4.深夜の二人
「それは、私もその場にいたかったわね」
「悪趣味だな」
夜、シャルロットの部屋でアールは言葉のナイフを振り下ろす。しかし、向けられた側はなんら痛痒を受けていない様子だった。
「妹のせっかくの晴れ舞台を見逃すだなんて。一生の不覚だわ」
「時を巻き戻すことは出来ない」
「そうなのよねぇ。乗馬だけは止められたから……」
「なぜだ?」
制服姿のままシャルロットの部屋を徘徊するアールが、意外そうに問いかける。もちろん、無意味にそんなことをしているわけではない。今、彼は彼女から〝淑女らしい歩き方〟の講義を受けている真っ最中だった。
雑談しながらなのは無意識に出来るようにするためらしいが、集中せずにはいられない。気を抜けば、容赦なくシャルロットから叱責が飛んでくるのだから。
「背中を曲げない。足下ばかり見ているからそうなるのよ」
それに対し、アールは従順とも言える態度で従っていた。必要性を認めたからには手を抜かないのが彼の性格。そんなアールの立ち姿を確認したシャルロットは、軽く溜め息を吐きながら髪をかき上げた。
「なぜ乗馬禁止かと言うとね、危険だからよ。私が王族だって忘れていない?」
「そういうことか……」
乗馬は貴族にとってたしなみである。それは、戦場を愛馬と共に駆け抜け功績を上げたが故。しかし、王族ともなると馬とは乗るものではなく、馬車を引かせるためだけの物になるのだろう。
それが、ソルレアン王国の第一王位継承者となれば、なおさら。
「そうだわ、アールと一緒に乗れば良いのではない」
「この学院のどこへ行こうと言うんだ? そんなに、俺へのやっかみを増やしたいのか」
薄暗いランプの明かりの中、アールが苦虫をかみつぶしたような表情で言う。
「その点に関しては私の認識が甘かったわ。ほんと、怪我人が出なかったのはあなたのお陰よ」
素直な感謝の言葉、それも王女様からのそれにもアールは眉ひとつ動かさなかった。正直、それどころではない。
「きちんと根回ししておくべきだったわね……って、歩幅が広いわよ。気を抜かないの」
「こんなストライドではほとんど進まないぞ」
「大丈夫よ、足さえ動かしていれば進むわ。そんなにせかせかしないの」
上流階級には、時は金なりという慣用句は通用しないようだった。ティアナと行動を共にすることで身に着けたはずの歩幅でも、なお広いらしい。
これは、シャルロット達の感覚が極端なのか、こちらが庶民の常識に囚われているのだけなのか。いくら考えても結論は出ようもないし、知ったことではなかった。
「はい、歩幅だけに気を取られない。指は曲げずに真っ直ぐになさい。常に、他人から見られていることを意識するのよ」
アールの暗殺者としての矜持を挫くその言葉にも、なんとか彼は耐えきった。シャルロットはそんなアールの葛藤には気付かず、そこから何周か彼の動きをじっと観察すると、軽く手を叩いた。
「今日はこのくらいにしておきましょうか。正直、話に聞くような大立ち回りをされたとなったら、多少乱れた所作でも受け入れてもらえるでしょうし」
では、なんのためのレッスンだったのか。口には出さないが、不満がアールの表情を一層強ばらせる。
「はい。その顔も駄目よ。どんなときでもにっこり笑顔でね。大抵の事態は、それで乗りきれるわ」
「難度の高い要求だ」
「あなたのためよ。さあ、次は座学にしましょうか。言葉遣いを戻しなさい」
「こっちが素なのだがな」
「はいはい。こっちへいらっしゃい」
「ああ……」
無言でシャルロットに睨まれる。なにか言われるよりも、なぜかこの方が怖い……と言うと更に無言の圧力が加わるので、王族らしい威厳と表現することにしている。
「わかりました。どうぞ、よろしくお願いいたします」
「ええ。良くってよ」
アールはシャルロットのデスクへと移動し、彼女は脇に避ける。ひとつの机を二人で並んで使用する形となった。
「本当なら今日の復習と言いたいところだけど、途中から別々になってしまったのよね。あの後、どの講義を受けたの?」
アールは必死に記憶をたぐり寄せるが、出てきたのは紛れ込んだ暗殺者候補の顔や例の姉妹の存在ぐらい。
「王国史と作法です」
結局、その答えが出るまで、普段アールが一仕事終える程度の時間がかかった。
「それはそんなに重要じゃないわね」
シャルロットが言下に切って捨てる。
「もちろん、やっておくに越したことは無いけれどね。心教関連の講義にまったくついていけそうにないのが致命的だわ」
確かに、自らが信心深いと思ったことは、ただの一度もない。一般人よりも心教に関する知識がないことは、自覚していた。
「他は私が作った設定で誤魔化せるとしても、こればかりはどうにもならないわ。なにしろここはアマーリア女学院で、心教の心得のない者が入学するはずはないなのだから」
もっともな話だった。
「しかし、その設定のせいで、積極的に学ばなくてはならなくなったのでは」
――とも言えるはずだ。確かに、今まで庶民同然の生活をしてきたという設定は良い隠れ蓑になるだろうが、万能ではない。
「まあ、やるしかないわよね。私だって、せっかくの協力者を変な形で無くしたくはないわ」
最後には決別せざるを得ない二人だったが、今のところ利害は一致している。
早速、シャルロットは心書……ではなく、その解説書を取り出した。
活版印刷がヴァルダー帝国の錬金術師により発明され心書が人口に膾炙した結果、千年前に終わったはずの心書解釈論争が大陸全土で巻き起こった。それを終結させたのがこの心書大全である。
「簡単に言うと、聖職者の虎の巻ってところね」
「聖職者は、虎の威を借る狐ですか」
「彼らだって人間よ。楽に立派な意見が引っ張り出せるのなら、その方が良いわ。ええと、そうね。まずはこの辺りから――」
しばし、神の御言葉とその解釈について解説が続いていく。
シャルロットの教え方は丁寧で、ここに来る前に受けたセドリックやセラフィナの授業よりも数段優れていたが、なぜか頭に入ってこなかった。
別に、すぐ隣にいるシャルロットの体温や息づかいが気になるというわけではないはずだ。
アールの気持ちに気付いたのか、シャルロットが人差し指で額を小突く。
「これがなんの役に立つのだって顔をしているわね」
まったくもって、それこそが学習に身が入らない理由だった。少なくとも、アールはそう思っている。
「ですが、その通りでしょう?」
「人は土台に住むわけではないけれど、家を建てるのに土台は重要だわ」
アールの返答を予期していたかのような、シャルロットの言葉。
「お母様が仰っていたわ。この世界に、無駄な知識なんか無いってね。この先、なにがあるか分からないのですから」
その内容よりも、母――すでに逝去しているマリアンヌ女王についてシャルロットが語るということに意識を傾けていた。
彼女の声音に哀しみの色は欠片もなく、すでに母の死を乗り越えている強さがある。死を知らされたのがいつかは知らないが……これは、シャルロット個人の心の強さに由来するものだろう。
「それなら、お……私のために時間を裂いて良いのですか? 昨日も夜明葉まで用意して――」
「ああ……それは……」
珍しくシャルロットが微苦笑を浮かべる。
「まあ、それは済んだから大丈夫よ。心配は要らないわ」
なにか試験でもあって、それに向けた夜更かしだったのだろうか。アールの直感はそれだけではないような気がしていたが、別にこれ以上詮索することでもないと矛を収めた。
「さあ、集中しましょう。頑張ったら後でご褒美を上げるわ」
別にそんな物は欲しくはなかったが、やらなければ後で困るのは自分だ。あの姉妹のような輩が他にいないとも限らないのだから、付け込む隙はないに越したことはない。
そう思い定めたアールは、鋭い眼光を心書大全へと向けた。
――とはいえ、そんな決心ひとつで勉強が捗るほど、世の中甘くはない。
「時間的に、これ以上は無理ね……」
結局、時間切れとなってこの日の補習は終了した。アールの体内時計も消灯時間間近であることを告げている。
「じゃあ、ご褒美にしましょうか。取ってくるから、ちょっと待っていなさい」
アールを部屋に残したまま、シャルロットはどこかへ行ってしまう。さすがに、待っている間に今日の復習をしようという気分になれなかった彼は、所在なげに周囲を見渡した。
まず目を引くのはベッド。天蓋付きの豪華なものだが、派手な装飾は抑えられた気品に溢れている。それは、たった今まで勉強に使っていた白樺の机や、壁を飾っている羊毛のタペストリも同様だった。
この辺り、センスを磨かれ続けた王族らしい感性と言える。ただ単に高級品を揃えれば良いというものでもないのだ。
アールの知識ではそこまでは分からないが、仰々しさはなく抑えられた照明も含めて、過ごしやすい部屋だとは感じていた。
「談話室にまだ人が残っていて助かったわ」
しばらくして、シャルロットがトレイにポットを乗せて戻ってきた。それをサイドテーブルに置いた彼女は楽しそうな表情をアールに向ける。一方、向けられた彼は、なにが始まるのかと見ていることしかできなかった。
「アールに紅茶をごちそうしてあげるわ」
「紅茶……?」
「ええ、珍しいでしょ」
珍しいどころか、実物を見るのも初めて。王侯貴族の飲み物だと聞いてはいたが、それ以上はまったく知らない。その意味では、紅茶もお姫様も同じ分類に入っていたことになる。今までは。
「よく見ていなさい」
ティースプーンで山盛りにした茶葉を二杯ティーポットに入れると同時に――談話室で湧かしたばかりなのだろう――まだ気泡が弾けている熱湯を注ぐ。
待つこと数分。
「もう、良いわね」
ポットの蓋を開き、軽くかき混ぜてから一杯分ずつ漉していく。
「さあ、どうぞ」
「あ、ありがとう……」
珍しくおっかなびっくりという感じで、アールはカップを受け取った。そして、恐る恐るといった風情で中身に口を付ける。
「あっぅ……にが……」
「あなたもそんな顔をするのね」
「くっ」
恥ずかしさにかられカップを置いたアールに、シャルロットが陶器の瓶を差し出した。
「これを入れて、良くかき混ぜなさい」
「これは……」
その中身を見て、アールは目を丸くする。
白い宝石――砂糖がこんもりと山盛りになっていた。東方貿易が盛んなアリア教国で、砂糖が賄賂として送られたのもそう昔の話ではない。
庶民にとっては年に一度口に出来るかどうかというそれを、シャルロットはためらいもなく紅茶に混ぜてから口に含み、満足そうに頷いた。
さすがだ……。
なにがどうさすがなのか本人にも良く分かっていないだろうが、アールもシャルロット同じように砂糖を入れ、もう一度口にした。
「美味い……」
先ほどはただ苦いだけだった紅茶から、今はうま味をしっかりと感じる。香りを楽しむ余裕が生まれたというのもあるだろう。
「気に入ってもらえて良かったわ」
アールはもうシャルロットの言葉は耳に入っていない。そのまま夢中で飲み干してしまった。
ワインを水代わりにしている地域もあるが、この紅茶が普及したら一気に塗り変わるかも知れない。そのためには、まず砂糖が安価にならなくてはどうしようもないが。
多くの錬金術師が日夜挑戦しているテーマだが、まだ道半ばのようだ。
「それじゃあ、次はアールに淹れてもらおうかしら」
「おれ……私が?」
「そう。同じ手順でやれば良いのよ」
別の意味で、アールは驚いていた。暗殺者である自分に飲み物を任せる? 大物だとか大らかだとかを通り越して考え無しなのではないかと疑ってしまうほどだ。
先ほど紅茶を飲んだときの感動も忘れて、思わず失礼な感想を抱く。
「ほら、お湯が冷めてしまうわ」
その言葉に押されて、アールはティーポットへと急いだ。そして、見よう見まねで茶葉をポットに入れ、湯を注ぐ。
心の中で数を数えて、待つことしばし。
「もう、良いわよ」
シャルロットがアドバイスを送るのと同時に、アールは漉しながら紅茶をカップに注いでいった。
「初めてにしては、まあまあね」
カップから口を離して、シャルロットは称賛とも叱咤ともつかない感想を述べる。
「そうだわ。これからは一日の終わりはお茶にしましょうか。リラックスしてぐっすり眠れるわよ。もちろん、淹れるのはアールよ」
「……え?」
意外すぎる言葉に、アールが固まった。
「私が何者か、忘れているのではありませんか?」
「憶えてるわよ。あなたは、最強の共犯者だわ」
こうも堂々と言い切られては、アールは抗弁できない。
「……承知しました」
「じゃあ、明日も同じように夜にはここにね。片付けはやっておくから、もう休みなさい」
「分かり……ました。シャルロットさま、それではまた明日」
「ええ。ちゃんと寝て、危ない事は極力しないようにね」
それには応えず、アールはただ頭を下げてシャルロットの元から自室に戻った。これから、昨夜と同じように彼女の部屋の側で警戒に当たらなければならない。
今度は、シャルロットに見つからぬように。




