第一話 魔術世界
魔術――それは世界を滅ぼす災厄か、あるいは神の御業か。
その起源は遥か昔に遡る。小国の一人の少年が起こした奇跡に端を発する。彼の血は、触れるだけで人を癒やした。擦り傷は瞬きする間に塞がり、致命傷ですら苦痛なく癒えたという。
だが、その力を呪いと断じ畏れた国王は、暗殺者を差し向けた。寝込みを襲われた少年は腹部を幾度も刺され、再生を恐れた者たちによって首を落とされた。
惨殺された骸は海へ投棄される。溶け出した少年の血は海流に乗り、世界中へ拡散した。それが、魔術という力が世界に散った瞬間だった。
そして現代。
2076年――日本。都内某所。
「綾峰閑さんー。綾峰さーん」
国立病院の無機質な待合室に、受付のアナウンスが響く。紺色のジャケットを羽織った男が、重そうに腰を上げた。
無造作な黒髪。背には釣り竿ケースほどの長さがある黒い布袋を背負っている。
「はい。綾峰さんですね。最近不眠が続いているとか? 前回の眠剤も切れたんですね。分かりました。では、三階の診察室前でお待ちください」
綾峰が気だるげに踵を返そうとした、その時だ。
「だからぁ! さっさとモルヒネをくれって言ってんだよ!」
怒号が静寂を切り裂く。別の窓口で、浮浪者のような風体の老人が受付の女性に詰め寄っていた。薄汚れた服からは異臭が漂い、目は血走っている。
「……たい、変申し訳ありません。モルヒネは……処方することが出来ません」
若い受付職員は狼狽し、震える声で答えるのが精一杯だ。
「体が痛ぇーんだよ、ずっと! 痒くてたまんねぇんだ! 早くよこせよ!」
「申し訳ありませんが、お引き取り願います」
ベテランと思われる女性職員が毅然と割って入るが、それが男の導火線に火をつけた。
「うるせぇ! てめぇらもそんな眼で俺を見るんじゃねぇ!」
男は周囲の患者たちへ矛先を向ける。皆、関わり合いを避けるように視線を逸らすが、遅かった。
「オマエらが悪いんだ……俺をそんな眼で見るから! 薬もくれねぇしよぉ!」
男が煤けた上着の下から右腕を引き抜く。その掌が、床へと向けられた。 空気が歪む。
「爆炎魔術――」
男が詠唱を口にした瞬間、綾峰の細い目がわずかに開かれた。次の刹那、男の右腕はすでに宙を舞っていた。
「うぁぁぁぁー!」
遅れて響く絶叫。鮮血が床に赤を描く。待合室にいた誰もが、何が起きたのか理解できなかった。男が魔術を行使するよりも速く、隣にいた綾峰が布袋から刀を抜き放ち、その刃はすでに鞘へと納められていたのだから。
「落ち着いて」
パニックになりかけた受付へ、綾峰は淡々と告げる。
「すぐに警察へ連絡を。違法魔術の使用未遂を確認。容疑者負傷と」
「は……はい!」
十分もしないうちに、五台のパトカーと救急車が国立病院を取り囲んだ。
「おやっさん。聞き込み終わりました。やはり、皆口を揃えて『腕を切り落としたのは紺色のジャケットの男だった』と供述してます」
規制線が張られた病院の外。青年の刑事が、喫煙所で紫煙をくゆらせる老刑事へ駆け寄った。
「なら、もうそいつは遥か遠くに逃げてるな」
「すぐに広域手配しないと。五百人規模で動員をかけて――」
「馬鹿野郎。てめぇはまだ若いから知らねぇだろうがな」
老刑事は煙を吐き出し、本部へ連絡しようとする青年の手を制した。
「こういう事件は、俺ら警察の管轄じゃねぇんだよ」
「え?」
「――奴らだ。『国家指定魔術官』」
「魔術官……都市伝説でよく聞く、あの、魔法とかの?」
「魔術だ。奇っ怪な術を使って俺たち一般人を守ってる連中さ。だからこういう異能事案は、魔術官様のシマなんだよ」
「なら、今回の事件は魔術絡みだと?」
「だろうな」
老刑事は現場の光景を思い出す。あまりに鮮やかすぎる切断面。そして、捜査一課すら立ち入りを禁じられた異常なスピードでの現場封鎖。
「しかし、実際問題。魔術なんてあるんすかね? おとぎ話の類いだと思ってましたけど……」
「さあな。俺には見えねぇし分からん。だが、政府がその『魔術』ってやつに大金を投じてるのは事実だ」
「予算は……防衛省の管轄でしたっけ」
「今年は二十兆円以上の投資だそうだ。内容は秘匿されているが、公然の秘密ってやつだな」
短くなったタバコを灰皿に押し付け、老刑事は身を起こした。
「触らぬ神に祟りなしって言うだろう? 俺らは別のヤマも山積みなんだ。飯食ったら山形行くぞ」
「ふぅー、了解です。……蕎麦にしましょうよ。温かいやつ」




