱり、罠だったか」
「分かってやってきたのだろう」
「信を得たくば、まず行動すべしってさ。偉い人の言葉には含蓄があるね」
心書の有名なフレーズを口にしながら、男はゆっくりと近づいてきた。闇に親しんだアールの目に、中肉中背で特徴のない男のシルエットが浮かび上がる。
逆に言えばそれは捕らえ所がないという事でもあるし、投げナイフを叩き落とした武器も判別は出来なかった。
「昼間、俺にナイフを投げたのもお嬢ちゃんだろう?」
「…………」
「黙りか。それも良いさ」
闇の中で肩をすくめる気配がした。彼は知らない。アールが答えなかった理由が、「お嬢ちゃん」という呼びかけにあることを。
「俺の名は、デレク。死に逝く者には教えることにしている」
殺しの流儀は人それぞれだ。アールにそれを否定する気はない。そして、それに付き合う謂われもなかった。
「だが、このやり口はただの護衛者じゃないな。それなのに、俺を誘いだして邪魔するってのはどういう了見だい?」
「俺を殺せば、シャルロットも殺せる。それだけの話だ」
「いいね。シンプルな話は大好きだ。もうひとつ大好きなベッドの上では、シンプルにならないのが困りものだがね」
「自分で考えているほど、女に好かれていないぞ」
「……お嬢ちゃんに言われると臓腑を抉られるようだ」
それ以上の軽口に、アールは付き合わなかった。
闇色の外套をデレクへ投げ捨て、その遮蔽越しに残ったナイフを両手ですべて投げ放つ。
外套を切り裂き飛来するそれを床に身を投げて回避したデレクは、起き上がり様に何かを投げる動作をした。先ほどのアールと同じような、手首だけの投擲。
床に落ちる外套と交錯し、アールへと迫る幾筋かの帯。投擲したモーションのままの彼にそれをかわす術はないかに思えた。
それは正しい。
しかし、防御する術は残されていた。
右腕を横にし、デレクの攻撃を正面から受け止める。いくつかの軽い衝撃を練金肢越しに感じるが、当然ながら痛みはない。
ちらりと横目で見ると、そこには針。それも、大人の掌ほどもある針が数本突き立っていた。
それを意に返すことなく、アールはデレクへと肉薄。
「練金肢かい」
そこから爪刃を抜き放って斬り上げるものの、衝撃から回復した男が、膝立ちのまま全身のバネだけで後ろに飛ぶ。
爪刃は、デレクの衣服を切り裂くだけに終わった。
「危ない危ない。そんなことじゃ、毒も効きやしないな」
どうせ見えはしないだろうからと、アールは苦りきった表情を隠そうとはしなかった。
投げナイフによる攻撃はただの誘い。右腕が練金肢であるという情報と引き替えに、敵の攻撃手段を確認した上で一撃加えて優位に立とうという目論見は脆くも崩れ去った。
毒が塗られているという情報も、腕から引き抜いて見ればすぐに分かること。この濃度と匂いからして、恐らくセントール毒だろう。
これでは、赤字にもほどがある。
だが、反省はそこで終わり。
得意のスピードを活かし、デレクの機先を制して奴の元へと迫った。廊下の石材を僅かにこするような音と共に、アールが突っ込んでいく。
こんな針で格闘が出来るはずもない。接近戦なら、アールの間合いだ。
しかし、相手も素人ではない。デレクは両手の指の間に針を挟み、すでに迎撃準備を整えていた。
アールの進路に針が飛ぶ。
それを爪刃で弾き飛ばし、左腕のスリーヴシースからダガーを抜いてデレクへと体ごと突きかかっていった。
小さな刃の殺傷力は低い。それでも、暗殺者の刃は急所を的確にえぐり、かすりでもすれば毒が行動を奪いかねない。
霧のように夢境草の煙が包む廊下に、金属が擦れ筋肉が軋む音がした。肝臓を狙って突き出された刃は、デレクが両手に構えた針で受け止められている。投げナイフを叩き落としたのもこの針でのことだとすると、実に驚異的な腕前だった。
しかも、非力な左だとはいえ、針のような細く不安定な武器に押し返されるとは。
危険を感じ、ナイフをその場に落としてアールが後ろに飛んだ。
暗殺者の勘というものがあるとしたら、彼はそれに救われた。
アールがいたはずの空間を、口からの含み針が通過していく。まともに食らっていたら、目が潰されていたかも知れない。
「器用な奴だ」
口内の葉の苦みを感じながら、アールが一人ごちる。
「それほどでもないがね。ああ、そういやひとつ聞きたかったんだが、俺が王女様を無視して他のお嬢さんに悪さしたらどうするつもりだったんだ?」
「関係ない。下らん隙を見せるのなら好都合だ」
「良いね。最高だ」
ククククとデレクが含み笑いを洩らす。
攻守交代する形で、デレクが次々と長針を放った。すでに一度見切った技ではあるが、練金肢でばかり受け止めるわけにはいかない。この男を倒すのがアールの任務ではなく、先はまだまだ長い。それに、練金肢のメンテナンスは出来ても修理までは技量が及ばないのだから。
結果として、爪刃で打ち払う他は慎重に避けていくしかなくなる。
理由までは推し量れなくとも、練金肢に頼り切れないというのはデレクも折り込み済みだったのだろう。
「そろそろ決着つけようや」
一体何本目か。
デレクから放たれた長針が動き出したアールの足下に突き刺さり、後退を余儀なくされる。追撃の針は爪刃で叩き落としたが、その場に足止めを食らってしまった。
さっきから、この繰り返し。
巧妙に放たれる針は、アールを殺すのではなく行動を抑制する形で廊下の行き止まりへと追い込んでいく。
アールも、みすみす思惑にはまったわけではない。しかし、この狭い空間では彼の機動力を活かせない。
結果として、デレクの針に誘導されるように少しずつ下がらざるを得なかった。アールは蜘蛛の巣に囚われた羽虫のようにもがくことしかできない。
しかも、デレクはあくまでも毒針を放つだけに徹底して、一定以上に距離を詰めようとはしなかった。
牽制と目的達成のために動いているのは両者共通。
それも当然だろう。暗殺者同士の対戦は長期化することはない。勝つことではなく、結果として殺すことが第一なのだから。
それがたとえ嬲り殺しになるとしても。
下がれなくなったアールが、意を決して前に出る。正面突破は難しい。己のスピードを頼りに、薄霧煙る中、床を蹴って壁に飛んだ。
ヴィクトル・ジリベールの屋敷であのごろつきに対したときのように、練金肢で壁を掴む。
これならデレクの虚をつけるはず。
「器用なもんだ」
遅れて放った針がアールの下を通り過ぎようとするが、デレクは動じない。むしろ薄ら笑いすら浮かべて、距離を取った。
「曲芸を見せてやるよ」
「頼んだ覚えはない」
同時に、アールが飛んだ。
デレクの正面に着地し、そのまま爪刃を突き出す――事はしない。後ろに下がったデレクが放つ針を弾き、脅威を排除した上で動き出す。
「曲芸だって言ったろう?」
闇と煙でアールからは見えなかったが、デレクは相変わらず薄笑いを浮かべたままだった。そのデレクが次に放った針は、アールから僅かに外れ虚空を貫く――前に、何かに当たって済んだ金属音が夜のウルスラ寮に響きわたる。
それは、アールが弾いた針だった。
それを更に跳ね飛ばし、防いだはずの長針が死角からアールの腹に突き刺さる。
「なに……?」
「お気に召していただけたかな」
「……器用なヤツ……だ」
強がりもこれが精一杯。苦痛の表情こそ見せなかったが、堪らずその場に崩れ落ちる。
「はぁ、はぁ……」
アールが荒い息を吐く。なんとか意識を保っているのは、毒に慣れ親しんだ体質故か。それとも他に理由があるのか。
なんにせよ、ただの一撃で勝敗が決する。針自体で致命傷を与える必要はない。かすり傷さえ負わせればいい。相手を隅に追い込むという行動すらフェイク。それを抜け出した瞬間に、鬼札を切る心理戦。
過程はどうあれ、あっけない幕切れが、彼らの暗闘の常だった。
「このまま王女様を殺っても良いんだが、俺は臆病者なんでね」
夜明葉の残骸をその場に吐き捨て、新しい葉を口に含みながらデレクは更に距離を取った。
「その目はまだ諦めちゃいない。どんな切り札があるのか知らないけど、鼠に逆襲を受ける猫にはなりたくないねぇ」
針を仕舞った代わりに取り出したナイフを弄びながら、デレクは死を告げる。
「さぁて、楽に死にたいなら抵抗はしないこった」
得物を毒で弱らせておきながら、投げナイフで始末をつけようとは。慎重すぎる。
まったく、殺したくなってしまうではないか。
口の中でずっと咀嚼していた葉をぐっと飲み込んだ。アールが口の中に入れていたのは夜明葉ではない。
雷鳴草。
覚醒効果は同じだが、服用者の精神を研ぎ澄まし、一時的に肉体の枷を外す。服用から効果を発揮するまでに時間が必要だが、もう、充分だ。
練金肢の力で体を浮かせ、一歩踏み込んだ。
凄まじい酩酊感と共に景色が進み、世界のすべてが遅延し、滞留する。毒の影響など、まったく感じさせない動き。
数歩の距離を無にしたが、デレクが迎撃のために放ったはずのナイフはまだ彼の手の中から離れていない。
目の前に、デレクの無防備な鳩尾があった。
そこを左腕で突き上げる。ほんの少し、軽く触っただけ。
しかし、これはアールの主観に過ぎない。
アールの攻撃を受けたデレクは天井近くまで吹き飛び、床に転落し、跳ね、そこかしこを打ち付けてようやく停止。馬車に轢かれたようなもので、しばらくは動けまい。
「がっふぁっ、ああ、死んだ振りかよ。そうか、コルセットか!」
「……」
アールは反応しないが、それが回答に等しい。
怨嗟の声を上げると同時に敗北を悟ったデレクは身を捩って逃げ出そうとするものの、全身を貫く痛みが行動の自由を奪っていた。
負けを認めると同時に離脱を計る。
その潔いまでの判断は、アールの中でデレクの評価を上げる一因となった。アールと同じく、彼もまた骨の髄まで職業暗殺者だった。
任せても、良いだろう。
「ああ、ちくしょうちくしょう」
アールの評価を知る由もなく、もはや抵抗はせず、自らの迂闊さを呪う声を上げるだけ。
これだけの大騒ぎでも、誰かが扉を開けることはない。夢境草はちゃんと効果を発揮しているようだったが、アールにそれを喜ぶ余裕はなかった。
通常時間に戻ったアールは、棍棒で殴られ続けているかのような頭痛を堪えながら、動かないデレクへと近づいていく。
常人なら耐えきれないような痛みだが、彼は痛覚と思考を切り離すことが出来た。確かに頭痛を感じて不快にはなっているが、それを他人事のように処理できる。ゲオルクに言わせると単なる器用な思いこみということになるが。
アールが、廊下に倒れ伏すデレクに爪刃を押しつけた。
「ま、死ぬには良い日か。乙女の園で可愛いお嬢ちゃんにやられるんならな」
ちなみに、今のアールはコルセットこそつけてはいるが、漆黒のローブの上に同色のベストを身に纏い、ズボンもはいている完全に暗殺者としての装いをしていた。自室の鏡で確認したときも、セーラ・ヴィレールの面影はなかった。
完全に。絶対に。
以前も似たような誤解をされたが、その時かぶっていたフードも今はない。暗く、長い前髪で顔が見えないせいだろう。
無理矢理自分を納得させたアールは戯れ言を無視し、爪刃を首筋に少しだけ押しつけてから言葉を発した。
「貴様は殺さない、デレク」
「……はぁ?」
一瞬、怪訝というよりは失望したかのような表情を浮かべたデレクだったが、すぐに理解の色に変わる。
「俺に惚れたの――」
「黙れ」
容赦なく踵で鳩尾を打ち付け、冷たく言い放つ。
「ぐっ、ここまでやっておいて殺さないのかい」
「貴様の依頼主なり組織にこう報告してもらう。シャルロット王女には腕利きの護衛者がおり、任務に失敗した――とな」
意図を計りかね、デレクが目を白黒させる。細かい疑問があるのは当然だが、アールが懇切丁寧に教えるはずもない。
「自分で腕利きと言うのかい?」
「お前を倒したのだから、腕利きだろう」
「そりゃ確かにそうだ」
デレクはこれは愉快だと笑い声を上げ……ようとしたところで全身に痛みが走り、引きつった笑いを浮かべるに留まった。
「生き恥を晒したくないというのなら、自分で始末を付けろ」
心教において、自殺は禁忌のひとつだ。
人はその最期が訪れるまで懸命に生き、死後の審判に臨まねばならない。にも拘わらず、それを放棄するかのような自死は〝主〟への冒涜行為に他ならないのだ。自殺者は教会で葬儀を行ってもらえないのは当然として、残された家族も白眼視に耐えて生きていかねばならない。
無論、裏稼業の彼らにとってそんなものは関係ないが、それでも無意識に刷り込まれているのが禁忌なのである。
これだけでアールがかなり無茶を言っているのが分かるが、他に選択肢がないのも確かだった。
「分かった。分かったよ。従うしかなさそうだ」
降参という代わりに両手を挙げようとして、デレクが再び痛みに顔を歪ませる。
「なら、これを飲んでもらう」
アールが、毒物をまとめて入れているポーチから小さな薬瓶を取り出した。
「痛み止め……かい?」
「感じなくはなる」
アールがデレクに飲ませようとしているのは、サファルの親戚の様な薬だった。南方大陸の未開部族の中で使用されている秘薬のひとつで、ムハル・イムンシェという。現地の言葉を直訳すれば朧気な死となるそうだ。
川に棲む巨大な脅威種であるアジャンタ=ディエを乾燥させ、地中深くに埋めて五年以上かけて無毒化させることで原料が生まれる。
それをさらに煎じ詰め、秘伝の配合により完成するのだ。
服用者をトランス状態にするという効果はサファルと同じだが、それに付随する効果が異なっていた。サファルは興奮剤の一種だが、こちらは奴隷化する効果があるとされる。
集落の罪人に投与し、強制労働につかせるという刑罰に用いられるのだという。
これはその模造品でそこまでの効果はないのだが、負けを認めた怪我人に行動を示唆し、言うことを聞かせることはできるだろう。
「どうせなら口う――」
最後まで言わせず、鼻をつまんで薬物を口に注ぎ込んだ。瓶ごと入れないだけ、感謝して欲しいぐらいだった。
「さあ、行け」
曖昧極まりないアールの命を受け、デレクがゆっくりと立ち上がる。
そのままふらふらと、怪しい足取りではあるが立ち去っていった。こんな状態だとはいえ、あれだけの腕前だ。よもや、見咎められることもないだろう。
これで、仕込みは終わった。残りは明日から。
ふっと気を抜いたその瞬間、扉から伸びた白い腕にアールは襟元を捕まれた。なにが起こったのか、混乱する脳ではなんの結論も出せない。
気の緩み、雷鳴草の副作用。言い訳はいかようにも出来るが事実はひとつ。
そのままアールは部屋へと引きずり込まれ、廊下には煙った静寂だけが残った。