ナレンと二人の天使
白い空間。そこに二人の天使がいた。天使は面接官のように椅子に並んで座り、その前には机があった。机と椅子は茶色で、白い空間の中ではどこか違和感があった。
天使の一人は背が高く、ニヒルな性格を感じさせる顔つきだった。もう一人は弛緩した口元が特徴だった。二人の翼は大きく、椅子からはみ出て、翼同士が接触していたが二人は気にしていないようだった。
「兄貴、また呼んでくださいよ」
弛緩した口元の天使が言った。「兄貴」と呼ばれた天使は、隣を見た。
「今日はお前が呼んでみろよ。もうできるんだろ」
「いや、兄貴が呼ばないとやる気が出ないっていうか」
「フン、いいよ、そんな世辞は。それより、早くしろ」
「…わかりやした」
ヤクザの弟分のような口調の天使は、渋々といった感じで、呪文を唱え始めた。呪文を唱えると、二人の前に、まだあどけない少女が急に現れた。少女は目を瞑っていた。少女は白い装束に身を包んでいた。装束は汚れ一つなく、それはこの世のものとは思えなかった。少女はそのまま倒れそうになったが、重心がぐらついた瞬間にハッと目を覚ました。
「え、え」
少女は何とかそこに立った。彼女は目の前を見た。そこには面接官のような天使が二人、こちらを向いて座っていた。まわりの空間は全て白かった。
「え、ここは…」
少女は天使から目を離してまわりを見た。そこは「今までいた場所」ではなかった。それは確かだった。しかし、今までどこにいたのか少女は思い出せなかった。
「ここはどこ? あなた達は…誰?」
少女は天使を見て言った。彼女は、目の前にいるのが天使らしいと二人の背後の大きな翼を見て思ったものの、天使が実在するという事実が飲み込めなかった。
「やあ、よくきたね」
兄貴分が微笑して口を開いた。さっきまでと表情が変わっていた。
「君は、ナレンちゃんだね。年は10歳。合っているかな?」
「あ…はい」
ナレンと呼ばれた少女は話しかける天使を見ていた。天使の羽根はかすかに動いていて、作り物ではなさそうだった。
「ナレンちゃん。今、君はここにいる事に戸惑っているだろうけど、君は選ばれたんだよ。それも、神様に選ばれたんだ。まあ…正確には神様ではないけどね。うちのゴッドは忙しいのさ。それで…あ、そこにずっと立っているのも辛いだろうから、座っていいよ」
ナレンが指差された足元を見るといつの間にか椅子がそこにあった。ナレンは椅子に座った。
「それでね、ナレンちゃん。君は選ばれたんだ。ここは天界。そして私達は天使だ。こいつは私のサポート役。それで、ナレンちゃん、君がここに選ばれた理由、何か思い当たる事はある?」
「思い…当たる?」
ナレンは思い出そうとしたが、何も思い浮かばなかった。
「何も…わかりません」
「うん、まあ、最初はそんなものさ。別に怖がる必要はないよ。大丈夫さ。あのね、ナレンちゃんがどうして選ばれたかって言うとね、それは君が一人ぼっちで、痛みと苦しみの中で亡くなってしまったからさ。…心当たりはあるかい?」
ナレンはそう言われた瞬間、自分が死に至った過程をまざまざと思い出した。
彼女は学校からの帰り道にあった。彼女のいた国はある国と戦争状態に突入していて、いつミサイルが飛んでくるかわからなかった。それでも大人たちはみな楽観的だった。彼らは「狙われるのは軍事施設だけだから大丈夫だ」と口々に言っていた。
ミサイルは突然飛んできた。運が悪いとしか言えなかった。ナレンは一人で学校から帰っていたのだが、彼女が歩いていた隣のビルにミサイルが直撃した。大きな振動、音、粉塵、巨大な物が落ちる衝撃。気がつくと、ナレンは暗闇の中にいた。彼女は倒壊したビルの隙間に埋もれていた。
ナレンには何が起こったのか理解できなかったが、すぐに体の異変を感じた。一つには右の足の感覚がなかった。見ると彼女の右足は瓦礫で潰されていた。膝から下がぺちゃんこになっていた。上には瓦礫が積み重なっており、右足は到底動かせそうになかった。
それだけではなかった。彼女は腹のあたりにも異変を感じた。彼女はお腹のあたりを見て、驚き、失神しそうになった。そこには金属の棒が貫通して刺さっていた。まわりから血も出ていた。
彼女はその瞬間、小さく叫んだ。しかし叫びは誰にも届かなかった。
ナレンはその状態のまま、ほとんど動く事ができなかった。助けを呼ぶ事も不可能に近かった。声を出すのは何度かやってみたが、すぐに体の力が抜けてきて、声すら出なくなった。
もっとも、この状態でナレンがすぐに死んでしまえば彼女も楽だったかもしれない。しかし神か悪魔は彼女に拷問を加えるかのように、彼女に生き地獄を与えた。彼女が亡くなったのは七時間後だった。彼女はとてつもない苦痛と無力感と、ぼんやりした意識の中で、泣き叫ぶ事もできずに静かにその生命を失っていったのだった。
ナレンはそういう死に方をしたのだったが、ここで一つ付け加えておかなければならない事がある。彼女は衰弱していく生命の中で、二回ほど神に呼びかけたのだった。
(神様、神様、私が一体何をしたのですか? どうして私がこんなに辛い目に会わなくてはならないのでしょうか?)
その呼びかけはヨブの叫びにも通じるものだったが、彼女はヨブを知らなかった。彼女はただ、その地域のその家庭にあるような一般的な宗教に属していたに過ぎなかった。
ナレンは思い出した。彼女が思い出したのはただ死の間際の苦しみだけではなく、彼女がどんな名前で何者だったかという事も一斉に思い出した。
「私…私…」
ナレンは言葉が詰まった。彼女は苦しみが戻ってきたかのようだった。
彼女が錯乱しながら腹のあたりを抑えた時、不思議にそこには何の傷もなかった。右足も見てみたが、ぺちゃんこになっていたはずの足は今は元通りだった。もっとも彼女が着ていた白い服は見覚えのないものだったが。
「私…あの時…痛くて…それで…」
「ああ、大丈夫だよ。辛い事を思い出さなくて。ただ、あの時、君は神様に呼びかけたんだ。君は人間に対してもう呼びかける力がなくて、声も出なくて、神様に呼びかけた。その声は神様に届いた。だからこうして私達が君の前に立っているというわけさ。心配しなくて良い。私達は悪者ではないんだからね」
「そうさ、ナレンさん」
弟分が声を出した。
「…何も心配する事はない。あなたは選ばれたんですからね。ほらあなたは…今すぐに、何というか、もっと良くなるからね」
兄貴分は隣の天使をちらりと見た。弟分は視線には気づかず、言葉を続けた。
「大丈夫さ。僕らは君の味方だから。もう怖い事はないんだよ」
「…それでね、ナレンちゃん、君は苦しみの中で孤独に死んでいった為に、その願いは神様に届けられた。それで私達がここにいる。そこまでは大丈夫かな?」
「あの…よくわかりませんが。私は…死んだんですか? それとも生きているんですか?」
「もし君が死んでいたら、君はそんな風に話す事もできないだろうね。それはともかく、用件だけは済ませておこう。私達はね、君の為にご褒美を用意したんだ。それがあそこの扉だ」
兄貴分が指を差すと、そこにはいつの間にか扉があった。真っ白な空間に扉だけが浮かんでいた。
「君がね、あそこに入ると、神様からのプレゼントが置いてある。…あのね、君にこういうプレゼントが用意されるというのはある昔からの難しい問題があって、人間というのは昔からこの事をずっと議論していたんだよ」
「はあ…」
「君のように無垢で、純粋な魂が苦しんで孤独に死ななければならないとすると、その意味は何か。これは神様がいるのに何故世界に悪があるのか? という問いに似たようなものだよ。それでね、私達、神のしもべは、神様と相談して、君のようなかわいそうな人達にはそれ相応の報償を与える事にしたんだよ。それぞれの人間の苦しみや痛みを考慮して。そういう事で天界は地上界とバランスを取ろうとしているのさ」
「よくわかりませんが…私は…助かるんですか?」
「助かるどころじゃないよ。君はあれだけ苦しみ、痛みの中で死んでしまっから、その代償としての大きな喜びを得る事ができるんだ。これはね、地上のどんな人間も魂の底から欲して得られないものなのさ。どんな大金持ちだろうが権力者だろうが天才だろうが決して得られない巨大な報酬さ。それがあの扉の向こうにあるからね。君は…そこに行きたいかい?」
「よくわかりませんが…行きます」
「君は、どうして、行きたいのかな?」
「だって…そこしか行くところがないじゃないですか?」
ナレンは周囲を見渡した。確かに真っ白な空間には、扉の他にどこにも行けそうなところがなかった。
「ははは、これは一本取られたね」
兄貴分は愉快そうに笑った。弟分も愛想笑いをした。
「まあ、それじゃあ、理由はともかく、君にはあそこに行ってもらおうかな? いいかい、君はあそこに行くと全てを手に入れられるんだよ? これはね人類史上の誰も欲して得られなかったものなんだ」
「…そんなの、いいです。ただ私は…家族の元に帰ればそれでいいです」
「そうか、またおじさんは一本取られたな」
兄貴分が愉快そうに羽をバサバサと振った。羽が弟分の顎に当たり、弟分は顔をしかめた。
ナレンは立ち上がった。ナレンは二人の天使に軽く会釈すると、とことこと扉に向かって歩き出した。二人の天使はその後姿を見ていた。
ナレンは扉を開けた。扉を開けると、中は外とは違って真っ黒な空間だった。真っ黒な空間は奇妙に揺らめいており、普通の場所ではないのは一目瞭然だった。
ナレンは怖がる様子もなくその中に入った。彼女の姿は天使二人からは見えなくなった。ナレンが中に入ると勝手に扉が閉まった。扉が閉まって少しすると、扉自体もいつの間にか消えてしまった。空間は元に戻った。
ナレンが去ると、二人の天使はぶるぶると体を震わせ始めた。羽から白い羽毛が周囲に大量に拡散されたが、どういうわけか羽毛は地面に落ちず、空中で消えた。二人の振動が強くなっていき、それが最高潮に達した時、ふいに兄貴分の方がぴたりと静止した。遅れて弟分も静止した。すると二人共、色が変わっていた。彼らの姿形は昔から人間が「悪魔」と呼ぶものになっていた。色が真っ黒になり、顔も形も全て変わっていた。
「いや、しかし兄貴、なかなかいい子でしたね」
「いい子? お前に何がわかるんだ?」
兄貴分は机の上にノートを置いて、ペンで何かを書き込んでいた。
「いや、ただ性格の強いいい子だったなって」
「そうかもしれんな」
兄貴分は何かを書き終えるとノートを畳んだ。ノートを宙に投げるとそれは消えた。
「…にしても兄貴、どうして俺達こんな芝居をしないといけないんですかね? 不思議ですね? これじゃあ、まるで俺達が本当に天使みたいじゃないですか? あの子を救う天使そのものと言ってもいいかもしれない」
「…まあな。振りだけなら、俺達は天使で間違いないさ」
兄貴分は静かに笑った。
「…でも俺にわからないのは、俺達がこんな小芝居を打たなくてはならないって事です。未だに納得できないんですよ…」
「おい、あの時の話聞いてなかったのか? 天使との契約だと言っただろうが」
「それはわかっていますがね。しかしどうしてこんな面倒な真似を? あの子の魂を喰らうのなら、とっ捕まえてやればいいだけじゃないですか?」
「…だから、これは天使との協定だと言っているじゃないか? 我々がそうしたら、天使との全面戦争になっていた。これは協定であり、契約なんだよ。仕方ないのさ」
「でも…どうしてこんな面倒な事を? だって、あの子の魂は結局俺達が食べるんでしょう?」
「もちろん、俺達のものさ。そういう事になっているからな。だけど、まあお前の言う事もわからんではない」
「不思議ですねえ」
弟分は首を捻った。考える「人」のポーズを取った。
「天使との契約っていうのは、こうでしょう? 俺達が最終的には、あの子の魂を食っていい。ただしそれにはあの子を傷つけない事が条件になっている。その為に悪魔は天使に仮装して、あの子に天界からの報酬があると偽る。あの子をいつものように地獄穴に落として、魂のまわりの汚れを取り除いてから食べていいが、その際にもあの子の心を決して傷つけてはならない。その為にはお前達は、扉が閉まってあの子が穴に落ちる瞬間に、あの子の意識を奪わなければならない。あの子の魂はお前達にくれてやるが、あの子に真実を教えず、あの子の意識をすぐに奪う事によって、あの子を最後まで純潔のままにしておく。…そんな事を言っていたんでしょう?」
「お前にしてはよく覚えているじゃないか」
「いやですね、兄貴。さすがにこんなへんてこな事は頭に入ってしまいますよ。だけど俺がそれ以上に不思議なのは、魂を食らった後でもあの子には「存在」が残されているという事ですよ。…そもそも、天使からすれば、あの子の魂を我々に食わせて、地上の世界で辛い目にあった人間を天界でも酷い目にあわせるというのはルール違反です。それをすると神にどやされるらしい。…いや、どやされるだけでは済まないらしい。だけどあいつらはそれでいいって言う…というのは、お前達のような浅はかな奴らは知らないだろうが、人は魂を取られただけでは終わらない。その後にまだ「存在」としか呼べないものが残っていて、それを「祝聖」してやれば、あの子達は救われるのだ、って。…そんな屁理屈がありますかね? そもそも魂を取り除いた後にも残る「存在」ってなんですか?」
「ほう、珍しく形而上学的な話題に突っ込むな。…しかしそんな事は考えても身のためにならんぞ」
兄貴分は長い耳の後ろを、長い爪でカリカリと掻いた。
「魂の後に残る存在が何かなんて考えても仕方ないさ。俺達に認識できるのは魂だけなんだからな。それに上級天使なんていうのは何を考えているかわからん。想像するだけ無駄さ。ただ大切なのは、これで俺達が食いっぱぐれないという事にある。俺達は何を食っても生きられるが、しかしあの子のように邪なもののない人間が苦しんで死んでいった、そういう魂が一番の好物だからな。体にもいいさ」
「しかし兄貴。そうは言いますが…」
「おい、二度言わせるなよ。考えても仕方ないと言っただろう。あんまり詮索してもいい事はないぞ。我々の上の悪魔種族や上級天使なんかは、俺達の預かり知らない存在だ。考えたり分析したりするとろくな目にあわないぞ」
「…そうでしたね」
弟分は何かを思い出したのか、黒い羽を震わせた。
「…しかし、確かにお前の言う通りだな」
兄貴分は自分の手を見つめていた。真っ黒で大きく、毛むくじゃらの手だ。
「そう考えると…もしかしすると、俺達と契約したあいつらも、天使じゃなくて悪魔だったのかもしれんな。そうしてあいつらは………あいつらの好物は「苦しんで死んでいった幼子の魂を食らった悪魔」だったりするのかもな…」
「兄貴…そうしたら…」
「いやいい。ただの冗談だ」
兄貴分は立ち上がった。弟分は兄貴分を見上げた。
「もうよそう。こんな考えは何も生まない。ろくな事にならないさ。あの苦痛を食らったパルグのようにはなりたくない。それより早く行こう。食べ頃を逃しちゃ、何のためにこんな馬鹿げた事をしたかわからないからな」
「そうですね兄貴。行きましょうか」
二人は立ち上がった。兄貴分が呪文を唱えると、二人は大きな光に包まれた。光は次第に強くなっていった。光はやがて爆発するような強烈さで、周囲に閃光を放った。光の爆発が終わると、光は消えていた。同時に、二人の悪魔も消えていた。残されたのは白い空間。それと、人間界でよく見るような机と椅子だけだった。
…残されたのは白い空間だけだった。白い空間、それから机と椅子だけは物も言わずにそこに存在していた。その空間は永遠にあらゆる生物に見捨てられたままかと思われたが、悪魔が去ってから一時間ほど後、空間の至る所からブクブクとピンク色の泡が吹き出てきた。
泡は四方八方から吹き出してきた。泡はすぐに無限とも思われる空間を埋め尽くした。小さな泡が空間を埋め尽くすと、今度は泡がそれぞれに融合し始めた。小さな泡が一つに集まり大きな泡となる。その運動が各所で起こった。
そうして一時間の後にはたった一つの巨大な泡となっていた。それはどのくらいの大きさかわからなかった。泡に吸収されたかのように、気づけば白い空間は消えていた。机と椅子も消えていた。残るのは巨大な泡だけだった。
泡は自分一人になってしまうと、バチンッという巨大な音を鳴らして、宙で消えた。そうして虚空の世界だけが残された。
そこには何もなかった。…いや、何もないという事すらなかった。よって、それはどのようにも表現できない事になる。何もなかったーーいや、ないという事もなかった。そこは何でもなかった。
その空間はもはやいかなる記憶も有していないように見えた。いかなる過去も未来も存在していないように見えた。ほんの少し前にそこに存在したナレンや悪魔といった存在も記憶していないかのようだった。
そうして全ては消えた。…その後、全てがどうなったかはわからない。ナレンが救われたかどうかもわからないし、悪魔が本当にナレンの魂を食ったかどうかもわからない。
ただ一つ言える事は、仮にナレンという悲劇の少女が地上とは違う世界で救われた(救われなかった)としても、それは地上の世界の論理では測れない事柄だという事だ。そして今こうして記述している文章、この記述方法はあくまでも地上的な水準でしかないので、私としてもこの文章はこれ以上書く事はできない。だから、ここで私は筆を置く事にしよう。
もう、書く事はない。…おそらくは。




