7.太陽の婚姻
ウルスラ寮は、もう見えない。
血塗れのガウンは脱ぎ捨てドレスだけの身軽な格好になったシャルロットは、馬の背に横座りになって、アールの腰に手を回していた。
アールの背に胸をぎゅっと押しつけている状態だが、アールから特段の反応はない。シャルロットも、それをからかうような精神状態ではなかった。
上下に揺れる馬の背はお世辞にも快適とは言いがたかったが、そのお陰で泣き喚く余裕もない。これは、意外な僥倖だった。
「あっちは大丈夫かしら……」
「さあな」
シャルロットが思わずといった感じで心配を疑問の形で口にしたが、アールの返答はにべもない。二人の乗馬は気を使うことが多すぎたし、制服を着ての乗馬はかなり困難だった。そんな状況で、答えのない疑問には答えようがなかった。
――という理由は色々あるが、結局のところ口に雷鳴草を含んでいると喋るのが面倒なことこの上ない。
「ただ、クレアは本物だ。むざむざ敗れることはないだろう」
ミュリエルは、それを超えるがそこまで言う必要もない。
「そう……ね。ごめんなさい。心が弱くなってるわね、私」
「それよりも、このままで良いのか?」
「ええ。まずは裏庭を抜けてちょうだい」
森に入ったからといってすぐに馬が使えなくなるわけではないが、どこまで稼げるかは分からない。あまり期待すべきではないなと、アールは考える。
期待は楽観を生み、楽観は死を招く。
しばし無言で逃避行が続いた。
「そうだわ」
「どうした? 曲がるのか?」
「私、今、アールと一緒に遠乗りをしているのね」
「そう……だな」
アールも、暴れ馬からティアナを助けたその日の夜の会話を思い出していた。あの時の、「王族は馬に乗れないのだから、アールと遠乗りをすればいいじゃない」という冗談が実現するとは二人とも想像もしていなかったに違いない。
「これでもう思い残すことはないわ」
「つまらない冗談だな」
「それは本気で落ち込むわね……」
「悪かったな」
軽口を叩きながらも、アールは安堵していた。朝から様々なことが重なりペースを乱されっぱなしだったシャルロットがようやく自分を取り戻しつつあるようだ。
そうでなくては困る。
木々の向こうに、白亜の聖堂が見えた。
馬を体力の限界まで追い込み、あえぐようにだく足を進ませている甲斐あって目的地はもうすぐそこ。立ち直ってもらえなくては、馬も頑張った甲斐がないというものだろう。
馬の進みをやや緩ませ、斬り裂くようだった風も、ようやく心地よさを感じられる程度に落ち着いた。
「ここから先は、歩きの方が良いな」
地面は馬を進ませるのに問題はなかったが、このままだと枝を落としながらの行軍になる。それはあまりにも、非効率的だ。
「まだよ」
「どういうことだ?」
「ここまで来たら、もう安心って事よ」
「なるほど。こういう事か……」
真っ暗な洞窟を見回しながら、アールが納得いったとばかりに後に続くシャルロットに声をかけた。
「管理する人間を置かなかったのは、別に吝嗇家だからという訳ではないのよ」
暁光の聖堂を目前にしたシャルロットはしかし、まっすぐ聖堂へと向かうことはなかった。太陽の位置と聖堂から伸びる影の位置を確認した彼女は、計算式を口に出しながら暁光の聖堂から離れていった。
訝しむアールを引き連れ彼らの身長ほどもある大岩の側まで行くと、シャルロットが突然屈んだ。やはり、テレーズやその同僚たちを失ったのはかなりショックだったのだなと彼女の奇行を見守るアールの目の前に、この洞窟へと繋がる隠し扉が現れた――という訳だった。
心配を口に出さなくて良かったと、心の底から思う。
「王族しか知らない秘密通路か」
「そう。暁光の聖堂にある扉は偽物。鍵なんかないし、押しても引いても開かないわ」
アールと違って夜目の効かないシャルロットが、盲人のように手を動かしアールの腕を掴んでほっと息を吐いた。
「行きましょう」
自然のものに人の手を加えられた洞窟は一本道で、この暗さを別にすれば歩行に支障はない。見れば、左右の壁には燐光球に似たなんらかの光源となる装置もあるようだった。燐光球であれば常時明かりが付くはずだから、また別の仕組みなのだろう。
「太陽は沈み、また昇る。これは、人の生と死の循環と同じ事よね」
「……だから?」
「この洞窟を通って暁光の聖堂に至るというのは、既に太陽の婚姻の一部なのよ」
そう言ったシャルロットが、アールの腕から手へと繊手を移動させる。そして、存在を確かめるかのようにぎゅっと握ると朗々と言の葉を紡ぎ始めた。
「テレーズ・バゼーヌは、シャルロット・ベランジュール・ソルレアンの最初にして一番の友であった。実の姉のような慈愛を持ち、身命を賭して困難な使命に尽くし、その生き様をもって多大なる忠誠を現した忠臣でもあった」
同時に、歩みも止まらない。後ろにいるはずのシャルロットに引っ張られるようにアールはやや早足になって進んでいく。
「アレット・セヴィニエ、パメラ・マクフィー、デリア・グナイスト、ジョランダ・サバテール、マイラ・シロラ」
光源と思しき装置の横までたどり着くと、そこで初めて弱々しいがしっかりとした光が洞窟の一部を包んだ。
人が近づくと一定の時間だけ光を放つという仕掛けか。誰が考えたか分からないが、効率的な錬金術の産物だと場違いな関心をしてしまう。
その薄明かりが、ここをただの洞窟ではなく厳かな儀式の場へと変貌させていった。
アールに王家への忠誠心も親近感も存在しないが、雷鳴草を噛みながら歩くのは酷く場違いな気にさせられる。
「彼女らもまた、自らの危険を顧みず王国とシャルロット・ベランジュール・ソルレアンに真の忠誠を誓った気高き魂の持ち主であった。〝主〟の審判においても、それが証明されるだろう事は想像に難くない」
これは弔辞か。
夜と死を意味する洞窟の中で悼み、生に至る儀式。
「マリアンヌ・リア・クロティルド・ソルレアンは女王として国と民に尽くし、先人の誰にも成し得ぬ大改革を遂行した」
ふと、アールはシャルロットの方へ振り返る。
謡うように弔辞を述べる彼女は目を瞑って、すべてをアールに委ねていた。そして、最初からだったのか、あるいは母王になってからか、一筋の涙が流れ落ちている。
見てはいけないものを見てしまったかのような気分になったアールは、再び前を向きシャルロットの手を握っている錬金肢に力を込めた。
「その志半ばで倒れたものの、功績は揺るぐことはない。ソルレアン王国の歴史に確かな事績を残し、後世においても偉大な女王として語られることであろう」
シャルロットの歩みが止まった。
ここが終点。
背後の明かりは徐々に消えていき、目の前には暁光の聖堂へと続く階段が現れていた。
陽はまた昇る。
これですべてではないだろうが、太陽の婚姻の一部はつつがなく終了したようだ。シャルロットが涙を拭き取る気配を感じてからアールは再び振り返り、そっと頷きあった。
そして、そのまま手を握り合ったまま階段をゆっくりと登っていく。
ここには、先ほどのような錬金術の装置は無いようだ。明かりを持たずにここにやってくること自体想定外なのかも知れないが、闇の中で螺旋状の階段を登っていくという作業は想像よりも精神的な負担が大きい。
「女王が〝主〟の伴侶になるため同じ位階に立つ――という暗喩とはいえ、いつまで続くのかしらね、この階段」
「もうそろそろだろう」
終わりまで続くとしか返しようがない問いに、アールは気休めで返した。だが、完全にそれだけというわけでもない。
終わりは近い。そして、生きている限り明けない夜はない。
闇を好むアールの目に、僅かながら光が差した。やがてシャルロットにも感じられるほどそれは強くなる。
階段の行き止まりは、暁光の聖堂への入り口だった。
ちょうど、開かない扉の正面。普通の教会であれば祭壇が置かれている場所にたどり着く。しかし、信徒の席などは存在せず広大な空間が広がっていた。広さはちょうど裏庭にあった馬場と同じぐらい。天井の高さは、三階建てのウルスラ寮と変わらなかった。
しかし、壁沿いに天使像が配置されているためか、空虚な印象はない。加えて、光を受けて輝くステンドグラスと一面を覆う壁画の効用だろう。
赤青黄色緑。大小様々な色ガラスを組み合わせて作られたステンドグラスから放たれる色と光の洪水。その場にいるだけで、心が洗われるかのような爽快感がある。
その下の壁面には、フレスコ画でソルレアン王家の始祖アリエルがディアマンド山の頂で〝主〟からの啓示を受けるシーン。それから、民を率いて異教徒の軍勢を迎え撃ったヘイロニア平原の戦いが描かれていた。戦闘で旗を持ち士気を鼓舞しているのが、始祖アリエルだ。
モチーフになっているのは、子供でも知っているような王家の伝承。しかし、一切の隙がない荘厳な雰囲気は、芸術に疎く感性が摩滅して信仰心の欠片もないアールですら思わず居住まいを正してしまう迫力があった。
さすがに画聖と謳われるだけのことはあると、なぜか上から目線で評価するアール。
「アール、私はいつまでここにいればいいのかしら」
すっかり忘れていた……とは口が裂けても言えない。
「危険はないようだ」
何事もないという態度で階下に手を伸ばし、シャルロットを暁光の聖堂へと招き入れた。
「これが、ティアナの言っていた画聖ニコラの壁画なのね……。なかなか感動的だわ」
当然ながら、シャルロットも目にするのは初めてなのだろう。アールですら感銘を受けたのだ、彼女が抱いている感動はいかばかりか。
「ティアナの気持ちも分かるわね。しっかり目に焼き付けておくのよ、アール」
「ああ」
しかし、いつまでもこうしてはいられない。
「先に進みましょうか。こっちに鐘楼への階段があるはずよ。って、また階段なのね。うちのご先祖様はどれだけ階段が好きなのかしら」
「〝主〟が相手なのだから仕方がないだろう」
先ほどとは攻守交代。今度はシャルロットがアールの手を引いて、祭壇の右手側に移動する。もう、手を繋ぐ必然性はないような気がしていたが、アールは振り払わずにそのまま大人しくついて行った。
その時――アールが異変を察知した。
「どうしたの?」
突然立ち止まった事よりも手を振り払われたことを疑問に思いながら、シャルロットがアールに声をかける。
だが、アールは応えない。
「上か!」
その声と、頭上のステンドグラスにひびが入るのは同時だった。ひびは徐々に成長し、やがて裂け目となって光の欠片を聖堂内へと雫していく。
そこから、黒影が舞い降りた。
ガラスの破片ではない。
蜘蛛のようにするすると、銀の糸を伝って降り立つ影。
一人しかいない。来ないはずがない。
「ミュリエル」
「お久しぶりです、義兄さん」
頬を艶やかに染めて淑やかに、ミュリエルは義兄の呼びかけに応えた。




