四十年幽閉された女、医者になる
寛文三年(一六六三)、土佐藩家老として約三十年にわたり藩政改革を主導した野中兼山は失脚した。
急進的な改革は領民や家臣に大きな負担を強い、兼山への反発を招いた。その処分は一族にも及び、兼山の妻子は宿毛で長く幽閉されることとなる。
赦免されたのは元禄十六年(一七〇三)。最後の男子が亡くなり、野中家の男系が断絶した後のことだった。
幽閉から約四十年。
野中家の女性たちは、ようやく自由を取り戻した。
戸を叩く音に、婉の手が止まった。
竹籠へ広げていた乾燥途中の薬草が、指の間でかさりと鳴る。
秋の日はもう軒の内まで差し込んでいた。婉は白いものの混じり始めた髪を後ろでまとめ、色の褪せた小袖の袖をたすきで括っている。
戸が、もう一度鳴った。
自由になって半年。
それでも、この音だけは慣れなかった。
婉は立ち上がり、戸を開けた。
役人ではない。
紺の小袖を着た女と、その袖口を握る痩せた娘が立っていた。
「野中様でございますか」
「そうですが」
「娘を、見ていただけませんでしょうか」
娘は十二、三ほどだろう。
母親の陰に半ば隠れ、腹を押さえている。頬は落ち、唇には血の気が薄かった。
「お医者には?」
「診ていただいております」
「ならば、そちらへ」
「ひと月になります」
女は俯いた。
「初めは良くなったのです。でも、このところ、前より苦しそうで。もう、どこへ連れて行けばよいのか……」
娘が小さく身を折った。婉はその姿を見て、戸口を空けた。
「中へ」
「ありがとうございます」
「まだ礼を言うところではありませんよ」
母娘を上がらせながら、婉は先に釘を刺した。
「私は医者ではありません」
女が意外そうに顔を上げた。
「ですが、お籠りの間にも医書を読み、薬にもお詳しかったと」
お籠り。
婉は一瞬だけ目を細めた。
世間は、四十年近い幽閉をそんな穏やかな言葉で呼ぶらしい。
父、兼山が失脚したのは、婉がまだ幼かった頃だ。
父が死んでも処分は終わらなかった。
家の女たちは外へ出ることも、嫁ぐことも許されない。
門が開いた時には、少女だった婉も四十を越えていた。
その話をする気はなかった。
「まず、娘御の話を聞きましょう」
◆
娘の名は、お雪といった。
ひと月ほど前から食が細い。
腹を痛がる。夜もよく眠れない。
母親が懐から紙包みを取り出した。
「笹岡玄朴先生から、こちらを」
その名には聞き覚えがあった。
城下で長く患者を診ている医者だ。怪しげな薬売りではない。
婉は包みを開く。
三粒の丸薬が転がった。
赤い。朱よりも濃く、秋の日を受けて妙な艶を帯びている。
包み紙の端には、細いが乱れのない字で、飲ませる刻と数が書かれていた。
几帳面な字だった。
「朝に一つ。具合の悪い日は夕にも、と」
婉は一粒を摘まみ、爪で表面をわずかに削った。
赤い粉。丹砂の類か。
丹や石を薬に用いること自体は珍しくない。古い医書にも多く見える。だが、扱いを誤れば身体を損なうものがあることも、婉は知っていた。
「これを飲み始めた時は?」
「良くなりました」
母親の顔が少し明るくなる。
「粥を一椀食べた日もありました。久しぶりに笑って」
「腹を痛がるようになったのは?」
「その後です。ただ、薬をいただく前から少しは」
婉はお雪の手首を取った。
脈が速い。
「この薬を飲むと、どうなります?」
「飲ませますと一度は」
母親が答えかけた。
婉は娘を見た。
「お雪さんに聞いています」
少女が目を瞬かせた。
「……少し、楽になります」
「その後は?」
「お腹が痛いこともある」
「いつも?」
「分かりません」
「この薬は好き?」
妙な問いだったのだろう。
お雪は母親を見た。
それから、ほんの少し首を振った。
「なぜ」
「飲んだあと、気持ち悪くなるから」
母親が娘を見た。
「そんなこと、聞いてないわ」
「言ったよ」
「いつ?」
「前に」
お雪は俯いた。
「母上が、お薬だから我慢しなさいって」
母親の口が止まった。
婉は赤い丸薬を紙へ戻した。
薬だから。そう決まっているから。
胸の奥で、古い言葉が一つだけ蘇る。
家の者だから。
門の外へ出てはならない。
昨日も。
今日も。
そうして日を重ねれば、四十年にもなる。
「今夜は、この薬を飲ませないでください」
母親が顔を上げた。
「毒なのでございますか」
「そこまでは申せません」
「では、どうして」
「お雪さんが、飲んだ後に具合が悪くなると言っています」
「ですが、玄朴先生は」
「ええ」
婉は薬包を畳んだ。
整った字がもう一度目に入る。
「だから、一晩だけです。明日の朝、また見せてください」
母親は迷った。
長く迷った末、薬包を懐へ戻す。
「……今夜は、飲ませません」
その言葉だけは、娘へ向けていた。
◆
朝まで待つことにはならなかった。
「お雪様が倒れました」
夜半前、森田家の使いが飛び込んできた。
婉の手から薬草が落ちた。
拾わなかった。
草履をつかみ、そのまま外へ出る。
夜の城下は薄暗い。
行灯の漏れる町家。閉じられた店。
昔は空地だった場所に並ぶ家々。
婉の知っている町は、四十年の間にほとんど消えていた。
それでも走った。
森田家の玄関には、お雪の父親がいた。
男は婉を見るなり何か言いかけたが、座敷の方へ目をやった。
戸を閉める。
「娘の前では言わん」
低い声だった。
「薬を止めたそうですな」
「はい」
「なぜです」
「薬が身体を害している疑いがありました」
「疑いだけで?」
婉は答えられなかった。
男の拳が震えていた。
「朝には話しておった。それが今は、何度も吐いておる」
一度、唇を噛む。
「もし、あの薬を止めなければ」
最後まで言わなかった。
婉にも聞こえた。
腹の底が冷える。
座敷へ入る。
行灯一つの薄暗い部屋で、お雪の額だけが汗に濡れて光っていた。
布団の上で身体を丸めている。
婉は膝をついた。
脈を取る。朝より速い。
「今日は便は?」
母親が戸惑った。
「まだ……」
「昨日は」
「一度」
「小便は?」
「え?」
婉の指が止まった。
朝、自分は聞いていない。
便も。
尿も。
どれほど汗をかいたかも。
目の前の娘より、赤い薬ばかりを見ていた。
婉は視線を落とした。
膝の上で指が白くなるほど握り込まれる。
その時、戸が開いた。
「そこを空けてくれ」
小柄な男が入ってきた。
使い込まれた薬箱を片手にしている。
笹岡玄朴だった。
裾を払うでもない。薬箱を置く場所にも迷わない。
すぐお雪の横へ座った。
「いつ吐いた」
「夕方から二度」
「最後に食べたのは」
「朝の粥を少し」
「腹はどこが痛む」
短い問いが続く。
玄朴の手は迷わない。
婉は横で聞くしかなかった。
自分が聞き落としたものばかりだった。
やがて玄朴が手を引いた。
「薬を戻す」
父親がすぐ赤い包みを差し出した。
行灯の下で、その赤が妙に生々しく見えた。
「待ってください」
玄朴が初めて婉を見る。
「何を待つ」
「その薬を飲んだ後、気分が悪くなると」
「聞いた」
「ならば」
「わしは、これを飲んで一度持ち直したのも見ておる」
玄朴は赤い丸薬を一粒摘まんだ。
「同じ薬で良くなった者もおる」
婉は言葉に詰まる。
「だから続けるのですか」
「だから捨てぬ」
玄朴の声は硬かった。
「一度見ただけの者が、ひと月の積み重ねを容易く捨てるものではない」
婉の頬が熱くなった。
反論できない。
玄朴の指が、お雪の口元へ動く。
「いや」
かすかな声だった。
指が止まった。
「何が」
「それ……いや」
「なぜじゃ」
「飲むと、気持ち悪い」
「毎回か」
お雪は苦しそうに首を振る。
「分からない。でも、いや」
玄朴は動かなかった。
赤い丸薬を指先に載せたまま、しばらく娘を見ている。
やがて、紙包みへ戻した。
「今は使わぬ」
父親が目を見開く。
「では、薬が悪かったと」
「そうは申しておらん」
玄朴の声が少し荒れた。
「薬が悪いと決まったわけでもない。止めたから悪くなったと決まったわけでもない」
赤い包みを見る。
ほんの一瞬だった。
その指が、もう一度薬へ伸びかけて止まった。
「……今戻す理由も足らん」
婉はその横顔を見た。
三十年診てきた男も、迷うのだ。
それが慰めにはならなかった。
むしろ怖かった。
◆
婉は帰ろうとした。
玄朴がいる。自分より多くを知り、多くを見てきた医者がいる。
これ以上ここにいても邪魔になるだけだ。
廊下へ出る。
「野中殿」
父親が追ってきた。
「もうよい。笹岡先生がおられる」
「はい」
返事は、考える前に出た。
婉は歩いた。
一歩。
二歩。
座敷から、お雪の咳が聞こえる。
三歩目が出なかった。
「はい」
また言った。今度は小さく、自分に聞かせるように。
いつもそうだった。
言われれば従う。
決めるのは他の者。
自分より身分のある者。
自分より知っている者。
従っていれば、間違えても自分のせいにはならない。
不自由だった。
けれど、楽だった。
婉は踵を返した。
「戻ります」
父親が眉を寄せる。
「しかし」
「今夜は、私も診ます」
「責めを負うというのなら」
「負えません」
婉は首を振った。
「お雪さんに何かあって、私が罰を受けても、この子は戻りません」
声が震えた。
怖かった。
今度こそ自分で決めなければならない。
誰の命令でもなく。
婉は座敷へ戻った。玄朴が顔を上げる。
「何をする」
婉はお雪を見た。
「見ます」
「何を」
「全てをです」
玄朴はしばらく婉を見ていた。
やがて薬箱から紙と筆を出し、畳の上を滑らせる。
「ならば書け」
◆
婉は書いた。
湯を飲んだ刻。
吐いた回数。
腹を痛がった場所。
眠った時間。
脈。
「そこ」
玄朴の指が紙へ伸びる。
「『腹痛強し』では分からん。どこが痛む」
婉は書き直した。
「脈も『速し』だけでは足らぬ」
「なら、どう書けば」
「自分で触ったろう」
婉は玄朴を睨んだ。
玄朴はもう、お雪を見ている。
腹が立った。
もう一度脈を取った。
少しして、婉の目が紙の上で止まる。
「笹岡先生」
「何じゃ」
「お雪さんが『気持ち悪い』と言ったのは、赤い薬を飲ませた日の夕刻が多いのでは」
玄朴が振り向いた。
「何を根拠に」
「お母上のお話と、先生の包み紙の日付です」
婉は薬包を示した。
玄朴が書いた服用の刻。
母親が話した嘔気のあった日。
ぴたりと同じではない。
だが重なる日がある。
玄朴は紙を取った。
しばらく黙る。
「偶然かもしれぬ」
「はい」
「薬を飲ませなかった日のことも足らん」
「はい」
「これだけでは何も決められん」
「はい」
玄朴が眉をひそめた。
「何じゃ。さっきから素直じゃな」
「三つも続けて否定されましたから」
玄朴の口元がわずかに動いた。
すぐ消えた。
「次も書け」
それから玄朴は、それまでより長くお雪の脈を取った。
婉は筆へ戻る。
三十年の医者が十を拾う。
自分が一つ拾う。
それでも、一つは一つだった。
昔。
幽閉屋敷で、一人の女が高熱を出した夜があった。
医者はすぐには来なかった。
婉にできたのは、水を替え、夜が明けるのを待つことだけだった。
その翌日から、医書を読み始めた。
何かを知れば、もう朝を待つだけではなくなると思った。
四十年。
本は読めた。いくらでも。
だが、本の中の病人は、こちらが尋ねれば必ず答えを返す。
本物は違う。
お雪の指が布団を掴んだ。
婉はそれも書いた。
◆
夜半を過ぎた頃、戸が開いた。白い髭だけが、行灯の明かりの中へ先に浮かんだ。
玄朴が初めて背筋を伸ばす。
「――康庵先生」
父親も慌てて頭を下げた。
村田康庵。
土佐で名を知られた老医だった。
玄朴が早くに使いを出していたらしい。
康庵は余計な挨拶をせず、お雪の前に座った。
長く診た。
玄朴と短く言葉を交わし、赤い丸薬とは別の薬を指示する。
それから婉の書いた紙を取った。
婉は膝を正した。
康庵はしばらく読む。
「これは?」
「私が」
「続けよ」
紙が返ってきた。
婉は思わず尋ねた。
「先生。この子は、何の病なのでしょう」
「分からぬ」
あまりに早い返事だった。
「先生でも?」
康庵は婉を見た。
「分からぬものを、一つずつ減らす。そのために診る」
それだけだった。
玄朴が湯を替えるよう命じる。
康庵もお雪へ戻る。
誰も、婉へ答えをくれなかった。
婉は筆を取った。
◆
夜明け前、お雪の熱が少し下がった。
母親が息を呑む。
婉も肩の力を抜きかけた。
直後、お雪がまた腹を押さえた。
婉は筆を取り直した。まだ終わっていない。
その後、数日は一進一退だった。
食べられた翌日に吐き、庭へ出た次の朝にはまた腹を痛めた。
赤い丸薬は使わなかった。
婉も毎日通った。
十日ほどすると、お雪は自分の足で庭へ出られるようになった。
秋の日の下で、少し痩せたまま笑っている。
「先生」
お雪が呼んだ。
玄朴が振り返る。
「何じゃ」
「もう、あの赤いのは飲まなくていい?」
「ああ」
「よかった」
玄朴は苦い顔をした。
母親が尋ねる。
「やはり、あのお薬が悪かったのでしょうか」
玄朴の返事はすぐには出なかった。
赤い包みを見る。
「薬そのものが悪いとは思わん」
以前なら、そこで終えたのかもしれない。
「だが、お雪にはもう使わぬ」
母親は完全には納得していない顔だった。
それでも頭を下げた。
お雪が婉を見る。
「野中様」
「はい」
「先生も、分からないことがあるんですね」
婉は笑った。
「たくさんあります」
「笹岡先生も?」
「余計なことを聞くな」
玄朴が即座に返した。
お雪が笑う。
婉もつられて笑った。
玄朴だけが渋い顔をしていた。
◆
翌年、村田康庵が亡くなった。
春になる頃には、婉の戸を叩く者が少しずつ増えていた。
ある朝。若い母親が、七つほどの男児を連れてきた。
「野中先生でいらっしゃいますか」
婉の目が、薬棚の端へ動いた。
赤い丸薬が、今もそこにある。
捨てなかった。
毒だった証でもない。
自分が正しかった証でもない。
あの夜、分からなかったことがある。
今も分からないことがある。
婉は薬棚から視線を戻した。
母親の袖へ隠れている男児を見る。
「はい」
返事をしてから、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。
「三日前から、この子が咳をして」
婉は薬棚へ向かわなかった。
まず男児の前に座る。
「坊や」
目の高さを合わせる。
「いつから苦しいのですか」
男児が、おずおずと口を開いた。
診察を終えると、必要な薬草が一つ足りなかった。
婉は竹籠を手に取った。
「少し待っていてください。薬種屋へ行ってきます」
戸を開ける。春の光の向こうに、婉の知らない町がある。
少女の頃にはなかった店。
知らない家。
知らない顔。
町は四十年のあいだ、婉を待ってはいなかった。
婉は門を出た。
後ろで、母親がもう一度呼んだ。
「野中先生」
婉は一度だけ振り返った。
それから竹籠を持ち直し、人の行き交う城下へ歩いていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
創作の励みになりますので、評価・感想をいただけますと嬉しい限りです。
本作の主人公・野中婉は実在の人物です。
父・野中兼山の失脚後、野中家の男子が絶えるまで約四十年幽閉され、その後は高知へ戻り、医学の知識を生かして人々を診たと伝えられています。
婉がどのように医学を修めたのかについては、土佐の学者・谷秦山とは幽閉中から交流があり、その文通を通じて医学や薬学を学んだという説もありますが、はっきりしない部分もあります。
作中に登場する村田康庵も実在した土佐の名医です。自ら「助からない」と診た患者から懇願され、やむなく薬を与えたところ全快。その際、患者が治ったことよりも、自分の診立てが誤っていたことを恥じ、土佐を去ろうとしたという逸話が残されています。
なお、婉と康庵が実際に会った記録は確認されておらず、作中の出会いや、お雪、笹岡玄朴、赤い薬をめぐる事件は創作です。
赤い薬は、当時実際に用いられていた丹砂などの鉱物薬をモチーフにしました。
お気に召しましたら、他の短編『続きそうな短編集』もぜひご一読ください。




