見た! 聞いた! 言うわ! の侍女長ですが、主がボンクラ王子と結婚だなんて許せません!!
王宮には、三つの心得がある。
一つ、見てはいけないものほど、よく見える。
二つ、聞いてはいけない話ほど、よく聞こえる。
三つ、見聞きしたことは、墓場まで持っていく。
私は三つ目だけ、守ったことがない。
もっとも、何でもかんでも喋るわけではない。
主人の不利益になることは口を閉ざすし、若い侍女の恋文を拾っても中身は読まない。
けれど、世の中には、黙っていてはいけないことがある。
たとえば。
◇
六月、王妃陛下主催の園遊会の日だった。
隣国から嫁がれた王妃陛下は、花がお好きでいらっしゃる。
王宮の庭は薔薇で埋まり、招かれた貴族たちが笑い、噂話に花を咲かせていた。
私はお嬢様に付き添い、控えの天幕へ茶器を取りに戻る途中だった。
近道の生け垣の向こうから、声が聞こえた。
「殿下、アカデミーの前期試験、また下から数えたほうが早かったそうで」
「言うな、ガストン。兄上と比べられるのは、もう飽きた」
「兄の話は、私もごめんです」
第二王子アルフォンス殿下と、取り巻きのお二人である。
公爵家の三男ガストン卿に、伯爵家の次男ミシェル卿。
三人とも優秀な兄を持つ身で、アカデミーには入ったものの遊び暮らし、
というのは王宮の誰もが知っている。
しかも、お二方は天幕の侍女たちを指差し、何やら点数をつけていた。
「あれは四点だな」
「あちらは三点」
私は頭の中で、お二方に点数をつけておいた。
殿下は、点数をつける欄が足りない。
使用人は、貴人には家具に見えるらしい。
けれど、家具と違って私たちには、目も耳も口もある。
そこへ、薄桃色のドレスの令嬢が現れた。
胸元を必要以上に開け、殿下の腕にしなだれかかる女性だ。
子爵令嬢リゼット・モラン。
王宮に勤めてもいない彼女が、招待客の目の届かぬ薔薇の東屋の裏にいる。
取り巻きのお二人は、見張りを兼ねているのだろう。
「アルフォンス様、エレオノーラ様がお可哀想ですわ」
「構うものか。あれは侯爵家の娘だ。
婚約は家同士が決めたこと、私の心まで縛れると思うなよ。
王子妃にはしてやる。だが、愛するのはお前だ」
私は銀盆を持ったまま立ち止まった。
見た。聞いた。
さて。
「言うわ」
私は小さく呟き、時刻を頭に刻んだ。
午後三時二十分。
どうぞ、そのままお続けくださいませ。
この侍女長、記憶力には少々自信がございますので。
◇
私の名は、マルグリット・ベルタン。五十六歳。
ヴァレンティーヌ侯爵家の侍女長である。
生まれは困窮した子爵家。
十四で王宮に出仕し、同じ年に入った見習いが、
今は王宮の侍女長を務めるアデライドである。
十九のとき、大奥様に読み書きと計算と礼法を見込まれて侯爵家へ迎えられ、
以来三十七年。
侍女から、勤めの途中で侍女長になった。
十八年前に産声を上げたエレオノーラお嬢様を、私はその瞬間から知っている。
七歳の誕生日に、自分のケーキを厨房の皆へ分けようとなさった日のことも。
そのお嬢様が、よりにもよって、あのボンクラ王子と結婚する。
断固反対である。
先月の茶会では、殿下は一時間遅れて現れ、謝罪もなく
「早く来すぎるから待つことになるのだ」
とおっしゃった。
賭け事をしておられたと、あとで王宮の従僕から聞いた。
帰りの馬車で、お嬢様は微笑まれた。
「殿下は、国政でお忙しかったのでしょうね」
私は窓の外を見た。
「お嬢様。殿下を、お好きでいらっしゃいますか」
お嬢様は考え込み、困ったようにおっしゃった。
「わからないわ。ずっと、結婚するものだと言われてきたから」
十八歳。
七歳から王族妃教育を受け、歴史も外交も会計も学び、
好きという気持ちを知る暇もなかったのである。
お嬢様を、あの男に渡してなるものか。
◇
園遊会から三日後、私は侯爵閣下の執務室を訪ねた。
「殿下が、ご婚約者以外の女性に、寵愛を約束なさいました。
園遊会の日、午後三時二十分、薔薇の東屋の裏にて。
お相手はリゼット・モラン子爵令嬢。取り巻きのお二方も同席です」
閣下の羽根ペンが止まった。
しばらく黙ってから、重々しくおっしゃった。
「王族には、そうしたこともある。婚姻は家と家の結びつきだ。
多少のことには、目をつぶらねばならん」
多少。
多少とおっしゃった。
「閣下。奥様が他の殿方に寵愛を約束なさっていたら、いかがです」
「馬鹿なことを言うな!」
「では、お嬢様には、なぜお認めに」
閣下は口を開けたまま固まった。
「……この婚約は、王家との正式な取り決めだ。簡単には動かせん」
「承知しております。ですから、動かせる材料を集めとう存じます。
見て、聞いて、確かめるだけでございます」
「余計な騒ぎは起こすなよ」
「承知いたしました」
騒ぎは起こさない、私からは。
向こうが勝手に騒ぐことまでは、責任を持てない。
◇
まず、閣下にお願いして、婚約準備金の使い道を王家へ照会していただいた。
金を出した側が尋ねるのは、当然の権利である。
届いた回答書には、「六月二十八日、王宮晩餐会費として計上」とあった。
私は、王宮の侍女長である旧友アデライドを訪ねた。
「六月二十八日の夜、王宮で晩餐会はあった?」
アデライドは、紅茶を注ぐ手を止めた。
「なかったわ。大広間の灯りを消したのは私だもの。
……でも、帳簿は私の管轄外よ。
友達でも、見せられないし、見るつもりもない」
「それで十分。見たことだけ、教えて」
その日、私は紅茶を三杯飲んだ。
殿下がお嬢様を「冷たい女」と言いふらしていることも、そこで知った。
「礼儀正しくて、感情を出さないから、ですって」
「そう育てたのは、どなたでしたかしら」
私は笑った。
アデライドが身を引いた。
「その笑い方、怖いわよ。
若い頃、あなたがその顔をした翌日、洗濯場の横領が発覚したわ」
「偶然よ」
「その次は厨房の横流し」
「世の中には、偶然が多いのね」
アデライドは額を押さえた。
従僕たちも、口が軽い。
宝飾商が殿下の私室へ紅玉の首飾りを納めたあと、
勘定所の窓口へ「外交使節への贈答品」と記した請求書を持ち込んだという。
見たのは窓口までで、帳簿の中身は誰も知らない。
真偽を知るのは、会計官だけである。
もう一つ。
リゼット嬢は、お嬢様を追い落とすおつもりらしい。
ただし舞台は王宮ではなく、貴族の茶会や夜会である。
三日続けて
「睨まれた」「ドレスを笑われた」「もう来るなと脅された」
と令嬢方の前で涙を流したそうで、各家の侍女たちが、日時と場所まで教えてくれた。
侍女同士の噂は、令嬢方の噂より、ずっと早くて正確である。
その三日間、お嬢様は王宮で講義を受け、孤児院を訪ね、高熱で寝込んでおられた。
王宮にいなくても、孤児院にいても、病床にあっても、
人を睨み、罵り、脅せるとは、大した才能である。
リゼット嬢は、宮廷魔術師にでもなればよろしい。
私は手帳を一冊増やした。
聞いた話と、確かめた話は、別の頁に書く。
噂を否定するには、噂より確かなものが要るからだ。
◇
問題は、お嬢様ご本人だった。
「マルグリット、最近、忙しそうね」
ある夕方、お嬢様が刺繍の手を止めておっしゃった。
「少々、確認することがございまして」
「わたくしの結婚式の準備?」
「それもございます」
「そう……」
お嬢様は針を置かれた。
「ねえ、マルグリット」
「はい」
「結婚すると、幸せになれるのかしら」
私はすぐには答えられなかった。
「人によります、としか申し上げられません」
「そうよね」
お嬢様は窓の外をご覧になった。
「わたくし、ずっと王子妃になるために勉強してきたわ。
歴史も、外交も、会計も、領地経営も」
「よく努力なさいました」
「でも、殿下はわたくしの話を聞いてくださらないの」
私は黙っていた。
「先日、北方の小麦の収穫量についてお話ししたら、
女がそんなことを知る必要はないとおっしゃったわ」
私は手に持っていた刺繍糸を強く握った。
「それで、殿下は何と?」
「お前は笑っていればいい、って」
私は深呼吸した。
糸が切れた。
「まあ」
お嬢様が目を丸くされた。
「マルグリット、珍しいわね」
「失礼いたしました。少々、古い糸だったようです」
嘘である。
最高級の絹糸だ。
「お嬢様」
「なあに?」
「もし、王子妃にならなくてもよいとしたら、何をなさりたいですか」
お嬢様は驚かれた。
「そんなこと、考えたこともないわ」
「今、考えてみてくださいませ」
長い沈黙があった。
やがて、お嬢様は小さな声でおっしゃった。
「……学校を作りたい」
「学校でございますか」
「ええ。領地の子どもたちが、誰でも読み書きと計算を学べる学校」
私は微笑んだ。
「素晴らしいことでございます」
「でも、王子妃になったら、そんなことをしている暇はないでしょう?」
「どうでしょう」
「王子妃には、もっと大切なお仕事があるもの」
「お嬢様」
私は膝を折り、お嬢様の目を見た。
「誰かが決めた大切な仕事と、お嬢様ご自身が大切だと思う仕事は、
同じでなくてもよろしいのですよ」
お嬢様は唇を噛まれた。
「そんなことを言われたの、初めてだわ」
私はその手を取った。
「私も、もっと早く申し上げるべきでした」
お嬢様の目に涙が浮かんだ。
私はハンカチを差し出した。
この方は、泣くことさえ我慢してきた。
王子妃にふさわしくあれ、侯爵家の娘らしくあれと。
そう、誰よりも立派であれと。
けれど、十八歳の少女が幸せになりたいと願うことに、何の遠慮が必要だろう。
◇
秋の舞踏会の朝、王宮の侍女たちが妙に落ち着かなかった。
この夜、王家は殿下とお嬢様の結婚の日取りを発表なさる予定だった。
アデライドが、青い顔で寄ってきた。
「殿下が今夜、何かやらかすつもりよ。
侍従が演説の原稿とかでぼやいていたわ。
内容は知らない。知っていても、私からは言えないわ」
「それで十分よ、ありがとう」
私は集めた記録を、すべて閣下にお見せした。
閣下は机を叩き、それから、深く息を吐かれた。
「マルグリット。以前の私の言葉は、撤回する。悪かった」
「それはお嬢様に、直接おっしゃってください。
今夜は、お嬢様の味方でいてくださいませ」
お支度の最中、お嬢様は鏡の前でおっしゃった。
「今夜、何か起こるのね。あなたが、いつもより優しいもの。
……わたくし、もう逃げないわ。自分で決める」
私は深く頭を下げた。
私の仕事は、お嬢様がご自分で選べるよう、邪魔なものを取り除くこと。
それだけでよい。
◇
大広間は、金色の光に満ちていた。
上座には国王陛下と王妃陛下、傍らには王太子殿下。
閣下は少し離れて控えておられる。
私は、お嬢様の少し後ろに立った。
「皆に聞いてもらいたい!」
アルフォンス殿下が進み出た。
隣には薄桃色の令嬢、後ろには取り巻きのお二人。
「私は、エレオノーラ・ヴァレンティーヌとの婚約を破棄する!
この女は嫉妬から、私の愛するリゼットを虐げた!」
「わたくし、ずっと我慢しておりました……」
三日で三度も涙を流しておいて、我慢とは。
お嬢様は一歩進み出た。
「殿下。それは、いつのことでございましょう」
「とぼけるな! 七月十二日に睨み、十三日にはドレスを侮辱し、十四日には脅しただろう!」
「十二日は午後二時、茶会で。十三日の午後と、十四日のお昼にも、王都のお屋敷で……!」
リゼット嬢が、震える声で言い添えた。
日付まで暗記しておられるとは感心である。
もっとも、暗記させたのは誰か。
「失礼いたします」
私は一歩前に出た。
「下がれ、使用人!」
「侯爵家侍女長、マルグリット・ベルタンと申します。
陛下、侯爵令嬢への重大な告発でございます。証言をお許しくださいませ」
「許す」
国王陛下が頷かれた。
「十二日の午後一時から四時まで、お嬢様は王妃陛下の書斎で講義を受けておいででした。
私がお連れし、お迎えに上がりました。
二時の茶会など、不可能でございます」
国王陛下が王妃陛下をご覧になった。
王妃陛下は一瞬目を伏せられた。
「……その日は、確かにわたくしのもとにおりました」
「母上!」
殿下が悲鳴を上げた。
リゼット嬢の顔色が変わった。
「十三日は侯爵領の孤児院。
朝七時に出発し、午後三時に発って、お戻りは夜六時。
訪問帳に院長の署名と時刻がございます。
十四日は高熱で終日臥せっておられ、私が三時間おきに額の汗を拭い、
朝九時と夕五時には主治医の記録もございます」
「偽造だ!」
「王妃陛下のご記憶も、偽造でございますか」
「うっ」
では、次。
「殿下。そちらの首飾りは、お代をどなたが」
「私が贈った! 何が悪い!」
「結構なことでございます。
ただ、従僕が、宝飾商が勘定所へ請求書を持ち込むのを見ております。
もう一つ、侯爵家の婚約準備金が『王宮晩餐会費』として計上されたと、
王家の回答書にもございます。中身は存じません。
陛下、会計官に帳簿をお命じくださいませ」
「会計官を呼べ。帳簿を持て」
侍従が駆け出した。
――広間に、妙な間が生まれた。
この間が、いけなかった。
ボンクラというものは、待たされると喋る。
「そもそも! エレオノーラが悪いのだ!」
殿下が叫んだ。
「何を言っても説教ばかり! 小麦だの税収だの、つまらぬ話しかしない!
父上も教師たちも、何かと兄上を引き合いに出す!
お前まで兄上と同じように、私を見下しているのだろう!」
王太子殿下が、静かに目を閉じた。
ガストン卿とミシェル卿が、足音を殺して一歩後ずさった。
「殿下」
お嬢様のお声が響いた。
「わたくしは七歳から、殿下のお役に立ちたくて学んでまいりました。
けれど殿下は、わたくしのお話を、一度もお聞きになりませんでした」
「女の小言など、聞いていられるか!」
「そうですか。……それなら、もう申し上げることはございません」
お嬢様は微笑まれた。
悲しげな笑みではなかった。
初めて見る、晴れやかな笑顔だった。
そこへ会計官が、帳簿を抱えて戻った。
柱の陰で、アデライドが「ほらね」という顔をした。
「読み上げよ」
国王陛下の声が、低くなった。
会計官は帳簿をめくり、指を止めた。
「……あの首飾りは、殿下のご指示で、外交使節への贈答品として処理いたしました。
内金は『晩餐会費』の名目で、侯爵家の準備金から。
残りの準備金は、市内の料理店への支払いでございます。
王宮の厨房には、その夜の仕入れも、一件もございません」
「き、貴様!」
「晩餐会など、最初からなかったのだな。
準備金は、料理店の宴と首飾りに消えたか。……アルフォンス。事実か」
殿下は答えなかった。
陛下は、深く息を吐かれた。
「この婚約は、王家と侯爵家の正式な取り決めである。
アルフォンス、お前に一方的に破棄する権限はない。
ゆえに、破棄ではない。
王家の不始末として、双方の合意による解消とする。侯爵、異存は」
「ございません」
閣下がきっぱりと答えられた。
「娘の幸せを家の利益と取り違えたのは、私の落ち度でもあります」
「エレオノーラ嬢、そなたに非はない。
アルフォンスの王位継承権は、調査が終わるまで停止とする」
「陛下。解消を、謹んでお受けいたします」
お嬢様は、顔を上げてはっきりとおっしゃった。
「わたくしは、わたくしの道を選びます」
胸の奥で、何かがほどけた。ようやく、終わった。
ところが、殿下はまだ終わっていなかった。
「待て! 捨てるのは私だ! あの女が私を捨てたような顔をするな!」
「殿下」
私は、思わず口を開いていた。
「ご希望どおりになったのですから、よろしいのでは」
「そういう問題ではない!」
私は殿下を見つめ、心の底から理解した。
この方は、誰かの上に立っていたいだけなのだ。
兄上より、誰より。
「殿下。女性を捨てても、殿方の価値は上がりません。
まして、ご自分を支えようとした方を侮辱するなど」
「使用人風情が!」
「風情の使用人にも、目と耳と口はございます!」
私は初めて、声を張った。
「私は見ました。殿下が婚約者以外の方と寄り添われるところを!
私は聞きました。お嬢様を軽んじるお言葉を!
そして今、申し上げます!」
広間が静まり返った。
「見た! 聞いた! 言うわ!
侯爵家侍女長、三十七年の奉公にかけて申し上げます!
我が主を、あなたのようなボンクラ王子に嫁がせるわけにはまいりません!」
沈黙。
一秒。
二秒。
三秒。
誰かが咳払いをした。
私は我に返った。
しまった。
ボンクラと言ってしまった。
国王陛下の御前で。
「大変失礼いたしました。最後の表現は、撤回いたします」
「いや」
国王陛下が、額を押さえておっしゃった。
「撤回する必要はない。……残念ながら、反論できん」
王妃陛下は扇で口元を隠された。
肩が震えている。
怒りか笑いか、おそらく両方である。
閣下は天井を見上げ、アデライドは柱の陰で笑いを堪えていた。
そしてお嬢様は、声を上げて笑っていらっしゃった。
あんなふうに笑うお姿を見たのは、何年ぶりだろう。
◇
その後のことは、駆け足で済む。
殿下は継承権を剥奪され、使い込みは私財で返済なさった。
食事が遅いと叱ったところ、料理人に
「代金をお支払いになっておりませんので」
と返されたそうだが、聞いただけの話である。
取り巻きのお二人は、アカデミーで一から出直し。
点数をつけられる側に回る、よい機会である。
リゼット嬢は、社交界への出入りを止められ、領地へ戻された。
それでも
「アルフォンス様が、エレオノーラ様は怖い女だとおっしゃったんですもの」
と泣いていたという。
聞いたことを確かめなかった責任は、本人が負うほかない。
◇
それから半年。
閣下は、お嬢様に「お前の望む道を歩みなさい」と告げられ、お嬢様は涙を流された。
私は扉の外で、その声を聞いていた。
見てはいない。
親子の時間に、侍女は立ち入らない。
お嬢様は今、学校の準備に飛び回っていらっしゃる。
朝食の席で笑うことが増えた。
そこへ、隣国で外交と交易を学んでおられた侯爵家の若様、
お嬢様の兄君が、お戻りになった。
アカデミーを出たご嫡男で、お嬢様の学問好きをただ一人笑わなかった方である。
女子にアカデミーの門が開かれぬことを、誰より悔しがっていたのも、この方だ。
「エレオノーラ、紹介しよう。
隣国のロアン・モンテール伯爵だ。小麦の産地を治めておられる」
若き伯爵は、穏やかに礼をなさった。
「妹君は、北方の小麦の収穫量にお詳しいと伺いました。
ぜひ、お考えを聞かせていただきたい」
お嬢様は目を丸くされ、それから、ぱっと顔を輝かせた。
女がそんなことを知る必要はない、お前は笑っていればいい、と言った方がいた。
聞いてくださる方も、世の中にはいるのである。
ロアン様は、お嬢様の話を最後まで聞いた。
分からなければ質問し、意見が違えば丁寧に話し合う。
お茶は二度冷め、私は三度淹れ直したが、不思議と少しも腹が立たなかった。
お嬢様は、ぽーっとした顔で、頬を赤らめていらっしゃる。
ご自分では、まだお気づきでない。
国境の向こうの、小麦畑。
お嬢様の新しい道が、そちらへ伸びていくような予感がした。
ふと、お嬢様が私に気づいた。
「……マルグリット。見すぎよ!」
「侍女長でございますので」
私は静かに頭を下げ、盆を持って下がった。
言いたいことなら、山ほどある。
舌の根がむずむずする。
けれど、恋の始まりは、周りが口を出すと台無しになるものだ。
見た。聞いた。
そして、今度は、言わない。
どうして黙っていられるのかって?
だって、侍女長ですもの。
――完――




