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暗殺者は王女を護る、弑する為に  作者: 藤崎
第五章 太陽の婚姻
26/29

8.決着

「ティアナたちはどうした?」

「心配ですか?」

「さてな」


 アールは、とぼけながら意味ありげにシャルロットの事を見やる。それで意図を察したのか、ミュリエルは正直に答えた。


「今のところ生きてはいると思いますよ」

「良かった……」


 暁光の聖堂(クレプスキューレ)の壁に背中を当てたまま、シャルロットがずるずるとその場にへたり込んだ。高級な素材を、極めし職人が仕立て上げたはずの礼服がぐちゃぐちゃになるが、まったく気にした様子はない。


「感謝する」


 表情を変えずに、アールは腰のポーチを取り外してミュリエルへ放り投げた。


「毒は全部その中だ、受けとれ」

「アール……?」

「義兄さんの持ち物を渡されてしまいました。どうしましょう? 地面に置くのは駄目ですよね。壊れてしまうかも知れませんが、自分で持っておきましょう」


 アールとしては情報の代価として自らの武器を渡したつもりだったのだが、ミュリエルはまるで宝物でも受けとったかのように、いそいそと自分の腰にポーチを巻いてしまった。

 まあ、渡した物をどう扱おうとアールが関知するところではない。それよりも……シャルロットだ。


「もしかして……。いえ、もしかしなくても私のために?」

「シャルロット、先に行っていろ」

「アール!」

「私がそれを許すとお思いですか?」


 ミュリエルの邪魔が入るのは想定内。それでも、シャルロットが太陽の婚姻を終えてしまえば、この勝負は終わるのだ。

 しかし、ミュリエルの行動はその意図を遙かに超えていた。


「ここで、デッドエンドです」


 ミュリエルが糸を大きく振るう。いや、網を投げるようなものか。

 それは鐘楼へと続く扉の前に蜘蛛の巣のように根を張り、あらゆる者を拒む結界となってシャルロットの行く手を阻む。


「やられたか……」

「まあ、構わないわ。あなたは約束を破るような卑劣漢ではないでしょう? 私が信念を曲げてここに止まるのだから、必ず勝ちなさいよ」

「分かった。そこで俺が勝つところを黙って見ていろ。ミュリエルからは俺が守る」

「アール……」

「悪者扱いは慣れましたけど、あまり二人の世界に入り込まれても困ります」


 拗ねるような義妹の言いように微苦笑を浮かべて、アールはミュリエルに向き合った。言われなくても、これからは彼女と二人の世界だ。


「それにしても、とんでもない近道をしたものだな」


 世間話を始めながら、アールが二歩三歩とミュリエルへと近づいていく。その手に短剣が握られていなかったら、本当にただの日常のひとこまだった。


「義兄さんが遠回りし過ぎなのですよ。どこからここに入ってきたのです?」

「それは――」

「アール、喋っちゃ駄目よ」


 シャルロットからの横槍が入るが、考えるまでもなく当然の話。


「……王家の秘密だそうだ」


 アールが突然加速した。瞬間的に彼我の距離を縮め、ミュリエルの左手を狙って短剣を横に薙いだ。


「隠し扉でもあったんでしょうか?」


 反射的に腕を下げ、短剣の一撃に空を切らす。しかし、アールの刃は同じ軌道を舞い戻り、今度は無防備な脇腹目がけて白刃が迫る。


 ミュリエルは、すっと前へ出た。

 刃が振るわれるよりも早く、アールの肘がミュリエルの体で阻止される。ならばと、空いた左手に隠し刃を忍ばせ首筋を狙うが、実際には攻撃は飛ばなかった。


 その寸前、アールは背後に跳躍する。ほんの数秒前までアールがいた場所を銀色の糸が通過し、暁光の聖堂の石造りの床にステンドグラスと同じようなひびが入る。


 双方共に本気ではない。剣呑に見えたとしたら、猛獣の子供がじゃれ合っているようなもの。その証拠に、雑談はまだ続いていた。


「場所はあらかじめ当たりをつけていましたが、扉から入れないだなんて詐欺も良いところですね」

「あなたのような不埒者がいるから、こんな人を食ったような構造にしたんでしょう」

「ステンドグラスも止めておきべきだった……と愚痴っても構いませんよ。もちろん、〝主〟の審判が終わった後の事ですが」

「糸を使ってステンドグラスから侵入者がやってきた、などと文句を言われても困るでしょうね。そこまで備えようとしたら、なにも作れなくなるわ」


 いつの間にか起こっていたシャルロットとミュリエルの舌戦を横に、アールは手首のナイフ・シースからダガーを数本手の中に収めた。


 セントール毒が塗られた刃は、擦っただけで戦闘能力を奪う。

 そして、ミュリエルへと近づき様に投擲。それぞれが異なる軌道で、しかし、すべてミュリエル目がけてナイフが飛ぶ。


「不便なものですね、王族というものは」


 ミュリエルは腕を振って、糸でダガーをすべて絡め取り叩き落とした。

 ここまでは予定通り。アールはそこで飛び上がり、ミュリエルの足下へとスライディングを仕掛けた。


 まさかスカートでこんな事をしてくるとは思っていなかったのだろう。

 虚を突かれたミュリエルは、それでも飛び上がってそれを避けるが、この攻防はアールが上手だった。


 先ほどミュリエルに叩き落とされたダガーを拾い上げると同時に、手首だけで投げる。その向かう先に、ミュリエルの瞳があった。


 勝敗を決定してしまうかも知れない瞬間。


 だが、ミュリエルはすっと首を動かしてダガーに空を切らせた。

 尋常ならざる反射神経。いや、まるでそうなることをあらかじめ知っていたかのような動き。

 斬糸を自由自在に操る能力と共に、この先読みがミュリエルを天才暗殺者ならしめている大きな構成要素であった。


 彼我の位置が入れ替わり、ミュリエルがシャルロットを背にしている格好になるが、彼女は標的である王女を見ようともしない。


「そろそろ、本気で行きましょうか義兄さん」

「ああ……」


 言葉少なに、アールが答える。実のところ、もう、軽口に付き合っている余裕はなくなっていた。


 今のところミュリエルはアールしか見ていない。しかし、いつ気が変わってその矛先をシャルロットへと向けるか知れたものではなかった。故に、アールは常にシャルロットの事を意識しながら戦っているのだが……慣れない事はするものじゃないなとしみじみ思わされる結果となっていた。


 そんなアールの苦労を知ってか知らずか、ミュリエルが両手を交差させるようにして斬糸を放った。


「これではどうです?」

「――――ッッ」


 アールは右にステップして避け、その動作が終わる前に右足で跳ねるようにしてミュリエルへと近づくが――追撃の気配を感じて自ら後ろに下がった。案の定、アールがいたかも知れなかった空間を斬糸が通過していく。


 端から見ていたら、ただの道化だな。


 自嘲ではなく客観的な事実としてそれを認めたアールは、あっさりと方針を翻した。

 ミュリエルへの接近を諦めたアールは、せめて彼女の後ろへ回ろうと移動を続ける。攻撃のためではなく、シャルロットをカバーするための動き。


「分かっていたとしても、愉快ではいられませんね」


 その程度は、ミュリエルの読み筋に含まれている。


 背後を取られても振り向こうとはせず糸を放った。右の糸は地を這うようにしてアールの足を絡め取ろうとし、左の糸は首に巻き付けようと円弧を描いて飛ぶ。

 アールは腰のベルトから短剣を引き抜き、素早く床へと叩き付けた。蛇のようにのたくっていた糸は半ばで断たれ、短剣が跳ね上がる。


 残った左の糸に注力したミュリエルが、更に斬糸の速度を上げた。それは一条の光となって確かにアールの首を絡め取ったが――まだそれだけ。


 首が絞められるのも構わず、アールは飛んだ。

 反射的にミュリエルが左手を引き、両者がぴんと張られた糸で結ばれる。それはつまり、最も糸を断ち切りやすい状態になったことを意味していた。


 空中のアールが大きく右腕を振って爪刃を繰り出す。


 隠し刃は過たず斬糸を斬り裂き、その先にあった短剣を弾いた。硬質な金属音を響かせて、くるくると縦に回る短剣は未だ滞空しているアールの手に収まる。

 そのまま縫い止めるかのように、ミュリエルの肩口へと体ごと突き下ろした。やはり、防御は性に合わない。


「さすが、義兄さんです」


 アクロバティックな跳躍からの攻撃にも、ミュリエルに狼狽の様子は見られない。抜け目なく次の糸を用意し、あの夜と同じように刃を受け止め絡め取った。


 しかし、あの時とは状況が違う。


 今はアールの全体重が乗った攻撃だ。ミュリエルの細腕で支えきれるはずもない。このまま押しきれば獲れる。


 にもかかわらず、アールは短剣から手を離した。まるで、絡め取られた短剣がガラスのように砕け散り、その余勢を駆って持ち主の方へと糸が飛んでくるのを予期していたかのようだ。

 難を逃れたアールはそのまま地面に復帰し、両足のバネだけで後ろに下がる。その離脱の動きに合わせて、残ったセントール毒付きダガーをばらまいた。


「ふふ。義兄さんの考えていることは以心伝心。すべてお見通しですよ」


 その宣言通り、あらかじめ来るのが分かっていたとでも言わんばかりに糸を渦のように回し振るう。ダガーはすべてそれに絡め取られ、虚しく辺りに散らばった。


「ああ……。素敵。とても素敵です、義兄さん」


 アールを、アールだけを見てミュリエルは陶然と呟く。


「今この瞬間は、義兄さんが私だけを見てくれている。私だけの時間」

「手段と目的を取り違えるなよ、ミュリエル。そんな事では、いつか死ぬぞ」

「義兄さん、義兄さん……。義兄さん……! 本当に、義兄さんはいつどんな時でもいつも通りなんですから。ああ……どうしましょう」


 アールにとっては何気ない一言だったが、ミュリエルへの効果は劇的だった。あまりの反応に、今手を出して良いものか迷いが生じる。


「アール、アール。相手の言葉に飲まれちゃ駄目よ」


 背後から、心配そうなシャルロットの声がする。それで心を落ち着けたアールは、状況を素早く確認し……。


 やはり、及ばないか。


 首の残ったままだった斬糸を懐にしまいながら、率直にアールは自らの不利を認めた。ミュリエルは強い。仮に互角に見えるとすれば、まだあの義妹が本気を出していないというだけだ。


 そして、本気を出す前にどうにかするという計画も失敗しつつある。切り札である雷鳴草も、未だ使用するタイミングがつかめなかった。

 かといって、アールに諦めるとか敗北を認めるとかそんな思考は欠片もない。予定通り行かないことなど、この状況を始めとしていくらでもある。


 ならば、その中で最善を尽くす――いや、結果をもぎ取るだけだ。


「そうですね。そろそろ、果実を収穫させてもらいます。それしかありません」


 いつ、糸が放たれのかシャルロットは元より、アールにも知覚できなかった。


 ただ銀色の光が瞬いたのを見たアールは、考えるよりも早く左手側に飛んでいたが、それでも遅かった。糸が錬金肢を擦り、ぱっくりと人工物が斬り裂かれたという結果だけが残る。


 生身でなくて良かった……そう安堵する暇もなかった。次々と綾織るように糸が飛んでくる。

 とにかく、一カ所に留まるのは危険極まりない。アール自身なにも考えずに、前後左右へ無作為に移動し続ける。


 しかし、右に動けば首へ。後ろに出れば左手へ。移動する度に糸が確実に追尾して来る。やがて、すべてを裁ききれなくなった。


 今までよりも大きく飛ぶと今度は糸が足に絡みつき、そこから強引に引き抜いたため、ローブの左足側だけが大きく破れてしまった。被害が、太腿に出来た輪を描くような傷と服だけと考えれば許容するほか無い。


 しかし、そこだけ見れば、マリーカの踊り子の衣装のように短くなってアンバランスで動きにくくて仕方ない。


「待ちますよ」

「…………」


 ミュリエルが両手を下ろして、戦闘態勢を解く。

 それを確認してから数秒後、アールはナイフでローブを縦に切り裂いた。裾が邪魔なのは変わらないが、動きやすさは段違い。最初から、こうしていれば良かった。


「アール、なんてはしたない……」


 ミュリエルはなにも反応せず、ただ、アールから目を離すことはない。

 静かな対峙。再開を前提にした遅滞。


 しかし、始まりもまた静謐だった。

 なにかしたとも思えないのに、見えない刃に斬り裂かれアールの左腕から血が吹き上がる。肘の近くの肉がぱっくりと割れ、普段は目にすることがない肉が露出していた。


「アール!」


 シャルロットの声と同時に、それでもアールは動いた。傷の影響など感じさせない俊敏な反応。しかし、ミュリエルは更にその上を行っていた。

 今度は太腿目がけて糸が飛ぶ。


 一度は爪刃でかばったアールだったが、その進路にあらかじめ張られていた糸にまで反応しきれるはずがない。なんとか急停止して、右臑に軽い傷を負うに止めたのは僥倖だった。


「くぅ……ッッ」


 ミュリエルの攻勢は止まらない。次から次に糸が飛び、アールを追い詰めていく。


 致命傷や大きな負傷だけは避けているが、最初からそれは織り込み済みと言わんばかりに、指先に腕に肩にふくらはぎに太腿に首筋に脇腹に小さな切り傷が積み重ねられていく。


 この痛みは、一体どこからのものなのか。渾然一体となって訳が分からなくなる。

 このまま出血多量で動けなくなるなどというのは、ミュリエルにとって理想的な展開だろう。


 前へ出ろ。


 毒や薬物を失ったアールに、活路は前しかない。


「多少の負傷は覚悟の上、と思っていますね、義兄さん」


 艶麗に口の端を上げたミュリエルが、一直線に斬糸を振り下ろした。不必要に大きな動作。完全に誘われている。


 仕掛けるなら、今しかない。

 アールは更に足に力を込めると同時に、制服の上着をおもむろに脱ぎ去った。ナイフを仕込んだ血塗れのボレロをミュリエルへと投げつけ、遮蔽幕とする。


 この間に、アールは口内の雷鳴草をぐっと飲み込んだ。


 活路は前しかない――そう思っているはず、ミュリエルは。


 まずミュリエルは、その服越しにアールが飛び込んで来るものとして振り上げていた斬糸を最後まで振り下ろす。しかし、当然と言うべきか、ボレロを切り裂いた向こうにアールはいない。


 雷鳴草を使ったと看破したミュリエルが、余裕の態度は崩さず今度は周囲に糸を放った。螺旋状に、どこからアールが飛び込んできても対応できるように。加えて、念のため廃品回収も済ませていくことにする。


 これで準備万端。どんなに速度が上がろうと、必ず絡め取り斬り裂くことが出来る。


 それなのに、どこからも反応がない。


 時間稼ぎをすればいいという状況でもない。飛び道具のないアールは、近づかねば勝機はない。それなのに。

 ミュリエルの中に、初めて不安の種が芽吹く。


 そしてその視界いっぱいに、空から落ちる天使像が飛び込んできた。

 なぜ、こんな状況になるまで見落としていたのか。


 答えは無論、雷鳴草にあった。


 雷鳴草を飲み込んだ瞬間、アールはミュリエルから一挙動で距離を取る。十数歩は離れた場所に移動したにもかかわらず、アールの主観ではまだミュリエルはボレロに向かって糸を振り下ろしている途中だった。


 だが、アールは義妹を見ていない。彼の視線の先には居並ぶ天使像のひとつがあった。


 壁に接着されているそれに、引きはがすかのように爪刃を突き込む。


 刃先が僅かに沈むが、それだけ。それ以上は、アールも期待していない。

 そのまま錬金肢に力を込める。


 水銀の血が沸騰し、生身との連接部分が軋みを上げた。爪刃も使い物にならなくなるほどたわむが、もう少しだけ持てばそれで良い。アールの期待に応えて、天使像が命を吹き込まれたかのように浮き上がる。爪刃ではなく、錬金肢が入る程度に。


 爪刃が半ばで折れるがその機を逃さず、アールは壁面と天使の間に手を差し込むと一気に突き上げた。さっきミュリエルにやられた錬金肢の裂け目から嫌な音が響くが、だからといって止めることなど出来ない。


「お前には出来ない芸を見せてやるよ」


 とても片手で握れるようなものではない。はっきり言って無茶苦茶だが、ゲオルクの錬金肢がそれを可能にした。


 苦労して持ち上げた天使像を、片腕で更に押し上げた。そのまま錬金肢と雷鳴草の効果を総動員してミュリエル目がけて運んでいく。


 普通なら、こんな事をしている間に攻撃を食らって終わり。だが、向こうに見えるミュリエルは、まだ周囲に糸を撒いている最中。時間の流れが断絶しているかのようなこの状況が、アールの奇手を成功に導く。


「お、おおおっっっ」


 錬金肢が異常な熱を持っているのが分かる。痛みなど感じないはずの錬金肢から幻痛が襲ってくる。

 しかし、これ以上なにもやる必要はない。


 天使像と壁の裂け目は更に大きくなり――後はなにもする必要はなかった。勝手に、ミュリエルへと向かって落ちていく。


「まさか、私が読み負けた?」


 自由落下する天使像を目の当たりにしたミュリエルは、予想外の攻撃とアールを迎撃するために集中していたため反応が僅かに遅れる。


 とはいえ、これに斬糸を放つほど冷静さを欠いていない。


「私の期待通りなのに予想を裏切ってくれる義兄さんが大好きですよ、本当に本当に」


 天使が堕天使となるその寸前。この状況でもなお嬉しそうにしながら、地面に転がって天使像から逃れる。


 ここだ。


 勝負所を見て取ったアールが、一気に加速した。


 移動しつつ外れかけた錬金肢を元に戻すが、熱を帯びた右腕は上手く動かせない。各所の痛みと全身から流れ落ちる血が、無理をするなと悲鳴を上げる。雷鳴草の効果はとっくに切れ、傷の痛みよりも酷い頭痛に襲われるが、そんな物は後回しだとすべて切り捨てた。


 片膝を突いて起き上がろうとするミュリエルに、抱きつくように飛びつくように、押し倒すようにしてのしかかる。


「くっ」

「アール!」


 ミュリエルの苦鳴も、シャルロットの悲鳴も聞こえない。天使が地に落ちる破砕音も同じく。そのままアールは、半ばで断ち切られた爪刃をミュリエルの肩へと殴りつけるかのように突き立てた。


「……義兄……さん」


 ミュリエルの血が飛び、アールの頬を染める。義妹に与える初めての負傷。

 急所に攻撃できなかったのは、手心を加えたのではなく、そこしか狙えなかったから。この刃では心臓に届かない。ならば、首筋か。


 素早く第二撃を与えようとするアールに対し、ミュリエルは嬉しそうに楽しそうに嗤っていた。


「義兄さんなら、来てくれると信じていました」


 視界には満面の笑みを浮かべる義妹。いつも通り。いつも通りだが、どこかに違和感があった。ミュリエルはいつも通り。


 ならば……。


「私が、義兄さんの持ち物を粗末にすると思いましたか?」


 言われて気付く。


 いつからそうだったのか、アールが投げたダガーが。床に転がっていなくてはならないそれが、姿を消していた。


 ミュリエルの指が、斬糸を操作する。なにをするつもりなのかは分からないが、アールは自分の出来ることをやることにした。


 攻撃を止めることではない。

 息の根を止めることだ。


「アール、上よ!」


 ミュリエルは、密かに糸でまとめ上げていたダガーを放り上げ、空中で解放した。

 アールが放ったダガーがステンドグラスの裂け目からの陽光を受けてキラキラと光り、雨のように降り注ぐ。


 しかし、背に目を持たぬアールはその光景を見ることは出来ない。出来るのは、肩から引き抜いた刃をミュリエルの首筋に突き立てることだけ。


「ずっと一緒ですよ」


 アールは一瞬、すべての痛みを忘れた。雷鳴草の副作用すら意識の外へ飛んでいった。

 まともな反撃や防御であれば、いくらでも対応できただろう。だが、アールはミュリエルのなすがままになっていた。


 それほどまでに、ミュリエルの反応はアールの予想外。夢見るような表情でぎゅっとアールを抱き寄せ、その唇に自らの唇を押しつけたのだ。

 熱い吐息が入り交じり、ミュリエルの舌がアールの歯を舐る。にゅるりとした異物感。しかし、不思議と不快感はなかった。


 キスというよりは、その前の行動で狙いがずれて爪刃はミュリエルの首筋を僅かに斬り裂いたのみで終わる。


「義兄さんに、傷物にされてしまいました」


 ミュリエルはそのままアールに抱きつき、最後の瞬間を待ちわびていた。


 心中がしたいわけではない。

 天使の羽根のような刃に塗られた毒がアールから行動の自由を奪い、その間にシャルロットを殺す。


 そして、二人の新しい人生が始まるのだ。


 狙いのつけようのない攻撃だったが、その数本が確かにアールの背中目がけて落ちてきている。それが突き刺されば実際に、そうなっていたはずだ。

 足下も覚束無いシャルロットが、アールの上に覆い被さったりしなければ。


「アール、しっかりしなさいよ」


 その寸前、二人にもう一人分の重量が加わる。


「かはっ」


 それは、のし掛かれたミュリエルの吐息か、それともダガーを突き立てられたシャルロットの苦鳴か。


「シャルロット……?」


 アールが、ようやくまともに事態を把握した。


 彼の背中からだらりと崩れ落ちるシャルロットを抱き上げて、ミュリエルから全力で離れる。両腕の傷も、足の怪我も頭痛もまったく気にならない。


 ミュリエルも立ち上がるが、こちらを攻撃する気配はなかった。どういうつもりなのか分からないが、手出ししてこないのであれば義妹の事もまずは意識の外に置く。

 どちらも、腕の中の蒼白で今にも消え去りそうなシャルロットに比べたら、なにほどのことがあるというのか。


「シャルロット!」

「アール……良かった無事だったのね」


 地下からの入り口辺りまで戻ったアールの両腕が血に濡れる。シャルロット背中からは、じわじわと染み出すように数カ所から血が出ていた。二人の血が入り交じり、どす黒く変色していく。

 迷った末、出血よりも毒が体に回りきるのが問題だと判断してアールはダガーを引き抜いた。その刃は手首のナイフ・シースに戻す。


「少し、我慢してくれ」


 気丈にも、シャルロットは苦鳴も漏らさずに耐えきった。

 アールは制服のローブの生地を切り裂いて、簡単な応急処置をシャルロットに施す。


 元々、重量もなく殺傷能力も低いダガーだ。今すぐには死ぬことはないだろう。

 だが、放っておけば確実に死ぬ。それが、アールの診断だった。


「あなたは治療しなくて良いの?」

「他人を心配している場合か」

「まったくね……。他の女とキスをしてる男を助けに行くだなんて、本当にどうかしているわ」


 自分のその言葉が余程面白かったのか、シャルロットは笑おうとして失敗した。


「私は……まだ死なないわ。まだ、為すべき事をしてい……ないもの。だから、だから……アールはアールの為すべき事をして」


 代わりに、酷く真剣な目つきでアールを送り出す。


「すぐに終わらせる。少しだけ、待っていてくれ」


 シャルロットを床の上に横たわらせたアールがゆっくりと立ち上がった。


「まったく、最悪です」


 振り向くと、苦々しい表情の義妹と目があう。

 シャルロットの様子を見ている間に介入してこなかったのは、彼女なりのプライドだろうか。それとも、治療をしてもどうせ死ぬからと放置をしていたのか。


「せっかく理想的な形で義兄さんとの決着を付けられそうだったのに、台無しです」

「悪いが、無駄口に付き合っていられる余裕はなくなった」


 先ほど回収したダガーを両手に構えて、アールは返事も聞かずに動いた。


 ミュリエルへ向けて一直線。最短距離で義妹の元へ向かう。それにしても、先ほどの軽快な動きが嘘のように体が酷く重たかった。今、自分はちゃんと走れているのか。アールには、それすら分からない。


「まだ、私に勝つつもりでいるのですか?」


 単純に向かってくるだけのアールへ向かって、ミュリエルが右手から糸を放つ。アールは、左手のダガーをわざと絡め取らせてそれを凌ぎ、時間差で正面からやって来た斬糸をもう一方のダガーで迎撃した。


 斬糸とダガーが空中で絡み合う。


 今度は、ミュリエルが勝利した。


 ダガーは根本から断ち切られ、斬糸はその勢いを保ったままアールの錬金肢に絡みつく。アールは知る由もないが、このままではクレアの二の舞になる。


 ――そのはずだった。


「こればかりは、ゲオルクに感謝しなくてはならないな」


 アールの錬金肢には、深く糸が食い込んでいる。ギチギチと昆虫のような音を立て腕に深い溝を刻んでいるが、それでもなお、両断されはしなかった。


「さすが義父さんですね」


 ミュリエルが手を離すよりも一瞬早く、アールは全身で錬金肢を一気に引いた。


「――――」


 アールと斬糸で繋がっていたミュリエルが蹈鞴を踏み、無防備な背中をアールに晒す。ダガーは、もうない。爪刃では威力が足りない。


 ミュリエルの背後を取りながら、アールは懐に手を忍ばせた。


 左手の指先に触れる、繊細な糸の感触。首に巻き付けられていたミュリエルの斬糸を口にくわえ、彼女の首に巻いた。


 右の錬金肢は使えない。今なお出血の止まらない左腕で、首を一気に締め上げた。

 この力では首を落とすことは出来ないが、このまま圧迫を続ければ落とすことは出来るはず。


 その時、ミュリエルが頭を揺らし、その濡れ羽色の髪を大きく振り抜いた。


 この期に及んで、ミュリエルが意味のない行動をするはずがない。ある種の信頼に基づき、アールは咄嗟に錬金肢を出してた。

 アールの左腕に向かっていた綺麗な髪の一房が、錬金肢に触れる。


 今度は――耐えきれない。


 黒髪が。

 いや、黒髪の中に仕込まれた斬糸がアールの指をばらばらに散らばらせ、爪刃を含む手の甲をずたずたに斬り裂いた。


「ざんねんでした」


 子供の頃、二人で隠れん坊していたことのことを思い出す。あの時は、老木の洞の中にいたミュリエルを見つけられなかったのだったか。


「これで、もう武器はなくなりましたよ、義兄さん。私の糸を最後の武器にしてくれたのは嬉しかったですけどね」



 回想を断ち切ったのは、現在の義妹の声だった。


 暗に降伏を勧める義妹の肩を左手で掴み、痛みを無視して強引にこちらを向かせる。そのまま倒れ込むように抱きかかり――もう一度錬金肢に力を込めた。


 水銀の血が沸騰し、壊れかけの馬車のように不快な異音が鳴り響く。

 短時間で連続して錬金肢の力を増幅させるのはゲオルクから禁止されていたが――だからどうした。


「武器ならある」


 諦めない心でも、へこたれない勇気でもない。そんなものは、騎士道物語の主人公にくれてやる。

 アールの武器は、最後まで目的達成を第一とするその意志。


「私もです」


 その手にはナイフが握られていた。


 それは、アールの物だった。といっても、この戦いで使用したものではない。約一年前、ミュリエルが出奔する時に持ちだしたものだ。


 最後の切り札が、根本までアールの脇腹に差し込まれる。灼熱の棒を差し込まれているような感覚。痛みに悶え、身も世もなく叫びだしても仕方がない。


 実際、アールは血を吐き、ミュリエルに寄りかかっていなくては立っていられなくなる。

 それでもなお、アールの意志は挫けない。


「ミュリエル、愛している――が、今度こそ終わりだ」


 指がないと拳が握れない?

 爪刃が使い物にならない?


 それでも、この腕は鈍器ぐらいにはなる。

 熱と腕力が最大化された錬金肢。そのなれの果てが、ミュリエルの鳩尾を正確に打ち抜いた。


「にい……さん……」


 ミュリエルの手がナイフから放れ、だらりと脱力して崩れ落ちていく。


 最初から最後まで義兄に固執し続けた黒髪の死神は、最後の瞬間までアールの名を呼び、恋する少女のように無邪気な表情で気を失った。

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