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暗殺者は王女を護る、弑する為に  作者: 藤崎
第五章 太陽の婚姻
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5.暁光の聖堂へ

 暁光の聖堂(クレプスキューレ)へは、その名の通り夜明けの時間帯のみ入ることが許される。それも、太陽の婚姻を行うその当日に限って。


 しかし、それを阻む何物かが存在しているわけではなかった。


 場所は王家の秘中の秘としてヴェールの向こう側に隠されているが、逆に言えば場所さえ分かっていれば忍び込むことはできるはず。


 ミュリエルの追跡を振り切るだけであれば数日前から籠もっても良かったのだが、しきたりがそれを許さない。だがこれは、アール側の勝手な言い分だろう。


 どんな状況であろうとも、これは一国の王が即位する儀式なのだ。しきたりが優先されるのは当然。形振り構わずなんでも出来るというわけではない。

 それに、結局連絡はなかったが、命令変更の連絡があるかも知れなかったのだ。


「こんな仮定は、机上の空論に過ぎな……過ぎませんね」


 他人の目があると、独り言を呟くだけなのに気を使わなくてはならない。


「なにか気になることでも?」

「いいえ」


 今はシャルロットの部屋の前で、彼女が出て来るのを待っているところだった。

 テレーズは彼女の準備を手伝っているため、一緒にいるのは見知らぬ女。恐らく、シャルロットの正体を知る数少ない侍女の一人なのだろう。


 黒髪を首元で切り揃えた彼女は、主人の警護中にも関わらず表情を崩してアールに微笑みかけた。どうも、彼女(彼だが)がシャルロットを狙う暗殺者をあらかた排除したという情報はしっかり共有されているようで、アールに対しとても友好的だった。寮内に配置されミュリエルの動きを警戒している他の侍女たちも、大差ない。


 邪魔だからどこかへ行けとは言えなかったが、なるべく手を出さないようにとはテレーズに伝えていた。聞き入れているかどうかまでは、彼の関知できる部分ではないが。


 シャルロットの部屋の前で待機していたアールが、不意に顔を上げた。扉を開き、その中から現れた彼女の姿を見て、さしもの彼も目を見開く。


 贅を凝らしたローブに豪奢な羊毛のガウン。王権を象徴する錫杖に、輝きを放つティアラ。戴冠の儀式にふさわしい、肖像画から抜け出てきたかのような堂々たる出で立ちだった。

 それでいて、緊張しているのか普段とは違ってしっとりとして柔和な印象を受ける。傍らに侍るテレーズの存在など完璧に霞んでしまっていた。


 とはいえ、この後のことを考えれば邪魔で仕方がないのだが。アールが独自に裏に馬を連れてきたいたものの、こんな格好では乗せられない。

 これが、しきたりだ。


「テレーズとアレットは先に寮の玄関で待っていて」

「承知はしておりますが、あまりお時間をかけられませんよう」


 アレットと呼ばれた侍女の方は、無言で会釈してその場を離れていった。

 その後ろ姿を見送ったシャルロットがそっと近づき、アールにだけ聞こえるように耳打ちする。


「どう?」


 アールは本来の口調でそれに応えた。


「綺麗だな」

「……てっきり、動きにくそうだって言われるかと思ったわ」


 驚きにシャルロットが目を丸くする。


「それは言うまでもないだろう」


 そっと口の端を上げた。冗談のつもりらしい。


「最後の最後になって教育の成果が出たわね。こんなに嬉しいことはないわ」


 言い慣れないことを口にするものではないなと、アールは苦笑をかみ殺す。


「アールも、すっかりその姿が板についたじゃない」

「ティアナに真相を語るなどと言いだしたからではないか」


 暁光の聖堂へ向かう前に、ティアナに自分の正体を明かしたいとシャルロットは、珍しく控えめに希望を出した。それが、自分を心から慕ってくれた彼女への別れの言葉だと。


 もしかしたら、アールが浴場で語った後悔なく生きろという言葉を受けての行動かもしれない。ならば、それを受け入れねばならない……が、それ故アールはいつもの(いつものになってしまった)制服姿だった。アールに、自分の正体をティアナに明かすつもりはない。そんな面倒はごめんだ。

 ただし、いつも以上に武器を隠し持ち、腰のポーチにはありったけの毒物薬物が詰め込まれている。完全装備と言って良いだろう。


「迷惑をかけるわね」

「なんにせよ、最後にはミュリエルを止めなくてはならないのだ。変な小細工をするより、正攻法の方が勝率は高い」


 彼女を下手に追いつめれば、本気になってしまう。そうなれば、打つ手なしだ。ミュリエルが〝遊んでいる〟ぐらいの余裕でいてくれた方が良い。


 要は、最後のその瞬間にアールが立っていればそれで良いのだから。


 それに、約束を反故にすれば、ミュリエルはシャルロットを無視してアールのみ狙うかも知れなかった。それでは、シャルロットを殺せない。


「行きましょうか」


 アールの思考を断ち切る、シャルロットの凛とした声。軽く頷いたアールが先行しよう……とすると、裾をシャルロットに掴まれた。


「待ちなさい。私の手を取って、ちゃんとエスコートするのよ」

「女王が、俺相手にそんなことして良いのか?」

「よろしいのですか」

「女王となろうお方を、私がエスコートするなど恐れ多いことです」

「私が良いと言っているのよ」


 隠れてため息をつき、アールはシャルロットの手を取った。柔らかくて暖かで小さな手。触れるだけでなぜか鼓動が早くなる。


 緊張しているのかも知れない。


 シャルロットを先導して寮の階段を下りながら、柄にもなくそんなことを考えていた。

 これから、ミュリエルと本気でやり合わなくてはならないのだ。勝てるかどうか分からぬ相手との殺し合い。


 緊張するなという方が、無理な話だ。


「アール、今あなたとても的外れな事を考えているわね」

「仰る意味が分かりません」


 セーラとして答えるアール。ティアナの部屋は、もう目の前だった。


「よろしいですね?」


 シャルロットの目を見て、最後の確認。彼女は、決意を感じさせる表情でしっかりと頷いた。

 それを受けて、アールは間髪入れずノックをする。応対に出てきたのは、当然ながらクレアだった。

 アール、それからシャルロットの順に視界を入れ、目を丸くしたままクレアは暫時微動だにしなかった。シャルロットの装束で、すべてを察したに違いない。


「どうぞ」


 用件も聞かず、クレアは二人を室内に招き入れた。

 アールは二度目。シャルロットは、何度か訪れたことがあるのだろう。迷いのない足取りで入っていくと、ティアナはベッドに入ったまま読書中だった。


「クレア、セーラさんがいら――」


 本から目を上げたクレアが、二人を。正確にはシャルロットを見て息を飲む。今日この日にこの格好をしているその理由を、クレア同様に悟ったのだろう。


「レティシアさま……?」 


 それでも信じられないのか、意味のない言葉を茫洋と呟く。


「つまり、そういうことなのよ」


 シャルロットの肯定。それで推測が確信に変わり、瞳に理解の色が浮かび上がった。


「まさか、レティシアさまに他にも秘密がおありだっただなんて……」


 他? アールには見当もつかなかったが、今はそんな場面ではない。


「騙していたみたいでごめんなさいね。あなたのことだから事情は汲んでくれるでしょうけど、どうしても自分の言葉で明かしたかったのよ。それでお詫びになるとは思わないけれどね」

「いえ、そんな。でも……セーラさんはご存知だったのですか?」

「私も驚きました」


 結局、アールは嘘を貫き通すことにした。


「セーラは私の妹だから別に良いのだけど、ティアナには本当に申し訳ないことをしたと思っているわ」


 シャルロットが軽く頭を下げる。それ以上下げられないのは、慣れないティアラが頭に載っているためだ。どうも、女王というのは他人に謝罪するようには出来ていないらしい。


「本当です」


 様々な衝撃から立ち直ったのか、ティアナから困惑や柔和な笑みが消える。取って代わったのは、目をつり上げたまるで怒っているかのような表情だ。


「ティアナ様……?」


 クレアにとっても意外な反応だったようで、珍しく動揺を声に出しながら主人の名を呼んだ。


「悪いと思っていらっしゃるのであれば、ひとつわたくしのお願いを聞いていただけますか」

「え、ええ。私に出来ることであれば」


 女王に。それも、〝主〟(ソル)に仕えるソルレアン王国の女王に出来ないことなどあるだろうかとアールは反射的に思ってしまったが、嘴を挟める状態ではない。


「暁光の聖堂にある画聖ニコラの壁画。それがどれほど素晴らしいものか、後でわたくしに語って聞かせていただけませんか?」


 そう言って、ティアナはとろけるような笑みを浮かべた。

 今までの態度はすべて、冗談だったのだろう。 


「それだけ?」

「はい。レティシアさまが女王となられるお方だと聞いて、逆に得心いたしました。そんなお方と友誼を結ばせていただき、なおかつ暁光の聖堂のお話を伺えるだなんてわたくしは幸せ者ですわ。――あ、申し訳ございません。シャルロットさまとお呼びすべきだったでしょうか」

「そ、そうね……。それはどうでも良いのだけど……」


 体調が悪そうなのと関係あるかも知れないが、シャルロットが翻弄されている姿というのは珍しい。錬金術師は、この瞬間を保存するための機械を発明しておくべきであった、と半ば以上本気でアールは思う。


「それくらいならお安いご用よね、セーラ」


 シャルロット本人では果たせない約束だ。無論、アールがそれを引き継ぐ義理などありはしないが、それでもしっかりと頷いていた。


「そろそろ、参りましょう」


 用は済んだ。長居は無用。

 名残惜しそうな二人の感情を無視してアールが辞去を促すのと、寮の玄関から大きな音が響いてきたのは、ほぼ同時だった。


 ――ミュリエルか!


「様子を見てきますから、動かないで」


 そう言い捨てて、アールが駆けだした。この部屋と表玄関を繋ぐルートはひとつだけ。この場を動いても、行き違いになることはない。


「お待ちなさい。あ、ティアナたちは早く逃げるのよ」


 しかし、言うことを聞かずにシャルロットもアールの後を追って移動を始めていた。一瞬、このままシャルロットをさらって裏から脱出するという計画が頭をよぎるが、それを彼女が承諾するはずもない。

 思い切ってシャルロットを残して表玄関に出ると、そこには予想通りの光景がふたつ広がっていた。


 ひとつは、艶然と微笑むミュリエル。

 ひとつは、その足下に積み上げられた侍女たちの死体。





 やや、時は遡る。


 バゼーヌ家は、代々ソルレアン王家に仕えてきた一族である――という訳ではない。貴族階級ですらない商人の一族だ。それも、商売のため数代前にヴァルダー帝国から移住して来ていた一族の末裔である。


 侍女として王宮に上がったテレーズの母とマリアンヌの馬があったがため彼女は女王に仕え、やがてシャルロットの乳母となったに過ぎない。

 王宮で姉妹同然に育てられたシャルロットとテレーズは、彼女らの母親と同様の友誼を結ぶことになる。


 だが、ただこれだけで命を賭けられるはずもない。


 シャルロットは、幼い頃から才気煥発な少女だった。


 ある日、どういう理由かシャルロットは劇の上演を思い立ち、テレーズも半ば強引半ば当然と手伝わされることになる。

 王宮内で秘密裏に仲間を増やして計画された劇は女官や下女を問わず次第に多くの人を巻き込み、ついにはシャルロットの妹であるリゼットまで参加することとなった。


 大所帯となった即興劇団の最初で最後の公演がカスティーユからの外交使節団の前で行われ、シャルロットの脚本は大喝采を受ける。


 しかし、確かに劇は大したものだったが予定にない催しが突発的に行われたのは紛れもない事実。マリアンヌ女王はシャルロットの行動力とリゼットの演技力を好ましく思いながらも、立場上きつく叱らねばならなかった。


 共に叱責を受けながら、テレーズはシャルロットに終生忠誠を尽くすと誓いを立てていた。


 シャルロットと一緒にいると楽しい。愉快なことを運んできてくれる。この人は、私がいないとなにをするか分からない。そんな、単純だが得難い理由で。


 アレットを始めとするアマーリア女学院まで同行しているテレーズ以外の侍女たちも、多かれ少なかれ同じ想いを共有していた。


 故に、主人のために彼女は命を賭けて敵に立ち向かったのだ。

 しかし――その忠誠も、目の前にいる黒髪の少女には届きはしなかった。


「狩猟用のネットを持ち出して多人数で囲むという作戦は良かったのですが……」


 地面に這い蹲ったテレーズが、少女――ミュリエルを睨みつける。口の中は、血と悔恨の味でいっぱいだった。

 なぜ、太陽の婚姻が終わるまでミュリエルを拘束しておけばそれで良いなどと考えてしまったのか。


「実力が不足していましたね」


 婉然と微笑むミュリエルが、テレーズの手を踏みつける。


「ぐっ」


 その痛みより、屈辱感より、動きを封じられたことが悔やまれた。これでは、シャルロットに警告を飛ばすこともできない。


 テレーズは、なぜセーラ・ヴィレールが自分たちに協力を持ちかけなかったのか、その理由を思い知らされていた。彼女もその仲間も腕に覚えがないわけではなかったが、ミュリエルはそんな範疇を遙かに越えている。


 バケモノだ。


「それに、顔色も悪いですね。私が手を下すまでもなく死んでしまいそう」

「……姉妹揃って、大した眼力だ」

「毒は義兄さんの方が専門家ですから」


 微妙な齟齬。しかし、それを埋めるほどの暇は二人には残されていなかった。異常を察知したアールが飛び込むと、もう、ミュリエルはテレーズのことなど路傍の石ほども気にしない。


「来ましたよ、義兄さん」

「来たか、ミュリエル」


 兄妹がにらみ合う。アールが放つ緊張感と、ミュリエルが抱くこれから起こることへの期待感がない交ぜになって周囲を支配する。


 そんな二人だけの領域に入ってきたシャルロットが、悲鳴にも似た声を上げる。


「テレーズ! アレット! みんな!」

「来るな!」


 反射的にシャルロットの動きが止まった。同時にアールが爪刃(レイザーシャープ)で虚空を薙ぐ。甲高い金属音が鳴り、光の糸がその場で舞った。


「ざんねん」


 大して悔しくもなさそうに侵入者――ミュリエルは口にした。


 アールは無謀とも思えるほど大きく踏み出し、ミュリエルに迫る。彼の意図を察したのか、彼女は反撃せずに玄関口まで退避した。

 それで、テレーズがミュリエルの脅威から解放される。シャルロットは王錫を投げ捨てて駆け寄り、彼女を抱き寄せた。


 他に助けるべき人間もいたが、彼女らは既に手遅れだった。


「わがままなお姫様を守りながらの戦いは大変ですね」

「わがままなお姫様は、目の前にも一人いる」

「お姫様だなんて、そんな。私が言わせたみたいではないですか」


 見様によっては和気藹々とも解釈できる光景を繰り広げる義兄妹の傍らで、姉妹のように育った二人が最後の言葉を交わしていた。


「アレットも……パメラも皆も覚悟の上……です。シャルロットさまが背負……われる必要はあり……ません」


 この期に及んでもテレーズはシャルロットの〝姉〟だった。それに気付いたのか、二人は同時に泣きそうな笑顔を浮かべる。

 傍目には涙をこらえているようにしか見えなくても、それは笑顔だった。


「テレーズ、テレーズ。喋らなくて良いわ」

「いつもと逆ですね……」


 抱き起こすと、背中はべったりと血に塗れていた。助からない。直感的にそう悟った。悟ってしまった。


「大丈夫よ。あの子はいろいろ薬を持っているの。きっと、テレーズを治してくれる薬もあるわ。治ったら、一緒にまたお忍びでルテティアの市へ行きましょう?」

「良いのですよ。覚悟はしていました」


 はっきりとテレーズが告げる。


「シャル、生きて」


 彼女は無理矢理シャルロットの腕の中から抜け出すと、生まれたての子馬のようによろよろとしながらも誰の手も借りずに立ち上がった。


「セーラ・ヴィレール、あとはお願いします」

「アール、止めて!」


 身も世もなく、シャルロットが髪を振り乱さんとばかりに叫んだ。テレーズの血が付いた衣服など顧みず、ただ彼女の為に叫んだ。


 しかしアールは動けない。


 テレーズを止めるのは簡単だが、そちらに気を取られればシャルロットの身が危うい。あるいは、そう見せかけてアール本人にミュリエルの糸が飛ぶ可能性もあった。


 彼女の決意と命を活かすためには、見捨てるしかない。結局のところアールは英雄でも騎士でもない、打算を優先する暗殺者でしかなかった。


 それを残念に思う自分に驚きつつも、アールはテレーズではなくシャルロットに問いかけた。


「シャルロットさま、よく考えて下さい。あなたなら、なにが正しいか分かるはずです」


 彼女が、死を選ぶとはいえ。いや、死を選ぶほどにこの国のことを考えているというのであれば、結論は自ずと導かれる。


「テレーズ……」

「はい」


 よろよろと歩みを進めながら、彼女は主からの言葉を待った。


「テレーズ。テレーズ・バゼーヌ、私が女王になるための時間を稼ぎなさい――その命を賭けてでも」

「それでこそ、私が選んだお方です」


 シャルロットからは見えなかったが、テレーズは笑っていた。本当に、心の底から


「これでは、私が完全に悪者ですね。義兄さんの心証が悪くなったらどうしてくれるんです?」


 亡者のように迫ってくるテレーズを見て、ミュリエルが珍しい苦笑を見せた。確かに、強者が弱者をいたぶっているようにしか見えない。


「だから、なるべく苦しまないように殺してあげましょう」


 アールはシャルロットを拾い上げようと踵を返す。


「その結論には、いささか早すぎるかと存じます」


 そこで、あり得ない人物を目撃した。


「レティシアさま――」

「ティアナ、どうして……」


 クレアに付き添われ車椅子で登場したティアナは、いつも通りの無垢な笑顔に断固たる決意を乗せて厳かに宣告した。


「いえ、シャルロット・ベランジュール・ソルレアン殿下。僭越ながら、殿下の忠実なる友として、お助け申し上げます」


 アールが一生かけても習得できないだろう、貴族の血と環境のみが可能とする、威厳という名の場を支配する力。テレーズすら、釘付けになっていた。


「ティアナ……?」


 次から次に襲いかかってくる予想外の事態に、さすがのシャルロットも呆然とティアナの顔を見上げることしかできないでいた。


「クレア、お願いね」


「承知いたしました」


 車椅子から手を離し、革の手袋をはめながらクレアが無造作に近寄っていく。いつもの侍女服を身につけたままのため、まるで朝食の用意をしに行くかのような錯覚すら憶える。

 気負いも、緊張もない。


「この場は、僭越ながら私めにお任せ下さい」

「千客万来ですね」


 アールもテレーズも二の句を継げないまま、ミュリエルのみが正確に事態を把握していた。


「良いでしょう。無視できるほど軽い相手ではなさそうです」

「…………」


 クレアが、無言ですっと構えを取った。ミュリエルも、もう、アールのことは横目でしか見ていない。

 当惑はあったが、いつまでも迷っていられるほどの余裕はなかった。テレーズがその場にへたり込むのと同時に、アールはシャルロットの元へと駆けだした。


「ご武運を」

「そちらも」


 クレアと初めて出会ったときの直感は、然程間違いではなかったようだ。

 油断無くミュリエルと相対するクレアと言葉を掛け合ってから、呆然と座り込んでいるシャルロットの目の前までやってくると、そのままなにも言わずに抱え上げた。


「ちょっと、なにを」

「舌を噛まないように」


 麻袋のようにとはいかず、左手を膝の下に入れると同時に右手で脇から抱き上げた。そういえば、ぐずったミュリエルをこうやってベッドに運んだこともあったなと懐かしく思い出す。


「なんてこと……絶対に殺してあげます」


 その姿を見てミュリエルの殺意が膨れあがり、斬糸がアールへと伸びる――


「無視をされては困ります」


 しかし、同時にクレアの足が大きく跳ね上げられた。それは虚空を貫く斬糸を捉え、軌道を変えることに成功する。ぴしりと爪先を裂く音がしたが、糸が指に触れる前にクレアは素早く足を引いていた。

 念のため回避行動を取っていたアールは、そのままミュリエルに背を向けてティアナの横を通り抜けていく。


「セーラさん、レティ……シャルロットさまをよろしくお願いいたしますね」

「……任せて下さい」

「それにしても、王子様と王女様のようで素敵です。後で、絵に描かせて頂けませんか?」

「な、なにを言うのよティアナったら」


 まったくだ。

 王子様はともかく、片方は本物の王女様だろうに。


 寮内を駆け抜けて、アールは一路裏口を目指した。しかし、当然ながらそこが終点ではない。


 暁光の聖堂へ。

 一刻も早く、太陽の婚姻を終えるために。

 そして、望みを叶えた上で腕の中の彼女を殺すために。

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