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婚約破棄シリーズ

見た! 聞いた! 言うわ! の侍女長ですが、主がボンクラ王子と結婚だなんて許せません!!

作者: 春凪とおる
掲載日:2026/10/08

王宮には、三つの心得がある。


一つ、見てはいけないものほど、よく見える。

二つ、聞いてはいけない話ほど、よく聞こえる。

三つ、見聞きしたことは、墓場まで持っていく。


私は三つ目だけ、守ったことがない。


もっとも、何でもかんでも喋るわけではない。

主人の不利益になることは口を閉ざすし、若い侍女の恋文を拾っても中身は読まない。

けれど、世の中には、黙っていてはいけないことがある。


たとえば。


◇


六月、王妃陛下主催の園遊会の日だった。

隣国から嫁がれた王妃陛下は、花がお好きでいらっしゃる。

王宮の庭は薔薇で埋まり、招かれた貴族たちが笑い、噂話に花を咲かせていた。


私はお嬢様に付き添い、控えの天幕へ茶器を取りに戻る途中だった。

近道の生け垣の向こうから、声が聞こえた。


「殿下、アカデミーの前期試験、また下から数えたほうが早かったそうで」

「言うな、ガストン。兄上と比べられるのは、もう飽きた」

「兄の話は、私もごめんです」


第二王子アルフォンス殿下と、取り巻きのお二人である。

公爵家の三男ガストン卿に、伯爵家の次男ミシェル卿。

三人とも優秀な兄を持つ身で、アカデミーには入ったものの遊び暮らし、

というのは王宮の誰もが知っている。

しかも、お二方は天幕の侍女たちを指差し、何やら点数をつけていた。


「あれは四点だな」

「あちらは三点」


私は頭の中で、お二方に点数をつけておいた。

殿下は、点数をつける欄が足りない。

使用人は、貴人には家具に見えるらしい。

けれど、家具と違って私たちには、目も耳も口もある。


そこへ、薄桃色のドレスの令嬢が現れた。

胸元を必要以上に開け、殿下の腕にしなだれかかる女性だ。

子爵令嬢リゼット・モラン。


王宮に勤めてもいない彼女が、招待客の目の届かぬ薔薇の東屋の裏にいる。

取り巻きのお二人は、見張りを兼ねているのだろう。


「アルフォンス様、エレオノーラ様がお可哀想ですわ」


「構うものか。あれは侯爵家の娘だ。

婚約は家同士が決めたこと、私の心まで縛れると思うなよ。

王子妃にはしてやる。だが、愛するのはお前だ」


私は銀盆を持ったまま立ち止まった。

見た。聞いた。

さて。


「言うわ」


私は小さく呟き、時刻を頭に刻んだ。

午後三時二十分。

どうぞ、そのままお続けくださいませ。

この侍女長、記憶力には少々自信がございますので。


◇


私の名は、マルグリット・ベルタン。五十六歳。

ヴァレンティーヌ侯爵家の侍女長である。


生まれは困窮した子爵家。

十四で王宮に出仕し、同じ年に入った見習いが、

今は王宮の侍女長を務めるアデライドである。


十九のとき、大奥様に読み書きと計算と礼法を見込まれて侯爵家へ迎えられ、

以来三十七年。

侍女から、勤めの途中で侍女長になった。


十八年前に産声を上げたエレオノーラお嬢様を、私はその瞬間から知っている。

七歳の誕生日に、自分のケーキを厨房の皆へ分けようとなさった日のことも。


そのお嬢様が、よりにもよって、あのボンクラ王子と結婚する。

断固反対である。


先月の茶会では、殿下は一時間遅れて現れ、謝罪もなく

「早く来すぎるから待つことになるのだ」

とおっしゃった。


賭け事をしておられたと、あとで王宮の従僕から聞いた。

帰りの馬車で、お嬢様は微笑まれた。


「殿下は、国政でお忙しかったのでしょうね」


私は窓の外を見た。


「お嬢様。殿下を、お好きでいらっしゃいますか」


お嬢様は考え込み、困ったようにおっしゃった。


「わからないわ。ずっと、結婚するものだと言われてきたから」


十八歳。

七歳から王族妃教育を受け、歴史も外交も会計も学び、

好きという気持ちを知る暇もなかったのである。

お嬢様を、あの男に渡してなるものか。


◇


園遊会から三日後、私は侯爵閣下の執務室を訪ねた。


「殿下が、ご婚約者以外の女性に、寵愛を約束なさいました。

園遊会の日、午後三時二十分、薔薇の東屋の裏にて。

お相手はリゼット・モラン子爵令嬢。取り巻きのお二方も同席です」


閣下の羽根ペンが止まった。

しばらく黙ってから、重々しくおっしゃった。


「王族には、そうしたこともある。婚姻は家と家の結びつきだ。

多少のことには、目をつぶらねばならん」


多少。

多少とおっしゃった。


「閣下。奥様が他の殿方に寵愛を約束なさっていたら、いかがです」

「馬鹿なことを言うな!」

「では、お嬢様には、なぜお認めに」


閣下は口を開けたまま固まった。


「……この婚約は、王家との正式な取り決めだ。簡単には動かせん」

「承知しております。ですから、動かせる材料を集めとう存じます。

見て、聞いて、確かめるだけでございます」

「余計な騒ぎは起こすなよ」

「承知いたしました」


騒ぎは起こさない、私からは。

向こうが勝手に騒ぐことまでは、責任を持てない。


◇


まず、閣下にお願いして、婚約準備金の使い道を王家へ照会していただいた。

金を出した側が尋ねるのは、当然の権利である。


届いた回答書には、「六月二十八日、王宮晩餐会費として計上」とあった。

私は、王宮の侍女長である旧友アデライドを訪ねた。


「六月二十八日の夜、王宮で晩餐会はあった?」


アデライドは、紅茶を注ぐ手を止めた。


「なかったわ。大広間の灯りを消したのは私だもの。

……でも、帳簿は私の管轄外よ。

友達でも、見せられないし、見るつもりもない」


「それで十分。見たことだけ、教えて」


その日、私は紅茶を三杯飲んだ。

殿下がお嬢様を「冷たい女」と言いふらしていることも、そこで知った。


「礼儀正しくて、感情を出さないから、ですって」

「そう育てたのは、どなたでしたかしら」


私は笑った。

アデライドが身を引いた。


「その笑い方、怖いわよ。

若い頃、あなたがその顔をした翌日、洗濯場の横領が発覚したわ」

「偶然よ」

「その次は厨房の横流し」

「世の中には、偶然が多いのね」


アデライドは額を押さえた。


従僕たちも、口が軽い。

宝飾商が殿下の私室へ紅玉の首飾りを納めたあと、

勘定所の窓口へ「外交使節への贈答品」と記した請求書を持ち込んだという。


見たのは窓口までで、帳簿の中身は誰も知らない。

真偽を知るのは、会計官だけである。


もう一つ。

リゼット嬢は、お嬢様を追い落とすおつもりらしい。

ただし舞台は王宮ではなく、貴族の茶会や夜会である。


三日続けて

「睨まれた」「ドレスを笑われた」「もう来るなと脅された」

と令嬢方の前で涙を流したそうで、各家の侍女たちが、日時と場所まで教えてくれた。


侍女同士の噂は、令嬢方の噂より、ずっと早くて正確である。

その三日間、お嬢様は王宮で講義を受け、孤児院を訪ね、高熱で寝込んでおられた。


王宮にいなくても、孤児院にいても、病床にあっても、

人を睨み、罵り、脅せるとは、大した才能である。

リゼット嬢は、宮廷魔術師にでもなればよろしい。


私は手帳を一冊増やした。

聞いた話と、確かめた話は、別の頁に書く。

噂を否定するには、噂より確かなものが要るからだ。


◇


問題は、お嬢様ご本人だった。


「マルグリット、最近、忙しそうね」


ある夕方、お嬢様が刺繍の手を止めておっしゃった。


「少々、確認することがございまして」

「わたくしの結婚式の準備?」

「それもございます」

「そう……」


お嬢様は針を置かれた。


「ねえ、マルグリット」

「はい」

「結婚すると、幸せになれるのかしら」


私はすぐには答えられなかった。


「人によります、としか申し上げられません」

「そうよね」


お嬢様は窓の外をご覧になった。


「わたくし、ずっと王子妃になるために勉強してきたわ。

歴史も、外交も、会計も、領地経営も」

「よく努力なさいました」

「でも、殿下はわたくしの話を聞いてくださらないの」


私は黙っていた。


「先日、北方の小麦の収穫量についてお話ししたら、

女がそんなことを知る必要はないとおっしゃったわ」


私は手に持っていた刺繍糸を強く握った。


「それで、殿下は何と?」

「お前は笑っていればいい、って」


私は深呼吸した。

糸が切れた。


「まあ」


お嬢様が目を丸くされた。


「マルグリット、珍しいわね」

「失礼いたしました。少々、古い糸だったようです」


嘘である。

最高級の絹糸だ。


「お嬢様」

「なあに?」

「もし、王子妃にならなくてもよいとしたら、何をなさりたいですか」


お嬢様は驚かれた。


「そんなこと、考えたこともないわ」

「今、考えてみてくださいませ」


長い沈黙があった。

やがて、お嬢様は小さな声でおっしゃった。


「……学校を作りたい」

「学校でございますか」

「ええ。領地の子どもたちが、誰でも読み書きと計算を学べる学校」


私は微笑んだ。


「素晴らしいことでございます」

「でも、王子妃になったら、そんなことをしている暇はないでしょう?」

「どうでしょう」


「王子妃には、もっと大切なお仕事があるもの」

「お嬢様」


私は膝を折り、お嬢様の目を見た。


「誰かが決めた大切な仕事と、お嬢様ご自身が大切だと思う仕事は、

同じでなくてもよろしいのですよ」


お嬢様は唇を噛まれた。


「そんなことを言われたの、初めてだわ」


私はその手を取った。


「私も、もっと早く申し上げるべきでした」


お嬢様の目に涙が浮かんだ。

私はハンカチを差し出した。


この方は、泣くことさえ我慢してきた。

王子妃にふさわしくあれ、侯爵家の娘らしくあれと。

そう、誰よりも立派であれと。


けれど、十八歳の少女が幸せになりたいと願うことに、何の遠慮が必要だろう。


◇


秋の舞踏会の朝、王宮の侍女たちが妙に落ち着かなかった。

この夜、王家は殿下とお嬢様の結婚の日取りを発表なさる予定だった。

アデライドが、青い顔で寄ってきた。


「殿下が今夜、何かやらかすつもりよ。

侍従が演説の原稿とかでぼやいていたわ。

内容は知らない。知っていても、私からは言えないわ」


「それで十分よ、ありがとう」


私は集めた記録を、すべて閣下にお見せした。

閣下は机を叩き、それから、深く息を吐かれた。


「マルグリット。以前の私の言葉は、撤回する。悪かった」

「それはお嬢様に、直接おっしゃってください。

今夜は、お嬢様の味方でいてくださいませ」


お支度の最中、お嬢様は鏡の前でおっしゃった。


「今夜、何か起こるのね。あなたが、いつもより優しいもの。

……わたくし、もう逃げないわ。自分で決める」


私は深く頭を下げた。

私の仕事は、お嬢様がご自分で選べるよう、邪魔なものを取り除くこと。

それだけでよい。


◇


大広間は、金色の光に満ちていた。

上座には国王陛下と王妃陛下、傍らには王太子殿下。

閣下は少し離れて控えておられる。

私は、お嬢様の少し後ろに立った。


「皆に聞いてもらいたい!」


アルフォンス殿下が進み出た。

隣には薄桃色の令嬢、後ろには取り巻きのお二人。


「私は、エレオノーラ・ヴァレンティーヌとの婚約を破棄する! 

この女は嫉妬から、私の愛するリゼットを虐げた!」

「わたくし、ずっと我慢しておりました……」


三日で三度も涙を流しておいて、我慢とは。

お嬢様は一歩進み出た。


「殿下。それは、いつのことでございましょう」

「とぼけるな! 七月十二日に睨み、十三日にはドレスを侮辱し、十四日には脅しただろう!」

「十二日は午後二時、茶会で。十三日の午後と、十四日のお昼にも、王都のお屋敷で……!」


リゼット嬢が、震える声で言い添えた。

日付まで暗記しておられるとは感心である。

もっとも、暗記させたのは誰か。


「失礼いたします」


私は一歩前に出た。


「下がれ、使用人!」

「侯爵家侍女長、マルグリット・ベルタンと申します。

陛下、侯爵令嬢への重大な告発でございます。証言をお許しくださいませ」

「許す」


国王陛下が頷かれた。


「十二日の午後一時から四時まで、お嬢様は王妃陛下の書斎で講義を受けておいででした。

私がお連れし、お迎えに上がりました。

二時の茶会など、不可能でございます」


国王陛下が王妃陛下をご覧になった。

王妃陛下は一瞬目を伏せられた。


「……その日は、確かにわたくしのもとにおりました」

「母上!」


殿下が悲鳴を上げた。

リゼット嬢の顔色が変わった。


「十三日は侯爵領の孤児院。

朝七時に出発し、午後三時に発って、お戻りは夜六時。

訪問帳に院長の署名と時刻がございます。

十四日は高熱で終日臥せっておられ、私が三時間おきに額の汗を拭い、

朝九時と夕五時には主治医の記録もございます」

「偽造だ!」


「王妃陛下のご記憶も、偽造でございますか」

「うっ」


では、次。


「殿下。そちらの首飾りは、お代をどなたが」

「私が贈った! 何が悪い!」


「結構なことでございます。

ただ、従僕が、宝飾商が勘定所へ請求書を持ち込むのを見ております。

もう一つ、侯爵家の婚約準備金が『王宮晩餐会費』として計上されたと、

王家の回答書にもございます。中身は存じません。

陛下、会計官に帳簿をお命じくださいませ」

「会計官を呼べ。帳簿を持て」


侍従が駆け出した。


――広間に、妙な間が生まれた。


この間が、いけなかった。

ボンクラというものは、待たされると喋る。


「そもそも! エレオノーラが悪いのだ!」


殿下が叫んだ。


「何を言っても説教ばかり! 小麦だの税収だの、つまらぬ話しかしない!

父上も教師たちも、何かと兄上を引き合いに出す! 

お前まで兄上と同じように、私を見下しているのだろう!」


王太子殿下が、静かに目を閉じた。

ガストン卿とミシェル卿が、足音を殺して一歩後ずさった。


「殿下」


お嬢様のお声が響いた。


「わたくしは七歳から、殿下のお役に立ちたくて学んでまいりました。

けれど殿下は、わたくしのお話を、一度もお聞きになりませんでした」

「女の小言など、聞いていられるか!」

「そうですか。……それなら、もう申し上げることはございません」


お嬢様は微笑まれた。

悲しげな笑みではなかった。

初めて見る、晴れやかな笑顔だった。


そこへ会計官が、帳簿を抱えて戻った。

柱の陰で、アデライドが「ほらね」という顔をした。


「読み上げよ」


国王陛下の声が、低くなった。

会計官は帳簿をめくり、指を止めた。


「……あの首飾りは、殿下のご指示で、外交使節への贈答品として処理いたしました。

内金は『晩餐会費』の名目で、侯爵家の準備金から。

残りの準備金は、市内の料理店への支払いでございます。

王宮の厨房には、その夜の仕入れも、一件もございません」

「き、貴様!」

「晩餐会など、最初からなかったのだな。

準備金は、料理店の宴と首飾りに消えたか。……アルフォンス。事実か」


殿下は答えなかった。

陛下は、深く息を吐かれた。


「この婚約は、王家と侯爵家の正式な取り決めである。

アルフォンス、お前に一方的に破棄する権限はない。

ゆえに、破棄ではない。

王家の不始末として、双方の合意による解消とする。侯爵、異存は」

「ございません」


閣下がきっぱりと答えられた。


「娘の幸せを家の利益と取り違えたのは、私の落ち度でもあります」

「エレオノーラ嬢、そなたに非はない。

アルフォンスの王位継承権は、調査が終わるまで停止とする」

「陛下。解消を、謹んでお受けいたします」


お嬢様は、顔を上げてはっきりとおっしゃった。


「わたくしは、わたくしの道を選びます」


胸の奥で、何かがほどけた。ようやく、終わった。

ところが、殿下はまだ終わっていなかった。


「待て! 捨てるのは私だ! あの女が私を捨てたような顔をするな!」

「殿下」


私は、思わず口を開いていた。


「ご希望どおりになったのですから、よろしいのでは」

「そういう問題ではない!」


私は殿下を見つめ、心の底から理解した。

この方は、誰かの上に立っていたいだけなのだ。

兄上より、誰より。


「殿下。女性を捨てても、殿方の価値は上がりません。

まして、ご自分を支えようとした方を侮辱するなど」

「使用人風情が!」

「風情の使用人にも、目と耳と口はございます!」


私は初めて、声を張った。


「私は見ました。殿下が婚約者以外の方と寄り添われるところを! 

私は聞きました。お嬢様を軽んじるお言葉を! 

そして今、申し上げます!」


広間が静まり返った。


「見た! 聞いた! 言うわ! 

侯爵家侍女長、三十七年の奉公にかけて申し上げます! 

我が主を、あなたのようなボンクラ王子に嫁がせるわけにはまいりません!」


沈黙。


一秒。

二秒。

三秒。


誰かが咳払いをした。

私は我に返った。


しまった。

ボンクラと言ってしまった。

国王陛下の御前で。


「大変失礼いたしました。最後の表現は、撤回いたします」

「いや」


国王陛下が、額を押さえておっしゃった。


「撤回する必要はない。……残念ながら、反論できん」


王妃陛下は扇で口元を隠された。

肩が震えている。

怒りか笑いか、おそらく両方である。


閣下は天井を見上げ、アデライドは柱の陰で笑いを堪えていた。

そしてお嬢様は、声を上げて笑っていらっしゃった。

あんなふうに笑うお姿を見たのは、何年ぶりだろう。


◇


その後のことは、駆け足で済む。


殿下は継承権を剥奪され、使い込みは私財で返済なさった。

食事が遅いと叱ったところ、料理人に

「代金をお支払いになっておりませんので」

と返されたそうだが、聞いただけの話である。


取り巻きのお二人は、アカデミーで一から出直し。

点数をつけられる側に回る、よい機会である。


リゼット嬢は、社交界への出入りを止められ、領地へ戻された。

それでも

「アルフォンス様が、エレオノーラ様は怖い女だとおっしゃったんですもの」

と泣いていたという。


聞いたことを確かめなかった責任は、本人が負うほかない。


◇


それから半年。

閣下は、お嬢様に「お前の望む道を歩みなさい」と告げられ、お嬢様は涙を流された。


私は扉の外で、その声を聞いていた。

見てはいない。

親子の時間に、侍女は立ち入らない。


お嬢様は今、学校の準備に飛び回っていらっしゃる。

朝食の席で笑うことが増えた。


そこへ、隣国で外交と交易を学んでおられた侯爵家の若様、

お嬢様の兄君が、お戻りになった。

アカデミーを出たご嫡男で、お嬢様の学問好きをただ一人笑わなかった方である。

女子にアカデミーの門が開かれぬことを、誰より悔しがっていたのも、この方だ。


「エレオノーラ、紹介しよう。

隣国のロアン・モンテール伯爵だ。小麦の産地を治めておられる」


若き伯爵は、穏やかに礼をなさった。


「妹君は、北方の小麦の収穫量にお詳しいと伺いました。

ぜひ、お考えを聞かせていただきたい」


お嬢様は目を丸くされ、それから、ぱっと顔を輝かせた。

女がそんなことを知る必要はない、お前は笑っていればいい、と言った方がいた。

聞いてくださる方も、世の中にはいるのである。


ロアン様は、お嬢様の話を最後まで聞いた。

分からなければ質問し、意見が違えば丁寧に話し合う。

お茶は二度冷め、私は三度淹れ直したが、不思議と少しも腹が立たなかった。


お嬢様は、ぽーっとした顔で、頬を赤らめていらっしゃる。

ご自分では、まだお気づきでない。

国境の向こうの、小麦畑。

お嬢様の新しい道が、そちらへ伸びていくような予感がした。


ふと、お嬢様が私に気づいた。


「……マルグリット。見すぎよ!」

「侍女長でございますので」


私は静かに頭を下げ、盆を持って下がった。


言いたいことなら、山ほどある。

舌の根がむずむずする。

けれど、恋の始まりは、周りが口を出すと台無しになるものだ。


見た。聞いた。

そして、今度は、言わない。


どうして黙っていられるのかって?

だって、侍女長ですもの。


――完――

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女主人公 ざまぁ ハッピーエンド 婚約破棄 痛快コメディ 王子 侯爵令嬢 
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