2.大立ち回り
「それで、朝食を頂いて戻ってきました」
朝の出来事を話すようティアナに請われたアールは、言葉を選びながらゆっくりと語っていった。
朝からの晴天は昼になっても変わらず。この二人とクレアは、日除けのあるテラスで歓談という形をとっている。二人とは別の講義に出ているシャルロットがやってくるまでの慰みのようなものだ。
急かすことなくアールのペースに任せていたティアナは、話が一段落すると深く頷いた。
「なるほど……」
アールの視点では、変わった監督生に会って別の寮で食事をしただけという意味のない行動だったのだが、ティアナにはまた別の意見があるようだった(全くの無意味というわけではなく、朝食のメニューは卓毎に取り分けるパスタだったので気苦労が減ったというメリットはあったが)。
「それで、今日になってから周囲の雰囲気が和らいだのですね」
「飽きたのだとばかり思っていました」
「セーラさんったら、冗談ばかり」
アールへのやっかみや侮蔑の視線が減ったのは事実であるが、彼としては別に冗談を言ったつもりは欠片もなかった。この辺りに、根本的な身分と教育の差があると言っても良いだろう。まあ、新たに同情や良い意味で好奇の視線が向けられていることに気付かない辺り、アール自身の個人的問題という部分も存在するが。
「ですが、エルミーヌさまとした話のどこにも、私への風あたりが弱くなる要素はありませんでしたよ」
「え?」
「え?」
意外すぎるお互いの言葉に、思わず顔を見合わせる。アールはいつも笑顔を絶やさないティアナの珍しく怪訝な顔に気を取られていたため、立ち直りは彼女の方が早かった。
「セーラさんは本当に冗談がお好きなんですから。だって、レティシアさまはわたくしたちにされたのと同じ、身の上のお話をされたのでしょう?」
「ええ……」
どこをどう切り取っても、完全に作り話だが。
「そして、エルミーヌさまは、アガフィア寮のユーリアさまには自分から伝えられると仰せになったんですよね?」
「はい」
確かにそう言っていた。気苦労が減るのは良いが、他の寮にいる暗殺者の存在を探ることが出来なくなってしまったのは痛し痒しだと考えていた記憶がある。
「ですから……。クレア、この場合はなんとお伝えしたらいいのかしら?」
アールにも通じる話し方と語彙が見つからなかったのか、ティアナは影のように背後に控える侍女に助言を求めた。
「エルミーヌさまがセーラさまにお会いになり、加えてユーリアさまへは自らがお伝えになられる。これはつまり、セーラさまをレティシアさまの妹としてお認めになったということになります」
認められる必要があるのか? とこういう認識になってしまう辺り、根本的な齟齬が発生している。往々にして、その擦れ違いは隔たりを埋められることなく拡大の一途をたどってしまうのだ。
「レティシアさまが選ばれたというだけであれば、まだ嫉妬で済ますことも出来るでしょう。しかし、監督生の方々が認められた存在への非難は即ち、彼女たちへの不信に繋がります」
「そう。そういうことになるんですのよ、セーラさん」
ようやく言いたいことが伝わったと、勢い込んでティアナがアールの手を握る。それを振り解くわけにもこちらからも握るわけにもいかず、アールはそのまま固まってしまった。
「監督生の方々の権威は、この学院内ではかなり大きなものなのです。まだいらっしゃったばかりのセーラさまには実感がないかと思われますが」
さりげなく、そんなアールのフォローをするクレア。
「それから当然の事とは存じますが、エルミーヌさまからユーリアさまへお話が通った後には、そちらへ挨拶をされることになるかと」
「そ、それはそうですよね」
気付かなかった……。まあ、この辺はシャルロットがきちんと考えているのだろうが、すべてが彼女の掌の上というのはなんだかしゃくだった。
「ですけど、エルミーヌさまからお誘いがあった件は秘密にした方が良さそうですね」
ようやくアールの手を放したティアナが、シャルロットが見せるような悪戯っぽい微笑みを浮かべた。
「誘いといっても、乗馬や剣術ですが」
さすがに、これを羨ましがるお嬢様は少数派だろう。
「内容ではなく、お誘いがあったという事実が重要なのですよ。それに、エルミーヌさまは人気のあるお方ですから」
それは、アールにも理解できる。良い意味でも悪い意味でもさばさばして男っぽい性格の彼女は、明るく行動的という面をあげるまでもなく、女生徒の憧れを集める要素をいくつも持ち合わせていた。
「恐れ多いことです」
アールとしては、他に言葉がない。極力目立ちたくないという願望は、英雄譚に憧れた子供が成長して現実を見るように、どぶへ捨てた。
「これでしっかり講義に集中が――」
「や、止めて下さい!」
ティアナの鈴を転がしたような声を、絹を裂く悲鳴が遮った。
何事かと、ティアナが腰を浮かしかけるが、今は車椅子ではなくテラスの椅子に移動しており、傍らのクレアも彼女を置いて動くわけにはいかない。
「ちょっと、見てく……きます」
ティアナの護衛も暗殺も、アールの任務ではなかった。素早く立ち上がり、身につけつつある淑女らしい歩き方を捨てて、声がした方向へ走るのと早歩きの中間ぐらいのスピードで移動する。
場所は、本館の西側。建物が壁になって見えないが、その奥の噴水のある池の辺りか。あの辺りは、木陰があって生徒が集まっていることもあるようだ。
そう見当を付けたアールは、手首や上着の暗器を確認。さあ、一体何事がと駆けつけたアールは事実を認識し――この場にやってきたことを猛烈に後悔した。
「そのような飾り物を身につけて、一体どういうつもりなのかしら?」
「お姉さまの言うとおりだわ。監督生にでもなったつもりなの?」
昨日アールに因縁を付けていたあの姉妹が、今日は別の女生徒に難癖を付けていた。
全部殺せば大人しくなるか?
そう投げやりになったアールの目の前で、事態はさらに進展していった。
「お返し下さい。それは、母の形見なのです」
言葉は毅然と。しかし泣きそうな声で、少女は二人に告げる。アールからはその横顔しか見えないが、アールよりもさらに小柄で華奢な少女だった。まるで子犬のように可愛らしい彼女は、男の保護欲をそそるに充分だったが、アールは(二重の意味で)普通の男ではない。
「それはあなたの事情でしょう?」
「主席生徒や監督生の方々でもないのに、こんな派手なブローチを身につけるだなんて。風紀の乱れにつながるわ」
姉と呼ばれた方が手にしたそれを、これ見よがしに振り回す。建物や木々の陰になっているここでも、それはきらきらと目映い光を放っていた。確かに、シャルロットたちのブローチとよく似た大きさをしている。
「返すとしても、そうね。このようなことが二度と無いように、学院の理事会にお渡ししてからだわ。そうなると、しばらく戻ってこないでしょうけど」
「そんな……」
ばからしい。付き合っていられるか。
アールが踵を返そうとしたところで、被害者である少女と目があった。
こうなると、見て見ぬ振りも出来ない。
しかも、ティアナが来たら絶対に少女に味方するだろう。そうなるとさらに、合流してきたシャルロットも加わり……なにを命じられるか知れたものではない。
それに、せっかく周囲の風あたりも弱くなったのだ。ここでシャルロットの威を借りる生意気な妹と思われるくらいなら、強引にでも自分の裁量で解決した方が良い。
「そこまでにし……なさい」
一歩踏みだし、低い声で二人に告げる。
「あ、あなたは」
昨日の騒ぎが堪えたのだろう。アールの顔を見ると、露骨に頬を引きつらせた。
ここまでは予想通り。
身内の殺害現場を目撃したかのように動けない姉妹めがけて、アールは全力疾走。出会い頭の衝撃で判断力を奪い、自慢のスピードですべてを圧倒した。
ブローチを取り上げていた姉の反応は、アールの思惑通り。狼狽した彼女は、動くことはおろか声も出せない。
しかし、もう一人は違った。
自分が狙われないとでも、無意識に感じて余裕があったのか。それとも、姉より感受性が強かったのか。
「きゃああぁっっ」
暴れ馬に迫られた時には出せなかった悲鳴を上げて、傍らの姉にしがみついた。
それだけならば、許容範囲。
しかし、妹を支えきれなかった姉はバランスを崩し。それをなんとかしようと下手くそな踊りに似た動きをして――ブローチを放り投げた。
悪気はあっただろうが、無意識でもあった。
でなければ、あんなに高く遠くへ飛ぶはずがない。そう。あんなに離れた噴水の、それも石造りの塔の部分目がけてなど。
「おかあさまぁっーー」
水中ならばともかく、他の部分にぶつかってはただでは済むまい。少女の悲鳴と放物線を描く宝飾品が交差する。
アールはそのまま、少女の脇を駆け抜けた。これから自分がしようとしている行為の意味など考えない。
ただ彼の目には、陽光を反射するブローチも噴水から上がる水しぶきも、すべてがスローモーションに見えていた。
確信と共に、アールが力強く踏み切る。翼持つ者かのような、大きな跳躍。ローブの裾がはためき、暗器を仕込んだボレロが体にまとわりつく。アールはそれに構わず手を伸ばし――風に舞う木の葉の一葉が、アールの視界を奪った。
それで目算が狂ったアールの指先が、ブローチを掠める。掌に収まらない。蜃気楼のように、アールの手からすり抜けてしまった。
目の前を落下していくブローチ。
蹴り上げるか、暗器か錬金肢のギミックを使うか。この状態からリカバリを試みるのは容易だが、ブローチを傷つけたり、正体が露見しては意味がない。
「セーラさんっ」
背後から、ティアナの声が聞こえた。状況は飲み込めていないだろうが、アールが失敗しつつあるのは分かるのだろう。純粋で、真摯な声援だった。
それに応えたと言われたらアールは真っ向から否定するだろうが、彼女の声が力になったのもまた事実だった。
手を掠めてブローチが落ちていくその刹那、アールは空中で倒れ伏すかのように、体を大きく曲げた。手が届かないのなら、届くように体を持って行けばいい。そして今度こそ、しっかりと右手でブローチをつかみ取る。
「セーラさん!」
しかし、上がったのは歓声ではなく悲鳴だった。
当然だ。空中でそんな動きをすれば、頭から地面に落ちるしかない。そうなれば、どんな結果が待っているか。ほんの少しでも想像力を働かせてみれば、容易に結論を出せるだろう。
「きゃああぁっっ」
再び、誰のものか分からぬ悲鳴が上がる。
しかし、アールは自殺志願者や英雄志望者のどちらでもなかった。すべては成算があっての行動だ。
さらに空中で体を捻り、頭ではなく背中から落ちるように体勢を整える。首を抱え込み、落下の衝撃に備えた。
あとは、そう。予定通り、池の中に落ちるだけだ。
水を叩く鈍い音に続き、水柱が生まれる。噴水からの水を圧倒する水飛沫が上がり、周囲に滝のように水滴を降らせた。
水中のアールはゆらゆらと揺らぐ水面に映る陽光を見ながら、それなりに深さがあって良かったと安堵しているところだった。さすがに濡らさないことは出来なかったが、掌中のブローチは無事なのだから問題ないだろう。
ついでに、化粧も落とせるな。
頭を振りつつ水中から顔を出したアールの視界に入ってきたのは、ティアナでもブローチを奪われた少女でもない。
「よくやったわね」
いつの間にかやってきていた、彼の姉だった。
シャルロットはアールの左手を取って、池から引っ張り出す。小柄で軽い彼の体はあっさりと池の外へと現れ、そのまま勢い余ってシャルロットに抱きつく形になってしまった。
「濡れますよ」
抱かれたままアールが言う。ちらりとその胸に咲く紅玉の薔薇を見るが、このブローチとは大きさぐらいしか共通点はなさそうだった。
「あなたの水飛沫で、元々濡れていたわよ」
「それは慰めになっていませんが」
「気にする必要はないという事よ」
そう言って、細かい刺繍が施されたレースのハンカチを取り出し、アールの顔をざっと拭いていく。
「あ、ありがとうございます……」
「気にする必要はないわ。それより、ほら」
アールの顔を見て満足げにうなづいたシャルロットが、彼に後ろを向かせ背中を押す。その先にはブローチの少女がいた。
「用事を済ませてきます」
シャルロットに促されたアールは少女の方へと歩いていき……無言でその脇を通過した。服が濡れて重たく全身に纏わりつく中、アールが向かって行ったのはあの姉妹に向けてだった。
そして、一言。
「恥を知りなさい」
それだけ言うと、もう相手の顔を見ようともしなかった。今度こそ、ブローチの少女の方へ戻り、その手に母の形見だというそれを握らせた。
「濡れてしまったから、手入れをちゃんとすると良い……ですよ」
「あの……ありがとうございます。本当に、なんと感謝して良いか……」
少女は一生懸命に頭を下げるが、あの姉妹同様もうアールの興味はない。彼の頭の中は、この服を一刻も早く、誰にも見られずに着替えることでいっぱいだった。
「無愛想な妹で申し訳ないわ」
「いえ、そんな……」
「申し訳ないついでに、濡れ鼠になったこの娘をなんとかしなくてはならないのよ」
「は、はい。そうですね……」
「ティアナ」
「レティシアさま、わたくしはなにをしたらよろしいのですか」
今までそっと事態を見守っていたティアナが、シャルロットに呼ばれて前に出る。当然、車椅子を押すクレアも一緒だ。
「今から、セーラと寮に戻って浴場を使わせてもらうわ」
「分かりました。次の講義の担当司祭さまには、わたくしから事情をお話ししておきます」
「雑用を頼んでしまうみたいで申し訳ないわね」
「とんでもありませんわ」
話はまとまったようだ。当事者の意志と意見を確認することは一度もなく。
「お風呂……?」
「そうよ。風邪を引きたくはないでしょう?」




