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私と拓海は家に帰る途中で、食べる事ができなかったパエリアの代わりにお弁当を買ってアパートに戻った。
玄関に入るとすぐに拓海に抱き寄せられ、激しいキスが降ってくる。
しばらくそうしてお互いを確かめるようなキスをすると拓海が私の首筋に額を押し付けた。
「桃」
「なぁに」
「話を聞くから、もう別れるなんて言うなよ」
愛しさが込み上げてきて、私は拓海の髪をさらりと撫でた。
「ん。ちゃんと聞いて」
拓海の瞳を覗き込んでから、もう一度キスをする。今度は甘くしっとりとしたキスだった。
私の初めてはすべて拓海だ。
キスをするのも、体を繋げるのも拓海が初めてで、私のすべては拓海しか知らない。
拓海の腕が、手のひらが、声がすべてが愛しい。
だからこそ、今まで何も言わなかった。何も見なていないふりをした。
私はそっと拓海と離れるとキッチンでお湯を沸かした。
すこし暖かいもので体を、心を温めたかったから。
私にココアを、拓海にはコーヒーを淹れると私たちは隣り合わせてソファに座った。
しばらく拓海の肩に頭を乗せて、ココアを見つめながら私は言葉を探した。
その間、拓海はジッと私の肩を撫でながら待ってくれていた。
「もう、独りの夜は嫌。拓海がもう二度と帰って来ないかもしれないって怖いから」
拓海が私の額にキスを落とした。
「うん」
「我が侭がいえるなら、私以外の女の人に触るのも、優しくするのもイヤ」
「桃、それは我が侭じゃないよ」
クスリと拓海が笑う。
「もう疲れたの。拓海が嫌いになれたらどんなにか楽だろうって何回も思った。いっその事、もう帰って来なければいいのにって」
ギュッと軽く抱き締められて、拓海の胸に顔をうずめた。
拓海の心音が聞こえる。私はこの音が好きだった。
「でも、拓海が帰ってくると死ぬほど嬉しくて、幸せになれるの。だからかな、言えなかった。自信もないし、私だけを見てって言ったら拓海はきっと帰って来なくなるってずっと思ってた」
「ごめん。桃が好きだ。俺は桃を苦しめてるなんて思ってなかった。俺が馬鹿だったんだ。桃はそういう事に寛容でずっと俺を待っててくれるって勝手に思ってた」
ホロリと涙がこぼれた。軽く拓海の胸を叩く。
「ばか。本当に馬鹿でしょ?そんな女なんて何処にもいないよ。拓海なんてキライ」
「うん。ごめん」
「大っキライ。…………でも大好きなの」
何度か胸を叩いてから、拓海の広い背中に腕をまわした。
「俺は桃を愛してるよ。信じて欲しい。もう浮気なんかしないから。ごめん。桃、ごめん」
私はゆっくりと目を閉じた。
拓海の低い声、拓海の匂い、拓海の指の長い手、すべてが愛しい。
桃と呼ばれると胸の奥が暖かくなる。触れあえば何にも考えられなくなるほど幸せになる。
拓海に与えられるすべてが幸せに繋がるんだ。
「拓海、ドコにもいかないで」
そっと呟くと、頬を両手で包まれゆっくりと拓海が近づいてくる。
何度も何度も角度をかえて、重なり合う唇にいいようのない幸福感に襲われる。
拓海が好きだと伝えたい。
この溢れるてくる想いをどうしたらいいか分からない。
本当にそばにいてくれるだけでいいんだ。
何かをして欲しいと頼むのなら私を見ていて欲しいと頼むだろう。
心につかえていたものがなくなって、私を選んでもらえて、こんなに幸せなことはなかった。
拓海の唇が首筋に落ちてきて、スカーフを器用にとりさって首筋にキスを落とし始める。
「だめ、拓海。目立つところはいや」
今朝の惨状を思い出し、身をよじりながら言ったのに、クスクスと笑いながら、拓海は触れるだけのキスを繰り返した。
「ん、もうしない。意味がないからね」
聞き捨てならない事を言われ、私は拓海の頭を両手で引き剥がした。
「待った。意味ってなに?わざとなのは分かってたけど、いつもの悪戯かと思ってた」
拓海はニヤリと笑うと私を抱きあげて自分の膝の上に向かい合わせに座らせた。
「だって、あの男桃に気があるだろう?桃は口が固いから、絶対に俺の事を話さないだろうし、キスーマーク見てさっさと諦めてもらおうと思ってさ」
少しも悪びれずに、訳のわからない事という。
「あの男って、冬馬の事?そんなわけないでしょう?あり得ないから、そんな馬鹿な理由でこんなことしたのっ!隠すの大変だったんだからっ!!」
「なんでだよ。隠さなきゃいいじゃん。俺が桃を好きって証なんだから」
そうやって笑う拓海は格好よくて、私は不覚にも真っ赤になってしまった。
「桃が熟れたみたいになってる」
拓海の長い指が私の頬をすべり、妖しく瞳が輝く。
「桃を食べていいのは、俺だけだからね」
そういって、私の頬に口付け、あらわになっていた私の太ももを撫でまわし始めた。
時折敏感なところを指が掠めて、体の芯が熱くなっていく。
「桃こそもう逃がしてあげないから、覚悟しておいて。本当は俺、独占欲の塊だから」
吐息と一緒に掠れる声で言う拓海は恐いくらいに綺麗だ。
私を求めている、そう感じると背筋が震えた。
拓海の言葉に私はキスで返す。
後は無言で二人でお互いを確かめ合うように重なりあった。
拓海が触れるところから、想いが溢れて私の全部が伝わればいい。
本気でそう、思った。
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
朝起きると、着信とメールが携帯のディスプレイに表示されている。
着信履歴を見ると、冬馬からだ。今、八時で着信履歴は七時半、三十分も経っている。
昨日の夜のことを思い出す。帰り際には、なにか言いたそうな表情をしていた。
つきり。
なぜか胸が痛む。冬馬のあの表情は高校の時によく見かけた。そう、私が冬馬を避けていた頃に。これは罪悪感の痛みだろうか。
頭を振って、メールを確かめると短い文章で冬馬からだった。
『熱出して動けない。悪い助けて』
助けてって、私冬馬の家も知らないんだけど。
私はまだ寝ている、拓海を起こさないようにベットを出るとリビングで冬馬に電話をかけた。
ワンコールも鳴らさないうちに冬馬が出る。
………待ってたんだったらごめん、と密かに胸の中で謝った。
『桃?休みなのに悪い』
本当に具合が悪そうだ。声が掠れて聞き取りづらい。全体的に気怠そうだ。
「うん。大丈夫?随分辛そうだね」
『引っ越してきたばっかりでなんにもないんだ。熱が高くてつらいんだけど、薬もなくてさ、悪いとは思うんだけど買ってきてくれないかな?』
時折つっかえながらそう言う、冬馬に思わず頷いていた。
「分かった。住所教えて、すぐにいくから」
私は冬馬から住所を聞いて、とりあえずさっと着替えて身支度を整えた。
「拓海、冬馬が熱出したみたいだからちょっと行ってくるよ。様子見て酷いようだったら病院に連れて行くから」
ベットに縁に座ってそう言うと、拓海は不機嫌そうに眉をしかめた。
「なんで、桃があいつの面倒を見る必要があるんだよ」
あ、朝だから機嫌が悪い。ちょっと低血圧ぎみなんだよね拓海。
「友達だからに決まってるでしょ。かなり辛そうだったから、私も心配だしさ、近くだしちょっと様子を見てくるよ」
拓海の髪を撫でて、頬にキスを落とした。
「病気の人をほったらかしに出来ないでしょ?人としてどうよソレ」
「男なんだから、一人でなんとかしろよって言ってやれよ。桃が行くことない」
頭を撫でる手を掴んで、拓海は不機嫌そうにそう言う。
「拓海、友達だよ?それとも一緒に行く?知らない仲じゃないんだし」
拓海は一瞬瞳を大きく開けて、次に呆れ返ったような声をだした。
「俺、あいつに会いたくない。だいたい桃は鈍すぎるんだよ。桃が友達だと思ってたって、向こうが友達だと思ってるとは限らないだろう?」
それこそ、本当に心配ないのに。変に心配をする拓海に可笑しくなって笑ってしまった。
今まで、こんな訳の分からない心配をされた事がないから少しくすぐったい。
「私、冬馬にとっくに振られてるもの。今更そんな事にならないよ。本当に友達」
安心させようと、私は過去を持ち出した。
そう、高校生の時に私はキチンと告白をしたことがある。
見事に振られたけれど。
振られた台詞が、
「ごめん、桃の事は友達としてしか思えない」
だった。
…………思い出さなくていい事を思い出してしまった。
告白したのも、振られたのもアレが初めてだったんだ。
「は?」
拓海が間抜けな声を出して、私をマジマジと見つめた。
「なによ」
疑惑の目?なんで?
「桃がアイツの事を好きだったのか?アイツじゃなくて?」
更に機嫌が悪くなってる気がするね。さっさと逃げたほうがよさそうかな?
下から睨み付ける拓海が恐い。朝の拓海は、眼力で人が殺せそうなほど目付きが悪いからね。
「面白くない。昔好きだった相手の看病?あり得ないよな?」
問いかけじゃなくて、確認?
まずった。そうだよね、私だって拓海が昔好きだったけれど今は友達だから、看病してくるとか言われたら『何で?』になると思う。でも、冬馬はこの辺りに友達がいないから電話してきたのだろうし、熱で苦しんでいる。そう思うと放ってはおけなかった。
私は拓海の手をそっと握り返すととりあえず、正攻法で言ってみる。
「拓海お願い。もう、行くって言っちゃったしさ」
「駄目だって、俺が言ってるだろう?」
仕方が無い。ちょっと恥ずかしいけれど、試してみるか。
「拓海が焼もちやいてくれるなら、嬉しいな。拓海大好き」
ついでに頬にキスを落とす。拓海は明らかにうろたえて、視線をさまよわす。
「っっばっ。なっっ」
多分、馬鹿野郎なに言ってんだって言いたいんだよね。言葉につまると拓海はみるみる顔が赤くなり、布団を頭の上まで被ってしまった。
「誰が焼もちなんか妬くかっ!馬鹿じゃねぇのっ!好きにしろよ」
おぉ、作戦成功。私は布団の上からご機嫌で拓海を抱きしめてから立ち上がった。
「拓海、かぁわいいぃぃ」
からかうと、拓海は布団の中から枕を投げてよこした。
「さっさと帰って来いよ。てか、焼もちじゃないからなっ!」
くぐもった声で、布団の中からそう言われ笑ってしまった。
焼もちを妬くのは、プライドが許さないらしい。
まぁね、クールに甘い台詞吐くのが好きっていうか、憧れみたいだからね。
私は、今まで見たこともされたこともない、焼もちを見せられて上機嫌で家を後にしたのだった。
読んでいただきありがとうございました。




