プロローグ(前)
燐光球が淡く照らす廊下を、影が滑るように進んでいった。
この大陸で特異な発展を遂げた錬金術の産物であるそれは、周囲が闇に閉ざされると光を放つという性質を持つ、便利だが高価な品物だ。それを惜しげもなく使用しているのだから、古く伝統あるソルレアン王国でも指折りの商家か、あるいは有力貴族か。いずれにしろ、相当な資産家に違いなかった。
その屋敷内を、音も立てずに移動していく小柄で線の細いシルエット。盗賊だとしてもいかにも小さい、子供のような影だ。
実際の所、彼は子供ではあるかも知れないが、盗賊ではなかった。
闇を切り出したかの様なこの少年はアール。名無しではないという程度の意味しか持たぬ名の彼は、暗殺者。それも、政治や宗教といった思想に準じるわけではない、ただ仕事として人を殺す。大陸の闇に名を轟かす暗殺組織、〝六本腕〟に属する職業暗殺者だ。心教の唯一神たる〝主〟が照らす昼の世界では生きられぬ存在であった。
故に、この屋敷の主の氏素性などアールの知識には存在しない。あるのは、主人の特徴とそいつをいかにして殺すか、それだけだ。他にあったとしても、必要があるまで思い出すことはないだろう。
意志を持つ闇の塊となったアールは、金のかかった大理石の床や高価な調度。金蔵などには目もくれず、ただ一番奥の間を目指していった。
ほとんど直角に体を折った、周囲を警戒しつつも、慎重さより速度を意識した大胆な足取り。
夜の屋敷を、誰にも見咎められることなく順調に進んでいたアールの足が不意に止まった。
目の前には木製の扉。少し手を伸ばせばドアノブ。そして、ここを抜けて階段を昇れば標的の寝室にたどり着く。周囲は静寂に包まれ、警戒する理由などどこにもないように思えた――が。
突如として、扉から金属の棒が生えた。
それが扉越しに放たれた刺突剣の一撃だと看破するよりも早く、アールは首だけ捻って奇襲の一撃をかわす。
風圧でフードがめくれると、男にしてはやや長い髪が踊り服地に擦過を起こすが被害はそれだけだった。
「仕留めたと思ったんだがよ」
アールが扉から離れると同時に、奥から男が現れる。
同年代の中でも小柄なアールに比べると、まるで巨人のような体躯だ。ここの主人に雇われた護衛といったところか。元は傭兵だったのだろう。顔には幾筋かの傷跡が刻まれ、戦傷でも負ったのか声はしゃがれていた。力を誇示するかのように、扉を貫通させたエストックを軽々と弄んでいる。
いや、そんな外見は副次的な要素に過ぎない。護衛にも関わらず、人を殺すのに躊躇がなかった。これが本質であり、アールの判断の根拠だ。
「普通ならかわせないように胸の辺りを狙ったんだが、まさか侵入者がこんなに可愛いお嬢ちゃんだとはな」
ひゃっははっはと下卑た笑いを浮かべ、男が舐め回すかのようにアールの肢体を上から下へと視線を動かす。
アールは密かに嘆息した。自分が男だと、もはや訂正する気にもなれない。こちらを女子供だと侮り、そして死んでいった愚か者を彼は何十と知っている。この男も、その列に加えてやるだけのことだ。
そもそも、目深にフードをかぶった俺をどうして可愛いなどと言えるのかという、微妙に論点のずれた文句ならあるのだが。
「まあ、殺った後の楽しみが増えるってもんさな。おお、〝主〟よ愚かなるこの身を許したまえ」
信仰とは縁遠いこの男でも神の御名を唱える程、心教はこの大陸の人々の生活に根ざしたものであった。もっとも、敬虔な信徒が懺悔の内容を聞いたら卒倒しかねないが。
護衛の男が手首と共にエストックを回し、半身だけを見せる構えを取った。男の体躯に似合わぬ武器ではあるが、本来は両手を用いるそれを片手で使うとなると油断はできない。それに、狭い邸内ではその扱いやすさがメリットとなるだろう。
付け加えるなら、この男の膂力ならばどんな武器でも殺傷力は充分に違いなかった。生者が思っているほど人は丈夫ではない。人体の脆さと儚さを知るのは死者だけだ。
自分一人で片づけようというのだろう、誰かを呼ぶ気配はない。功名心にはやった愚かな判断だが、こちらにとっては好都合。アールは、少しだけ軽口につきあってやる気になった。
「俺にも選ぶ権利はあるだろう」
「ククク。背伸びするんなら、その可愛い声をなんとかするこった」
答えは行動で返した。
瞬時に最高速となったアールが、男の足下へと肉薄する。体の小さな彼の武器は、ひとつにこのスピード。
しかし、男も油断はしていなかった。牽制気味にエストックを振るい、二度三度と軽く突きかかっていく。
それをいずれも最小限の動きで見切ったアールだったが、接近は諦めざるを得なかった。
「丸腰で近づいてどうするつもりだ? それとも、あれか。暗殺者だからどっかに武器を隠してるってか?」
「言うと思うか?」
「違えねぇな」
再び、アールが爆発的な動きを見せる。だが今度は男ではなく、右側の壁に飛んだ。
「しゃらくせえ」
壁を蹴って跳躍するつもりだととっさに判断を下し、男が次にアールがいるはずの軌道ヘ剣先を伸ばす。その決断力は賞賛されてしかるべきだったが、結果として、それが命取りとなった。
「馬鹿な」
男が予測した場所に、アールの姿はない。
「馬鹿は貴様だ」
アールは右腕でがっちりと角を掴み、壁に取り付いたままそこにいた。水銀の血液が沸騰し、右腕が熱を帯びる。石の壁にひびが入るほどの握力が可能にする曲芸。予想外の事態に、男が初めて焦りを見せる。
その隙を見逃す者がいるとしたら、それは暗殺者ではない。少なくとも、アールは認めない。
両足と、そして腕の力で今度こそ跳躍し、容易く男の背後を取った。腕が伸びきったままの男は対応しきれない。
アールにも、対応させる気など無い。
流れるような動作で腕を振ると、手の甲から短剣の細い刃が生えた。先ほどのような比喩ではない。だが、腕の中に仕込まれていた武器を露わにしただけのこと。これを製作した彼の師にして育ての親は、〝爪刃〟と呼んでいた。
「錬金肢……。ただの暗殺者がなんでそんなものを……」
「納得したなら、死ね」
男の背中に乗り、耳元で死を宣告する。それと共に、爪刃を首に突き入れた。皮膚を破り、抵抗を無視して肉を貫く。そして、手首に捻りを加えて刃を前方に滑らせた。
錬金肢と肉体の継ぎ目が僅かに軋む。これが男が発することもできなかった断末魔の代わりとなった。
跳躍したからここまで、ほんの数秒。それは予め振り付けが決められた舞踏のようでもあった。
頸動脈から血が噴き出し、闇の中で赤黒い水溜まりを作る。意志を失った肉の塊がそのまま地面に倒れ伏した。人体は脆い。この男もそれを知る一人となった。
辺りに死臭が漂うが、アールに気にした素振りはない。それは、戦災孤児だった頃から暗殺者である今までずっと彼の側にあったものだ。いつも傍らにいた義妹は失っても、これだけは生涯縁が切れそうにない。
もはや、アールの関心はその男にはなかった。いや、元々あったかどうかも怪しいところだが。
右腕の錬金肢を振って血脂を飛ばすと同時に、爪刃を格納する。錬金術の結晶とも言えるこの義腕はアールの身体的欠損を補うだけでなく、彼が任務を果たす上で生来の身軽さを上回る重要な武器となっている。
短時間ながら人一人を並行に支えられる握力。爪刃を始めとした仕込み武器。
そして、今回は用いるまでもなかったが、彼が持つ最大の武器も貯蔵されていた。標的であるこの館の主人には、それを使う手はずになっている。
男の後始末はすでに潜入しているパートナーに任せ、アールは再び物言わぬ影となって扉の向こうへ身を踊らせた。
控えめなノックに、館の主は酒を注ぐ手を止めた。心臓に悪いと、本来は医者に止められている飲酒を見咎められそうだからというわけではない。
「入れ」
威厳に満ちた声。有能な商人である彼に、完全な安息の時はない。だから、楽しみを邪魔されても怒りなどしかなかった。
このようなことは日常茶飯事。しかし、扉から躍り出た影が取った行動は彼が予想した何物とも異なっていた。
招き入れられるまま室内に侵入したアールが、東方産の絨毯を一気に踏み越える。ほんの一呼吸で天蓋付きの豪奢なベッドに腰掛けていた主人の顔を掴むと、そのままベッドに押し倒した。
ふんだんに綿が使用されたベッドがたわみ、反射的に男がもがく。商人にしては立派な体躯だったがしかし、アールの錬金肢に押さえつけられては脱出できるはずもない。抵抗を春の夜風程度に感じつつ、アールは手首の辺りにある仕掛けを作動させた。
人体にありうべくもない、小さなボタン。人工皮膚の中に隠されたそれを押すと、アールの指先から液体が飛び出した。
無色のそれが、館の主人の口や鼻を侵していく。
毒。これこそが、アールにとっての聖剣だった。
男はさらに激しくもがいていたが、やがて、陸に上がった魚のように二度三度痙攣したかと思うと、突如として動きが無くなった。
死んだわけではない。
それは、これからだ。
「今のはただの麻痺毒だ。死にはしない。体も動かず声も出ないが意識はあるだろう?」
元々は、外科手術の際に患者の痛覚を麻痺させることが目的で開発された麻酔薬。だがとある錬金術師のその崇高な試みは失敗し、生まれ出たのは意識を消さぬ麻痺毒だった。
北方の凍土に根を張るクリラの樹液。それと猛毒を持つ事で有名な脅威種である、アカサという魚獣の肝を一定の割合で混ぜて精製すると、このどろりとしたラカルの毒となる。
欲するものは暗殺者に限らず数多いが、非常に苦いのでこのように強制的な使い方しかできない。味に関してはアールも確認したことがあるので間違いなかった。
館の主人を錬金肢から解放し、手首のボタンを操作して掌を元の状態に戻す。そのアールが、声を潜めて主人に宣告した。
「おまえは今から〝病死〟する」
男から、声にならない悲鳴が上がる。たとえ乙女のそれだとしても、聞き入れられることは決してないだろうが。
アールが懐から薬瓶を取り出し、丁寧に振るった小麦のような粉末をサイドボードの酒瓶に混ぜた。綺麗な琥珀色の蒸留酒が白く濁り、場末の安酒に姿を変える。
師であるゲオルクが見たら眉を顰めるかも知れないと思ったが、人の命よりも酒を惜しむというのは、なんとも自分たちらしい感性だと自嘲の笑みにつながっただけだった。
それを殺人者の愉悦の笑みと解釈したのか、館の主人はさらに無駄な抵抗を自らの肉体に命じた。
そんな行状を眺めながら、アールが冷静に告げる。
「こいつは、サファルという。南方の未開地域で使用される興奮剤だ。現地の言葉で天国を意味するらしいな。彼らが神木と崇めるサファルの葉で精製され、神と合一――トランス状態になるため使用する薬だ。まさに天国を見られるわけだな」
ここで一呼吸置いて続ける。
「だが、アリア教国のとある探検家は、こいつに精力剤としての効果を発見した。カリストス探訪記の名前ぐらい聞いたことがあるか?」
無論、親切で言っているわけではない。
人は思い込むことで毒の効果をより強く受ける。それは、彼らが度重なる経験の中で学び取った真実だ。
「精力剤の過剰摂取。それが〝病死〟の原因だ」
館の主人の顔色が絶望に染まる。必死に顔を背けアールから離れようとするが、それができるはずがない。許すわけがない。
左手で頤を反らせて首を固定。餌を求める鯉のようにぱくぱく開く口の中へ、グラスに注いだ蒸留酒とサファルの混合物を注ぎ込んでいく。
一杯目。咽せても構う事はない。
二杯目。飲ませるというよりは、喉に投げ込んでいるかのようだ。溺死させないように注意しなくては。
三杯目、四杯目、五杯目……。
顔色が絶望の蒼白から興奮と苦悶の紅に変わり、顔や首の血管が浮き出てくる。体が自由だったなら絶叫を上げ、心臓の辺りをかきむしっていたかも知れない。
何杯目になるか数えるのを止めた頃には、瓶が空になっていた。それを機にアールが脈に手をやり、続けて呼吸も確認する。そう、確認以外の何物でもなかった。
悲鳴を上げることもできず、何杯目か分からないが、心臓が負担に耐えかねたのだろう。主人は、恐怖と苦悶が深く刻まれた物言わぬ骸となり果てていた。
いつどこで生まれ、どれだけのことを成したかに関わらず、人の死は醜い。それは、〝主〟が人に下された唯一無二の平等だ。
これで、今夜の仕事は終わった。少なくともアールの分は。
「うっわー。相変わらずエグいね」
扉を開けて、少女がひょいと部屋の中に入ってきた。長い髪をポニーテールにまとめた、細身の少女。日に焼けた健康的な肌、快活な笑顔、明るい声。
あまりにもアールと対照的な彼女だったが、この惨状を前にしても眉ひとつ動かすことはなかった。彼も、必要以上に警戒する素振りは見せていない。
彼女の名は、マリーカ。アールと常に行動を共にしていた義妹のミュリエルが組織を裏切り死亡したと通告されて以来、彼のパートナーを務めている。
それはつまり、この可憐な少女もまた〝六本腕〟に属する暗殺者の一人であることを意味していた。
「おお。すっごい豪華な部屋。このタペストリだけで、家を買えちゃうかもだ」
「傭兵の後始末は?」
「もう、顔を見るなり仕事の話? 風情がないね!」
何も言わずに皮肉気な笑みを口の端に浮かべ、館の主人を顎で指し示す。
「うん。まあそうだけどね。デリカシーがないぞ?」
「デリカシー? 俺が、マリーカ相手に?」
「それって、私たちは気が置けない仲って事?」
「後は任せた」
「うん」
会話のやりとりを何行も省略したアールに文句を言うかと思いきや、あっさりとマリーカが首肯した。
アールが実行し、マリーカが後始末をする。それが二人の師であるゲオルクから言い渡された分担だ。マリーカはおろかアールでさえ、育ての親からの指示に反抗する気は無い。
「父さんに報告よろしくね」
「ああ」
アールは窓辺に近づき、そこからおもむろに身を投げた。影の少年は闇に消え、朧な月明かりではその姿を照らし出すことは叶わない。
それはある意味で幸運だろう。アールが誰にも見つからないという事は、このまま平穏に夜が明けるのということなのだから。
数日後。
ソルレアン王国首都ルテティア市当局は、ジリベール商会と共同で当主ヴィクトルの死亡を発表した。死因は心臓麻痺。故人は以前より心臓に疾病を抱えていたとも添えられている。なお、酒と精力剤の過剰摂取が死の原因であるという噂を積極的に否定する文言はない。
また、主人の病死で失業すると思ったのか、護衛として雇われていたグレゴという元傭兵が、家人を殺害した上で金品を奪って逃走したとも同時に公表された。
これが、〝主〟の照らす世界の事実である。
影に覆い隠された真実を知るものは少ない。