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「ふぁ。さくちゃん先輩、なにするんですかぁ」
休憩室で覆っていた手を外すと、美鈴は肩で大きく息をした後にそう言った。
「美鈴っ!あんなに大勢人が集まってるところでなに、言っちゃってくれるのよっ!」
「え~、だってそれぇ」
と私の首筋を指さす。私は思わず、手のひらで首筋を覆った。
ちくしょうっ!スカーフでも隠しきれないのがあったかっ。
ファンデで大分隠せたと思ったのにぃ。
「んふふぅ。ほぉうら、さくちゃん先輩、身に覚えがあるんじゃないですかぁ。ソレ、結構目立ちますよぉ。風間さん激しいんですねぇ」
その目、やめてよね。マジで。
「本当に、風間さんとなにかあった訳じゃないから。これは、違うの。ホントに変な勘繰り止めて、そして誰かに言わないで」
「騙されませんよぉ。なぁんかさくちゃん先輩と風間さんだたならぬ雰囲気だしぃ。今までさくちゃん先輩に浮いた話なんてなかったのに、今朝になってキスマークなんてつけてきちゃってぇ」
美鈴は完全に勘違いをしていた。
たぁくぅみぃぃぃぃ!
心の中で拓海を罵倒しながら、美鈴に詰め寄る。
「いい?美鈴、よぉく聞くのよ。これは、真面目に風間さんとなにかがあってこうなった訳じゃないから。てか、会社関係一切関係ないから。プライベートなの。頼むから変な勘違いは止めて」
私の必死さが伝わったのか、美鈴はキョトンとした顔をする。
「まさか。まぁさぁかぁぁぁ!!さくちゃん先輩、彼氏いたんですかぁぁぁ!!ふがっ」
だから、声が大きいんだって。
もう一度、口を塞ぐ。
「勘弁して。声が大きい」
私の手のひらを剥がすと、今度は美鈴が詰め寄ってきた。やっと、小さい声にしてくれていた。
「いるの。いるけど言わなかっただけ」
「ふぇぇぇ。美鈴にまで隠すなんて酷いですぅぅぅ。なぁんで、もっと早く言ってくれなかったんですかぁっっ」
私は美鈴の目を見れなかったので、ついと目をそらし窓の外を眺めながらいった。
「…………に弱いの」
ぼそっと言ったけれど、美鈴は聞き流してはくれなかった。
「なんですかっ、はっきり言ってください」
「っっっ。世間一般に駄目男って言われる男に弱いのよっ!こんなの言えるわけないでしょっ!」
ぽかんと美鈴が口を開けて私を見た。
「駄目男って。………さくちゃん先輩が?」
私は真っ赤になっていたと思う。
「私がっよ。とにかく働かないわ、働いたら全部趣味というか、なんというか自分の好きなことにつぎ込んじゃうし、帰ってこないわ、浮気は日常茶飯事だわ、年下だわ美鈴にいえるような相手じゃないのよぉ」
とうとう、言ってしまった。美鈴にだけは言いたくなかったのに。上昇志向の強い美鈴は兎に角苦労の二文字が嫌いだ。働かない男は速攻で駄目だしがでることが分かっていた。
「で、これはその彼がつけた痕だと」
コクコクと私は頷いた。
「だから、変な噂バラ撒かないで。風間さんが相手じゃないんだから」
「ふぇぇぇ、騙されましたぁ。先輩ってば全然男っ気がないものかと思ってましたぁ。あららぁ、早瀬さん可哀想ぉ」
「なんでそこで、早瀬が出てくるのよ。関係ないじゃない」
「あはははは。そんなことより、さくちゃん先輩そのキスマーク隠したほうがいいですよぉ」
げっそりと肩を落とす。隠したつもりだったんだけどなぁ。隠れなかったかぁ。
美鈴はくすくす笑いながら、私のスカーフを巻きなおしてくれる。
「そっかぁ、一応これで隠すつもりだったんですねぇ。駄目ですよぅ。今は時間がないので、昼休みに美鈴が隠してあげます。ついでに、その彼の話聞かせてくださいね」
そう言って、可愛くウィンクする美鈴。
今時、ウィンク。でも、美鈴がやると可愛いんだよな。
私は腹を括って頷いた。言ってしまったからには隠すことはないもんね。
正直あまり拓海の話はしたくないんだけど。まぁ、適当にボカせばいいかな。
美鈴が直してくれたスカーフを少し整えて、私たちは自分達の席に戻ることにした。
まだ、始業のベルは鳴っていない。こほんと咳払いをしてから、怪訝そうにこちらを見ている冬馬に愛想笑いをしておいた。
美鈴の声、大きいからなぁ。
ドコまで話が大きくなってしまうのか、それが少しだけ心配だった。
「桃と俺ができてるって、噂が流れてる」
昼休みに美鈴とご飯を食べて、コンシーラーでキスマークを隠してもらい、洗いざらい喋らされそうになったのをなんとか防御して、席に戻ると冬馬が真剣な顔で言った。
「あぁ、うちの会社そういう噂大好きだからね。仕方がないよ。冬馬、私の事桃って呼ぶし。そのうち消えるから大丈夫だよ。あ、冬馬この会社で彼女作る気だった?そしたら、ごめんね」
思わず早口でそう言ってしまう。
拓海のキスマークが原因かと思うと後ろめたい。冬馬ごめんなさいと心の中で謝っておく。
「いや、俺は別にいいんだけどさ。やっぱり女の子はこういう根も葉もない噂嫌だろう?朝はあぁ言ったけれど、実際噂になると桃が嫌じゃないかと思って」
「ありがとう。私も別に気にしないから平気。本当に付き合ってるわけじゃないんだし。まぁ、そもそも私が誰と付き合っていようと私の勝手だし?」
そう、別に私も冬馬も結婚しているわけではないのだし、恋愛は自由だ。会社で噂になろうと気にさえしなければたいした事はなかった。
「さくちゃん先輩、美鈴がうかつな事をいったから。ごめんなさいぃ」
美鈴がシュンっとうなだれる。
その様があまりに可愛くて笑ってしまった。
「美鈴は、本当に可愛いよね。そういう仕草が似合う」
「やっぱり美鈴、さくちゃん先輩のお嫁さんになりたいですっ!」
片手を高々とあげて、宣言されても困るんだけど。
その時、めずらしく私の携帯が鳴った。ディスプレイに拓海の名前が表示されている。昼休みとはいえ、電話をしてくるのは珍しかった。
どうしたんだろう。
美鈴と冬馬に断わってから。携帯を持って廊下にでて通話ボタンを押した。
「もしもし、どうしたの?」
『桃、今日会社まで迎えに行くから、一緒にご飯を食べに行こうよ。いつものお返しに俺が奢るからさ』
思わず携帯を耳から離して、ディスプレイをまじまじを見つめてしまった。
『桃?おいっ、桃ってば』
はっと我に返って、携帯を耳にあてる。
「ごっごめん。夢かと思った」
くすりと拓海が笑う。電話越しでもドキリとするような艶を含んでいた。
『今日は、二人でいたいって、今朝言っただろう?』
電話越しに色っぽく囁かれて、一気に赤面した。昼間っから無駄にフェロモン垂れ流してる。
心臓に悪いから止めて。
この所放っておかれっぱなしだったから、拓海に構われると嬉しい反面恐い。
最後に優しくして、別れようなんて言われたらどうしよう。私は拓海から離れられない。いくら浮気をしても、私から別れを切り出すなんて出来なかった。もう、一人の生活は考えられなかったから。
『それじゃ、桃が帰る頃にまた電話するよ。何を食べたいか考えておいて』
「うん。ありがとう。楽しみにしてるから」
『じゃ、夕方な』
拓海は、そう言って電話を切った。私は軽く頬を叩きながら部屋に戻った。
美鈴が意味深な笑いを浮かべる。
「せぇんぱぁい」
うわぁ、逃げた方がいい感じ?
私は回れ右をして、休憩室にコーヒーを取りに行くことにした。
「さくちゃん先輩。逃がしませよぉ!」
げっ。美鈴ってば追いかけてきたよ。
「今の噂の彼ですよねぇ?さくちゃん先輩見たことないくらいに顔が緩んでますよぉ」
はたっと両頬を手のひらで隠した。恥ずかしいってばさ。
「美鈴っ!会社でやめてってば。そもそも、私と彼は本当は付き合ってるって言っちゃ駄目なんだって」
さっと美鈴の顔が青ざめた。
「さくちゃん先輩っ!不倫は駄目ですよぅ。誰も幸せになりませんっ!」
「ばっ!美鈴っ!違うってば縁起でもないこと言わないでよ。声が大きいしっ」
勘弁してほしい。何処で誰が聞いているか解らないんだから。
「既婚者じゃなくても、色々な事情があるのっ。頼むからやめてよ」
強めにそう言うと美鈴は口を尖らせた。
「むぅ。わかりましたよぅ。で、今日はこの後『でぇと』ですかぁ?」
なんだその発音はっ。
「そうですね。そうだといいですね」
「さくちゃん先輩ぃ」
甘えるように、美鈴が腕に絡みついてきた。
私がコーヒーを淹れていると、早瀬が真っ青な顔をして休憩室に飛び込んで来た。
「桜田!不倫した挙げ句に、風間と二股かけて今、不倫相手の奥さんと裁判で闘争中って本当かっ!」
ガックリと項垂れたくなった。
「美鈴が大きい声を出すから、こういう訳の分からない事になるんだよ」
私は美鈴を睨み付けた。
「えへへ。美鈴、先に戻ってまぁす」
逃げたな。
私は早瀬と休憩室で、二人になってしまった。早瀬は少し混乱しているのか、いつもの調子の良い軽さがない。私はコーヒーを早瀬に渡した。
「あぁ、ありがとう」
「風間さんと付き合ってなんかいないし、不倫もしてないから大丈夫よ」
可笑しくなってしまって、笑いながら私が言うと、早瀬は大きな溜め息をついた。
「まぁ、な。男っ気がないお前に可笑しいとは思ったんだけどな」
私は早瀬の肩をポンと叩いた。
「男っ気がないは余計です。早瀬が心配する事はないから大丈夫だよ」
全く、美鈴に今度お昼を奢らせなきゃだな。
「なんだよ、男っ気ないだろ。しょうがないから、夕飯付き合ってやるよ。一人でご飯は寂しかろう」
本当に調子がいいんだから。
「残念でした。今日は約束があるから、一人じゃありません。早瀬に構ってもらわなくても平気ですからっ!」
私がふてくされて、そう言うと早瀬は私の頭を撫でる。
「だから、子供扱いやめてよ。髪も乱れる」
「その膨れっ面見てると思わずな。じゃぁ、今度友達と約束ないときな」
そう言うと早瀬は休憩室を出ていった。
何をしに来たんだあの男は。おぉ、もうすぐ休憩時間が終わっちゃう。
私は自分の分と冬馬分のコーヒーを素早く淹れて、部屋に戻った。
コーヒーを渡すと、一口飲んで冬馬はふんわりと笑う。
「桃は記憶力がいいよね。俺が好きな味だ」
「でしょう?ちゃんと覚えてるものなんだよ。じゃぁ、次はこの伝票の書き方ね」
私は冬馬が事務所の中でやる事を教えるだけだ。来週中には冬馬を早瀬に押し付けて、平穏な毎日に戻るだろう。全く部長のおかげで、余計な仕事が増えてるし。
入れ替わりで冬馬を見にくる社員も昨日より多い。仕事がやりにくくて私はうんざりしていた。
終業のベルと共に、私の携帯が震え出す。拓海からのメールだ。
メールにはロビーにいると打たれていた。
なんだって?馬鹿は止めて欲しい。私は携帯をひっつかむと大急ぎで立ち上がった。
「あれぇ、さくちゃん先輩どうしたんですかぁ?」
美鈴の問いかけにも、適当に答えて私は一旦更衣室に向かった。
あり得ないから。なんで会社のロビーまで入って来ちゃってんだ?
更衣室で支度をすると、ロビーまで駆け降りた。また、美鈴がうるさいから見つかる前に連れ出さないと。
ロビーに行くと、遠巻きに注目されている拓海を見つけた。スーツが多い会社のロビーでは、ジーンズにTシャツ、長い髪はめちゃくちゃ目立っていた。顔立ちがいいから余計に目立つんだよ。私に気付くと満面の笑みで、てをひらひらさせる。私は駆け寄ると腕を掴んで、速足でロビーを横断した。
「なんで会社に入ってきちゃってるのよ。駄目じゃない」
「なんで?いいだろう、別に。桃に早く会いたかったし」
「ちょっと、昨日から熱でもあるの?最近私のことなんて気にもかけなかったくせに」
私が呟くと、拓海は嬉しそうに笑った。そうやって笑っていると本当に芸能人のようなオーラがある。拓海はそのうち、成功するのだろうという予感があった。
「桃、淋しかったんだ。心配しなくても、俺、桃の事愛してるよ?」
あぁ、これが駄目なんだ。これくらいで喜んでしまう自分がいけない。そう思っては見ても、嬉しくてつい顔が緩んでしまう。会社から結構離れたし、まぁいいか。
私は歩調を緩めて拓海の腕に自分の腕を絡めた。
「なんか久しぶりだね。腕をくんでも大丈夫?」
「当たり前だろ。この辺りじゃ誰も俺のことなんか知らないよ」
私達は顔を見合わせた。自然と笑顔になる。二人の時は、拓海は優しいし、私だけを見てくれる。心のブレーキが効かないのはきっとそのせいだ。
「も~も。なにを食べるか決めた?」
私の額にキスを落としながら、拓海が尋ねる。
「ん、パエリアが食べたいなと思ったんだけど、拓海は?」
「パエリアか。いいね。魚介のいっぱい入った奴食べよう。この辺りに確かあったよな。桃と行った事があるトコ」
パエリアは拓海の好物だ。私も家でなんちゃってパエリアをフライパンで作ったりする。
私の会社の近くは、いわゆるビジネス街で高層ビルが立ち並んでいる。
会社帰りの、サラリーマンやOL向けに何年か前に大型の総合商業ビルがオープンしていた。
買い物も食べることも、そのビル一つで済んでしまいとても便利だった。
ちらりと会社の人に見られるかなと思ったけれど、どうせ拓海は弟にしか見られたことはないと考え直した。さすがに冬馬は私に弟なんかいないと知っているけれど、他に人はいつも自分の都合のいい想像をしてくれた。そんな人たちにとって、私が年下のミュージシャン風の男と付き合うという選択がないのだ。