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続きそうな短編集【南風と潮騒の伝承】

四十年幽閉された女、医者になる

作者: 曽我部穂岐
掲載日:2026/09/13

寛文三年(一六六三)、土佐藩家老として約三十年にわたり藩政改革を主導した野中(のなか)兼山(けんざん)は失脚した。

急進的な改革は領民や家臣に大きな負担を強い、兼山への反発を招いた。その処分は一族にも及び、兼山の妻子は宿毛で長く幽閉されることとなる。

赦免されたのは元禄十六年(一七〇三)。最後の男子が亡くなり、野中家の男系が断絶した後のことだった。


幽閉から約四十年。

野中家の女性たちは、ようやく自由を取り戻した。


 戸を叩く音に、婉(えん)の手が止まった。

 竹籠へ広げていた乾燥途中の薬草が、指の間でかさりと鳴る。


 秋の日はもう軒の内まで差し込んでいた。婉は白いものの混じり始めた髪を後ろでまとめ、色の褪せた小袖の袖をたすきで括っている。


 戸が、もう一度鳴った。


 自由になって半年。

 それでも、この音だけは慣れなかった。


 婉は立ち上がり、戸を開けた。


 役人ではない。

 紺の小袖を着た女と、その袖口を握る痩せた娘が立っていた。


「野中様でございますか」

「そうですが」


「娘を、見ていただけませんでしょうか」


 娘は十二、三ほどだろう。

 母親の陰に半ば隠れ、腹を押さえている。頬は落ち、唇には血の気が薄かった。


「お医者には?」

「診ていただいております」


「ならば、そちらへ」

「ひと月になります」


 女は俯いた。


「初めは良くなったのです。でも、このところ、前より苦しそうで。もう、どこへ連れて行けばよいのか……」


 娘が小さく身を折った。婉はその姿を見て、戸口を空けた。


「中へ」

「ありがとうございます」


「まだ礼を言うところではありませんよ」

 母娘を上がらせながら、婉は先に釘を刺した。


「私は医者ではありません」


 女が意外そうに顔を上げた。


「ですが、お籠(こも)りの間にも医書を読み、薬にもお詳しかったと」


 お籠り。

 婉は一瞬だけ目を細めた。


 世間は、四十年近い幽閉をそんな穏やかな言葉で呼ぶらしい。


 父、兼山(けんざん)が失脚したのは、婉がまだ幼かった頃だ。


 父が死んでも処分は終わらなかった。

 家の女たちは外へ出ることも、嫁ぐことも許されない。


 門が開いた時には、少女だった婉も四十を越えていた。

 その話をする気はなかった。


「まず、娘御の話を聞きましょう」



◆


 娘の名は、お雪といった。


 ひと月ほど前から食が細い。

 腹を痛がる。夜もよく眠れない。


 母親が懐から紙包みを取り出した。


「笹岡(ささおか)玄朴(げんぼく)先生から、こちらを」


 その名には聞き覚えがあった。

 城下で長く患者を診ている医者だ。怪しげな薬売りではない。


 婉は包みを開く。

 三粒の丸薬が転がった。


 赤い。朱よりも濃く、秋の日を受けて妙な艶を帯びている。


 包み紙の端には、細いが乱れのない字で、飲ませる刻と数が書かれていた。

 几帳面な字だった。


「朝に一つ。具合の悪い日は夕にも、と」


 婉は一粒を摘まみ、爪で表面をわずかに削った。


 赤い粉。丹砂(たんしゃ)の類か。


 丹や石を薬に用いること自体は珍しくない。古い医書にも多く見える。だが、扱いを誤れば身体を損なうものがあることも、婉は知っていた。


「これを飲み始めた時は?」

「良くなりました」


 母親の顔が少し明るくなる。


「粥を一椀食べた日もありました。久しぶりに笑って」


「腹を痛がるようになったのは?」

「その後です。ただ、薬をいただく前から少しは」


 婉はお雪の手首を取った。

 脈が速い。


「この薬を飲むと、どうなります?」

「飲ませますと一度は」


 母親が答えかけた。

 婉は娘を見た。


「お雪さんに聞いています」


 少女が目を瞬かせた。


「……少し、楽になります」

「その後は?」


「お腹が痛いこともある」

「いつも?」


「分かりません」

「この薬は好き?」


 妙な問いだったのだろう。


 お雪は母親を見た。

 それから、ほんの少し首を振った。


「なぜ」

「飲んだあと、気持ち悪くなるから」


 母親が娘を見た。


「そんなこと、聞いてないわ」

「言ったよ」


「いつ?」

「前に」


 お雪は俯いた。


「母上が、お薬だから我慢しなさいって」


 母親の口が止まった。


 婉は赤い丸薬を紙へ戻した。


 薬だから。そう決まっているから。

 胸の奥で、古い言葉が一つだけ蘇る。


 家の者だから。

 門の外へ出てはならない。


 昨日も。

 今日も。


 そうして日を重ねれば、四十年にもなる。


「今夜は、この薬を飲ませないでください」


 母親が顔を上げた。


「毒なのでございますか」

「そこまでは申せません」


「では、どうして」

「お雪さんが、飲んだ後に具合が悪くなると言っています」


「ですが、玄朴先生は」

「ええ」


 婉は薬包を畳んだ。

 整った字がもう一度目に入る。


「だから、一晩だけです。明日の朝、また見せてください」


 母親は迷った。

 長く迷った末、薬包を懐へ戻す。


「……今夜は、飲ませません」


 その言葉だけは、娘へ向けていた。


◆


 朝まで待つことにはならなかった。


「お雪様が倒れました」


 夜半前、森田家の使いが飛び込んできた。


 婉の手から薬草が落ちた。

 拾わなかった。


 草履をつかみ、そのまま外へ出る。


 夜の城下は薄暗い。


 行灯の漏れる町家。閉じられた店。

 昔は空地だった場所に並ぶ家々。


 婉の知っている町は、四十年の間にほとんど消えていた。


 それでも走った。


 森田家の玄関には、お雪の父親がいた。

 男は婉を見るなり何か言いかけたが、座敷の方へ目をやった。


 戸を閉める。


「娘の前では言わん」


 低い声だった。


「薬を止めたそうですな」

「はい」


「なぜです」

「薬が身体を害している疑いがありました」


「疑いだけで?」


 婉は答えられなかった。


 男の拳が震えていた。


「朝には話しておった。それが今は、何度も吐いておる」


 一度、唇を噛む。


「もし、あの薬を止めなければ」


 最後まで言わなかった。


 婉にも聞こえた。


 腹の底が冷える。

 座敷へ入る。


 行灯一つの薄暗い部屋で、お雪の額だけが汗に濡れて光っていた。


 布団の上で身体を丸めている。


 婉は膝をついた。


 脈を取る。朝より速い。


「今日は便は?」


 母親が戸惑った。


「まだ……」


「昨日は」

「一度」


「小便は?」

「え?」


 婉の指が止まった。


 朝、自分は聞いていない。


 便も。

 尿も。

 どれほど汗をかいたかも。


 目の前の娘より、赤い薬ばかりを見ていた。


 婉は視線を落とした。

 膝の上で指が白くなるほど握り込まれる。


 その時、戸が開いた。


「そこを空けてくれ」


 小柄な男が入ってきた。


 使い込まれた薬箱を片手にしている。


 笹岡玄朴だった。


 裾を払うでもない。薬箱を置く場所にも迷わない。


 すぐお雪の横へ座った。


「いつ吐いた」

「夕方から二度」


「最後に食べたのは」

「朝の粥を少し」


「腹はどこが痛む」


 短い問いが続く。


 玄朴の手は迷わない。


 婉は横で聞くしかなかった。

 自分が聞き落としたものばかりだった。


 やがて玄朴が手を引いた。


「薬を戻す」


 父親がすぐ赤い包みを差し出した。

 行灯の下で、その赤が妙に生々しく見えた。


「待ってください」


 玄朴が初めて婉を見る。


「何を待つ」

「その薬を飲んだ後、気分が悪くなると」


「聞いた」

「ならば」


「わしは、これを飲んで一度持ち直したのも見ておる」


 玄朴は赤い丸薬を一粒摘まんだ。


「同じ薬で良くなった者もおる」


 婉は言葉に詰まる。


「だから続けるのですか」

「だから捨てぬ」


 玄朴の声は硬かった。


「一度見ただけの者が、ひと月の積み重ねを容易く捨てるものではない」


 婉の頬が熱くなった。

 反論できない。


 玄朴の指が、お雪の口元へ動く。


「いや」


 かすかな声だった。

 指が止まった。


「何が」

「それ……いや」


「なぜじゃ」

「飲むと、気持ち悪い」


「毎回か」


 お雪は苦しそうに首を振る。


「分からない。でも、いや」


 玄朴は動かなかった。


 赤い丸薬を指先に載せたまま、しばらく娘を見ている。


 やがて、紙包みへ戻した。


「今は使わぬ」


 父親が目を見開く。


「では、薬が悪かったと」

「そうは申しておらん」


 玄朴の声が少し荒れた。


「薬が悪いと決まったわけでもない。止めたから悪くなったと決まったわけでもない」


 赤い包みを見る。

 ほんの一瞬だった。


 その指が、もう一度薬へ伸びかけて止まった。


「……今戻す理由も足らん」


 婉はその横顔を見た。


 三十年診てきた男も、迷うのだ。


 それが慰めにはならなかった。

 むしろ怖かった。



◆


 婉は帰ろうとした。


 玄朴がいる。自分より多くを知り、多くを見てきた医者がいる。


 これ以上ここにいても邪魔になるだけだ。


 廊下へ出る。


「野中殿」


 父親が追ってきた。


「もうよい。笹岡先生がおられる」

「はい」


 返事は、考える前に出た。


 婉は歩いた。


 一歩。

 二歩。


 座敷から、お雪の咳が聞こえる。


 三歩目が出なかった。


「はい」


 また言った。今度は小さく、自分に聞かせるように。


 いつもそうだった。

 言われれば従う。


 決めるのは他の者。

 自分より身分のある者。

 自分より知っている者。


 従っていれば、間違えても自分のせいにはならない。


 不自由だった。

 けれど、楽だった。


 婉は踵を返した。


「戻ります」


 父親が眉を寄せる。


「しかし」

「今夜は、私も診ます」


「責めを負うというのなら」

「負えません」


 婉は首を振った。


「お雪さんに何かあって、私が罰を受けても、この子は戻りません」


 声が震えた。

 怖かった。

 今度こそ自分で決めなければならない。


 誰の命令でもなく。


 婉は座敷へ戻った。玄朴が顔を上げる。


「何をする」


 婉はお雪を見た。


「見ます」

「何を」

「全てをです」


 玄朴はしばらく婉を見ていた。

 やがて薬箱から紙と筆を出し、畳の上を滑らせる。


「ならば書け」



◆


 婉は書いた。


 湯を飲んだ刻。

 吐いた回数。

 腹を痛がった場所。

 眠った時間。

 脈。


「そこ」


 玄朴の指が紙へ伸びる。


「『腹痛強し』では分からん。どこが痛む」


 婉は書き直した。


「脈も『速し』だけでは足らぬ」


「なら、どう書けば」

「自分で触ったろう」


 婉は玄朴を睨んだ。


 玄朴はもう、お雪を見ている。

 腹が立った。


 もう一度脈を取った。

 少しして、婉の目が紙の上で止まる。


「笹岡先生」

「何じゃ」


「お雪さんが『気持ち悪い』と言ったのは、赤い薬を飲ませた日の夕刻が多いのでは」


 玄朴が振り向いた。


「何を根拠に」

「お母上のお話と、先生の包み紙の日付です」


 婉は薬包を示した。


 玄朴が書いた服用の刻。

 母親が話した嘔気のあった日。


 ぴたりと同じではない。


 だが重なる日がある。


 玄朴は紙を取った。

 しばらく黙る。


「偶然かもしれぬ」

「はい」


「薬を飲ませなかった日のことも足らん」

「はい」


「これだけでは何も決められん」

「はい」


 玄朴が眉をひそめた。


「何じゃ。さっきから素直じゃな」

「三つも続けて否定されましたから」


 玄朴の口元がわずかに動いた。


 すぐ消えた。


「次も書け」


 それから玄朴は、それまでより長くお雪の脈を取った。


 婉は筆へ戻る。


 三十年の医者が十を拾う。

 自分が一つ拾う。

 それでも、一つは一つだった。


 昔。


 幽閉屋敷で、一人の女が高熱を出した夜があった。


 医者はすぐには来なかった。

 婉にできたのは、水を替え、夜が明けるのを待つことだけだった。


 その翌日から、医書を読み始めた。

 何かを知れば、もう朝を待つだけではなくなると思った。


 四十年。


 本は読めた。いくらでも。


 だが、本の中の病人は、こちらが尋ねれば必ず答えを返す。


 本物は違う。


 お雪の指が布団を掴んだ。

 婉はそれも書いた。



◆


 夜半を過ぎた頃、戸が開いた。白い髭だけが、行灯の明かりの中へ先に浮かんだ。


 玄朴が初めて背筋を伸ばす。


「――康庵(こうあん)先生」


 父親も慌てて頭を下げた。


 村田(むらた)康庵(こうあん)。


 土佐で名を知られた老医だった。


 玄朴が早くに使いを出していたらしい。


 康庵は余計な挨拶をせず、お雪の前に座った。


 長く診た。

 玄朴と短く言葉を交わし、赤い丸薬とは別の薬を指示する。


 それから婉の書いた紙を取った。


 婉は膝を正した。

 康庵はしばらく読む。


「これは?」

「私が」


「続けよ」


 紙が返ってきた。

 婉は思わず尋ねた。


「先生。この子は、何の病なのでしょう」

「分からぬ」


 あまりに早い返事だった。


「先生でも?」


 康庵は婉を見た。


「分からぬものを、一つずつ減らす。そのために診る」


 それだけだった。


 玄朴が湯を替えるよう命じる。

 康庵もお雪へ戻る。

 誰も、婉へ答えをくれなかった。


 婉は筆を取った。



◆


 夜明け前、お雪の熱が少し下がった。


 母親が息を呑む。

 婉も肩の力を抜きかけた。


 直後、お雪がまた腹を押さえた。


 婉は筆を取り直した。まだ終わっていない。


 その後、数日は一進一退だった。


 食べられた翌日に吐き、庭へ出た次の朝にはまた腹を痛めた。

 赤い丸薬は使わなかった。


 婉も毎日通った。

 十日ほどすると、お雪は自分の足で庭へ出られるようになった。


 秋の日の下で、少し痩せたまま笑っている。


「先生」


 お雪が呼んだ。

 玄朴が振り返る。


「何じゃ」

「もう、あの赤いのは飲まなくていい?」


「ああ」

「よかった」


 玄朴は苦い顔をした。


 母親が尋ねる。


「やはり、あのお薬が悪かったのでしょうか」


 玄朴の返事はすぐには出なかった。


 赤い包みを見る。


「薬そのものが悪いとは思わん」


 以前なら、そこで終えたのかもしれない。


「だが、お雪にはもう使わぬ」


 母親は完全には納得していない顔だった。

 それでも頭を下げた。


 お雪が婉を見る。


「野中様」

「はい」


「先生も、分からないことがあるんですね」


 婉は笑った。


「たくさんあります」

「笹岡先生も?」


「余計なことを聞くな」


 玄朴が即座に返した。


 お雪が笑う。


 婉もつられて笑った。


 玄朴だけが渋い顔をしていた。



◆


 翌年、村田康庵が亡くなった。


 春になる頃には、婉の戸を叩く者が少しずつ増えていた。


 ある朝。若い母親が、七つほどの男児を連れてきた。


「野中先生でいらっしゃいますか」


 婉の目が、薬棚の端へ動いた。


 赤い丸薬が、今もそこにある。


 捨てなかった。

 毒だった証でもない。

 自分が正しかった証でもない。


 あの夜、分からなかったことがある。

 今も分からないことがある。


 婉は薬棚から視線を戻した。


 母親の袖へ隠れている男児を見る。


「はい」


 返事をしてから、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。


「三日前から、この子が咳をして」


 婉は薬棚へ向かわなかった。

 まず男児の前に座る。


「坊や」


 目の高さを合わせる。


「いつから苦しいのですか」


 男児が、おずおずと口を開いた。

 診察を終えると、必要な薬草が一つ足りなかった。


 婉は竹籠を手に取った。


「少し待っていてください。薬種屋へ行ってきます」


 戸を開ける。春の光の向こうに、婉の知らない町がある。


 少女の頃にはなかった店。

 知らない家。

 知らない顔。


 町は四十年のあいだ、婉を待ってはいなかった。


 婉は門を出た。

 後ろで、母親がもう一度呼んだ。


「野中先生」


 婉は一度だけ振り返った。


 それから竹籠を持ち直し、人の行き交う城下へ歩いていった。



ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

創作の励みになりますので、評価・感想をいただけますと嬉しい限りです。


本作の主人公・野中婉は実在の人物です。

父・野中兼山の失脚後、野中家の男子が絶えるまで約四十年幽閉され、その後は高知へ戻り、医学の知識を生かして人々を診たと伝えられています。

婉がどのように医学を修めたのかについては、土佐の学者・谷(たに)秦山(じんざん)とは幽閉中から交流があり、その文通を通じて医学や薬学を学んだという説もありますが、はっきりしない部分もあります。


作中に登場する村田康庵も実在した土佐の名医です。自ら「助からない」と診た患者から懇願され、やむなく薬を与えたところ全快。その際、患者が治ったことよりも、自分の診立てが誤っていたことを恥じ、土佐を去ろうとしたという逸話が残されています。


なお、婉と康庵が実際に会った記録は確認されておらず、作中の出会いや、お雪、笹岡玄朴、赤い薬をめぐる事件は創作です。


赤い薬は、当時実際に用いられていた丹砂などの鉱物薬をモチーフにしました。


お気に召しましたら、他の短編『続きそうな短編集』もぜひご一読ください。

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