『婚約破棄されたので田舎で薬屋を開いたら、半年後に王都が私を返品しに来ました』
私が婚約破棄されたのは、春の夜会だった。
よりにもよって、王太子殿下の生誕祝賀会のど真ん中。貴族というものは、どうして人を捨てるときだけ妙に観客を増やしたがるのだろう。
「リリアーナ・エヴァレット侯爵令嬢。君との婚約を破棄する」
王太子アルフレッド殿下は、高らかにそう宣言した。
隣には、ふわふわした金髪と大きな瞳が愛らしい、下級貴族の令嬢が寄り添っている。名はミレイユ。最近、殿下がずいぶん熱を上げていると噂の方だ。
夜会場がしん、と静まった。
みんな大好きなのだ。身分の高い者が転ぶ瞬間が。
「理由を伺っても?」
私は笑顔で尋ねた。
「君は冷酷だ。打算的で、思いやりがない。ミレイユに嫌がらせをした」
「嫌がらせ、ですか」
「彼女の茶会の招待客を奪い、侍女に圧力をかけ、さらには彼女のドレスの発注まで妨害したそうじゃないか!」
まあ。
随分と盛られたものだ。
私はこの半年、王太子妃教育と公務準備と、浪費続きの王家の会計の穴埋めに追われていただけで、下級令嬢の茶会ごっこに構っている暇などなかった。
そもそも私は、彼女のドレス店の未払いを代わりに清算して潰れるのを防いだ側である。
だが、言っても無駄だろう。
アルフレッド殿下の目は、恋に酔っている人のそれだった。事実よりも、都合のいい物語しか見えない目。
「お言葉ですが殿下」
私はゆっくり扇を閉じた。
「王家との婚約は契約です。破棄には、両家当主および王の承認が必要です」
会場の空気が少しだけ変わる。
そう。恋に浮かれた殿下は、たぶん知らないのだ。婚約は愛の約束ではなく、政治の約束でもあることを。
だが殿下は鼻で笑った。
「父上にはもう話してある!」
「書面での承認は?」
「……まだだが、問題ない!」
「問題しかありませんわね」
くすり、と誰かが笑った。
殿下の頬が赤くなる。
「とにかく! 君は今日限りで婚約者ではない! 私はミレイユを真に愛している!」
「そうですか」
「何だ、その態度は! 少しも悲しくないのか!?」
「悲しいは悲しいですが」
私は淡々と答えた。
「どちらかというと、これから王家の会計と薬品倉庫の在庫確認と北方疫病対策の引き継ぎを誰がするのか、そちらのほうが心配です」
今度は、はっきりと笑いが広がった。
殿下はたぶん、私が何を言っているのか半分も分かっていない。
分かっていないから、今日この場で婚約破棄などできるのだ。
「もういい! 出ていけ!」
「かしこまりました」
私は一礼した。
侯爵家の令嬢として、最後まで姿勢は美しく。背筋を伸ばし、足音ひとつ乱さずに夜会場を去る。
その途中、国王陛下と目が合った。
陛下は遠くから額を押さえ、なんとも言えない顔で私を見ていた。
ああ、あれは。
たぶん。
事情を知らなかった顔だ。
お気の毒に。
でも、もう知りません。
私は疲れました。
心の底から、うんざりしていたのだ。
王都のきらびやかさにも、殿下の見栄にも、役に立たないくせに偉そうな貴族たちにも。
だから翌月、私は侯爵家を通して正式に王家との婚約解消を成立させ、そのまま領地の外れにある小さな町、ベルノへ向かった。
王都から馬車で三日。
山と川に囲まれた、薬草だけはやたらと元気に育つ田舎町。
私はそこで薬屋を開いた。
店の名は『銀のしずく』。
置くのは、風邪薬、胃薬、虫よけ、湿布、解熱剤、傷薬。それから、王都では採算が悪いと切り捨てられていたが、地方では命綱になる安価な常備薬。
「お嬢さま、本当にこちらで?」
ついてきてくれた老執事のグレアムが聞く。
「ええ。あちらより、よほど気楽ですもの」
「王太子妃になれたかもしれませんのに」
「なりたくありませんわ。残業ばかりですし」
「それはまた俗っぽい理由で」
でも本音だった。
実際、王太子妃教育の大半は、人の尻ぬぐいと帳尻合わせだったのだ。
田舎の薬屋は忙しかったが、誰かが本当に必要としているものを、必要なときに渡せる。こちらのほうがずっといい。
「リリアーナ先生! 子どもの熱が下がらなくて!」
「すぐ行きます」
「先生、腰の痛み止めをもう少し安くならんか」
「畑の春キャベツ三玉で手を打ちましょう」
「助かる!」
王都では“冷酷令嬢”と呼ばれていた私が、ここでは“先生”である。
人生、分からないものだ。
ベルノの町は貧しくはあったが、いい町だった。
パン屋の奥さんは気風が良く、鍛冶屋の息子はまっすぐで、川向こうの農家の姉妹は、毎年いちばんいい薬草を持ち込んでくれた。
そして半年が過ぎたころ。
王都から、ひどく疲れた顔の使者がやってきた。
紋章入りの馬車で。
私はその時点で嫌な予感しかしなかった。
「リリアーナ嬢! どうか王都へお戻りください!」
「嫌です」
「即答!?」
使者は青ざめていた。
「王都の薬品流通が混乱しているのです!」
「まあ」
「北方で熱病が流行し、南では害虫被害、中央では倉庫の在庫記録が合わず、宮廷薬師会と商会が対立し、しかも予算管理が崩壊して――」
「大変そうですね」
「全部あなたがやっていた仕事です!」
「正確には、私が“勝手に補っていた”仕事ですわね」
使者は言葉に詰まった。
そうなのだ。
私は婚約者として優秀だったのではない。王家が放置していた穴を、侯爵家の人脈と私個人の手間で塞ぎ続けていただけである。
誰も、それを仕事として数えていなかっただけだ。
「殿下は?」
私が聞くと、使者は気まずそうに視線を逸らした。
「……その、ミレイユ様とのご婚約を進めておられましたが」
「が?」
「薬品利権を親族に流そうとして商会と揉め、宮廷の女性たちとも対立し、現在は陛下より謹慎を命じられております」
「でしょうね」
むしろ予想より長持ちしたほうだ。
「そして国王陛下が、ぜひ貴女にお戻りいただきたいと」
「お断りします」
「そ、そこを何とか! 条件はできるだけお聞きすると!」
「できるだけ、では足りません」
私は店先の椅子に座り直した。
ちょうど干していた薬草が風に揺れている。いい天気だ。王都の面倒ごとなど、こんな日に考えたくもない。
「まず、私はもう王太子妃候補には戻りません」
「えっ」
「戻る理由がありませんもの」
「し、しかし」
「代わりに、地方薬制顧問として契約するなら考えます」
「こ、顧問」
「王都常駐は月に五日まで。あとは遠隔の文書報告」
「遠隔……?」
「早馬です」
「地道!」
使者は額に汗をにじませた。
私は続ける。
「権限は、地方薬草園設立、薬師育成枠の新設、貧民向け常備薬の補助金創設、そして中央倉庫の監査権」
「そ、そんな大改革……!」
「嫌なら結構です」
「お待ちください!」
必死だった。
王都は相当に追い詰められているらしい。
そこで、店の扉が開いた。
「先生、いつもの咳止めを――おや?」
入ってきたのは、この町の診療所を任されている青年医師、ユリウスだった。平民出身だが腕は確かで、口数は少ないが気立てがいい。
彼は使者と私を見比べ、すぐに状況を察したようだった。
「王都からですか」
「ええ。私を返品しにきたそうです」
「お気の毒に」
「本当に」
使者は叫んだ。
「返品ではありません! 正式な要請です!」
「要請でも嫌なものは嫌ですわ」
ユリウスは少し考えてから、私の隣に立った。
「戻るのですか」
「悩んでいます。条件次第では、少しだけ」
「この町の薬屋はどうなるんです」
「続けます」
「ならよかった」
さらりと言う。
この人はこういうところがずるい。
王都では、私が何をできるかばかり見られていた。ここでは、私がここにいることそのものを惜しんでくれる人がいる。
「先生が来てから、冬の子どもの熱が減りました。薬を買えずに悪化する老人も減った。春の害虫対策も、去年より早く打てた」
ユリウスは静かに言った。
「あなたはここでも必要です」
「……そう言われると、弱いですわね」
使者が泣きそうな顔で割り込む。
「王都でも必要です!」
「それは知っています」
「では!」
「でも、必要とされることと、雑に使われることは違います」
使者は黙った。
私は立ち上がる。
「帰って陛下にお伝えください。契約書を持ってきてください、と」
「で、では……!」
「ただし、文言はすべてこちらで確認します。あいまいな表現は認めません」
「は、はい!」
「それから」
「まだ何か!?」
「王太子殿下からの私的な謝罪や復縁の打診は受け取りません」
「っ、なぜそれを!?」
「来ると思いましたので」
案の定だったらしい。
使者はがっくり肩を落として帰っていった。
王都の馬車が見えなくなるまで見送って、私は深く息をついた。
「先生」
ユリウスが呼ぶ。
「何でしょう」
「忙しくなりそうですね」
「ええ。嫌になりますわ」
「手伝いますよ」
「診療所があるでしょうに」
「終わってからでよければ」
「……なぜ、そこまで?」
私が尋ねると、彼は少しだけ目を逸らした。
「あなたがここに店を開いてから、この町の人はあなたの話ばかりです」
「まあ」
「私もです」
「それは」
「いなくなられると困る」
春の風が吹いた。
薬草が揺れる。
王都の夜会では、こんな沈黙は一度もなかった。あそこでは、黙る時間すら誰かの計算で埋められていたから。
私は少しだけ笑った。
「完全にはいなくなりませんわ」
「それなら」
「ただし王都へ行く日は増えるでしょうね」
「……それは、少し困ります」
「どうして?」
「待つ時間が増えるので」
「そういうことを、そんな顔で言うのは卑怯ですわよ」
彼はきょとんとしていた。
自覚がないのか、この人は。
やれやれ、と私は思う。
婚約破棄されて田舎へ来て、薬屋を開いて、半年後に王都に返品要請されて、気づけば地味な医師に困らされている。
人生は、王都の貴族たちが考えるよりずっと面白い。
そして一か月後。
王都から届いた契約書には、私の要求がほぼすべて盛り込まれていた。
代わりに、末尾に見覚えのない一文が追加されていた。
『なお、地方薬制顧問はベルノ町における薬局経営を継続するものとし、その活動を妨げてはならない』
私は目を細めた。
「これ、陛下ではなく宰相の筆ですわね」
「分かるんですか?」
グレアムが驚く。
「ええ。現場を分かっている人の文章ですもの」
その契約書に署名し、私は王都を“助ける側”として関わることにした。
もう誰かの婚約者としてではない。
誰かの飾りとしてでもない。
ベルノの薬屋、リリアーナ・エヴァレットとして。
王都は相変わらず面倒だったし、アルフレッド殿下は後日正式に継承順位を下げられ、ミレイユ嬢は彼を支えきれず実家へ戻ったと聞いた。
けれど、そんなことはもうどうでもいい。
私にはやることがある。
春の薬草を仕分け、夏の虫よけを改良し、秋の保存薬を整え、冬の熱病に備える。
そして、たまに王都へ行って、偉い人たちに現場を思い出させるのだ。
「先生、王都土産は何がいいですか」
ユリウスが聞く。
「そうですわね」
私は少し考えて、笑った。
「帰ってきたときに、いつものお茶を淹れてくださるなら、それで十分です」
「……分かりました」
あら。
今のは、少しだけ照れた顔だ。
返品されたのは、たぶん私ではない。
役に立つ人を軽んじた王都のほうが、現実に差し戻されたのだろう。
それならまあ、悪くない結末だ。




