1.朝の二人
「セーラ、入っても良いかしら?」
その時、アールはちょうど作業中だった。昨夜荷物整理の続きをしていたら、アールにぴったりな新装備を発見したのだ。
この抜け目のなさは、さすがゲオルクといえる。感謝も賞賛も、自らのこの姿を自覚すると雲散霧消してしまうが。
「一人……お一人ですか?」
戸惑ったのはむしろ、アールとセーラのどちらで受け答えすべきか。結局セーラとして答える安全策を取ることにしたが、容易くこの決断をしてしまえるところに一抹の不安を感じないわけではなかった。
「ええ。他には誰もいないわ」
「なら、どうぞ」
新装備の中に入ったアールがシャルロットを迎え入れる。
「なんだか、秘密の関係みたいで面白いわね」
楽しげな声音と共に部屋に入ったシャルロットが目にしたのは彼女の妹――のシルエット。部屋の中央には薄布で作られた天幕が張られており、その向こうではアールが着替えの真っ最中だった。
この天幕こそがアールが発掘した新装備。鍵がかけられないアマーリア女学院の寮生活においては、必需品とすら言えた。
薄布の向こうのアールは、ちょうど着替えを始めたところ。寝間着代わりの貫頭衣を脱いだ格好のまま、シャルロットに声をかけた。
「何の用……ですか?」
「着替え中だったのね」
そう言いながらも特に気にした様子はなく、シャルロットはゆっくりと扉を閉める。そのまま壁際に移動して待つことにした。
見るとは無しに、シャルロットは薄布の向こうの光景に目をやる。
それにしても、男の裸を見たのは初めて――所詮、布越し――だが、用心のためにあんな物を用意しているだなんて、アールは本当に男なのねと妙な感心をしてしまった。
それであのシルエット? 何かが間違っている気がするわ。
「用件は後で聞きますから」
「ええ」
いつまでも着替えの様子をまじまじと見る訳にもいかないので、代わりと言ってはなんだが室内の様子に目を向けた。
シャルロットの目で見ても、アールの部屋は及第点だった。派手ではないがそこそこ良い物をと頑張っているところが、逆に田舎貴族らしい。
そこを狙っているのかは定かではないが、シャルロットの設定とも矛盾はない。
「しかし、とんでもない間の悪さだったわね」
「手が空いているのなら、手伝っていただけませんか?」
声をかけられ、反射的にアールの方を向いた。
視界に飛び込んでくる、朝陽に照らされた、薄布越しの細くしなやかな肢体。誰も男だとは思いもしない。だが、意識して初めて分かる、女とは違う硬質なシルエット。
「手伝いって?」
シャルロットに対して無警戒だと言えば嘘になるが、共犯者に対して過剰に反応する必要もないだろう。そう判断して、アールは彼女に助力を求めることにした。
「コルセットを一人で身につけるのは大変なので、手伝って下さいませんか?」
「なるほど。それは、確かに無理よねぇ」
得心したシャルロットは天幕をくぐり、アールの背後に回った。
アマーリア女学院に来てからは滅多にないが、王宮にいた頃は侍女が数人がかりで締め付けてくれたものだ。
その中には、王宮でシャルロットの影武者をしている乳姉妹のテレーズも含まれていたが、現状の彼女の困難とそれへの感謝の念を差し引いても、あの苦痛は忘れられない。
そんな感傷を捨てると、自然とアールの背中が目に入ってしまった。
「それにしても……アールって、意外とたくましいのね。そうよね、暴れ馬に飛び乗ったり――」
「まだまだ足りない。もっと筋肉をつけなくては」
「なんてもったいない」
シャルロットが言下に否定した。
「……」
アールが振り向き、無言でじっと抗議の視線を送る。
彼女自身にも多少無茶を言っている自覚はあったが、結局は姉の威厳を押し通す事にした。
「アール。あなた、乙女らしい恥じらいが足りないわね」
「はあ……」
ため息と共に、アールは再び背を向ける。
この体をシャルロット以外の誰かに見られた時点で、すべてはご破算だ。恥じらう前に口を封じなくてはならない。
そう合理的な判断を下していたアールだったが、シャルロットが言うのならその通りだろうとも思う。しかし、今更だ。
「あなたって、なんだか良い匂いがするわよね」
「は……?」
予想外の言葉にアールが固まる。反応のしようがないため、アールは強引に話を変えた。
「用事があるのでしょう? 早く着替えを」
「そ、そうね」
妹に促され、ぎゅっと紐を引っ張る。そうなると、身長差のお陰で前をのぞき込むような格好になってしまう。
「なるほど、これで胸を作ってるのね。でも、どうせならもっと大きくすればいいのに」
「邪魔です」
アールの返答はにべもない。
「そうかしら?」
しっかりとコルセットの紐を結び終えた彼女は、下からそっと自分の胸を持ち上げた。ふにゅんと、形の良い乳房が柔らかく歪む。
「それで、ご用は?」
「用? ああ、そう。そうね」
アールの冷たい対応に、シャルロットの心が落ち着きを取り戻していく。
彼女は一歩下がって、制服を身につけていくアールを見ながら軽く咳払いをした。そして、ありったけの威厳を込めて告げる。
「挨拶をしに行くわよ。覚悟を決めておきなさい、セーラ・ヴィレール」
「挨拶?」
「ええ」
どこへ? 誰に? なんのため? アールは詳しい状況説明を求めたが、シャルロットにそれ以上答える気はないようだった。
教えてくれないのであれば仕方がない。黙々と着替えを終えたアールは、化粧のために鏡台へと向かう。それを興味津々といった感じで後ろから観察していたシャルロットが不意に声をかけてきた。
「それはそれとして、私にお化粧をさせてくれない?」
鏡越しに見えた彼女は、教会での勉強を終えた後に広場へ向かう子供たちの様な顔をしていた。
陽光が燦々と降り注ぐ中、アールはシャルロットと連れだってウルスラ寮を出た。朝食も摂らず、見送る者もない。
しかし、朝の太陽は優しく暖かで、それを浴びているだけで気分が高揚してくる。考えてみれば、この舗装された道と前庭は散歩にぴったりではないだろうか? それに、清冽な空気は制服越しでも身心を引き締め、快い緊張感を与えてくれる――普通なら。
さわやかな朝の空気を肺に取り込んだアールは軽く咳き込み、眩い光に耐えかねるかのように目を細めた。どう考えても、今は自分の時間ではない。
「この私と朝の散策をしているのよ? もう少し嬉しそうな顔をしなさい」
「こんな時間に散歩など、正気の沙汰ではないと思います」
「その辺りの生活習慣から、なんとかしないといけないのね……」
シャルロットが、前途の多難さに天を仰ぐ。そんな彼女を横目に見つつ、アールの手は無意識に自らの頬に向かっていた。
「こら、触っちゃ駄目よ。お化粧が崩れちゃうじゃない」
顔に触れる寸前、アールの手が止まり宙に浮く。それをシャルロットが握って、顔から引き離した。
「なんというか、邪魔です」
「なにを言うのよ、この私が丹精込めて仕上げたっていうのに」
しかし、アールの目から見るとかなり濃くてくどい。結局、女の化粧というのは男のためではなく、自分のため。もしくは、同性のために行うものなのだ。
そんな世界の真実に気付いてしまったアールの前方から、馬影が近づいてきた。もちろん、昨日の暴れ馬のような空馬ではなく人が乗っているわけだが、アールは思わず目を疑った。
無理もないだろう。朝のアマーリア女学院で遭遇して良いものではない。しかも、乗馬服を身に着けてはいるが、れっきとした学院の生徒のようだ。
一瞬の虚脱状態から平静を取り戻したアールは思わず身構えるが、シャルロットがそれを制した。珍しい苦笑を浮かべながら、耳元でアールに告げる。
「先にお迎えが来たみたいね」
「居ても立ってもいられなくて、先に会いに来てしまったよ」
二人からやや離れたところで馬を止め、女生徒がはらりと身を躍らせた。無理も無駄もない、華麗な動作。まるで、舞台から飛び出してきたかのような優雅さだった。
「やあ、初めまして。セーラ・ヴィレール、ようこそアマーリア女学院へ。私はディオニュシウス寮のエルミーヌだよ」
シャルロットよりもこちらへ挨拶をしてきたという事態にやや面食らいながらも、きっちりと落ち着いて対応していく。
「セーラ・ヴィレールです。よろしくお願いいたします」
今度も噛まずに言えた。教育の効果がちゃんと出ていると考え……自分は今崖から一歩足を踏み出そうとしているのではないかと戦慄する。
「噂は聞いているよ。昨日は大活躍だったようだね」
「はあ……」
やや日に焼けた相貌を前に、なんとも微妙な返事をしてしまう。傍らのシャルロットからは呆れ混じりの、正面のエルミーヌからは屈託のない笑顔が返ってきた。それでアールが渋面を作ったのがそんなに面白かったのか、特にエルミーヌは短く切り揃えられた金髪を揺らしてさらに笑う。シャルロットともティアナともまた違うタイプのようだった。
エルミーヌという彼女の名を聞くのは初めてだが、どういう存在かというのは胸に輝くブローチを見ればよく分かる。
〝水晶の百合〟
恐らくは、ディオニュシウス寮の監督生なのだろう。それはつまり、このアマーリア女学院で最も注目を集める人物の一人であるということになるが、そこまでは分かってもなぜ監督生自らが自分を迎えに来たのかはまったく分からない。
「ここは好きだけど、大人しいお嬢様ばかりで退屈していたところなのさ」
なるほど。どうやら、別の意味で目を付けられてしまったようだった。
(暗殺者の俺が、こんなに目立ってどうする……)
シャルロットに見つかってからこの方、暗殺者としてのアイデンティティが崩壊の危機に瀕している気がするが……こんな格好をしておいて今更だ。
そう自分を鼓舞するアールに、エルミーヌは追い打ちをかけてくる。
「というわけで、私は君のような人間を熱烈大歓迎なのさ。さあ、乗って乗って」
「いえ、あの……」
アールの同意もなく手を引いて行こうとする〝水晶の百合〟に、控えめな拒絶の意を伝えたが、その程度で彼女は止まらない。アールの左手を握って、愛馬の元へと駆け出さんという勢いだ。
この状態ですら既に歓迎しがたい。同乗状態になって万が一があっては事だ。いい加減にしてくれと、アールはシャルロットに目配せをする。
「まったく、捨てられた子犬みたいな目で見られても困るわ」
もっと困っているのはこっちだし、そんな目はしていない。が、まあ、今はエルミーヌを止めるのが先決だ。
「エルミーヌ、エルミーヌ。あなたとセーラはそれで良いでしょうけど、私はどうすればいいのかしら?」
シャルロットの指摘に、エルミーヌの表情から目に見えて活力が失われる。
「レティシア……まったくもってあなたの言う通りだよ。暴れ馬を御した君の妹に会えるからと、少し浮かれていたようだ」
端から見ていて気の毒になるほどの落ち込み振りだが、アールからするとだからといって同情するわけにもいかない。
「どうせなら、もう一頭連れてくれば良かったよ」
手綱を持って、ディオニュシウス寮への道を先行するエルミーヌはそんなことを呟いていた。それに呼応するかのように、彼女の愛馬が「引くだけなの? もう乗らないの?」とでも言うかのようないななきを上げる。
「アール、今度一緒に遠乗りにでもついて行ってあげたら?」
「冗談を言うな」
エルミーヌの背後でそんな言葉をひそひそと交わしていると、彼女が不意に振り返った。
「そうだ、セーラ。君、剣は使えるかな?」
「護身程度……ですが」
アールの主武器は短剣類だが、サーベルなども一通り使える。といっても、本職には敵わないといった程度の腕前でしかないが。
「そうか。うんうん」
「なに? 私の妹と〝水晶の百合〟が決闘でもするというのかしら?」
「ほんの余興のようなものさ」
「いやだわ。セーラが勝ちでもしたら、あなたの信奉者になんて言われるか」
「そうか。そうかなぁ……?」
「そうよ」
負けて当然。間違って勝てば、今以上の風あたりが生まれる。アールにとって、メリットの欠片もない余興だった。
「う~ん、残念。せっかく私の動きについて来られそうな期待の新人が来たのに。なんで、レティシアの妹になっちゃったの?」
「そ、そのようなことを言われましても……」
「冗談に決まってるでしょ。セーラも、真面目に返答しないの。逆に、エルミーヌが困ってしまってよ」
そんな話をしている内に、一行はディオニュシウス寮に到着した。
外観は、アールたちが住むウルスラ寮と大差ない。違いは、別にエルミーヌの為にあるわけではないだろうが、近くに馬小屋があるくらいだろうか。
迎えに出た妹に馬を預けたエルミーヌが、改めて二人に向き直り厳かに口を開いた。
「ようこそ、ディオニュシウス寮へ。〝紅玉の薔薇〟にその妹のお二人をお招きできて光栄です。朝食を用意しましたので、ご一緒にいかがですか?」




