ふたりの佐竹右京太夫の無念
山本常朝著の「葉隠」に収められたお話「佐野右京殿、大力のこと」を参考にしています。
この話は、侍の武勇と奉公ぶりについて西国のある藩に伝わる話のひとつである。
ある頃、佐竹右京太夫という怪力の武士がいた。
その右京太夫は父親の吉左エ門の指図で五歳のとき、犬を切らされ、十五で、罪人を斬らせられた。戦国の世を生きた父親や兄に教導を受けた昔の衆は、十四、五歳よりまえに、有無を言わさず首切りをさせられたものだという。
その西国の藩主の世子もお若い時分から、藩主公のお言いつけで「斬る」ということを習われ、十人もお切り為されたという事だ。ましてや佐竹家は武門の家、その嫡男たる右京太夫が親に逆らうのは難しい。
幼き時より体大きく、力も強く、弓馬の道に勤しみ、刀をとっても丸目蔵人佐長恵の流れを組む師匠について目録を得、藩主の覚えも愛でたく、はや十五の元服のときに祖父が藩祖に頂戴した名を襲い、麒麟児、神童と謳われていた右京太夫は、罪人を斬ってみよと言われて不満であった。
父の吉左エ門に十五の右京太夫が不満をぶつける
「手を縛って動けない罪人を斬ったとて手柄にもなりません。仏性の障りになるのではありませんか、立派な武士として名折れになりませぬか、わたくしには不要としか思えぬのですが」
すると吉左エ門
「おのれは、臆病心が兆したのか、戦に出ればきれいごとでは済まされぬぞ、やれ、仏性の障りだ、手が汚れるなどとは、臆病心を誤魔化しておるのじゃ。武勇が疎ましくて手先を汚しとうないと心に言い聞かせとるにすぎん。武士なら、しないでは済まされぬことよ。それを、口先上手く斬らずに済ませようとは武士の未練と申すもの、疾く疾く斬り捨てい!」
臆病と言われて、道場でも学堂でもひとかどの男と認められている右京太夫、さっそく首を斬ったとの事。
その西国の藩が濃尾平野の川で橋の架け替えを幕府に仰せつかった。昔の暴れ川は諸藩の築堤工事の甲斐あってか、昔の人柱の験があってか、穏やかに流れ人々は平和の世を謳歌して橋を行き来していたのだが、やはり古くなっては掛け替えが必要だ。
その工事中に偶々通りがかった佐竹右京太夫。人足たちが七、八人がかりで古い橋杭を抜こうとやっきになっているのを見た。
自藩の工事でもあり、日ごろ力自慢の右京太夫であったから、
「指図役殿、その杭、わたくしが抜いてみよう」
と言って降りて行った。
人足たちが場所を空けると、右京太夫、しっかり杭に抱き付いて、呼吸を整えたうえで
「えいやーっ」
掛け声凄まじく抜き上げた。
するとその掛け声をかき消す、雷が落ちたように
「バリバリバリーツ」
と大音響がして、七尺ほども橋杭が上がったが、それ以上は、いくら力を入れても抜けなかった。
右京太夫殿は、宿に戻ってのち、高熱を出し、たちまちのうちに亡くなられてしまったそうな。
近くの寺に葬ろうと、右京太夫の葬送の行列がその橋を越えて渡っていると、未練が残っていたのであろう、棺から右京太夫の亡骸が飛び出し、件の橋杭目掛けるように川へ落ちてしまった。
すると葬送に付き添っていた寺の十六になる小僧が川にすぐに飛び込んで、亡骸に取りついて、続いて川岸に居りてきた人々と一緒に右京太夫の亡骸を回収したという。
師の僧は、たいへん感心して、その小僧に右京太夫の引導を任せたという。その小僧、後には名高い高僧となったということである。
橋杭は、右京太夫の葬儀が終わると何事もなかったかのように根元から川に浮かび、横倒しになった。その根元には白骨がしがみ付いていたという。
昔、川が何度も暴れて橋を架けられぬ難工事の末に、人足たちが人柱が無いと工事は進まないと何度も騒動を起こしたとき、西国の藩の工事奉行が、一人旅の女などめったにないので
「次の日に一人旅で通る女を人柱にする」
と約束した。
そうしたところ、国で祝言を上げたばかりの自分の妻が、一目会いたいと自分を訪ねて来たため、妻を人柱として差し出さざるを得なかったという記録があるそうな。
その奉行の名を佐竹右京太夫という。




